一章
いよいよ、シェヘラ一行が〈魔の森〉へ突入する時が来た。
魔王が鎮座するとされている〈魔の森〉。魔物が普段より数多く集まり、危険であろう場所。〈奇跡の剣〉がなければ、魔王の発する瘴気により侵入することすらままならない。そして勇者の剣の加護は、勇者本人を除いて二人までしか与えることができないとされている。魔王討伐の人数が三人と少ないのは、この為だ。
「ついに、です、ね…」
少女が顔をこわばらせて呟く。シェヘラと同行してきた二人の人間の内の一人であり、国内きっての魔法使いである少女――マーヤ。宝石を埋め込まれた大きな杖を両腕で守るように抱えもち、祈るように前を見つめていた。
「先代も先々代も無事帰ってこれた。俺たちだって大丈夫さ」
同じく、シェヘラの同行者である背の高い男―――フレンハットが軽く言って笑う。盾と剣を装備した筋肉隆々のこの男は、雰囲気を和らげるためにあえて前向きな発言をしたのだ。調子がいい男のように振る舞うのも、気配りのためだとシェヘラは分かっている。
マーヤが、フレンハットの心配りを察して肩の力を抜いた。彼女だって、選ばれたことに足して責任感を持っている。ただ怖気付いて縮こまるような臆病者ではない。
シェヘラは微笑み、仲間であり幼なじみである二人に対して語る。
「そうだ。ここからが本番、といってもいいだろう。僕は、二人のおかげでここまで来られた。これからも、共に戦っていきたい」
マーヤがこくりと頷く。フレンハットは笑って答えた。
そのときだった。風が一際強くなる。ざわざわ、と森そのものが魔物のように揺れ動き、不吉な気配が突如出現した。
三人の反応は早く、瞬時に警戒態勢に移る。
「誰だ」
ここは魔の森、意思をもつ高度な魔物が潜んでいてもおかしくはない。とはいえ問いに返しがあることは期待していなかった。わざわざ勇者のところへ会話をしに来たとは思えなかったからだ。
しかし、予想外に声が響いた。
「こんにちは、勇者様方」
目の前の木々の影から、人間の女が現われた。いや、それは人間ではなかった。
「今日は挨拶に来たのですよ。そんなに身構えなくてもいいでしょうに」
女は、ころころと笑う。
放置された森林を連想させる深緑色の髪の毛は、足元まで長い。右目はぽっかりと空洞で、左目は蜂蜜色。左目の眼孔より、右目の空洞の方が大きい。豪奢な黒を基調としたドレスを着ている。足元、手首、首全て服に覆われていて、肌が見えるのは、顔だけだ。そこから見える灰色の肌は、人間ではない者の証拠だった。古びたぼろぼろの革張りの本を抱えていた。持ち物はそれだけだ。
そして女の雰囲気をどこか甘くさせるような蜂蜜色の瞳が、シェヘラたちを見ている。
一言で表現するなら、美しい女だった。
清楚さや快活さからはかけ離れた、相手を見下す笑み。女は上品に、服の裾をつまんで礼をした。
「はじめまして、シェヘラ。それとお付きのお二人。わたくしは〈語り部〉と呼ばれている者ですわ」
「〈語り部〉、か。聞いたことはある」
人間の住む村でも目撃証言がある。その村では統制された魔物に襲撃され、不敵に笑う少女の姿があったという。
目の前の女は、噂で聞いていた〈語り部〉の姿にそっくりだった。
「あら、存じていらっしゃるの? 嬉しいことですわ。かの有名な王子様に名を覚えて頂いているなんて」
「何の用でここに現れた?」
与太話をするために来たわけではないのだろう。気配は突然現れた。〈語り部〉の特徴に、神出鬼没というものがある。どうやって移動しているのか、シェヘラには想像がつかない。
マーヤとフレンハットは、〈語り部〉が姿を見せたあたりから一言もしゃべらない。誰かと対する時はシェヘラが対話の役目を担い、代わりに二人には周囲を伺う役目を任せる、そういう決まりにしていた。
「だから、挨拶に来たと言っているでしょうに」
〈語り部〉の持つ本が、ぱらぱらと開かれた。すると、そこから影がぬるりと這い出す。
「!」
構えていた剣で迎え撃つ前に、そいつは土に潜り込み、シェヘラの影の中に飛び込んだ。瞬き一つもかからなかった。
「何をした」
注意深く体を、影を確かめる。変化は確認できない。
「挨拶ですよ。無粋な方」
とぷんと、〈語り部〉が己の影の中にまるで底なし沼のように沈み始めた。表情や声、蜂蜜色の瞳を愉快に歪ませ、身体の全てを使ってこちらをあざ笑う仕草をしてみせる。
