6、アーシュの朝
毎朝、誰よりも早く起きるのはリッケ……ではなく、アーシュだった。
ロランは最近それを知った。
まだ空が暗いうちから、アーシュは音もなく部屋を出て行くのだ。
どこへ行くのか、何をしに行くのかは知らない。
けど、毎朝アーシュが井戸のところで顔を洗っている時、体中傷だらけになっているのは知っていた。
たぶん、何かしらの特訓をしているのだろう。
でも、なんのために?
アーシュは何も語らない。
必要なことは会話に応じてくれるけど、自分のことは話したがらない。
リッケすらも、アーシュのことは何も知らないらしい。
ロランは今日も寝床で瞼を擦りながらアーシュを見送る。
起きてついて行きたいけど、カサンドラとの特訓が始まって以来、眠気が慢性的に襲うのだ。
これも森の魔力の影響なのだろうか?
(僕も少しは体力をつけなきゃな……)
そんなことを思うが、眠気には勝てず、ロランはまた眠りに落ちていった。
――「おっはよー! 朝だよー!」
結局、その日はリッケに毛布を剥ぎ取られるまで寝てしまい、起きたらすぐに朝食だった。
ロランは目玉焼きを食べながら思う。
(今日は掃除当番の日だったからいいものの……このままじゃダメだ。もっとちゃんとしないと!)
早くも緩みかけた気を、なんとか張り詰めようと気合いを入れる。
そして、こう結論づけた。
(よし。僕も早寝早起きして、朝から走ろう!)
それは街で暮らしていた頃には、絶対に思いつかなかったであろうことだった。
――が、実際にやろうと思うと、現実はそんなにうまくいかない。
とりあえず、ロランは寝起きのタイミングをアーシュに合わせようとした。
身近なお手本として、まずはその生活習慣を覚えようという腹づもりだ。
アーシュは毎日午後7時過ぎにはベッドに登り、8時前には眠りについていた。
ロランもこっそりそうしてみる。
でも、全然眠れない。
そもそも、ロランはリッケの夕食の後片付けを手伝ったりするものだから、どう頑張ってもベッドに入るのは8時前くらいになってしまう。これでは、すぐに寝付くのは無理だ。
それにお風呂。
ロランはいつもこのくらいの時間に入るが、アーシュは夕食よりも前に入ってしまう。さすがにお風呂に入らないで寝るのは気持ちが悪い。
つまり、二人のタイムスケジュールは全然違っていたのだった。
(これは全く一緒にっていうのは無理だな……)
ロランは湯船に浸かりながら思う。
(うん。僕は僕で、自分なりに時間を調整しよう。明日は朝の家畜の世話当番。それを始める一時間半前に起きて走るんだ……)
部屋に戻ると9時で、見るとアーシュは既に静かな寝息を立てていた。
早速ベッドに潜り込む。
すると、リッケが部屋に戻ってきた。
「たっだいまー! いやぁ、今日のお勤め終了ー!」
リッケはいつもこんな調子で元気だ。アーシュが寝ているというのに……けど、そんなことで起きるアーシュでもない。おそらく、その辺のことはお互いにわかっていての行動なのだろう。
「お疲れ様。今日もリッケのごはん、すごく美味しかった」
ロランは言う。
それを聞いてリッケはにこっと笑った。
「ありがとう、ロラン。こちらこそ、今日もすっごく助かったよ! って、あれ? なに? もう寝ちゃうの?」
「う、うん……ちょっと最近体が疲れやすくて……」
「あ、そっか! 魔法の特訓、始めたんだってね! カサンドラちゃんから聞いたよ? ロラン、頑張ってるって」
「そ、そんなこと……あ、あるけど、まだまだだよ……」
ロランは頭をかく。
それを聞いたカサンドラはチラッとロランを見て
「そう。まだまだよ。魔力総量も少ないし、詠唱への集中力も欠けてる。それに、古代文字の復習はどうしたの?」
と釘を刺す。
ロランはドキッとした。そうだ、それもあったっけ……
「い、今からやって、それから寝ることにするよ……は、ははは」
「うんうん。すっかり仲良しさんだ。あ、カサンドラちゃん、先にお風呂入る?」
「私は後でいい。リッケが先に入って」
「あ、そう? じゃあ、お先にー! ロランも、お勉強頑張ってね!」
「う、うん。頑張るよ」
リッケは寝巻きを持って出て行き、カサンドラは読書へと戻っていった。
ロランはふーっと息をつく。
そうして布団から出ると座って、書き写した詠唱の文字の復習を始める。
(これは、寝るのは遅くなりそうだ……)
――翌朝。
ロランは空が白む頃に目覚めた。
重い体を何とか起こす。
たぶん、いつもよりはずっと早いはずだ。
アーシュは既にいなかった。
けど、リッケはまだスヤスヤとベッドで寝ていたから、ロランはそっとガッツポーズする。
(リッケよりは早く起きれた!)
