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魔の王へと捧ぐ  作者: 日隈一角
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四章


 ウグアガルは魔王と対面した瞬間に殴るつもりだった。魔王の全貌を目の当たりにして、その身体がわずかにためらう。

 王という存在に圧倒されたわけではない。あまりにも、みすぼらしく弱弱しく無様だったからだ。

 ――私が求めていた敵が、こんな陳腐な奴なはずがない。

 構えた大剣を握る力がわずかに緩み、本来ありえない隙を作る。弛緩した雰囲気の中で、自身が動き出す時を躊躇した。

 数秒空いた時間を、魔王は迷いととったらしかった。

「去れ――人間よ、ここから去れぇ!」

 魔王は短い言葉を繰り返すだけだ。みっともないと思った。

 なのに、ウグアガルは動けない。

 ふと〈奇跡の剣〉にこびりついた魔物の赤黒い血が目に焼き付く。ウグアガルの髪と瞳の色と同じ。憎み続けた存在の色。倒し続けたもの。最後に倒すべき存在。

 そこでようやくウグアガルは存在意義を思い出し、ここに立っている目的を思い出し、〈奇跡の剣〉を両手でかまえる。――殴れる。いつでも、この剣を動かせる。

 足を踏み込み勢いよく魔王へ飛び込む――直前にそれは来た。

 影よりも闇に近い黒色の魔物たちが一斉にウグアガルの元へ飛び込んできた。瞬時に大剣で身を庇い、大きく後退する。入ってきた大部屋の入り口に近くなった。ますます魔物の群は手当たり次第に押し寄せ、部屋から追い出すかのようにウグアガルに向かってくる。大剣を振り回し、この状況は不利だと判断、ウグアガルは大部屋から転がり出た。そのまま城の奥へと駆ける。魔物は始めより数が少なくなったものの、まだこちらを追いかけてきた。

 油断した。城に入ってから魔物の姿を見なくなったせいで、魔王以外の存在がいるかもしれないことを忘れていた。迂闊だ。失態だ。こんなはずではなかった。魔王にすぐに斬りかかっていれば、事は済んでいた。魔物たち、おそらく低級魔物の群は形を変えながらウグアガルを追い求める。やけに統率された動きのこいつらをなんとかするべきだろう。魔王はそれからだ。

 走る足を急激に止め、振り返る形で大剣をひと薙ぎ。さらにそのままもうひと薙ぎ。〈奇跡の剣〉の効果は魔物には絶大で、低級魔物は耐久が低い。触れれば一瞬で形を失くした。しかし、後から後から魔物の群れが襲い掛かってくる。ウグアガルは舌打ちした。数が多すぎる。

 〈奇跡の剣〉をがむしゃらに振り回しながら、魔王のことが頭をよぎった。この低級魔物たちを使役しているのは、魔王ではない。なぜなら、ウグアガルが殴りかかろうとした瞬間、魔王は恐怖の顔を見せていたからだ。あの一瞬、ちっぽけな人間ウグアガル一人に、魔のもの全てを総べる王は怯えていた。

 先の光景を思い出した瞬間、ウグアガルを襲ったのは虚無だった。

 その感情はすがりついてきた憎悪ではなかった。ウグアガルには理解できない。ただ、ぽっかりと心臓に穴が空いたようだった。

 憎悪に任せて魔王を殴り殺す。それで心は満たされる。そのはずだった。なのに、理解できない感情を埋めるすべはないように思った。

 がしゃんと、地に音が鳴る。見下ろすと取り落とした〈奇跡の剣〉が足元に転がっていた。この剣を手放す理由はない。だが、振るう理由も、もはや。

 明らかに必要のない迷いだった。〈奇跡の剣〉に伸ばした手が遅れた。隙を見せた獲物に、魔物が躊躇うはずがない。

 ウグアガルの身体に何十匹の魔物がぶつかり固い肉体に噛みついた。悲鳴を押し殺して剣に触れようとする手はまた何十匹の魔物の口の中に入り、肉片と骨が入り混じる。もう片方の手を伸ばす間もなく、さらに何百匹の魔物がウグアガルの全てを嬲った。