「さようなら。次に会うときは、挨拶ではすまないでしょうけれど」
「待て!」
追いすがろうとするも、すでに〈語り部〉の姿は影の中に消えていた。
『百年に一度、四人の勇者が選ばれ、彼らは魔の王を封印するだろう』
伝承ではそうなっている。伝承では。
現実では、よくわからない。
メリーが思うに、四人なんて現われなかった年の方が多いじゃないのだろうか。そもそも一人で別にいいじゃないか。先々代は二人の勇者が協力して魔王を封印したという。先代はたった一人だけで立ち向かった。そのほかの代は信憑性が微妙でよくわからない。
などと共に旅をするテトラザに言っても、「だからこそ物語なんです」とかよくわからない返しをされてしまった。
「そう言えば、聞いた? いよいよ例の国の王子が出発したんだってさ」
「もちろん何日も前に聞きましたよ」
後を歩くテトラザが答える。まあ、こういった話に敏感だから、そうだろうと思っていた。
テトラザは、二十代後半の男だ。身長は高くもなく低くもなく。肩までかかる銀髪。茶色の瞳。常に困り眉で、弱弱しい印象を受ける。誰に対しても腰が低いせいで、女であり小柄であるメリーよりもよく舐められる。旅人であり、冒険者であり、本人いわく物語を伝える仕事をしている。困っている人を見たら放っておけないお人よし。ただし、自分の夢をいちばんに尊重する、結構自己中な奴でもある。
メリーとテトラザの二人は、〈迷宮〉帰りの冒険者だ。次の〈迷宮〉に足を運ぶために、街道なんてとっくの昔に逸れている。
「しかし美形で賢くて強くて優しい王子って、なにそれ。現実にそんな奴がいるとはねえ」
道中に立ち寄った辺鄙な村でもシェヘラ王子の話をよく聞くぐらい、今回の勇者なんやらかんやらは一大事だ。元々噂の絶えない王子であった。しかもどの噂も、王子を褒め称えるものばかり。よっぽど人間のできた王子らしい。
「勇者、という肩書がこれほど似合う人物もいませんね。皆が魔王討伐に期待を寄せています」
人間たちは、魔物が潜んでいるテリトリーはなんとなく把握している。〈迷宮〉なんて、魔物が必ず潜む場所だ。初めから魔物の存在がわかっているので、あそこに近づいてはならない、などと口酸っぱく言われている。それでも他の輝きに目がくらんで突っ込む奴、いわゆる冒険者はいるのだが。メリーもテトラザもその仲間だ。
魔物は統制のとれる個体が少なく、街中には滅多に現われない。街道や、村のはずれなどに出没する場合はある。村や街を出ると魔物に遭遇する確率はぐんとあがってしまうため、旅人達はしっかり準備しておかなければならない。
また、魔王討伐時期になると魔物は出現数が増え、普段見かけないようなとこでも出没する場合がある。
この時期に不用意に村や街を出る奴は、腕が立つかあるいは身の程知らずで世間知らずのバカ野郎だ。メリーは前者で、テトラザは後者である。
「そういやどうなったんだろうね、ほら嘘ついてた人」
「偽勇者騒ぎですか」テトラザは苦笑した。
先ほどの村での出来事だ。俺は勇者だ、選ばれたんだと喚いていたが、ひょんなことで剣が折れてしまい、すぐバレてしまった笑い話のタネにもならない奴がいた。大層な嘘をつくのならせばめてもうちょっと丈夫な剣を持って来てほしい。
「どうでしょうね、あまりにわかりやすい嘘でしたから、呆れる程度が関の山かもしれません」
「毎回出てくるのかなー。ああいう馬鹿」
「憧れるのも無理はありませんから」
「テトラザも、勇者になりたい?」
「私では力不足、役違いですよ。そもそも、私は物語の役目をもらいたいのではありません。ただ、語り継いでいきたいだけです」
「そういうと思ったよ」
〈奇跡の剣〉には、四つの種類がある、とされている。それぞれ装飾や大きさ、色が異なる。
四人選ばれるとされているが、たいてい一人二人しか判明しない。誰にも知られないまま魔王に挑んで死んでいるのかもしれないし、剣を授かるも魔王討伐へは向かわなかったのかもしれない。そもそも、四人も見つからなかったのかもしれない。意外といい加減なシステムなのか。
〈奇跡の剣〉は、魔物に対して絶大な致命傷を与える。また、強力な魔力により人間が近づくこともできない魔王に、所持者は近づくことが可能である。所持者に許された人間二人も、同等の守護をもらうことができる。これは今までの勇者の記録により証明されていること……らしい。
