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アルカディア姫が部屋にいないことに最初に気づいたのは侍女のクレアだった。
姫の十一歳の誕生日を祝う式典に着るためのドレスが完成したので試着をしてほしい、と城抱えの仕立て職人からの連絡があったので、姫を迎えに来たのだ。
だが、部屋の外からどれだけ呼びかけても返事はない。
不審に思ったクレアが、いちおう断りを入れてから中をのぞいてみたところ、部屋の主の不在を発見したというわけだ。
それでも、城内のどこかにいるのかも、とクレアは彼女の仕える人物が行きそうな所をあちこち探しまわった。だが、中庭にも、書庫にも、鐘楼塔にも、城内神殿にも、厨房にも、どこにもいなかった。
さすがにこれはおかしい、とクレアはまず侍女頭のもとに報告に行き、侍女頭から大勢の同格の従者たちに話が飛び、いつしか城内の大勢が姫殿下探索の任に駆り出されることとなった。同時に城下街にも人が派遣され、王の耳にもこの話が届き、そして、これはおかしいと誰もが焦りを感じ始めた頃――
黄褐色の大きな猿が満身創痍の姫を抱えて部屋に入ってくるのが目撃された。
このとんでもない光景を目にしたのもまたクレアだった。
アルカディア姫が戻っていないかと、姫付きの侍女である彼女は何度も何度も部屋を見に戻っていたのだが、それがために、彼女は決定的瞬間の目撃者となることができたのだ。
いまにも部屋に入り込もうとしている大猿を見て、クレアは硬直した。自分の見ている光景の意味が理解できず、ただ口を開けてその様子を見ていることしかできなかった。
動かないクレアの様子には目もくれずに、大猿はアルカディア姫を抱えたままで部屋の中に侵入し、全身傷だらけの姫をそっと寝台に横たえた。それから、クレアのほうをちらりと見て、そのまま窓から出て行った。
――最後の一瞥は……まるでこちらに何か訴えかけていたみたい……。
と漠然とした印象が自分の頭に浮かぶのを現実感もなく眺め、だが、体を駆け上がるのは恐怖に似た悪寒。ガクガクと全身がふるえ、一瞬で、これが緊急の事態であるという実感がクレアの全身を支配した。
「―――――――――っ! っっ! だ、誰かっ! 誰かぁーーーーっ! 姫様が……姫様がーーーーっ!」
クレアは叫びながら寝台へと駆け寄る。そして、痛ましいという言葉では言いつくせないほどの、主の無残な姿を見て一瞬絶句する。
「どうして……こんな…………」
悲鳴は人を呼び集め、騒ぎはますます大きくなっていく。
大きくなる騒ぎの中、クレアははっと我に返り、「姫様! アルカディア姫様!」と必死の呼びかけを続ける。幾度呼びかけたか、ぴくり、と姫殿下のまぶたが動き、「う……」と苦しげな吐息が血に汚れた小さな唇からもれた。
「ひ、姫様っ! 気づかれましたかっ!」
「…………クレア? ここは…………?
しぼり出すような声は弱々しく、その痛々しさにクレアは目をそむけたくなる。
だが、いまここで姫様の言葉を聞き逃すわけにはいかない。
「ここは姫様のお部屋です。大きな猿が……姫様をっ…………」
猿への憎しみをこめてそう告げる。それを聞いたアルカディア姫の目に理解の光がともった。
「違うの……カーディアは――あのグァ猿は、私を運んで、くれただけ……」
そう大猿を弁護する姫の言葉にクレアは困惑するばかりだったが、
「クレア…………私の、天晶球を持ってきて…………」
「は、はい、姫様!」
クレアは大慌てで、書き物机の上に飾られていた球形の透明な鉱石を取りに走る。大きさはクレアの両手でお椀を作ればそこにすっぽり収まる程度。それでもこれ一つで、換金すればクレアの親族一同が一生暮らしていけるくらいの価値がある。慎重に大急ぎで寝台まで運ぶ。
体を横たえて、つらそうに眼を閉じたままのアルカディア姫に天晶球を手渡すと、うっすらと目を開けて、まるでささやきのような小さな声で、
「ありがとう、クレア……」と告げる。
「ひ、姫様……もうすぐ施療院のソリエード様もいらっしゃいます、どうかそれまでご安静にっ……」
だが、そんなクレアの懇願にも耳を貸さず、アルカディア姫はなにやら途切れ途切れにも呪文を唱え始めた。
天晶球は、神々によってこの世界が作られたときに地にこぼれ落ちた天の欠片、と言い伝えられている透明な鉱石を、球形に研磨形成したものだ。言い伝えの真偽はともかくとして、この天晶球には、魔法を一つ封じ込めて、必要に応じてその効果を発揮させることができる、という他に類を見ない性質があった。
クレアはてっきり、アルカディア姫が天晶球に封じられている回復魔法の類を使おうとしているのだとばかり思っていた。
けれど、呪文を唱え続ける姫殿下に回復の兆しはいつまでたっても現れない。もしかして、自分の治癒魔法では自分を癒すことはできないのだろうか、と疑念を抱き――ふと、かつてアルカディア姫が話してくれたことを思い出した。
あのときは確か、天晶球の使い方を聞いて、それでクレアが、
「それだったら、姫様の治癒魔法をこれに封じ込めれば、いちいち姫様が魔法を使わなくとも、天晶球で怪我や病気の人を癒せるのではないですか? しかもずっと」
と言ったら、姫は軽くくすっと笑って、
「それができればよいのだけれど……私の治癒魔法は、魔法というより、私の命を分け与えるような“術”だから、天晶球には入らないわ。ここに“命”を封じることはできないもの」
そんな風に答えてくれたはずだ。
ということは、いま天晶球に入っているのは治癒魔法ではない――ではいったい何が?