 メリーは死んだ。テトラザを庇って死んだ。彼女の物語はそこでおしまい。もはや語られることはない。

 ユウはやることが決まった、らしい。「復讐」だと、彼は言った。

 テトラザは嬉しかった。涙が出るほど、歓喜に包まれた。

 それから、ユウはテトラザに魔王の居場所を尋ねてきた。テトラザが方向を示すと、少年は小さく頷く。

「これから先に行く国を通り越して、〈魔の森〉があるんです、ユウ。まだしばらくは歩くしか……」

「すぐつく」

「え?」

 ユウは目をつむり一呼吸した。すると、彼の背中から服を突き破って何かが生えてくる。最終的に形になったそれは、翼。ドラゴンなどの高等魔物を彷彿とさせる、力強いもの。

 テトラザはただただ、驚愕するしかない。

「ユウ、貴方は……」

「これでにげてきた。やっとおもいだした」

「逃げてってどこから、」

「いってくる」

 問いにも答えず、ばさり、とユウは翼をはためかせる。大空を飛ぶのだろう。素晴らしい。なんという勇者だろうか! 間違いなく今までにない、最高の物語が生まれる!

「ユウ、待って! 私も、連れて行ってください!」

 ぴたり、と翼の動きが止まる。ユウの無垢な瞳が、テトラザを捉えた。

「テトラザは、なにができる?」

 ユウは、変わった。メリーが死んで、恐ろしい魔人が襲来して、魔人を殺した、あのときから。

 地に足がつかなかった少年が、今は堂々としている。居場所を求めて怯えていた姿はいまやどこにもなく、己が歩く間違いなどないと、自信に満ちていた。親鳥の後ろを何も疑わずについていく雛鳥のように、テトラザは思えた。

 ここで言葉を間違えれば、多分テトラザは置いて行かれる。

「ユウ、魔王を倒しに行くのですよね? そうなのでしょう?」

「うん」

「それが、復讐だと」

「うん。あと、にんげんにまおうを殺させるぐらいなら、まものがまおうを殺せばいい、とおもって」

 ユウは思い出したかのように付け足した。その台詞はつい先ほど聞いた覚えがあった。魔人の言葉だ。張りぼてだ。一抹の不安が、テトラザをよぎった。

「私もついていきます。私には戦う力はありませんが……おそらく、これで援護することはできるかと」

 〈奇跡の剣〉――まるで杖のような剣を、テトラザは大切に両腕に包み込む。今なら、これの使用方法が、流れるように伝わった。

「この剣の効果は貴方もご存じのはず。ねえ、ユウ?」

「……わかった」

 ユウは両手を差し伸べる。そのまま、テトラザの身体をいとも簡単に抱え込んでしまった。

「しゃべらないでね」

 こくりとテトラザは頷く。子供とは思えないパワーにも、魔人との会話にも、もはや驚くことなどない。勇者なのだから。そのぐらいの背景はぜひともあってほしいと思っていた。彼は、テトラザが求める物語にぴったりの役者だった。

 ユウが再び翼を動かし、飛び立つ瞬間、その前に、テトラザの眼にメリーの死体が飛び込んだ。迷いは瞬きの間だけ。彼女は連れていけない。ここに放置するしかない。

 テトラザがメリーを旅に誘わなければ、おそらくメリーはこんなに早くには死ななかった。メリーがいなければテトラザはもっともっと早くに死んでいただろう。言葉が足りぬほどの感謝がしたかった。ありがとう一つも、彼女にはもう届かない。

 彼女もきっと、テトラザと同類だったのだ。だから旅についてきた。だからこれからの行動も、きっと喜んでくれるに違いない。テトラザはそう言い聞かせた。

 これまで、旅の途中で彼は何人もの人間を切り捨ててきた。犠牲は片手で数えきれない。

 それでも彼は、夢物語を語る側であることを棄てられない。





 シェヘラが目覚めたとき、丁度マーヤが顔を覗き込んでいた。

 状況を把握しようとして慌てて飛び起きると、マーヤに頭がぶつかりそうになった。

「わ、わわっ、シェヘラ、だい、じょう、」

「〈語り部〉は、奴は何処だ!」

 シェヘラはあたりを見渡す。フレンハットがこちらに近づいてきた。マーヤは地べたに座った姿勢でおろおろしている。〈語り部〉は? いない。どこにもいない。

 徐々に、記憶が戻ってきた。〈語り部〉に殺されそうになり、しかしとどめはさされず、隙をついたシェヘラの〈奇跡の剣〉が〈語り部〉を貫いた。〈語り部〉の憤怒の表情を見て、シェヘラはしてやったりと思ったのだ。飄々とした雰囲気の異形の表情を変えられたことは、不思議な達成感をもたらした。しかし。