この辺の話は、全てテトラザの受け売りだ。耳がタコになるくらい聞いたせいで、すっかり覚えてしまった。控え目で物腰の弱い同行者は、伝承の話になると途端に止められなくなるのだ。
「〈奇跡の剣〉を手にした選ばれし者は、他の人間から見て勇者だとすぐわかるそうです。今回、シェヘラ王子が剣を手にした瞬間を見た者達も、彼こそ勇者だと誰もが思ったようで」
「へえ」
テトラザが語りだした。こうなると長い。適当に相槌を打っておこう。
「剣は資格ある勇者の目の前に現れるらしいんです。先代の〈奇跡の剣〉を保管しておけば、該当する人物がいればいずれ剣を手にすることになるだろうと言われています。勇者によって剣の姿を変えることだってあるんです。剣から足が生える姿を見たことがある者はいませんが、とある勇者の前にあたかも瞬間移動したかのように剣が出現した話もあります」
「でもさ、全部伝承でしょ? 本当かどうかわかんないじゃん」
「伝承が残っているのですよ。根拠がまったくない、というわけではないでしょう。夢がある方が良いではないですか」
わかりやすい揚げ足取りは、容易くかわされた。
「ああ、今代の勇者が活躍する時代に生まれたことを幸運に思います! 永久に語る側でいたいものです。度重なる苦難の果てには、どのような結末が待ち受けているのでしょうか。シェヘラ王子と、フレンハットさんとマーヤさんに幸あれ! 全ての人間の為に魔王に立ち向かう……必ずや素敵な物語になるでしょう!」
もはや手におえないところまでエキサイトしてしまった。こっそりため息をついておく。こいつと旅をするにあたって適当な相槌の仕方は絶対上手くなっている。
勇者が魔王に勝つことを、誰もが確定して考えていた。無理もないだろう。今まで、帰ってこられなかった勇者など存在しない。魔王には〈奇跡の剣〉がなければ近づくことすらできない。だが〈奇跡の剣〉さえあれば、そして選ばれる勇者自身の資質があるなら、勝つことは可能である…と皆思っている。先代なんて、上位の魔物の方がまだ強かったと語ったらしい。魔王は、魔物を束ねる唯一無二の存在である。だからといって格段に強いというわけではないようだ。まあ、帰ってこない確率が高ければ一国の王子を旅立たせたりしないか。
その話を聞いたときはなんとなくがっかりしたのだが、それでも勇者という存在は特別なのだ。〈奇跡の剣〉に選ばれしもの、魔物の増加の原因を断つことができる、そして魔王に対することを許された存在。子供がときめくのも無理はない。目の前の浮き足立っている人間は子供ではないのだが。
テトラザにとっては勇者も魔王も夢物語の配役だ。つまり、他人事である。それについてはメリーも同感だ。あまり興味がわく話ではない。
などと考えていると、ふいに、視界に違和感が生じた。
「うん?」
「どうしました?」
「ん、いやなんか……」
気のせいだろうか。それでも注意深く見回る。ちょっとしたことから周りを警戒して状況を把握するのは、レンジャーたるメリーの仕事だ。
違和感の正体は遠くに生えている大木だった。正確には大木に隠れているなにか、だ。他の人間からしてみれば見過ごしてもいいレベルの誤差だろう。しかしこういうときのメリーの勘は正しい。この勘で今まで生き残ってきたのだ。
テトラザはこういうときには邪魔にしかならない。その場で待機するように指示しておいた。短剣を手にしてゆっくりと大木に近づく。近距離では矢は不適当だ。
浅い不規則な呼吸が聞こえてきた。意図的に姿を隠しているわけではない。
そっと大木の後ろを覗き込む。
小さな十にも満たない少年が、大木にもたれかかり息をしていた。
「……うえ?」
「どうされました?」
奇妙な声を上げたメリーに、テトラザが反応する。
「いや、子供が…」
子供の扱いには慣れていない。さてどうしたものか。
少年は体調が良くないらしかった。褐色の肌には汗が浮かんでいる。ぼろぼろの服はぶかぶかで簡素なもので、こんなところを歩くには向かないだろう。短く刈り上げられた白髪の下に、小さく鈍色の何かが見える。
「なにこれ?」
おそるおそる触れてみた。肌とは全く違う硬さだ。例えるなら、そう、角みたいな。――角?