クレアがどうしていいかわからずにいる間に、部屋の外には騒ぎを聞きつけた人が集まり、地位の高い幾人かは部屋の中にも入って来ていた。
「クレア! 一体どういうことなの! 姫様に何が?! 説明なさい!」
「……侍女頭様。それが、私にも詳しいことは……」
現れた侍女長にクレアが事のあらましを語ってるうちに、さらにもう一人の人物が人をかき分けて入ってきた。
「ソリエード様! 姫様が……姫様が!」
施療院院長で皇室主治医も務めるソリエード伯が寝台の傍に寄り、寝台の高さに合わせるよう膝をついて、アルカディア姫の様子を見る。
「…………姫様、いったい……何が……いや、誰がこんなことを――」
「ソリエード伯…………」
姫は老いたる主治医の姿を見ると、どこかほっとした様子で、
「……け、怪我は大したことは、ないのです……それよりも、治癒魔法の使い過ぎで……ごめんなさい…………」
「いったい――いったいどこで使われたのですか?!」
だが、アルカディア姫はそれには答えず、手にしていた天晶球をゆっくりと持ち上げる。
「ソリエード伯……この天晶球を……」
「姫様? これは……?」
天晶球を持ち上げておくだけでも辛いのか、姫の表情に苦痛の色が見えてくる。それに気づいたソリエード伯は慌ててその透明な球体を受け止めた。
「猛威をふるっている流行り病について……調査を、してきました。あの病の元となる病魔は、人の目には見えぬほどの小さな、モノ……。それが、数え切れないほど人に取り付いて……体を、破壊していく……」
「まさか……街に……?」
「でも……正体がつかめれば……病魔を退ける方法も判ります……。目に見えない、小さな、病魔を……倒すための魔法を組み上げて、その……天晶球に……封じました。これを……使えば……流行り病に……侵された人々を……助ける、ことが…………」
しだいに、言葉と言葉の間隔が開き始めてきていた。呼吸も浅くなっていく。
ソリエード伯はもはや問答を交わすよりも治療が先と回復魔法を唱え始めた。彼の使う回復魔法は、神に祈り願い、その力を借りて対象者の傷をいやすものだ。姫の使うものと違い、使い手も大勢いる。
老施療医が呪文を唱えるにつれ、アルカディア姫の腫れた頬が元に戻り、体のあちこちにできた打撲や擦り傷が消えていく。だが、姫の容体は回復しない。むしろ、刻一刻と死に近づいているようにも見える。
「ソリ……エード伯…………もう、いいのです……。その、魔法では……命は…………補えない……」
だが彼は呪文をやめようとはしない。一心に回復魔法をかけ続ける。
そこに、部屋の外から新たにざわめきが聞こえてきた。
侍女長とともにその場に立ったまま治療の様子を見ていた侍女のクレアは、外の様子につられて入口を見る。そして、ぎくっ、と体をこわばらせた。
大股で中に入ってきたのは、紫の長衣に身を包んだネロ四世その人であった。
ネロ皇帝は寝台の傍に立つと、横たわる愛娘の姿を見下ろす。着ている服はところどころ破れ、胸元には血の跡がべっとりと付いている。ソリエード伯の回復魔法のおかけで、外見上の傷はほぼ消えていたが、それでも命をすり減らした消耗はそのやつれた様子にはっきり表れていた。
「ソリエード伯、アルカディアの容体はどうだ」
「は、はい陛下、先ほどから回復魔法をかけ続けておりますが……わたくしの魔法では……姫様のご尊命を、この世にお留めすることは…………」
老医は最後のところで言葉を濁した。自分では姫を救うことはできないと明言して、皇帝の勘気を買うことを恐れたのだ。
「お、お父……様……」
枕元で聞こえた父帝の声に、アルカディア姫は顔をそちらに向けようとする。だが、もはやそのような動作すらままならないのか、力なく瞳が父の姿を求めてさまようだけだった。
「――アルカディア」
その呼びかけを聞いたアルカディア姫は、少しだけ悲しげに眉を寄せたように見えた。
「お父様……ごめん……なさい。言いつけを……守らなかった、ばかりに…………こんなことに…………」
皇帝ネロは死に瀕した愛娘のことを黙ってじっと見下ろしているだけだった。だがアルカディア姫は急ぐように言葉をつなげていく。
「ですが……流行り病の治療法は……完成させる、ことができました……。これで、大勢の人の……命を…………救うことが…………」
部屋の中にすすり泣きの音が聞こえ始めた。侍女のクレアがこらえきれずに顔を手で覆って泣いていた。それを発端として鳴き声が部屋の外へと――中の様子を伝え聞いた人々の間に広がっていく。
それでも、皇帝は、無表情のままで一言たりとも口にしなかった。
そして――
「……お父……様…………どうか、どうか……悲しまないで……嘆かない、で…………。私は……お母様といっしょに…………………………」
その次の言葉が発せられることはなかった。
すぅ、と力を抜いて眠りに就くように、アルカディア姫の命の火は消えていた。
それは、姫の十一歳の誕生日を翌日に控えた日のことであった。
※次回アップ予定は8/4です。