108:隊長さん
「……だ、そうよ? 残念だったわね」
子供の頃。寒い日の夜は決まって父と2人、炬燵で暖をとった。
そうしているといつの間にか眠くなって、目を閉じてそのままでいると、父が抱き上げて布団まで連れて行ってくれる。
ひやりと冷たいシーツに足が触れると、その瞬間だけ目が覚める。
でもすぐまた眠りに落ちてしまう。
そんな古い記憶が甦ったのは、きっと伝わってくる温もりのせいだ。
ほんと、厚い胸板だよなぁ……でも暖かい。
「少し眠りなさい。ただし9時前にはもう一度、道場へ戻ること」
「いま、何時……?」
「7時過ぎよ。あと1時間半ぐらいは眠れるわね」
「……うん……」
「タイマーをセットしておいてあげるから。よく、頑張ったわね」
大きな手が頭を撫でてくれる。
父さん、と声にならない呟きを発したような気がした。
※※※※※※※※※
今日は午前9時から特別授業だと聞いている。
いつもと同じ時間に起床し、上村は自分に課しているトレーニングをこなす為、グランドに出た。
実はもうかなり前から【頭脳だけ】の汚名を返上したくて、秘かにランニングや筋トレを積んでいた。おかげで最近は他人の足を引っ張ることがなくなったと思う。
メニューをこなしてシャワーを浴びに行こうと、寮に向かっていた時だ。
物陰から複数の人の声がした。
「そろそろあきらめろよ、お前ら2人とも」
教場仲間である水越の声だ。
「思った以上に相手がしぶとかったってことじゃ。しかも強力な伏兵付き。確か全員、例の教官より階級は上のはずじゃ」
上村は咄嗟に身を隠し、耳をそばだてた。
「あいつさえ……あいつさえいなければ……」
この声は確か……。
「ははっ、その台詞はもっとしっかり『お勉強』してから言うんじゃのぅ。特殊部隊っていうんは筋肉だけじゃ入れんのじゃぞ? お頭もしっかりできとらんとな……おっと」
ひゅっ、と風を切るような音。
「ほら、じゃけん、そうやってすぐカッとなって手を出すのがいかんのじゃ。お前、表向きは割と紳士なんじゃけん、中身も伴うように頑張れや。そうすれば、あいつに万が一のことでもあれば……総代の座ぐらいは回ってくるかもな」
「彼は……」
低いが一応、女性の声だ。
「よせよせ、お前にはもっと相応しい相手がおるじゃろうよ、谷村」
谷村か。
「それでも、私は……彼以外に考えられないの!!」
日頃の男か女かわからないような言動を知っているこちらとしては、意外な一面を見たような気がした。声だけだが。
「上村みたいな、ああいう細っこくて女みたいな顔した男なら、事務員の方になんぼでもおるって。しかしお前、学生時代から全然変わらんのぅ、男の趣味が。ひょっとして……宝塚か?」
「宝塚ってどういう意味だ?」
「自分で考えてみぃや」
上村にはすぐにピンときた。
宝塚とはつまり、男装の麗人。
要するに、女性と間違われるような男が好みなのか、と訊いているのだろう。
怒りを覚えたが、ここで表に出るのは相応しくない。
ぐっと抑えてもう少し様子を見ることにする。
「ま、タイミングが悪かったってことじゃな」
「タイミング……?」
「たまたま同期にあいつがいたのが不幸じゃったっちゅうことじゃ。もし大卒か社会人経験者で短期課程か、もしくは浪人して次の長期過程に入ってたら……万が一にもせめて総代に選ばれていたかもしれんのぅ。HRTは無理じゃったとしても」
総代。
警察学校に所属する学生にとって、誰だって憧れる『座』である。
特殊捜査班への配属、総代の座。
その願いが叶うのはいずれもエリート。腕力だけでは不可能だ。
まさか。栗原はそれが欲しくて、その見込みを持ち合わせている藤江周に嫌がらせをしていたのだろうか。
水越も言っていたように、一見スポーツマンのようで、それほど陰湿なタイプには見えなかったのだが。
「それとさ、お前。上村のことはあきらめた方がいいぜ?」
「……どうして?」
「別に亘理がどうこうじゃないんだよ。そもそもありゃ、女に興味がない。最近やたら藤江周と仲がいいじゃろう? 実はそっちの趣味だったりしてな」
