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皇城の奥院のさらに奥まったところにアルカディアの自室はあった。
次期皇帝たる姫殿下の居室としてはやや手狭な印象を受ける。十歳の少女の足でも十五歩歩けば端から端まで届いてしまう。その程度の広さだ。
部屋に置かれているのは、まず、アルカディアが五人ほど一緒に寝られる大きさの天蓋付き寝台。
その反対側の壁に面して、自分の背丈に合わせて作ってもらった書き物机と椅子がしつらえられている。そこに座れば、この部屋に唯一開いた窓から外の風景が目に映る。日が暮れると木戸によってふさがれる窓も、いまは大きく開け放たれていて、城の背後を守るグァバル山を覆う翠緑の木々が遠くまで見渡せる。
書き物机の傍らには書棚がいくつか並び、そこには各地より蒐集した書物が詰まっている。地方の動植物を彩色付きで描いた博物誌などがアルカディアのお気に入りで、いつかどこかで、空を飛ぶ鳥の視線から“見た”ことのある動物の姿を本の中に眺めては、大陸の果てに思いを馳せたりしている。
衣装などは別室にまとめてあり、化粧棚などもそちらにあるため、この部屋に衣類装飾品はほとんどない。彼女自身、まだ身を飾ることをさほど気にしていないということもあるのだが。
いま、アルカディアは部屋の中央辺りに置かれた大きめの綿詰椅子に包まれるように身を沈め、瞳を閉じている。
その心は今ここにはない。
アルカディアの心はリト鳥に乗って皇城守護の聖山グァバルへ飛び、そこで心を“相棒”に乗り移らせる。
部屋の入口には二重に麻布の仕切りを垂らして外から中を覗けないようにしている。なので、アルカディアがしていること、これからすることを他の誰かに見られる心配はないはずだ。
綿詰椅子に身を沈めたまま、アルカディアはピクリとも動かない。しばらくそのままで時だけがいくばくか過ぎゆき――やがて、開いた窓から、一匹の動物が姿を現した。
それは、黄褐色の毛をもつ大柄な猿であった。
猿はためらいのない動きでアルカディアへと近づいていき、綿詰椅子にもたれたアルカディアの小さな体を抱き上げた。
そう、この猿がアルカディアの“相棒”であり、いま彼女が心を乗り移らせている対象であった。
グァバル山に生息するグァ猿は、おもに山奥のほうに生息域を定めていて、人前に姿を現すことはあまりない。だが、まれに皇城付近に姿を現すこともあり、光の加減によっては金色にも見えるその長い毛並みの美しさから、神聖な動物であるとも見なされていた。
アルカディアがまだ幼いころ、気まぐれにか皇城近くに現れたそのグァ猿に心を移して聖山の散策を楽しんで以来、“彼”――カーディアと名前を付けた――はアルカディアの相棒としてグァバル周辺や時には街中までも一緒に出かける仲になっていた。
もちろん、それらの外出は、心だけを“彼”に乗せた状態で行われる。だが、今回は違う。心だけの移動では足りない。アルカディア自身の目で、病の調査を行わなければ意味がないのだ。
だから、アルカディアは“彼”――カーディアに自分の体を運ばせるという手段に出た。
少女の体を軽々と抱え、カーディアは入ってきた窓から外に飛び出す。窓枠に開いている手をかけ、ぶぅん、と振り子のように体を振って飛び、前方、一階分下の窓枠を大きな手でがっちりとつかんでさらに前に出る。
瞬く間に、アルカディアを抱えたカーディアは皇城の裏地に着地し、そのまま、誰にも目撃されずにグァバル山麓の森の中に消えていった。
皇城を大きく迂回するように森の中を抜け、街に通じる小さな街道の一つを駆け、アルカディアとカーディアは帝都をぐるりと囲む城壁にたどり着いた。
特に人の目を気にするでもなく、正面から城門へと近づく。
城門付近で、アルカディアは、心を自分の体に戻した。
薄く眼をあけて、ぱちぱちと何度かまばたきをする。いままでカーディアの見る世界を見ていたのが、普段の自分の見ている世界に戻ってくる。