「メリー!」
勝手に近くまで来ていたテトラザが小声で呼びかけ、服の裾を引っ張る。
「なにさ、もう」
「あ、あの、その子の手の中…」
テトラザは一点に集中してとある地点を見つめている。つられてメリーも視線を少年の顔より下、手のあたりに向けた。
少年の掌には、短剣が握られていた。
簡素な装飾で、錆色をしている。なにかを刺せるとはとても思えない、古びた短剣だった。
どこかで見たことあるような気がした。いや、こんな安っぽい短剣、見たことぐらいあるだろう。けれど、何故かこれは特別なものだと決定づけてしまいたい気分になる。この気持ちは、なんだ?
「奇跡の、剣」
テトラザが呆然として呟いた。ああそれだ。すとんと納得がいった。
〈語り部〉は一人きりで満足げに微笑んだ。ここは〈魔の森〉の中心部、王が鎮座する城の、ある一部屋。一息が付けるくらいには、順調に事が進んでいた。
勇者として、シェヘラは大きな素質を秘めている。しかし、魔王への感情が絶対的に足りない。一人二人あいつの付き添いの人間でも殺しておこうか。そうすれば、もっと馴染むようになるだろう。
二人目の勇者、ウグアガル。こちらはシェヘラよりも前から目を付けていた。本人は周りに己が勇者であることを誇示するつもりはないらしい。人間たちの噂には少しも登場しなかった。その方が良い。〈語り部〉が接触しやすくなる。彼女は良い具合に育ってくれた。母親を殺したかいがあったものだ。いまのところ、最もふさわしい「候補」である。
四人目は〈語り部〉ですら把握していない。当たりのつけていた人間からは現れなかった。〈語り部〉とて、〈奇跡の剣〉のシステムを隅々まで把握しているわけではない。あくまで、数多の情報から推測したまでのこと。シェヘラとウグアガルが優秀なのだから、こちらへの期待は切ってもいいだろう。
三人目は知っている、というより〈語り部〉が保管している。〈王の息子〉――魔の王の肉と先代の勇者四人の内の一人の肉を混ぜて作り上げた存在。〈語り部〉が独断で作成した、今回のためだけの特注品だ。他の魔物や魔の王にすら秘密にしてある。
本来、魔物は剣に直接触れることすらできない。その剣で斬られれば、深い致命傷を負う。〈語り部〉とて、従える低級魔物を何千匹も犠牲にしてようやくここまで運んでこれたのだ。
しかし〈奇跡の剣〉は、人間であれば選ばれた勇者でなくとも触れることはできる。長い間触れさておけば、〈奇跡の剣〉の効果を少しでも使えるようになるかもしれない。なんとも楽観的な考え方だが、可能な限りあらゆる方向へ手は打っておきたかった。先代の勇者の一人を襲撃して奪った〈奇跡の剣〉を、常にあれの近くに置いていた。危険は承知だった。可能性が少しでも芽生えるのならば。
目論見通り、人間の肉体をもち、見た目もそう人間とは変わらない〈王の息子〉は、剣を持つことができた。試みは予想していたより上手くいった。あろうことか、〈王の息子〉が〈奇跡の剣〉に選ばれ、勇者になったのである。
ところが、〈王の息子〉は魔物としても力強さを感じない矮小な子供に育ってしまった。あれではただの脆弱な人間の幼子ではないか。外見も、魔物らしさは頭に二本小さな角が生えているだけで、王の肉体から生まれたにしてはあまりにも人間に似すぎていた。それは〈語り部〉にとって羨ましいことであったが、切り札としては使えない。そして何よりも重要なことに、何に対しても無反応で、感情を何も表現しないただの木偶の坊となってしまったのである。あれでは魔の王どころか人ひとり、いや虫一人殺すことすらできない。
