10:いつもお世話になってます
この先一週間のことを思うと、月曜日の朝は誰だって憂鬱なものだ。
おまけに今日は朝から雨も降っている。
和泉は溜め息をつきながら、とにかく何も事件が起きませんように……と祈るような気持ちで通用口をくぐった。
一度事件が発生すると文字通り職場へ缶詰状態になってしまう。
当たり前だが、そうなると自由に行動できない。
頭の中は事件のことでいっぱいになり、可愛いあの子のことを考えている場合ではなくなる。
いやしかし、と和泉は思い直す。
さすがにもう警察学校の中で殺人事件が起きることはないだろうが、学校の所在地である坂町で何か事件が起きたとしたら、管轄である海田北署に捜査本部が設置されることになる。そうなれば必然的にしばらくはそこに詰めることになる。
警察学校と海田北署の距離は車で5分ほど。
学生寮の、周の部屋で寝泊まり可能じゃないか!!
学校の授業で分からないことがあったら、なんでも聞いてくれていいんだよ?
なんでも教えてあげるから……。
和泉さんって、ほんと頼りになるね。
「やだもう、周君ってば可愛いすぎるっ!!」
妄想は果てしなく……。
そんなバカ丸出しの和泉の背後で、
「彰、おはよーっ!!」
月曜日の朝っぱらからハイテンションな長野の声が。
その能天気極まりない挨拶が耳に入った途端、和泉は先日の土曜日のことを思い出した。
代理で出席した結婚式のこと。
会場に行ってみれば、花婿も他の招待客もドタキャン。挙げ句、2課の刑事達が逮捕状を持ってあらわれた。
時間を無駄にしたと感じた和泉は、とっととその場を後にしたので、その後の顛末を知らない。
しかし。よく考えてみたらおかしくないか?
そもそも式に招待されたのは長野であり、自分は代理だったのだ。
どうしてあんな茶番劇に付き合わされなくてはならなかったのか。
そう考えたら段々と、腹が立ってきた。
「シカトすなや!!」
「……おい」
「おいじゃない、わしゃお前の遠い親戚じゃ!!」
和泉は振り返って長野の胸ぐらをつかんだ。
「……で? 僕に代理の結婚式の出席を押しつけておいて、自分はどこかに出かけてたんだって……?」
その情報はとあるスジから聞いた。
「誰に聞いたんね? あ、ゆっきーじゃの?! 黙っとれちゅうたのに……!!」
「そっちこそ黙れ。あんなことがなければ、土日は可愛い周君とラブラブな週末を過ごす予定だったんだぞ?!」
「残念でしたー!! 土曜日は全面外出禁止じゃったって聞いたで~」
「なんで?」
「知らんがな。どうせ、誰かが鬼教官の機嫌を損ねて休みを取り消されたんじゃろ」
ありうる。
公休日など、教官の気分次第でいくらでも無効になってしまうものだ。誰のせいか知らないが、和泉は顔も知らない【誰か】を既に恨んでいた。
実を言うと特に、周と何か約束をしていた訳ではないのだが。
「……あの……」
「あ、ごめんのー!!」
長野が身体を避けると、その後ろに知らない顔の男性が立っていた。
年齢は自分と同じぐらいだろうか。きちんとした身なりの、清潔感溢れる爽やかな中年男性が、いささか困惑した表情でこちらを見ている。
「捜査1課強行犯係第2班の、守と申します」
「いっちゃん、こいつがのぅ、前々から話しとったバカ彰……もとい、和泉彰彦じゃ!!」
「バカって言うな、ボケ!!」
「やかましい!!」
「えーと……」
私服なので階級は分からない。守と名乗った刑事は、口を挟むタイミングを探しているようだ。
基本「俺が」「自分こそが」と自己主張の激しいのが刑事の特徴だが、彼は例外らしい。
「お知り合いですか? このバ課長……いたっ!!」
「守一警部。三次中央署におった時の、ワシの元相棒なんじゃ!!」
「それはお気の毒に……」
相手はどう返事していいのか、完全に戸惑っている様子だ。
「で、なんで【いっちゃん】なんだよ?」
