光刺す日
その血色の悪い薄い唇は、かさついているのに妙になめらかで、目を逸らしたいようなずっと見ていたいような不思議な気持ちにさせた。
お母さんは一番きれいなのに、どうして唇を赤く塗ったりしないんだろう?
幼心ながらそんなことを思っていた。
化粧をするにはそれが必要で、我が家にはそれがほとんどないと気付いたのは小学校に入学して暫くしてからのことだった。
「そこには怖いものが閉じ込められているからね、見てはいけないのよ」
まだ私が一人でトイレに行けないくらいに幼かった頃、デパートのトイレでそれから必死に顔を背け、母はいった。
「何がいるの?」
無邪気な私の唇を、母がそっとやわらかな手のひらで覆った。
「シッ。ダメよ。聞かれてしまう」
怯えた瞳は頼りなく、けれど必死に私を何かから守ろうとしているのが分かった。私はそれ以上何もいわず、母に促されるまま個室で用を足し、手を洗わないまま逃げるようにトイレから出た。
レディースと書かれたピンクの標識のそばで、母はバッグからウエットティッシュを取り出すと、丁寧に私の手を拭き清めた。
「よくがんばったね、ヒナタはえらいね」
母から褒められると悪い気はしない。私は指の股を拭かれながらふふふと笑った。
「お母さん、もう喋っていいの?」
「ええ、もう大丈夫。あれはね、いろんな場所にあるから油断してはダメなのよ。でもヒナタは賢いから大丈夫。静かにしていたら気付かれないからね。ね、ヒナタ大丈夫ね? 気付かれない様に静かにできるよね?」
私は大きく一回頷いた。母が私の頭を撫でる。
「本当にヒナタはいいこね」
母は美しい人だった。アーモンドの形をした大きな瞳に、通った鼻筋、色味のない薄い唇。化粧気が全くないがゆえに禁欲的な淫靡さを醸し出していたような気がする。
美容院を嫌ったため、父が申し訳程度に切りそろえていた髪は背中の真ん中まで伸び、収まり悪く広がっていたけれど、たっぷりと豊かだった。触れればその柔らかさと手の上から溶け落ちるようなひんやりとした感触に溜息がでる。
お母さんと呼べば「なぁに?」と唇をきれいな三日月にして微笑んでくれた。優しく愛情深い人。
私は母が大好きだった。
遊園地に行こう、と父がいった。
開園前から学校で話題の的となっている遊園地に、まさかこんなに早く行くことができるなんて!
やったぁ! と声をあげて喜ぶ幼い私を、父と母がにこにこと眺めていた。
父は自営業で電気工事を請け負っていた。開園前のプレオープンに招待されたのは何かしらの仕事に父が関わったからなのだろう。
私はその日を指折り数え、ついにプレオープン当日の朝を迎えた。
遊園地に行ったのはこの時が初めてだった。
ジェットコースターは父と。メリーゴーランドは母と二人で。いろんなアトラクションを楽しんだ。父も母も笑っていた。私もはしゃいでいた。楽しかった。
観覧車は三人で乗った。私たちの住む家は見えなかったけれど、通っている小学校は見えた。
ほら、あそこだよ。父が指さしたそれを見て私と母が歓声をあげた。
三人で乗った観覧車が楽しかったので、私は三人でできるアトラクションを探した。パンフレットを開き見つけたそこに行きたいと私はいった。二人はいいよと頷いてくれた。
ミラーハウス、と書かれたそこに入ってしまったのは、今思えば何か意図的な力が作用したせいなのだろうと思う。きっと避けられない出来事で逃れられない結末だった。
母は山奥の集落の出で、父と結婚するまで世間のことに疎かった。だからミラーハウスがどんな場所かなんて全く知らなかったのだ。
父はどうかといえば、おそらく知っていたに違いない。内部の様子を詳しく知らないにせよミラーハウスと名の付いたそこにそれがあることを知らないわけがなかった。母が怯えるそれが。
穏やかな幸せに包まれた暮らし。けれど、常に何かから怯える妻に対して思うこともあっただろう。疲弊していることもあっただろう。
私に父を責めることなんてできない。私が母を失ったように、父もまた愛する妻を失った。
私たち家族はミラーハウスに入り、真っ暗な狭い通路を手を繋いで歩いた。
「こわいね。お化けでてくるのかな?」
恐怖と好奇心が混じった声で母に話しかけた。
「手を繋いでたら大丈夫よ。それにお化けなんて怖くないからね。お母さんでも追い払えるから」
優しい母の声が頼もしく、私は繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
ポツリ、ポツリ、と通路の沿いの地面に置かれた青白い照明。蛍の光のように心もとないそれを頼りに進んでいく。
やっと拓かれた場所に出た。
そう思った瞬間、突然四方から眩い光が差し込んできた。
乱反射する光。あちこちに写る私たちの姿。どこを見ても一面に。
顔、顔、顔、かお。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