その本人がまさか、物影で聞いているなどとは夢にも思わないだろう。
「ま、なんだな。他人を妬んだり羨んだりする暇があったら勉強しろってことだろ。悪いけどあの教官、何の役に立たないと思うぜ? 俺は」
「そんな……」
「確か2人とも、あの富士原と同じ学校の出身だったっけ。あれだろ、奴に誘われてここに入ったクチ」
「ああ、そうだ。優遇してもらえると聞いたから」
「同じ道場で出会ったんだよ……柔道を続けたいんなら、警察に入らないかって言われて」
「だからアホだっつーんだよ、お前らは。ちょっと考えれば分かるだろうが。使える相手かどうかってことぐらい。あ、おいやめろよ!! 暴力沙汰はご法度だぜ?!」
結局。
彼らはつまらない嫉妬心によって、他人の人生を狂わせようとしていただけだ。
もっとも。相手の方が一枚も二枚も上だったが。
しみじみと不思議に思う。亘理玲子にしろ、藤江周にしろ。
普通はあそこまでの悪意を向けられたら、自分の存在価値について思い悩むものだ。
職業は他にもいろいろある。
そう考えて辞めて行く。
実際、同期の中には『合わなかった』とか『聞いていた話と違う』と言って去っていた者もいる。
そうだ。世の中にはもっと稼ぐことができて、もう少し楽な仕事があるに違いない。
それでもこの道を選んで、苦難にもめげることなく続けて行くということは、彼らには並みならぬ【信念】があるに違いない。
自分もそうだ。
決して譲れないものがある。
※※※※※※※※※
周が無事、救出されたことを確認したら全身の力が抜けた。
倉橋も自分の部屋に戻った。
今日は午前9時から特別授業だ。
あと1時間少しは眠れる。そう思ったのに、誰かがドアをノックする。
面倒に思ったが万が一にも教官の誰かだったら困る。倉橋が仕方なく扉を開けると、驚いたことに上村だった。
ちょっといいか、と彼はこちらの了承を取る前に中に入ってきた。
「いろいろと判明したことがある」
「何が……?」
「例の教官は、新任者を潰すことが趣味らしい」
「なんだよ、それ……例のって、富士原……だろ?」
「そのターゲットになるのは誰か。一定の法則と言うか基準があるらしい」
どこからどうやってそんな情報を収集したのか、疑問はあったが内容の方に強く興味を魅かれた。
「優秀で人望のある者、藤江巡査がまさにそれだ」
「つまり、くだらない嫉妬ってことか?」
「簡単に言えばそうなる。それと、大人しくてロクに反抗しない者」
頭に浮かんだ人物は、
「亘理玲子……彼女か?」
そういうことだ、と上村は溜め息をつく。
「で、でも彼女は……その、気を悪くしないで欲しいんだけど、上村が何かと親切にしていたから……それで女子達の間に嫉妬が起きて……なんじゃないのか?」
「言っておくが僕は別に、彼女とは何でもない」
そんなにムキにならなくても、と思ったが黙っておく。少し頬を赤く染め目を逸らしてしまうあたり、一応年齢に相応しい【らしさ】があるんだなと、倉橋はおかしくなってしまった。
「何がおかしい?」
「いや、何でも。それから……?」
「それと……谷村晶、女子の間でボスのように振る舞っている学生がいるだろう?」
「ああ」
確か柔道3段、全国大会に出場するレベルの猛者だ。
「彼女が僕に、その……好意を持っているらしく。それで亘理巡査に逆恨みを抱いた。かつ……」
「かつ?」
「谷村は富士原教官と古くからの顔見知りだった。同じ学校の卒業生でかつ、通っていた柔道の教室も同じだった」
「……それで?」
上村は眉根を寄せた。
「まだわからないのか?」
「……わかるもんか。俺は、お前みたいに頭が良くないんだ」
「服装検査の時のことを、覚えていないか?」
思い出した。
制服のボタンを失くしたと主張していた亘理玲子。でもそれはおそらく、何者かが盗んだと考えられること。
「あれは富士原教官の独断で実施された検査らしい。ご丁寧に、彼女のボタンが紛失したその翌朝に……な」
「つまり、富士原教官と谷村が裏で手を組んで、亘理をはめたってことか?」
やっと理解したのか、と言う顔で上村はこちらを見る。