「……くそ、奴は…」

 しかし、記憶はここまで。〈語り部〉の死体は見当たらない。〈奇跡の剣〉であれほど深く刺したのだ。致命傷のはず、なのだが。

「〈語り部〉なら、恐らく影に潜って逃げて行った」

 フレンハットが声を掛ける。彼にしてはやけに淡々としていた。

「俺たちが魔法の拘束から解けたとき、丁度逃亡しているところを目撃したよ」

「目撃していた、だと。どうしてそこで追わなかった」

「……あの移動方法は俺たちでは追いつけない。それに、シェヘラ。瀕死のお前をなんとかするほうが先だったんだ。頭を冷やせ」

「……」

「マーヤの魔法のおかげで起き上がるところまで回復したようだが、まだ傷は残っているんだ。それにあと数秒遅ければ、お前は死んでいたかもしれないんだぞ。マーヤに礼は言ったか?」

 フレンハットはマーヤの頭をぽんぽんと叩く。

「……いや。そうだね、それを先に言わなければならない。ありがとう、マーヤ。助かった」

「えっ? あ、いえ、これは私の役割の一つですから……!」

 慌ててぶんぶんとマーヤが首を振る。しかし、すぐに落ち込んだように俯いた。

「それより、ごめんなさい、シェヘラ。私たち、あんなに簡単に足止めをされてしまって、勇者を危険な目に。……本当に、ごめんなさい」

「俺も、すまなかった、シェヘラ」

 今度はマーヤとフレンハットが頭を下げる。が、シェヘラにとっては謝られることではなかった。むしろ好都合だった。結果的に〈語り部〉に重傷を負わせることができたのだから。それも、シェヘラ自身の手で。

「顔を上げて、二人とも。僕はこの通り無事だから。問題ないよ」

 今は、それよりも重要なことがあるのだ。〈語り部〉を逃がしてしまったことの方が、問題だ。 

 身体を無理に起こすと、あちこちが悲鳴を上げる。マーヤの魔法の力は最高級だが、全てを元通りにできるわけではない。

「! 少し、休みましょう、ね? もうちょっと、魔法をかけ続ければ……」

「駄目だよ、マーヤ」

 マーヤが戸惑い首を傾ける。その挙動にわずかに苛ついた。今はそれどころではないだろうに。

「このまま魔法を使役していれば、マーヤの体力が奪われてしまう。僕はもう大丈夫だから、先に進もう」

「おい、シェヘラ……」

「危険なんだよ、あのまま放っておくと」

 〈語り部〉を今度こそ仕留めなければならない。あの女は魔王に従うと言っていた。その言葉を信じるなら、今は魔王が棲む城にいるのではないだろうか。日夜魔王の護衛を務めているのではないだろうか。休息の場もそこではないだろうか。仮定にすぎないが、自信はあった。

 〈語り部〉は語った。魔王を守るために存在し、行動するのだと。従う理由は明かしただけのものではなさそうだったが、彼女の従属精神は見事なまでだ。

 あの女は縛られている。魔王の下僕という立場に。性格を、行動を、縛られている。本人は、気づいてもいない。哀れな女だ。

 なぜそこまでのことをシェヘラが理解できたのかわからない。けれど妄想ではなく確信だった。

 不吉な微笑をたたえる美貌の異形の姫君、その表面を剥ぎ取ったあの時間、剣を刺したときの顔を、シェヘラは忘れられない。

「魔王を倒すとなると、多分奴はまた僕らの目の前に現れるだろう。先に片づけるべきは〈語り部〉だ。弱っている今がチャンスだ。行こう」

 シェヘラは歩き出す。痛みは脳を刺激するが、もうかまっていられなかった。

 後から、フレンハットとマーヤが慌てて付いてくる気配がした。しかしシェヘラが後ろを見ることはない。

 二人の訝しげな瞳に、シェヘラはもはや気づけない。





「王! 魔の王! ご無事でしたか!」

 迂闊だった。城の中に移動して身体を治すことに集中していたら、ウグアガルが魔の王の元に辿り着いたことに気が付かなかった。何とか追い払うことができたものの、とんだ失態だった。