あれは、役に立たない。頃合いが来たら、いっそのこと今すぐにでも、殺して処分すべきだ。魔の王に見つかる前に、始めからいなかったことにしてしまおう。おそらく最も素質は高かっただろうに、残念だ。
候補なら、シェヘラとウグアガルがいる。彼らは、信念から、憎悪から、正しく魔の王へと向かってくれるはずだ。そうすれば、あとは長年準備してきたあの魔法がきらめくだけ。シェヘラには先ほど出会ったときに、ウグアガルにはずっとずっと前に、とある魔法をかけておいた。もう、奴らは逃げられやしない。しっかり機能してもらおう。
などと考え事をしながら目的の場所へ〈語り部〉は歩いていく。ぱらぱら、と古びた本が開き低級魔物が顔を出した。本の中身はどのページも空白だ。中には低級魔物たちが数多く潜んでいる。〈語り部〉は彼らを操ることで敵を攻撃し、彼らを消費することで魔力を得ることができる。本来、固定できる形もなく言葉も理解できない低級魔物たちは、上手く統制できない。それが、〈語り部〉にはできる。それこそ〈語り部〉の最大の強みであり、唯一の武器であった。
低級魔物の一塊が、己の番を今か今かと待っている。諭すようにひと撫でし、ある一室へのドアまでたどり着いた。この辺りは魔の王に信頼されている〈語り部〉だからこそ行き来できる場所である。他の魔物たちはわざわざこんなところまでこない。城は常にがらんとしており、埃っぽい。魔の王に従順に付き添う魔物といえば、もはや〈語り部〉くらいで、城にまでわざわざ入ってこないからだ。
このドアの向こうに、〈王の息子〉が今日も今日とてぼうとして座り込んでいるはずだ。哀れな奴。まあ仕方がない。何の役にも立てなかったのだから。
鍵を開け、ノックもせずにがちゃりとドアを開ける。基本的に何もない部屋を一瞥し、
誰もいなかった。
〈語り部〉は慌てて部屋を見渡す。隅や家具の後ろまで目を向ける。いない。どこにも〈王の息子〉はいなかった。部屋はいつも通りと言ってしまえばいつも通りの静けさのままで、だが窓が大きく割られていた。他に暴れた形跡は見当たらない。跡を残さず、退路を得るという確固たる目的で窓が粉々になっていた。
あの無気力がどうやって。
油断していたのだろうか。見過ごしてしまっただけで、前兆はあったのだろうか。いや、そんなことを考えている場合ではない。一刻も早く見つけて殺して消しておかなければ、王に見つかってしまったらどう説明すればいいのか。
慌てて部屋から出ていく際、さらに嫌な予感がして振り返った。
〈奇跡の剣〉も、〈王の息子〉と共に存在を消していた。
「結局さあ」
メリーは携帯食料を頬張りながら呟く。話し相手は、例の少年だ。
「きみって、何者?」
「さあ?」
少年は首を傾げて、「なにものなの?」とこちらに聞いてきた。その問いの答えはメリーが知りたい。
大木にもたれ掛かっていた奇妙な子供を拾ってから一日。少年はメリーとテトラザか介抱し始めてすぐに目が覚めた。身体の打撲跡が酷く、外見からはまともな状態とは思えなかったのだが、少年はメリーが予想していたより元気そうだった。
「……じゃあさ、その、角? みたいなのはなに?」
「なに?」
これではきりがない。
「まあまあ、そう急かさなくてもいいじゃないですか。まだ落ち着いたばかりなのでしょう、きっと」
テトラザが二人の間に割って入る。彼は、この謎の少年にとことん甘い。子供だから、というだけではない。きっと例の短剣を見たせいだ。
「少しずつ思い出していきましょう、ユウ。心配しなくても大丈夫ですよ」
ユウ、と呼ばれた謎の少年は、無表情で頷いた。その名前は本当の名前ではなく、名前すら思い出せなかった少年にテトラザが与えた仮の名だ。なんでも、記録されているうちで最も古い勇者の名前らしい。と、嬉しそうにテトラザが語っていた。