そうして、ふたりを起こさないようにそっと着替えて部屋を出る。
が、リビングに入るともっと早起きの人物が待っていた。
おばあさんだ。
そう言えば、おばあさんはいつも何時に起きているのだろう?
「おや? ロラン、今日は早いねぇ」
「おはようございます。おばあさん」
「はっはっは、でも顔は眠そうだねぇ」
ロランは顔をゴシゴシと擦った。
顔までは誤魔化せないか……外で顔を洗ってから走ろうと思う。
「まぁ、でも良い心がけだねぇ……そうだ、アーシュなら一時間程前に出掛けたよ。この時間ならいつも川沿いを走ってるはずだ。行ってみるといい」
「あ、は、はい……! ありがとうございます。行ってきます!」
「ふむ。気をつけてなぁ」
ロランは一礼して小屋を出た。
相変わらず、おばあさんは何でもお見通しみたいだ。
(どういう人なんだろう……けど、あれじゃあ、隠し事なんて絶対にできないな……)
ロランは顔を洗う。
それからストレッチで体をほぐし終わると、いざ森の中へと走り出した。
目指すのはいつもキノコ採りをしている川沿い……おばあさんに教えてもらった場所だ。
もう迷わずに一人で行けるはず。
ロランは転んだりしないよう、足元に気をつけながら進んだ。
森の朝は街よりもずっと冷えた。
しかし、走ると熱くなるのでちょうどいい。
なかなか慣れないからスピードは上がらなかったけれど、いつも歩いて1時間以上かかる道のりを、半分ほどの時間で来ることができた。
川の音が聞こえてくる。
ロランは注意深く周囲を見渡した。
この辺りにはまだ魔物は出ないとのことだが、用心はしておく。
さらに川のほとりまで来るとロランは足を止めた。
やっぱり森の魔力のせいか、すごく疲れた。それか慣れない早起きのせいかもしれない。
ロランは屈むと、川の水をすくって飲む。特に何も考えずに走り出してしまったので、水筒も何も持ってきていなかった。
「ぷはっ……はぁ……はぁ……」
水は冷たく、とても美味しかった。
ロランは渇きが癒えたところで、息を整える。が、なかなかうまくいかない。
(たった30分走っただけでこれか……)
そんなことを思いながらゆっくり立ち上がる。
息を深く吸い込むと森はどこまでも清らかで、神聖な空気を湛えていた。
(けど……ここを走れるのは、なんて素敵なことだろう……)
ロランはもうひと頑張りするつもりで、屈伸をし、アキレス腱を伸ばす。
とその時、川の下流の方から、誰かが駆け寄ってくる音がし始めた。
ロランは咄嗟にその方角を見る。
魔物というより、人間の足音だ。
もちろん、こんなところをこんな時間に走っている人物など一人しかない。
そのシルエットは、ロランの姿を認めると少し足を止めた。が、すぐに気がついて近づいてくる。
ロランは手を上げて挨拶をした。
「お、おはよう……アーシュくん」
アーシュはロランの目の前まで来ると、いつもの感じで睨みつけてきた。舌打ちも聞こえる。
けど、なんとなく毒気が抜かれたのか、軽く息を吐き
「なんでお前がこんなところにいるんだ?」
と聞いてきた。
「あ、朝のランニング……僕もアーシュくんを見習って、体力をつけなきゃなって思って……」
「ケッ……」
アーシュは吐き捨てた。
「気持ち悪ぃ。のこのこついて来やがって。生まれたての小鳥かよ、てめぇは」
「えへへへ………まぁ、そうだよね……」
そう言われるとロランも何とも言えない。
ロランがアーシュの生活習慣というか、時間を決して無駄に使わないところとか、毎日ストイックに生きている姿とか、そんなところに密かに憧れを抱いていたのは確かだったからだ。
ロランは恥ずかしくなり、もじもじする。
これもきっとアーシュの嫌いな仕草なのだろうが、ロランの癖だから仕方がなかった。
案の定、アーシュは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「クソ……まぁ、努力しようとする姿勢は結構だがよ……」
「えっ? そ、そうかなぁ……」
「褒めちゃいねぇんだよ! 当たり前のことだ」
「そ、そうだね……」
「はぁ……お前を見てると本当にイライラするぜ……ま、せいぜい頑張りな。この辺は魔物も出ねぇしよ。無理せず早めに帰れよ」
すると、アーシュはひとりロランを残し、上流へ向かい走り出してしまった。
「えっ……? あ、ちょっと……!? アーシュくん!?」
ロランは慌てて追いかける。
けど、予想していた通り……いや、それ以上にアーシュのスピードは速く、とてもじゃないが追いつけそうにない。
「……って、ついて来んじゃねぇよ! トレーニングの邪魔だ!この先は魔物も出るんだぞ!」
アーシュは走りながら言う。