 〈語り部〉はできうる限りすべての低級魔物たちをウグアガルの元へ向かわせた。今他の勇者が来てしまえば〈語り部〉も魔の王も丸腰だ。だが、その前に仕掛けさえ仕組んでおければ、例え自身の命が亡くなろうが魔の王は生き残る。

 そして勇者は魔の王へと捧ぐ、生贄の身体として命を落とす。

 この世に存在する数多くの知識を探し、あらゆる地方を巡り、とある〈迷宮〉で手に入れた宝物である方法がこれだった。それは、不死の魔法。

 魔の王が〈奇跡の剣〉に魂を奪われたとき、〈奇跡の剣〉の持ち主の肉体へと魔の王の魂を戻す。それが、〈語り部〉がシェヘラ・ウグアガル両名に仕掛けた魔法だ。この魔法には何年もの時が、何千もの魔物の魂が生贄になっている。

 勇者と魔王の伝説が人間に語り継がれていることは好都合だった。魔の王に普通の人間は近づけない。〈奇跡の剣〉に選ばれた勇者なら、それが可能だ。何体の魔物で試しても、魔物の魂は魔物へと定着しなかった。不死の魔法そのものが人間用らしい。代替えとなる肉体が人間の血を持ってこそ、この儀式は成功する。

 もう一つ必要なのは、想いを繋ぎとめる感情。〈奇跡の剣〉で王を封印する際、魔の王への感情をより濃くもっていなければならない。その感情こそが、魔の王の魂を現世に戻す鍵となるのだ。

 そして、魔の王が一度死ぬ直前に最後の魔法をかけておく――これが最後の仕上げだ。

「王、お怪我はない……ようですね。申し訳ありません。気配を察知するのに遅れてしまいました」

 跪き、頭を垂れる。魔の王はまだ怪我を負ってない。年老い弱り果てた今の魔の王では、〈奇跡の剣〉一発で封印されかねない。本当に危ないところだった。全て、あの男、シェヘラのせいだ。

 あいつがいなければ〈語り部〉は死にかけなかったし、魔の王を危険に晒すこともなかった。次に会ったら殺そう。やはり殺すべきだったのだ。

 生贄の勇者はウグアガルでいい。ある程度追い払えば深追いはするなと低級魔物たちには命令してある。もうすぐ戻ってくるだろう。それまでに、最後の魔法を済ませておかねば。

 そういえば、魔物の帰りが遅い。すぐに戻ると言っていたはずだが。いや、細かいことに拘ってはいられない。今は他に優先して考えなければならないものがある。

「王、わたくしから提案がございます。あなたの魂を――」

「おまえ、裏切ったな」

 は、と息が漏れた。頭が言葉を理解するまでに時間がかかった。まるで図星を突かれたかのような間が空いてしまったことに、絶望した。

「なにを、なにをおっしゃるのですか」

「勇者が来ることを、知っていたのに、なぜ、我の傍にいなかった? なぜ、この時期に、城の外へ、度々出るのだ?」

 微かにしか出せぬ魔の王の低い声が、それでも大部屋全体に響き渡る。魔の王の呼吸音は、どんどん激しくなり、激昂しているのが明らかだった。

「申し訳ありませんでした……でも、それはっ」

「魔物たちが、噂している。魔物なのに、〈奇跡の剣〉を所持する輩が、いると。それは、おまえだと」

「違うのです! 信じてください、王よ! それには、様々なわけが」

「ならばなぜ今更。最初から、明らかにしておけば、よかっただろう」

「それ、は」

 息が詰まった。

 なぜすべてを王に話していなかったのか? それは、信じてもらえない、と思ったからだ。疑心暗鬼に苛まれる王を、これ以上揺るがせたくなかったのだ。

 信じてもらえないとはじめから確信していたのだ。だから、全てが終わった後で、話をしようと思っていた。

「ほら、見ろ。なにも、なにも言えやしない!」

 まともな形を保てない老いた肉塊は、王が叫ぶたびに身体の芯からずれていく。もう王の身体は限界なのだ。王は死を恐れている。だから生きるために新しい身体を用意してあげたかった。