「名前を漢字で書くと守一、じゃけん。ついこないだの人事異動で捜査1課に異動したんよね~? 優秀な刑事じゃけん、彰も勉強させてもらうとええで」
和泉は思わず、上から下までその守という警部を見つめてしまった。
刑事特有の鋭い目つきをしているが、全体の雰囲気としては柔らかく、とても優しそうだ。どこか父に似ている。
つい先日の人事異動で、だいぶ顔ぶれが変わった。
和泉達はまったく動きがないので、他部署や他の班のメンバーがどう変更したのかわからない。と言うよりも根本的に他人への興味が薄いせいで、ちゃんと把握していない。
「和泉さん。少しお話を伺いたいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか?」
「え、僕にですか?」
守警部は頷く。
ずいぶんと丁寧な人だ。普通、一班を率いるような立場にある上官は、自分よりも立場の低い相手に対して威張った振る舞いをするものだが。
しかし彼は「和泉さん」と呼び、敬語で話してくれる。
出会って間もないが、和泉は彼に対して好感を覚えた。
「かまいませんよ。何をお訊きになりたいのですか?」
※※※
会議室はすべて塞がっていたので、急遽、長野課長の執務室を利用することになった。
革張りのソファに向かい合って腰かけると、守警部は先に口を開いた。
「御堂久美さんをご存知ですか?」
「……みどうくみ……はて? どこかの暴力団ですか?」
「人名です……」
この女性なんですが、と写真を見せられてピンときた。
招待客はおろか、新郎にさえ結婚式をドタキャンされた、例の哀れな女性ではないか。
かつ父親が同日、捜査2課によって逮捕された。
そんな強烈なインパクトのあった出来事と一緒なのだ。忘れるはずもない。
「ええ、名前は知りませんでしたけど、顔は覚えています。めずらしく」
刑事のクセに、ちゃんと人の顔を覚えろよ、とでも言いたいのだろう。しかし口に出さないあたり、彼は大人だ。
「この人がどうかしたんですか?」
「昨日、遺体で発見されました」
「そうなんですか……って、え……? ホントに?」
「帝釈峡をご存知ですか?」
「ええ、行ったことはありませんが、名前は知っています」
中国山地の中央に位置する全長約18キロメートルの峡谷。国の名勝にも指定される比婆道後帝釈国定公園の主要景勝地として、観光ガイドにも掲載されている。
「遺体が神龍湖に浮いているのを、昨日の朝、発見されました」
神龍湖は帝釈峡エリア内にある、ダム建設に伴ってできた人工湖である。
「死因は……?」
「まだ詳しいことは分かりませんが、状況から言って事故と見られています。現場はかなり勾配のキツい山中でして、あちこちに危険な斜面があります。発見された時、ウエディングドレス姿という、実に場にそぐわない格好をしていましたが……鑑識が言うには斜面で足を滑らせて、そのままダムに落ちたのではないかと。全身に擦過傷と、打撲痕があったそうです」
守警部は淡々と事実だけを語る。
自殺じゃないのか、などと無責任な発言を和泉は飲み込んだ。
人生に一度の大舞台で、これ以上ないというほどの恥をかかされ、プライドを傷つけられたせい。充分にあり得る可能性だと思う。
それもウエディングドレス姿とは、一種の当てつけとも考えられる。
「事故ですか? 自殺でしょうか……」
「神石庄原署では、事故という見解が濃厚のようですが」
その含みのある言い方に、和泉は興味をそそられた。
「と、いうことは……ただの事故ではない、と守警部はお考えだと?」
「実を言うと……ガイシャには最近、身辺で妙なことが起きることが多かったそうなのです。脅迫めいた文章の書かれた葉書が届くこともあったと」
俄然、これは『何か』がある、と勘が働いた。
和泉は思わず長野の顔を見た。
日頃はふざけているとしか思えない彼の表情が、いつになく真剣である。
「詳しいことを教えていただけますか? 守警部」