人のものとは思えない壮絶な声をあげて母は卒倒した。
「だめだだめだだめだみつかってしまったみつかったみつかった、ああああああいるいるいるいるいるああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああいるいるいるいるいるくるな! 来るな来るな来るなぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
私はその場にうずくまった。ガタガタと身体が震えていた。
私のそばで二人が争うような、暴れる母を父が押さえつけるような、空気が大きく動く気配があった。聞こえるのは母の悲鳴ばかり。
真夏だというのに地面から冷気が上がってくる。
さむいさむいさむいさむい。でもこの場から立ち上がったら私は。わたしは。
本能的な直感だった。寒さに身体を震わせながら私はうずくまり、固く目を閉じて母の絶叫を聞く。股間に広がる生暖かさ。身体中に張り詰めていた緊張が弛緩する。
気持ち悪い、でもあたたかい。あたたかい、あたたかい、あたたかい。
どんどん意識が遠くなる。
──ヒナタは、いいこね。
意識を手放す寸前、母の声が聴こえた気がした。
私は地面に倒れたまま意識を失い、母の心臓は止まった。
死因について父が語ることはなかった。
父との静かな暮らしに不満はなかった。
父は不慣れながらも自分で家事をこなした。私も幼いなりに手伝い、私達は少しずつ普通の生活を取り戻していった。
父の作るハンバーグは焦げなくなり、私は味噌汁を作れるようになった。父が忙しい時には私が食事の用意をした。スーパーのお惣菜を買うだけでも父は私を褒め、感謝し、労ってくれた。
少し皺が寄ってしまうけれど、制服のブラウスにアイロンもかけた。父の服は私の物よりずっと大きくてきれいに畳むのが難しく、時々イラついて床に投げつけることもあった。
けれどぴしっときれいな長方形に畳めたときの心地良さは、自分のものとはくらべようがないほどだったし、父はいつもありがとうといってくれた。
そうしていつの間にか皺ひとつなくブラウスにアイロンをかけられるようになり、父の服を手早くきれいに畳めるようになった。
母がいない暮らし。過ぎていく時間。私は着々と年を重ね、学校を卒業し、地元ではそれなりに名の通った会社へ就職した。
学校でも会社でも、良くも悪くも突出することはなかった。誰にとっても行儀が良く、それゆえ面白みにかける、善良な隣人のような存在。それが私だ。
人から見れば退屈な生活に見えるかも知れないけれど、私はそんな自分に満足していた。
就職活動を機に私は化粧をするようになった。
高校でも化粧をする子はいたし、大学に通っていた頃はほとんどの女子生徒がそれをしていた。
どうしてしないの? と何度も聞かれた。
苦手だから。不器用だから。めんどくさいから。聞かれるたび苦笑いで誤魔化した。
えー、した方がかわいいよー。慣れれば簡単だよー。善意で彼女たちは私に化粧を勧める。それが普通だから。
私だって興味がない訳ではなかった。けれど怖かったのだ。
肌が弱くて荒れてしまう。最終的にはそう応えるようになっていた。そうすれば彼女たちは同情してくれる。肌にいいと評判の化粧品を教えてくれさえした。私はありがとう、といってそれを紙にメモしてみせる。
そんな私が化粧を始めた。それが常識でありマナーだと、学生課主催の就職セミナーで聞いていたからだ。
初めは恐る恐るだった。なるべくそれを見ないよう最低限のチェックで顔を塗った。
息を止めるように化粧をし、異変は何も起こらなかった。私はただの化粧をする若い女でしかなく、それに映る私は母に似ていた。それがうれしくもあり恐ろしくもあった。
外見を彩ることは楽しかった。皆が夢中になっていたのがようやくわかった。
私はすっかり油断して、何もないことをいいことにそれを覗く時間が増えた。
アイメイクにはやはりそれがいる。ファンデーションと口紅だけといった化粧では物足りなくなっていて、雑誌に載っていることを試行錯誤しながら実践する。そんなことすらするようになっていた。
そんなある日、それはやってきた。
私は睫毛の隙間を埋めるように、真剣にアイラインを引いていた。目を大きく見開いて、無意識に鼻の下を伸ばし、必死に化粧する私は、それはそれは滑稽な顔をしていたことだろう。
小さければ問題ないだろうと、ファンデーションのコンパクトにはめ込まれたそれに、目だけを映していた。
アイラインを引き終えたら次はマスカラだ。私は丁寧にマスカラブラシを睫毛に当てる。
初めは気のせいかと思った。
遠くで何かが動くような音。
ずるずると何かを引き摺って歩く音が、途切れ途切れに聞こえる。
ずっ……ずずずずず、ず、ず、……ず、ずずずずず
音は何かを探すように動いては止まり、止まっては動く。
何の音?