 〈語り部〉は、王が血肉を分けて作った存在だ。

 彼はもはや自分自身すら信用していない。

「お前だけは、我と共に歩み、我のために、尽くしてくれると、信じていた。我は、信じていたのだぞ!」

 掠れきった糾弾の声に、〈語り部〉は身をすくませる。〈語り部〉はただただ魔の王の為に生きてきた。それなのに、今、生きる意味を、つまりすべてを否定されている。

「いえ――いえ!」

 必死で声を張り上げる。この状況をなんとか元に戻したい。王に気持ちを少しだけでもわかってほしい。――わたくしは、本当に貴方のためだけにあるのだと!

「私はあなたの良き伴侶として、忠実な奴隷として、信頼する娘として、貴方を想い貴方のためだけに動いてきたのです!」

 本当の気持ちだ。もはや嘘や誤魔化しは、騙りは通じない。本当をぶつけるしか、〈語り部〉にできることはなかった。

「王、どうか、信じて――」

「いや、違う」

 それでも〈語り部〉の言葉は届かない。

「今のお前は、勇者、ただ一人に、固執している。そうだろう?」

 代わりに、突拍子のないところから心の中を掴まれた気がした。

「私が、勇者に?」

 脳裏に、〝彼″が浮かんだ。――いや、違う!

「待ってください。ねえ、馬鹿なことを言わないでください。そんなはずないじゃないですか」

 なぜ魔の王はそんなことを突然言い出したのだ? どうしてそう感じたのだ? 〈語り部〉は魔の王の為に生きてきた。それだけだ。他の者に、ましてや人間なんぞに気をとられるはずがない。

「ただ、〝あれ〟が大きな障害になるだろうと判断したまでのこと。それだけですわ、魔の王――」

「我の前で、これ以上、嘘をつくなああああ!!」

 魔の王の口から赤黒い血が零れ、辺りへ撒き散らし汚した。醜い咆哮が体液を流しながら続き、王に近づこうとした〈語り部〉を影が掴む。

 見慣れた影だった。〈語り部〉がいつも使役している低級魔物たち。それらが、ウグアガル襲来からいつのまにか戻り、〈語り部〉を掴んで引きずっていく。

 そこには、いつの間にか取り落とした〈語り部〉白紙の本が、開かれたままあった。

「な、なに……やめなさい!」

 命令で止まるはずの低級魔物の群はしかし止まらず、足首を噛まれ胴体を噛まれ数十の手が伸び〈語り部〉を力任せに掴む。身体が軋み折れていく嫌な音が連続で鳴る。

「がっ……あ、ああ、あああ……!」

 低級魔物たちが〈語り部〉に従っていた理由は二つ。一つは、魔の王の肉体を持つこと。もう一つは、〈語り部〉がどこまでも魔王に忠実であるからだ。知性を持たない低級魔物は基本的に王に従おうとし、その過程として〈語り部〉を求めていた。それだけの関わりだった。

 魔の王から〈語り部〉への信頼関係が消えた。だから低級魔物たちは、こいつはもういらないと判断したのだ。おそらく魔の王の咆哮で命令に近いものを出されたのだろう。〈語り部〉は低級魔物にも、魔の王にも、用済みとなってしまった。

「王、おう、たすけ、あああ、たすけ、て、」

 伸ばした腕は纏わりついた低級魔物があらぬ方向へ折っていった。そのまま、折りたたまれた背中から、白紙の本へと入っていく。肉体はほとんど喰われ、お気に入りだったドレスは見る影もなく。ただ低級魔物と入り混じった醜い肉塊が、人に似た赤い血を残して、本の中に埋もれていった。