ユウは目覚めたとき、メリーたちについて何者だと問いただしてきた。冒険者である、とテトラザはやけに素直に答えた。その単語も知らなかったらしく、さらに身を乗り出して冒険者とはなにかと尋ねてきた。テトラザは、この質問にも素直に丁寧に答えた。
〈迷宮〉と呼ばれる古代からの遺跡には、宝物がねむっていると噂され、魔法により不可思議な地形となっている。しかしそこには、主のいない魔物が数多く眠っている。そんな危険な〈迷宮〉に赴き、自らの欲求を満たすために活動する、それが冒険者だ。テトラザは伝承を見聞きするために〈迷宮〉に潜り込む冒険者だが、他にも金や名誉目当てだったり、目的は様々だ。なお、メリーはただの小銭稼ぎに新米冒険者を導いているだけである。
ふと、ユウは座り込んでいた草原に手を置き、ぐいと雑草を引っ張った。ぶちぶち、と軽快な音がして、植物の根がちぎれる。
「これはしょくぶつ。おぼえた」
「そう、そうです! 賢いですね、ユウ」
「ん」
テトラザはにこにことユウの頭を撫でる。猫かわいがりである。ユウは表情こそあまり変わらないが、なぜだろう、少し嬉しそうに感じた。
と、ユウが突然植物を放り投げた。ちょっとだけ目を見張る。
「いま、ちいさいのが」
「小さいの? どれ……。ああ、アリですね」
「あり?」
「ええ、虫の一種ですよ。そんなに小さなものにまで目が向くようになったのですか。すごいです、ユウ。虫というものはですね――」
ユウは、驚くほど何も知らなかった。目に入るもの一つ一つを、テトラザかメリーに問うてきた。ユウは自身のことすら知らなかった。
この子が何処から来たのか。メリーはまだわからない。一番少年に接するテトラザも、詳しくは詮索しない。ユウは本当はどこまでわかっているのだろう。
テトラザは、何も知らないユウに色々な常識を教えた。ユウは無表情ながら、真剣に話を聞いていた。
また、テトラザはよく語った。それは冒険者として経験した実体験であったり、勇者と魔王にまつわる伝承であったりした。メリーにとっては経験したはずのものであったり、あるいは聞き飽きた話であったので大して興味を抱かなかった。しかしというかやはりというか、ユウは真面目に聞き入っていた。テトラザの口から語られると、退屈なはずの冒険者談もそれなりに心躍るものに聞こえてくるから不思議だ。
ユウは一人の教師と一人の生徒の授業もどきを聞き流しながら、ぼんやりと思う。
あの、ユウが所持していた短剣は、なんだったのだろう。
目撃した時、あれが唯一のものに感じた。〈奇跡の剣〉だと、思った。今はどうだろう? ただの少し錆びた短剣だ。物珍しいところはみつからない。
大体、こんな子供が勇者に選ばれる道理があるか? まだ十にも満たない、もの知らずで、――角が、生えている子供なんて。
もっとも、テトラザはあれが〈奇跡の剣〉であると、勇者であると確信しているようだった。少しずつ思い出そう、なんて言っているが、実際は早く思い出してほしいという想いが本音らしい。というか、勝手に「本当にものを何も知らない」のではなく「重大なことまで忘れているだけ」と決めつけているあたり彼らしい自己中心っぷりである。少年の身元を探そうとすらしないあたりも、なんとも露骨だ。
最終的には勇者として彼を送り出すつもりだ。それこそが、テトラザの目的なのだろう。こんな幼い子供を、容易く魔王の元へ送り込もうとしている。勇者の懸命なる姿を見たいから。テトラザはそういう人間だ。
メリーはわかっていてついてきているのだから、その方針については何も言わない。好きにすればいい。重荷を背負わされた未知なる少年は哀れだが。
