110:腹の中で意外と毒を吐いている彼
どうせいま、部屋にいるのは古川しかいない。ということで郁美は遠慮なく大欠伸をした。
寝不足が祟って、今日も目の下はクマだらけだ。といっても徹夜で仕事をした訳ではなく、昨日は非番だったので、自宅で撮り貯めたドラマを見ていたのだ。
夢中になって気がつけば日付が変わっていた。
おかげで今朝は起きるのが辛かった。
そうだ、眠気覚ましにコーヒーを買ってこよう。
「ねぇ、コーヒー買ってくるけどあんたもいる?」
郁美は古川に声をかけたが、反応がない。
何よ、とプンスカしていたら、
「え、何か言いました……?」
めずらしい。ボンヤリしていたなんて。
「コーヒーいるか、って」
「あ、自分が買ってきます」
彼は急いで立ち上がり、部屋を出て行く。変なの……。
そのすぐ後、誰かが入って来た気配がした。入り口の方に背を向けていた郁美は、
「鑑定物ならそこに記入……」
振り返りもせずに口にしたが、
「おはよう」
和泉の声に驚いて振り返る。
「お、おはようございますっ!! 和泉さんっ!!」
背筋を伸ばして郁美は思わず立ち上がった。
彼は爽やかな笑顔を浮かべながら、
「うちの……高岡警部から頼まれた鑑定物って、どこにあるのかな?」
何それ、聞いてない。
郁美は古川に対して激しい憤りを覚えた。
「す、すみません、引継ぎが不十分で……えっと、どのようなものでしょう?」
「確かチラシが何枚かと、スケジュール手帳と、あと何だったかな……」
お待ちください、と郁美は証拠品を集めている棚に向かった。幸いなことにすぐ発見できた。
「こちらでしょうか?」
チラシはどこかの猫カフェのものと、里親募集のお知らせ。同じ袋にスケジュール手帳と化粧ポーチが入っていた。
「ラング・ド・シャ……○丁目○○カドヤビル3F……」
和泉はブツブツ言いながらスマホで写真を撮っている。
「和泉さんって猫、お好きなんですか?」
郁美は思わず、とぼけた質問を投げかけてしまった。証拠品が猫カフェのチラシだっただけで、彼が猫好きかどうかは、この際あまり関係がない。
顔を上げた彼はえ? という顔をする。
「す、すみません、どうだっていいですよね……」
しかし彼はにこっと笑って、
「猫は大好きだよ。可愛い子猫ちゃんは余計にね」
可愛い子猫ちゃん……そんなふうに言われてみたい!!
郁美は夢見る乙女の瞳で和泉の後ろ姿を見送った。
するとそこへ古川が戻って来た。
郁美は彼の腕を引っ張り、有無を言わさず部屋の隅へ連れて行って迫る。
「高岡警部から頼まれた物って何よ?! なんで私にも言わないの?!」
返答はない。
無視しているというよりも、何か考え込んでいる様子だ。
「あんた、何か腐った物でも食べた?」
「……郁美先輩じゃあるまいし」
「私はそんなもの口にしないわよ!!」
なおも何か反論してくるかと思いきや、なぜか古川は黙ってしまった。
……何よ。
張り合いを失くした郁美は、仕事に取りかかることにした。
※※※※※※※※※
警察学校に到着した駿河と日下部はまず教官室へ挨拶に行った。その時、部屋にいたのは、道着姿の不機嫌そうな顔をした教官のみだ。
粗暴というか野蛮というか。
あまり物事を深く考えることが好きではない。それでいて、弱者への思いやりや気遣いに欠ける気がする……富士原と名乗り、武術専任教官だと自己紹介した人物を一目見て、申し訳ないが駿河はそう感じた。
その理由は恐らく、先ほど日下部から聞いた話が原因だろうが。
先入観を抱くな、と常日頃から言われているのだが、こればかりは当たっているような気がしてならない。
例えは悪いが、ゴリラのような外見の教官は目を血走らせ、ジロジロと値踏みするようにこちらを見つめている。
自分達はあまり歓迎されていない。
