105:あなたならどうする?
聡介は困惑していた。
『お嬢さんのことで』と切り出した途端、ものすごい形相で店主に追い出されてしまったからだ。
アプローチを失敗したか。
奥さんの事件で、と切り出せば良かったのか。
だがこのまま手ぶらで帰る訳にもいかない。少し時間を置いてまたチャレンジしよう。そう思って軒先の暖簾をくぐった。その時。
「にゃ~ん」
ふわり、と足元に柔らかな毛並みを感じた。
視線を落とすと、金色の双眸と目が合った。この店の黒猫だ。
聡介はしゃがみこんで猫を抱き上げると
「お前はここの家の子だろう? 中に戻りなさい」
そう言えば。あの猫、どこへ行ってしまったのだろう? ロクに遊んでやることもしない内に、あの子は。
「そらって、本当におじさん好きよね~」
頭上で女性の声がした。顔を上げると、先ほどカウンターに座っていた客だ。
この黒猫は「そら」というのか。
「中に戻りなさい、ご主人様が泣いちゃうわ。一人ぼっちにさせないであげて」
日本語がわかるはずもないだろうに、黒猫は言われたとおり、店の中に戻って行く。
女性客は満足げにその後ろ姿を見送ったあと、
「……ねぇ、長野さんって知ってる?」
長野とは1課長のことだろうか。そうだとしたら、
「……あなたはいったい……?」
「この店のご主人と、長野さんとも知り合いって言うことにしておいて。彼に会うことがあったら伝えて欲しいの。もう、放っておいて欲しいって」
女性はもはや、正気に戻っているように見えた。
「待ってください、どういう……? あなたのお名前は?」
女性客はそれには答えず、しっかりとした足取りでスタスタと、通りに向かって歩き出す。
聡介も彼女を追いかけた。しかし、通りには既にタクシーが止まっていて、彼女は振り切るようにして乗り込んだ。
※※※※※※※※※
「先ほどの彼の話を聞いていて、いろいろと思い出しました」
怪我を負った自衛隊員を送り届けた後、和泉は北条の住むマンションに向かっていた。
「話に出てきた【相馬】と言う名前、どこかで聞いたと思ったら……尾道の事件で出頭してきた、自称容疑者の身元引受人ですよね?」
「……そう」
助手席の北条は窓枠に肘をつき、車窓からの景色を眺めている。
「あの事件は上が早々に終わらせたいばっかりに……その上、容疑者が前科ありだったという要素も含めロクな精査もしないまま帳場が解散してしまいましたが、今まで判明してきたことと併せて考えてみたら……スケープゴートの可能性が高いですよね」
【可能性】と表現したが、和泉はほぼ真相だと睨んでいる。
黒い子猫を名乗る彼らはきっと、これからも『活動』を続けるつもりだろう。
法律で裁けない悪事など、数え上げればキリがない。
もしかしたら、警察がその存在をキャッチしたことに気付いた彼らは、いったん容疑者を挙げさせることで、注意を逸らそうとした。
そんなところではないか。
「……あんたの推測が正しかったとして、他の2件は事故に見せかけた他殺だったけど、先日のはハッキリと、殺人だってわかるように仕向けたのはどうして?」
北条は顔を和泉から背けたまま、独り言のように訊ねる。
「あの長門って男は、どういう関係なのよ、相馬と」
「……そこは、北条警視お抱えの情報屋さんにお訊ねになってください。お会いしましたよ、聖さん。それより一つ質問してよろしいですか?」
「……何よ?」
「そもそも、北条警視はどうやってあの闇サイトの存在を知ったんです? まさか、ご自身が誰かに恨みを抱いて復讐して欲しいと考えた訳じゃないでしょう」
「殴るわよ」
やっとこちらを向いてくれた。が、その表現からはハッキリと怒りが見てとれた。
「……失礼しました。それで、そのきっかけは?」
「そもそもは黄島が……」
「黄島? ああ、確か金髪ツンツンヘアーの」
「あいつが世羅高原で見た、せらやんの中に入ってた人間から、硝煙と血の匂いがするって言いだして……気になって調べ始めたのがきっかけよ」
「まるで犬みたいですね……」
「あいつの嗅覚は犬並みよ」
今度から秘かにポチと呼ぼう。あるいはハチか。
「それで、その中の人の身元は?」
「半田遼太郎」
「相馬さんの元上官、ですね」
ふと気になることがあった。先ほど聞いた特徴がピッタリ当てはまる人物と、聡介はずいぶん親しげに話していたが、いつどうやって知り合ったのだろう?
