103:飲めなくてごめんなさい
和泉はゴミ箱にもたれかかるようにして倒れている若い男性に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
名前は覚えていないが、その顔はボンヤリと覚えている。
確か以前、北条が話を聞こうとしていた自衛官だ。
かなりひどい暴力を受けたのだろう。体中に傷ができ、額から流れだした血が目に入ったのか、片目を閉じている。
「……う……」
救急車を呼ぼう。和泉はスマホを取り出した。
しかし、ごつくて大きな手に阻まれる。
見ると倒れている相手がこちらの手をつかんでいた。
「ダメです。救急車は呼ばないで……」
「何言ってるんですか、そんな怪我で!!」
「……わかったわ。じゃあ、一つだけ教えて」
いつの間にか隣にいた北条が彼に訊ねる。
「今日、アタシと会うこと……誰かに話した?」
自衛官の彼は微かに首を横に振る。
そう、と北条は彼の身体を軽々と抱き上げた。身長およそ175センチ、全身が筋肉でできたような大人の男を、である。
「家で手当てするわ、それならいい?」
※※※※※※※※※
店は空いていた。
金曜日の夜だというのに、入っている客はほんの数名だ。
それでも大きな話し声に、既にでき上がっている客達のくゆらせる煙草の煙が、めったなことでは居酒屋に足を踏み入れることのない聡介にとっては一種、別世界に迷い込んだような錯覚を覚えさせた。
「1名様?」
そう訊ねられた聡介がそうだと答えると、カウンター席に座るよう案内された。
上着を脱ぎながらさりげなく店内を見回す。
テーブル席に一組の客、そしてカウンター席の一番端に、女性の1人客。
聡介は女性客の反対側、一番端の席に腰かけた。
こう言う時、飲めないというのは不便だと思う。
壁に貼ってあるメニュー一覧を見ながら、どうしようかと考えているところへふわり、と足に柔らかい感触があった。
なんだ? 足元を覗き込むと黒猫が頭を擦りつけていた。赤い首輪がついているので、この店の猫なのだろう。
黒猫はにゃあん、と鳴くと聡介の膝に飛び乗った。
ゴロゴロ喉を鳴らして首を傾げる仕草が何とも可愛らしい。思わず頬を緩めて喉を撫でた。
「随分気にいられたのね、その子に」
そう話しかけてきたのは、一番端のカウンター席に座っている女性客だった。
年齢は30代か40代ぐらいだろうか。背筋がピンと伸びていて、すらりとした体型である。
「あなた、警察の人でしょ?」
彼女はニヤっと笑ってこちらを見つめてくる。
なぜわかったのだろう? 聡介が黙っていると、
「すぐわかるわ。目つきがね、一般人と違うのよ……ねぇ、おじさん?」
女性客は調理場にいる店の主人に話しかけた。
返答はないが、気にするふうでもなかった。
「ウーロン茶をください。あと……」
何品か注文してから、聡介はさりげなく店内を見回した。
「あそこにある写真に映っているのがね、店主の奥さんと娘さん」
いつの間にか女性客がすぐ隣の席に座っていて、壁にひっそりとかかっていた写真を指差して言う。ほんのり、アルコールと香水の匂いがした。
あれが大宮桃子か。
可愛らしい女性だな、と思った。
「ねぇ、何を調べにきたの? 私にわかることなら教えてあげるけど」
頬杖をつき、妖艶な笑みを浮かべながら女性客はこちらを見つめてくる。
「……娘って言うのは、いくつになっても可愛いものですね……」
話を逸らすつもりで聡介はそう呟いた。
だからこそ、亡くした悲しみは計り知れないだろう。
「父親の方はそうよねぇ。でも、娘の方はどうかしらね? 最近じゃ、友達同士みたいな感覚で父親と接する女子もいるみたいだけど、たいていの子はある程度の年齢になると、汚い、って避けるようになるっていうじゃない?」
女性はおかしそうに言ってグラスを傾ける。
