100:それはどうかな?
あっという間に夕方だ。
朝のランニング時に倒れて以来、食欲がなくて何も口にしていない。一応、売店でパンとコーヒーを買って寮の部屋に戻ったが、食べる気がしない。
その上、自分と周だけはやはり明日も早朝からの稽古が待っている。
倉橋は迷っていた。
もう、ここにいてはいけないのかもしれない。
去って行く仲間達を見送るのは辛かった。中には同情に値しないような理由で退職をした人物もいたが。
今度は自分が見送られる側になるのか。
周にこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
彼のことだから、気にするなと笑ってくれるだろう。でも。
つい先ほどのことだ。
偶然、廊下で上村と出会った。
思わず「周は?!」と訊ねたところ。
周が午後の授業を丸々休まざるを得なくなった事情について彼から聞いた時、確実に自分のせいだと倉橋は考えた。
身に覚えのない事件の犯人呼ばわりされ、そのことに異を唱えた友人。
彼は自分の為に真相を暴こうとしてくれたが、それが富士原の気に障った。早朝から特訓と称し、苦手な柔道で何度も痛めつけられた。
だけど。やってもいない罪を認めるのだけは嫌だった。
でも、このままでは周を苦しめることになってしまう。それはもっと苦しい。
たとえここを離れたとしても、ずっと友人でいたい。
誰に相談したらいいのだろう。
その時、部屋の扉をノックする音がした。
「周?!」
思わず倉橋は飛びつくようにしてドアを開く。
「……あ、すみません……」
立っていたのは、担当教官の北条だった。
「聞いたわ、いろいろと」
なんでこの人はこういうしゃべり方をするのだろう、と今さらながら不思議に思う。
「ここを辞めるの?」
射抜くような瞳で見つめられ、倉橋はつい目を逸らした。
「……わかりません……」
しまった、と思った。この教官は曖昧な返答を嫌う。
「決めるのはあんた自身よ。ただ。言っておくけど、辞めたりしたら傷つくのはあの子の方よ?」
ああ、そうだ。
もしここで自分が『退職』と言う形で逃げたりしたら、周が自分を信じて一生懸命にしてくれたすべてが無駄になる。
「あんな子、他にいないわ。もう2度と会えなくなるとしたら、きっと一生後悔することになるでしょうね」
よく考えなさい、と大きな手でこちらの肩に触れてから、彼は去って行った。
その後。倉橋は風呂に入ろうと思って、部屋を出た。長居したくないので今日はシャワーですませてしまおう。
考えてみれば。
今、教場内全体に悪意が渦巻いている。
かつて全員から嫌われていた男がいた。そいつがいなくなった後、平和になったかのように思えたが、それはまやかしだ。
奴は氷山の一角に過ぎず、それまでは水面下に隠れていた奴らが表に出てきただけの話だろう。
この閉鎖空間にいれば否応なくストレスが溜まる。
その捌け口を求めて、他人を攻撃する。
特にあの男。水越に関しては要注意人物だ。口が上手くて、お調子者。
そういえば。
今まであまり気にしたこともなかったが女子の間でも騒動があった。なぜ彼女が狙われたのか、考えたこともなかったが。
風呂場には何人か同じ教場の学生がいた。何か問いたげな顔の彼らと、なるべく視線を合わせないようにして、急いで全身を洗って脱衣所に戻って服を着た。
部屋に戻ろうと一歩外に出た時、偶然、周と鉢合わせした。
「おつかれ」
笑顔で言う彼の顔はいたるところに紫色の痣ができあがっていた。目のまわりは腫れ上がり、唇の端にも微かに血が滲んでいる。
「どうしたんだよ、その顔……!!」
「あれ、護は2時間目いなかったっけ? 逮捕術の授業でさ……」
周は不思議そうな表情でこちらを見る。
「どうしたの?」
「俺の……俺のせいなんだな?」
「え?」