「――そして白の勇者は、愛を与えることを胸に秘め戦い続けたのです。僧侶である彼女の清き祈りは魔王にさえ届いたといいます。なぜならその代の魔王は人の姿をもっていましたが――」
ユウと遭遇してから、〈迷宮〉への旅路は停滞している。ユウの世話につきっきりなせいだ。この寄り道はいつまでかかるのだろう。メリー本人はテトラザと同行すること自体が目的なので、まあ今のままでも構わない。予定が大幅に狂うのは、少し苦手だというだけだ。
シェヘラにより横薙ぎに振るわれた〈奇跡の剣〉が、的確に魔物の喉を切り裂いた。強烈な雄叫びをあげてさらに突っ込んでくる別の獣型の魔物を、返す形で向かい討った。どさり、と魔物が地に伏す。シェヘラは剣を鞘に戻した。今のが最後の一匹だった。
「無事だったか?」
フレンハットとマーヤに声を掛ける。本気で安否を心配しているわけではなかった。
「おい、このくらいでくたばるわけがないだろ。舐めんなよ」
「だ、大丈夫です! お、お気遣いなく」
フレンハットは笑って腕を回し、マーヤはぺこぺこと頭を下げる。シェヘラは想像通りの返答に笑った。
〈魔の森〉に侵入して数刻。やはり、魔物の数は森の外に比べれば激的に多い。ただ、対処できぬ強さではなかった。三人ばらばらで戦って支障がでないレベルだ。
だが、入り口付近で戦った魔物より、今屠った魔物の方が手ごたえはあった。魔王の城がある中心部に近づくほど敵が強くなるらしい。先代の勇者から伝わっていた話は事実だった。気をゆるめてはなるまい。
「これからますます敵が増えるのだろうな」
「勇者サマ、弱気な発言なんてらしくねえな。マーヤじゃあるまいし」
「そ、そん、な! ひどい、ですっ」
マーヤがフレンハットに猛抗議を始めて、フレンハットは素知らぬ顔で受け流す。二人とも、気を抜いているわけではない。周囲に気を配ったまま、ささいなやり取りで場を和ませようとしていた。
シェヘラと二人は、幼なじみである。シェヘラは王族で、二人は拾われ子という建前上の位の違いはあるけれど、昔からつるむ大の仲良しだ。その背景には、勇者に信用される実力ある者を作りだすという目的があったものの、そんなことも知らない三人は時に遊び、時に喧嘩をし、これまで共に過ごしてきた。どうして彼らが王族に拾われたのか、それはシェヘラのそばにいて仲間となれる一から育てられる子供がほしかったからだ。今は悟っている。だからどうした、と言いたい。政治上に利用されたのかもしれないが、そうしなければ二人には出会うことはできなかったし、友になることはできなかったのだ。
「進もう。奥へ」
生涯の友人たちに短い言葉を掛ける。それだけで思いは通じる。
「おう」「は、はい!」
そのとき、だった。
何かの叫びが聞こえてきた。それはあまりにもおぞましく、身の毛がよだつほどの恐ろしさを表現していた。
1瞬手放してしまった意識を取り戻し、声の方向を見やる。遠くだ。人か。魔物か。わからない。あんな叫びは聞いたことない。
「行ってみよう。誰かいるのかもしれない」
フレンハットとマーヤが頷く。三人は駆け出した。
また音が聞こえてきた。さらにもう一つ。三つ目で、それがようやく魔物の悲鳴だとわかった。どうして、今までわからなかったのか。こんな声を聞いたことがないからだ。全ての苦しみに串刺しにされたような、こんな叫びは。
シェヘラたちは少し広い場所に出た。そこに、女がいた。
女は魔物と戦っていた。いや、嬲っていたという方が近いかもしれない。それだけ、戦力差は明らかだった。