「おう、お…う、お……あ……」

 人間よりは丈夫な身体は、楽に死ぬことを許さない。しかし精神は確実にすり減り、〈語り部〉のものではなくなっていく。

 ただ、誰にもすくわれない想いが、どうしようもなく熱をもった。

「――しぇへら、」

 本が、すべてを呑みこみぱたんと閉じた。どろりと濁った液体が滲み出る。

 魔の王は見向きもしなかった。





 いよいよ、シェヘラたちは魔王が鎮座するとされる城の内部に突入した。おそらく、〈語り部〉もどこかに潜んでいるに違いない。

 これ以上ないほど張りつめた空気の中で、マーヤも、フレンハットも、シェヘラも慎重に周囲を伺いながら進んでいく。ここからが本番だ。〈語り部〉を殺さなくてはならない。

 大きな広間に出たとき、それは三人が同時に見つけた。小さな不定形の魔物が遠くから這ってくる。〈語り部〉が使役する魔物に似ていた。いつでも迎撃できる姿勢をとる。魔物は少し這うごとにその身体が膨れ上がり、三人の目の前に辿り着いたときには人間三十人ほどの巨大な化物となっていた。

 化物は何百匹もの魔物が積み重なるようにして形を保っていた。腕が、足が、あらゆるところから飛び出ては消えていく。常に流体のように流れていくその姿は、今まで見てきたどの魔物よりもおどろおどろしく、醜く、背徳的だった。

 おそらく、この相手は手強い。シェヘラたちの間に緊張が走る――そのとき。

 化物の上部付近、ゆっくりと瞼が開いた。身体の大きさに比べると、随分小さな瞳が、蜂蜜色の瞳が、ぎょろりと動く。

 シェヘラは目があった、気がした。

 その瞳は誰かに似ていた。

「……〈語り部〉?」

 シェヘラはぽかんとした様子で化物を仰ぎ見る。化物の一つの腕が長く伸び、鎌の形状をとったことにも気づかない。異形の鎌は、シェヘラの元へまっすぐ横薙ぎにされ、

「勇者、危ない!」

 鎌はシェヘラよりも前に出たマーヤの首を捉えた。頭部と首が切断され、血しぶきが飛び力なくしたマーヤの肉体はがくりと膝をつき、床に伏す。シェヘラの頬に、飛び散った血がわずかに付着した。

「〈語り部〉、」

 一歩、シェヘラは化者へ近づく。マーヤが死んだことにも気に留めず、ただ、化物を見ている。

 蜂蜜色の瞳もシェヘラを見ている。

 また、一歩。

 もう一歩踏み出そうとしたところで、後方にいたフレンハットが叫んだ。

「シェヘラ! 下がれ!」

「ここは……僕が引き留める」

「おまえ、何を言ってるんだ!?」

 フレンハットが喚くも、シェヘラはただ化物を見つめていた。足元にはマーヤの死体。やや遠くに頭部がごろりと転がっている。フレンハットはそれらを一瞥して噛みしめた。

「馬鹿なことを言うな、シェヘラ! お前がいなければ、誰が魔王を倒すんだ!」

 ぬらり、化物が変形する。ぼたぼたとどす黒いなにかを零しながら、鎌を何本も作成する。

「俺たちは、貴方を信じていた。いや、今でも信じていたいのです。勇者様、どうか――」

「早く行けと、言っているのがわからないのか!」

 シェヘラの怒号に、フレンハットの言葉が止まった。権力を振り回さず皆と平等に接し、強く心優しく美しい良き王子が、フレンハットの目の前にいるはずだった。

「この国の王の息子が、勇者たる剣を持つものが、いけと命じているのだぞ! 早くしないか!」

 振り向いたシェヘラの形相は鬼のようで、投げつけた言葉はあまりにもひどいものだった。

 身をすくませ、半歩下がったフレンハットが、ありえないものを見る目で引き下がっていった。他の通路や部屋を見に行ったのだろう。魔王を探すために。

 それでいい。もはやシェヘラにとって、魔王などどうでもいいものだった。

 この場に残るは、勇者一人と、影よりも黒い醜き化物一体。

 息を吸い、〈語り部〉に向かって〈奇跡の剣〉をかまえる。豪奢な作りの美しい細剣が、美しい青年シェヘラにはよく似合っていた。

 化物の蜂蜜色の目玉がぎょろりと不愉快そうに動き、生やした鎌をすべて振り下ろす。〈奇跡の剣〉が自在な動きで舞いそれらを打消し、戦いは始まった。


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