どこから?
私は息を詰め、それでも必死にマスカラを塗り終えた。
ずっ……ずずずずず、ず、ず、……ず、ずずずずず
音が心なしか少しずつ近づいている気がする。
震える唇にコーラルピンクの、グロスを塗る。
ずず、ずずずずずずずずずずずずずず
音から迷いが消えた。
っざざざざっざざざざざざざざざざざざざざざざざざ
駆けるような速度で音が、近くに。
私はパチンとファンデーションのコンパクトを閉じた。
すると途端に音が消え、なにかの気配が霧散した。
その日以来、私は化粧をしていない。
化粧は常識と教わったけれど、化粧気のなさを怒られることもなく、私は安心して真面目に働いた。
珍しいね、といわれることはあっても、以前そういっていたように肌が弱いといってしまえば追及されることもない。皮肉な事に化粧をしない私の肌は美しく、同僚に褒められさえした。
髪を丁寧に櫛で梳き、はみ出しても違和感のないような色付きのリップを塗る。大学時代に戻ったような生活。
あの音を聞くこともない。静かな暮らしだ。
そして月日は流れ、私は一人になった。
去年の夏、何の前触れもなく父が仕事中に倒れ、旅立った。
父と母と暮らした家に、今はもう私だけ。悲しく寂しいけれど、父がようやく解放されたのだと安堵する気持ちもあった。
一人の家はやけに広く感じる。それでも父がいた頃と同じように生活を続けるだけだ。
私はその方法をすでに知っている。母がいなくなった時、それを父としているのだから。
静かに穏やかに暮らしているからといって、友達がいないわけでも、好きな人がいないわけでもない。
出張でベトナム工場に行った課長からお土産を貰った。
ベトナムのお菓子を数種類と、空港で購入したとおぼしき国内の銘菓を、すでに休憩室に置いてくれている。
少しはにかみながら課長がくれた小さな包み。
「他のやつらには内緒な」
そういって手渡されたそれを、人に見られないように更衣室へと向かう。
自分の口元が緩んでにやけているのが分かる。彼が自分にだけくれた小さなお土産。
彼の薬指に馴染んだ指輪のことは、その頃にはもう気にならなくなっていた。彼は化粧気のない私の肌を暴いたひと。
母にいいこ、といわれた私。ずっといいこだった私。人にいえない悪いことを彼とした。
素朴な茶色の紙袋をかさりと開ける。取り出したそれは手のひらに収まるくらいの丸く平べったいものだった。
鮮やかな青い光沢のある布に、蝶と花の繊細な刺繍が施されている。独特の色合わせは美しくも個性的で、異国の情緒を感じさせた。
反対側はどんな風になっているんだろう?
私は笑みを零し、指先で掴んだそれを引っくり返した。
きらり、と反射した光が私の目を刺す。
私は目を細めそれを見た。
ああ、映っている。
私の顔が。
いる。
私のうしろに。
いる。
いる。
いる。
い る
ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ
ざざ、 ざ、ざ ざ
──ヒナタはいいこね。
母の声はもう、聞こえない。
【 終 】