というか一刻も早く帰れという無言の圧力を感じる。日下部は顔見知りらしいが、久しぶりとも何とも言わないあたりに、彼の相手に対する感情が読みとれる。
「9時から、でしたかいな。学生どもを道場に集めておきますんで、どうぞごゆっくり。更衣室やなんかは、あんたらも卒業生なら、案内するまでもないでしょうな」
それは確かにそうなのだが。
少しばかり気分を害しつつも、道着に着替え、道場に向かった。
時刻はちょうど9時5分前。
学生達は既に集まって整列していた。
駿河は少しばかり緊張を覚えつつ、挨拶を述べる。
「本日の特別講義を担当させていただきます……捜査1課強行犯係第1班所属、駿河葵です。どうぞよろしくお願いいたします」
学生達はそれぞれまちまちな反応を見せた。
深く頭を下げる者、軽く会釈に留まる者。
中には不審者を見るような眼でこちらを見つめる学生もいる。
そして義弟はと言えば。
目を逸らしていた。
顔にハッキリと書いてある。
『なんでお前がここに来たんだ?』と。
こちらとしても授業参観に来た気分だ。
何とも言えない気恥ずかしさというか、複雑な心境である。
なるべく周のことを注視しないようにしながら、駿河は学生達に向かって告げた。
「それでは準備運動のあと、各自素振りから入ってください」
はいっ、と学生達は異様に大きな声で返事をする。
ああ、そう言えばそうだった……。
ハッキリと聞こえる声で返事をしなければ、たちまち怒鳴られるか叩かれるか、ここはそう言う世界だったということを思い出した。
「センセ、今さら素振りなんて。どんどん打ち合わせればいいんじゃないですか?」
と、富士原。
【先生】ではなく【センセ】とわざわざ縮小して呼びかけてくる当たりに、駿河は何となく侮蔑の意図を感じ取った。
「……基本を怠ると、怪我をしますので」
こちらはいつも通り丁寧に答えたつもりなのだが、なぜか妙に怯えられた。
駿河は学生達が素振りをする様子を見ていて、どことなくぎこちなさのようなものを感じた。あまりにもこちらを意識しすぎている。というか、すっかり委縮している。
その理由は恐らくあの教官のせいだ。
学生達の間を見て回りながら「違う」とか「そうじゃなかろう」などと文句を言いながら小突いたり、蹴飛ばしたりしている。
どうしたものか。
しばらく自主的にトレーニングするよう伝えて、駿河は学生達に交じって素振りをしていた日下部に近づく。
こそっと彼の耳に懸念事項を伝えると、
「そりゃお前、富士原の奴に赤っ恥をかかせてやればいいんだよ」
「……どうやって、です?」
「模範演技って言う名目でぶっ叩いてやれ。同じ【道】でも、剣道と柔道じゃえらい違いだからな。富士原の奴、偉そうにしていても実は剣道はまるで弱いんだ。お前、強いだろ?」
「まぁ、剣道の方はそれなりに。その代わり柔道は……」
「そこは俺に任せとけって」
気味が悪いのでウィンクはやめてほしい。そう思ったが口には出さなかった。
「あいつ、富士原の性格はよく知ってるからな。段取りは任せておけ」
模範演技と称して、初めは駿河と日下部が対峙する。
ワザと手加減をした上で、日下部の方に軍配が上がるように仕向ける。そうなれば単純なあの富士原は、自分も勝てると信じて挑んでくる。
彼の言ったとおりになった。
面をつけ、向かい合っている相手の顔はニヤついている。
バカにしないでもらいたい。
こちらは子供のころから竹刀を握って来たのだ。
成績について詳しく語るつもりはないが、少なくとも今、向き合っている相手に負ける気はしない。
「それでは皆さん、よく見ておいてください」
実際、すぐに勝負はついた。
学生達の目の前で駿河に鮮やかな面を決められた富士原は、何とも言えない表情でスゴスゴと道場の隅に引きさがる。
ほぅ、と感嘆の息。
これで学生達の溜飲も少しは下がったことだろう。