そう言われてみれば。ふと、誰かも同じように言っていたことを思い出す。
お父さんの洗濯物と一緒に洗濯しないで、とか、お父さんが入った後のお風呂は全部お湯を抜いて入れ替える、とか。
あの次女でさえ、仲が悪かったあの頃でもそんなことは言わなかったが。
「それじゃ可愛くないわよね、やっぱり」
聡介は微かに首を横にふる。
「それでもやはり、血を分けた子供なんですから。どんなに生意気でも、言うことを聞かなくても……
ずっと元気でいて欲しい。幸せになって欲しい……そう願うものですよ」
自分は誰に向かって何を言っているのだろう、と聡介は急に、我に帰って恥ずかしさを覚えた。
「……そうよ」
隣に座る女性が、口調を変えた。
「親よりも先に死ぬ娘なんて、親不孝以外の何でもないわ」
「ええ、そうですね……」
「おじさんには、子供がいるの?」
「います、2人ほど。いずれも既に成人していますが」
「ふーん……で、元気なの?」
「元気ですよ、2人とも。ただ……」
「ただ、なぁに?」
女性客は既に、でき上がっているようだ。カウンターに突っ伏すような姿勢でこちらの顔を覗き込んでくる。
「子供の頃は仕事にかまけて、ロクに相手をしてやらなかったことを……今も後悔しています。特に長女は……」
私なら大丈夫よ、心配しないで。
笑顔を作ってそう言う娘の表情を思い出すと、今でも胸が痛む。
「仕方ないわよ!! 公務員ってのはね、とにかく忙しいんだから!!」
ばんばん、と女性は肩を叩いてくる。
「娘さんだって承知の上だったんじゃないの?」
「……そうですね。仮に、仕事を変えようとか、辞めようとか……そんなことを言い出せば彼女はきっと、軽蔑したことでしょう」
お父さんの背中はいつもカッコいいよ。
娘はそう言って励ましてくれた。
寂しい時もあるけど、お父さんのおかげで助かる人がいるのも事実だから。お仕事が終わって真っ直ぐに家に帰ってきてくれれば、私のことを時々は思い出してくれたら、それでいいから。
無理して微笑んでいた長女の笑顔が今も時々、胸に突き刺さる。
「そうね。うちの娘も、仕事しているお母さんが一番カッコいい、ってよく言ってくれたものだわ」
梅酒ロックね、と女性客は店主に注文し、それから。
「でも……でもね?」
ギラリと瞳が輝く。聡介は息を呑んだ。
「そう言ってくれる裏側に、笑顔の裏側に……何があったのか、考えたことがある?」
ないわけがない。
「それはもちろん……」
「物わかりのいい子ってね、そう装ってるだけなのよ。心配かけたくない、負担になりたくない……本当は苦しくて、泣きたくて仕方ないのに」
そうだろう。
「わかります。本当は学校で何かあっただろうに、決して本当のことは言ってくれない……」
もう何年も前のことになるだろうに、時々鮮明に思い出すことがある。
もしかして学校で『何か』あったのではないだろうか。
「お嬢さんは、どうやって乗り越えたの?」
「……幸いなことに、よく理解してくれる友人がいましてね。自分1人だけではもしかしたら、今はなかったのではないでしょうか……」
悔しいけれど。現在、義理の息子であるあの男に出会わなければ。
「……じゃあ、もし誰も味方になってくれなくて、孤独なままだったら? もしかしたら自分で命を絶っていたかもしれない?」
聡介は言葉を失った。
その可能性がまったくなかったわけではない。
「冴子さん!!」
調理場の店主が鋭い声を発した。
すると女性客は、
「あら、私ったら……飲み過ぎたわね」
そう言って元いた席に戻る。
今がチャンスだ、と思った。
「ご主人。実は私は、こう言う者です」
聡介はポケットから名刺を取り出した。
「恐れ入りますが、亡くなられたお嬢さんのことで、少し……お話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」