女が持っている武器は大剣だ。彼女の身長に届きそうなほどの大きさの大剣。それを無造作に見える挙動で振り回すだけ。ぶつかった魔物はこの世の終わりのような叫びをあげて、不可視の炎にいたぶられるかのようにのた打ち回り、やがて力尽き倒れていった。その間も、女性は大剣を振り回し続ける。普通の剣ではない。あれは、〈奇跡の剣〉だ。
圧倒された。マーヤとフレンハットも、ぽかんとしていた。
全ての魔物が息絶えたとき、ようやく静寂が森を包んだ。大剣は女が背負っている鞘を横からすり抜けて、きちんと納まった。汗を手で拭い、ゆっくりとこちらを面倒くさそうに振り返る。
ざんばらの赤い髪と、ぎらぎらと輝く赤い瞳。男物の服を着ている。異質な雰囲気は戦闘後も変わることない。大剣は武骨な作りで、殴るためだけに特化しているデザインだ。大剣からは魔物の血がぽたぽたと落ちていた。
シェヘラはようやく我に返った。
「キミも、勇者か」
「なんだおまえ」
女がまるで無関心な瞳で、疑問を口に出す。
「失礼した。僕はシェヘラ。今代の勇者に選ばれた者の一人だ」
言いながらシェヘラは剣を鞘から少し出した。きらびやかな装飾を纏った美しい剣。〈奇跡の剣〉は、存在自体が不可思議で、見る者を勇者と直感させる。大抵は、この動作で伝わるはずだ。
予想通り、女性にも伝わったらしい。しかし、剣をちらりと見たと思ったら、興味なさげに視線を逸らした。
「キミも勇者に選ばれた者の一人か?」
「ああ、そうだよ」
ずいぶんと、あっさりとしていた。そこには何の感慨もなかった。
つまらないとでも思っているかのように。
「ならば共に戦わないか」
「断る」
返答ははっきりと拒絶の色を示していた。
「なぜ? 相手は魔の王だ。油断は少しもできない。我ら〈奇跡の剣〉に選ばれし勇者の数は、多ければ多いほど有利なはずだ」
「奴は、私が殺す。私一人が殺す」
シェヘラはまっすぐ相手を見つめ続ける。しかし、女の濁った瞳からは、関わりを根絶しようとする意志があった。
唐突に先ほどの戦闘を思い出させた。衣服に付着し、〈奇跡の剣〉を流れるように滑り落ちていった、魔物の赤くどす黒い血。人と同じ『赤』であるのに、その禍々しい色は人と違うことが明らかだった。
彼女の髪と瞳の色は、そんな魔物の血に似ていた。
「だから、お前が手を引け。城に戻って安穏と過ごしていろ」
彼女がだらりと下げる〈奇跡の剣〉の先を、濁った血が滴となって落ちる。
おそらく、彼女と手を組むことは無理だろう。下手に出ても、背中から斬られかねない。しかし。
「……勇者として、選ばれたものとして、僕は引くわけにはいかない」
シェヘラには、何より皆の希望を肩に背負っているという責任がある。
「ずっとずっと前から、僕は魔王を殺すことを目指していた。幾度の訓練の延長線上に、魔王を仕留めることが目標であることを意識しつづけてきた。今何も手を打たずに家へ帰ることは、僕の誇りを自ら踏みにじることになる」
そして、周囲の期待を踏みにじることにもなる。
シェヘラは彼女に背を向けた。警戒は解かぬものの、こちら側に争う意志が無いことを表現する。
「立ち去れ。貴方は貴方で、魔王を仕留めようとすればいい。貴方がそれを成すことができるなら、僕とて満足だ。ただし僕がどう動こうが、むやみに妨害しないでくれ」
「アレを殺すのは私だよ」
彼女は歌うように告げた。重苦しい空気が馬鹿馬鹿しくなるくらい、気軽に物騒な言葉を口にする。
「お前はずっと、『魔王を殺すことを目指してきた』という。それでもやはり、アレを殺すのは私だ」
背中ごしに足音が遠ざかる。彼女が去っていく。
「なぜなら私は、ずっと魔王を殺すことしか考えていなかったのだから」
シェヘラは目を閉じて、濁った血の色を思い浮かべた。彼女の髪と瞳。湿った土に散る魔物の血。
彼女の心もきっと、そんな色をしているのだろう。