「そう言う考え方は、かえって彼にとって負担になる」
後ろから声がして振り返ると、上村が濡れた髪をタオルで拭きながらこちらを見ていた。
「単純な授業の一環だ。誰の責任、ということはない」
自分と上村の顔を見くらべ、それから周は笑った。
「なんかよくわかんないけど、護は何も悪くないよ?」
無邪気な友人の笑顔は、かえって倉橋の気持ちを重くした。
※※※
あっという間に一週間が終わった。
事件後の膨大な事務処理を片付けが一段落した金曜日の夜、当番以外の刑事は皆、いそいそと帰宅の準備をしている。
「聡さん、それじゃ僕はこれで」
和泉は立ち上がって上着に袖を通した。
「何か予定があるのか?」
「……北条警視に、ちょっと付き合えって言われてて……これから警学へ」
彼のことだ。決して飲みに行く訳ではなく、何か調べたいことがあるに違いない。
この際だ。例の監察官が言っていた情報開示を迫ってみよう。
何だかんだバタバタしていて、気がつけばこんなに時間が経っていた。
「俺も一緒に連れて行ってもらえるか? その近くに用事があるんだ」
思いがけない申し出に、和泉は驚くと同時に喜んだ。
「はい、是非に!!」
良かった、聡介が一緒ならあまりムチャぶりはされまい。父の背中に後光がさしているような気がした。
2人で捜査1課の部屋を出ようとしたその時、
「遅くなってすみません」と、若い鑑識員の男性が入って来た。
確か名前は古川と言ったか。めったに他人の名前を覚えることができない和泉が、なぜかすんなり覚えることのできた希少な人物だ。
「ご依頼のあった物、鑑定終わりました。こちらが資料になります」
彼は聡介に印刷した資料を差し出す。
「ありがとう」
その時、和泉は何となく古川が何か言いたげな表情をしていることに気づいた。
「どうかしたの?」
彼はハッとこちらを見つめると、
「いや、あの……何でもないです」
さっと退出してしまう。
「聡さん、何ですか? それ」
すると父は和泉の目を真っ直ぐ見つめ、
「聞いたぞ。お前が第2班の守警部と、課長と一緒に調べていた事件のこと……」
なんで黙っていたんだ、と不満そうな顔をしている。
「誰にです?」
「実はこないだ、ビアンカさんと会ったんだ……」
「待ち伏せされた挙げ句に拉致されたんですか?」
「お前は、彼女をなんだと思って……」
イノシシ型ストーカー、などと本人の前で言おうものなら、下手をすれば国際問題に発展するかもしれないので黙っておく。
「ちゃんと報告しましたよ? それにね、聡さん。当時はそれどころじゃなさそうな顔してましたもん」
黙ってしまった。まずかったかな、と思ったが今さらだ。
「……それよりも事件の概要、わかります?」
「ああ、だいたいは聞いた。まさか、その帝釈峡で亡くなった女性のところにも黒い葉書が届いていたなんてな」
「で、何を鑑定してもらったんです?」
「亡くなった女性の遺品だ。会社のデスクに保管されていたらしい」
「な、何が入ってたんですっ?!」
思わず和泉は聡介に食いついた。
こちらの形相に驚いた父はやや引き気味に、
「チラシが何枚かと、スケジュール手帳と……あとはポーチっていうのか、女性が化粧品なんかの小物を入れるような……」
「見せてくださいっ!!」
「現物は鑑識が保管してるから、そっちを見た方がいいんじゃないのか?」
「聡さん、先に車に乗って待っててください!!」
言い残して和泉はダッシュで部屋を出ようとしたが、
「時間はいいのか? 北条警視と約束しているんだろう」
「……あ」
そうだった。あのオカマは待たせると機嫌が悪くなる。どうせ明日も出勤だ、鑑識課を訪ねるのは明日でもいい。あまり勝手に動き回るなと釘も刺されていることだし。
2人は駐車場へ向かった。
どこで誰が聞いているかわからないから、会話は車に乗り込んでから、だ。