けど、ロランはついていくのをやめる気はなかった。
「僕のことなら大丈夫! ちょっと試してみたいだけだから……! 気にせず、先に行って!」
それを聞くとアーシュはまたロランを睨みつけた。
そうして少し考えたあと、
「……ふんっ。最初からそのつもりだぜ……」
とスピードを上げ、あっという間にロランの視界から消えてしまった。
辺りにはアーシュが巻き起こした風だけが、余韻として残った。
「すごい……さっきのでも全然追いつけなかったのに……あれが本当のアーシュくんのスピード……」
ロランは掛け値なしの全力で走っていた。
それでもアーシュの足元にも及ばない。
(やっぱり……今日はここに来るべきじゃなかったかな……)
ロランは思った。
(まだ初日なんだし、まずは一人で地道にやるべきだったのかもしれない……そうやって体力をつけてからアーシュくんのところに来れば、少しは違ったのかな)
ロランは走りながら少し後悔した。
アーシュの言う通り、ここでは自分はアーシュの邪魔になってしまう。
そんなことも配慮できなかったのかと。
「アーシュくん……きっと怒ってるよな……」
ロランはつぶやく。
けど、ずっと後悔しているわけにもいかなかった。
朝のランニングはやり続けたいのだ。
とりあえず、今日の分を全力でやりきるしかない。そして、いつかきちんと体力をつけて、アーシュくんと……
と。
そう気を取り直していた時、前方の川のほとりで、アーシュがこちらを向いて立っているのに気がついた。
ロランは目を見開く。
(なんで、あんなところで止まっているのだろう? 魔物でも出たのかなぁ?)
ロランは駆け寄った。
そして、周りを警戒する。が、とくに変わったところはないように思えた。
念のため、アーシュに聞いてみることにする。こういうことは断然、アーシュの方が詳しいからだ。
「ど、どうしたの……? 何かあった……?」
「……別に。何もねぇよ」
アーシュはぶっきらぼうに答える。
「な、何もない?」
ロランは首を傾げた。
じゃあ、なんで止まっているのだろう?
アーシュの顔を覗く。
すると、アーシュは舌打ちをして顔を逸らした。
そんな態度を見て、ロランはあるひとつの考えに行き着いた。
とてもシンプルだけど、思ってもみなかった答えに。
「もしかして……待っててくれたの?」
そう言葉にすると、アーシュはますます不機嫌そうな顔をした。
が、ため息をひとつすると、諦めたようにこちらに向き直って
「さすがに放っておけねぇからな……」
と恥ずかしそうに言った。
それを聞いたロランは意味を理解すると、満面の笑みを浮かべ、さらにアーシュの側にぐいぐいと近寄った。
「あ、ありがとう! アーシュくんっ!」
「か、勘違いすんじゃねぇよ、クソが! ここから先は魔物が出るから……それでお前がやられた日にゃ、リッケとばあさんに合わせる顔がねぇし、それに貴族さまに恩を売っておくのも悪かねぇだろって、そう……思っただけだ」
アーシュは言い終わるとそっぽを向いた。
そんなアーシュにロランはうんうんと頷く。
「それでいいよ……ていうか、理由なんてなんでもいい」
「近けぇよ、本当に気持ち悪ぃやつだな、お前は……!」
「えへへへ……」
アーシュはもじもじするロランを振り払うと、ついて来いと手招きした。
「チッ……思ったより時間食っちまった……今日は家畜当番だし、コースを短縮するか。俺について来な」
「う、うん……!」
二人は再び走り出す。
今度はアーシュも速度を加減してくれているから、ロランもついていくことができた。
「これくらいなら、ついて来られるか?」
「うん!」
「本当はもう少し上げたいが、どうだ?」
「ほ、ほんの少しなら……でも、ごめん。それが限界かも……」
「そうか。なら、もう少し上げる。へばるんじゃねぇぞ」
「わかった!」
アーシュはスピードを上げる。ロランもそれになんとかついていった。
二人はやがて、まだロランが足を踏み入れたことのない、川の上流部に差し掛かる。
「この辺りから魔物が出るぞ。といっても、雑魚ばかりだけどな。いたら、不意打ちだけは喰らわないようにしな」
「ま、魔物か……できれば出ないで欲しいな……」
ロランの弱気な発言に、アーシュはケッと吐き捨てる。
「出てくれなきゃ困るんだよ。修行にならねぇだろうが」
と。
その強気な発言にロランはびっくりした。
「えっ? ま、まさかだけど……アーシュくんは毎朝、そうやってわざと魔物のところに行って戦ってるの……?」
そう言われアーシュはニヤッと笑った。
「ついて来たからには、自分の身は自分で守れよ?」
ロランはこの時初めて、別の意味で、今日ここに来てしまったことを後悔した。