尾道の事件を調べていた時。
とあるサービスエリアで父が『リョウ』と呼んでいた相手。
その時から、和泉は少し彼のことを怪しく感じていた。それはただの直感だったのだが。
あの時、聡介は言った。
『やたらめったら、誰でも疑えばいいってもんじゃないだろう』
らしくない、そう思った。
それだけあの青年に心を許していたというのか。
そしてまた、北条も。
相馬要は彼の友人だったとは。
「親しい人間を疑わなければいけないっていうのは、どう考えたって簡単なことじゃありませんよね……」
「あんたに何がわかるっていうのよ」
和泉は軽く首を横に振った。
「僕にはわかりませんよ。ただ……今のあなたは少なからず何か焦っているような、それでいて、ひどく落ち込んでいるように見えます。そういうのってきっと、部下の皆さんや、学生の皆にも伝わると思うんです。ムリして表面を繕えとは言いませんけど、特に周君は敏感な子ですから、きっと心配します」
「でしょうね」
「そして僕は今も、周君のことが心配です。僕のせいで、あのゴリラみたいな教官に虐待されてないかと」
勝手な言い分だが、和泉としては北条が周を、彼を取り巻く悪意から守ってくれることを期待している。
それが今、こんな調子では。
「だったらあんたも、例の【黒い子猫】とやらに依頼を出したら?」
「そんなこと、できる訳がありません!!」
「あら、どうして? ひょっとすると現役警官の中に、利用している奴がいるかもしれないわよ。富士原みたいなクズなんて掃いて捨てるほどいるもの。それだけじゃないわ、今だって世の中には、平気な顔をして他人を傷つけて、のうのうと暮らしてる人間が腐るほどいるんだから!!」
和泉は初めて見た。
こんなふうに感情を表に出して、大きな声で叫ぶ先輩刑事の姿を。
「私怨による復讐なんて、許されると思うんですか?」
「アタシは……っ!!」
「そう、我々は警察官ですよ。法と秩序を守る番人です」
信号が黄色に変わったので、和泉はスピードを緩めた。完全に停まったところで、北条はシートベルトを外してドアを開ける。
「ここでいいわ」
正論を口にするのは簡単なことだな。
思いやりが足りなかった。
和泉は自嘲するような笑みを浮かべ、自宅に向かって車を走らせた。
※※※※※※※※※
自宅に戻ってソファに腰かけると、ウィスキーの瓶がソファテーブルの上に出しっぱなしだったことに気づく。北条はグラスを取りだして指3本分ほど注ぎ、一気に呷ってしまう。
そんなにわかりやすく感情が表に出ていたのか、と忸怩たる思いだった。
もっともあの男が人一倍、他人の顔色を伺うのが上手だということもあるだろう。
言われるまでもない。こちらも藤江周のことは心配している。
備品が紛失したという盗難事件。
あれは間違いなくあのクズが仕組んだ茶番だ。
和泉には黙っておいたが、北条は周の身に起きたことをすべて把握している。彼に伝えればまた自分のせいだと落ち込むから。
誰のせいでもない。
非は明らかに富士原にある。
だが、純然たる証拠がない。
許せない。
相馬は虐待されていた、可愛がっていた部下のために何もかもを捨てた。
では自分は?
その時、スマホが着信を知らせた。
にゃー!!(?)
もし、貴方なら!?