生き物から生き物へと心を移すたびに思う。それぞれの生き物が生きている世界は、それぞれ違った世界だと。あるいは、世界を全く違ったとらえ方をしているといってもいい。
自分たちの世界だと思っているこの場所は、決して人間だけのものではない。だからこうして、人を脅かす疫病なども流行ったりするのだろう。
きっとそこには、人の理屈とは全く違った何かがあるはずだ。
それを突き止めるために、アルカディアはここまで来た。
「ありがとうカーディア。しばらく目立たないところで隠れていて」
きぃ、と甲高い声で黄褐色の大猿は返事をして、さっと身をひるがえすと少し離れた木立の合間に姿を消した。
幾度も心を移しているうちに、アルカディアとカーディアの間には不思議な連帯が生まれていた。アルカディアの言葉――あるいは意図がある程度伝わるようになったのもその一つだ。 彼女が一声呼べば、またすぐに迎えに来てくれる。少なくともそう確信できるだけの信頼関係はあった。
「では、まいりましょう」
アルカディアは立ち上がって、スカートについた土を払うと、城門から街中へと入ってゆく。
普段であれば、そこには大勢の人の行き交いがあり、また門ごとに門番が出入りに厳しい視線を注いでいる。
だが、いま城門は無人だ。
帝都で蔓延する流行り病が人の行き来を奪ってしまった。帝都に近づこうとする人はいないし、帝都から脱出できる体力のあるものはすでに逃げ出してしまった。
アルカディアが人目を気にすることなく正面から城門に近づいたのも、リト鳥に乗って空から眺めた時にそのことを知ったからである。
だが、やはり空から眺めるのと、こうして同じ場所に立ってみるのとでは全く違うことに、アルカディアはすぐ気付かされた。
それは、においだ。
一歩街中に踏み込んだだけで、空気がひどく澱んでいるのがわかる。帝都の端であるこの場所まで、嫌悪感をもよおすようなにおいが漂ってきている。
そしてそのにおいは、城壁から中心部に向かって路地を進むにつれ、強く、耐えがたくなっていく。手拭い用の透かし織布で鼻と口を押さえてにおいを防ごうとするが、悪臭はきつくなるばかりでさほど効果がない。
悪臭ばかりではない。路地の端に、用水路に、露店のテントの下に、変わり果てた死体が転がっているのが嫌でも目に入ってくる。
鼻が腐り落ちた男性の死体から目をそむけると、腐敗が進んだ別の死体に白い蛆がうごめいているのが見え、思わず吐き気をこらえる。血の混じった吐瀉物にまみれて死んでいる少女の死体は、まだ死んでからそれほど時が経っていないのか、苦悶にゆがんだ表情まではっきり確認できた。
正視することができずアルカディアは足早に路地を進む。彼女には、せめて彼らの魂が死後安らかであることを祈ることしかできなかった。しかし、祈るといっても……いったい誰に祈ればいいのだろう。
広く天地を見るがゆえに、死にゆく人間たちのことなど気にもかけていないような神に祈るしかないのだろうか。
頭を振って周囲の観察を続ける。帝都の惨状にばかり目が奪われていたが、よく見てみると、固く扉や窓を閉ざし、息をひそめている民家や商店もいくらか見受けられる。
まだ生きている大勢の人々がいるはずだ。彼らを疫病の魔手から救うためにも、どうにかしてこの病の治療法を――神官の行う奇跡に頼らず、せめて一般の呪医にも可能な方法を見つけ出さなくては。
路地はやがて、帝都の中央を南北に貫く大通りにつながった。
やはり人の姿は見えない。だが、通りの南の方向に、煙が高く上っているのが見えた。
あれはおそらく、死体を集めて焼いているものだろう。とりあえずあの場所まで行ってみよう。
アルカディアはそう目印を定めて、がらんと広い大通りを進む。
去年、アルカディア十歳の誕生記念式典で帝都の竜神皇神殿を訪れた時は、この大通りの左右を見渡す限りの人の群れが埋めていたものだ。
それが、たった一年でこのありさまだ。大通りに人の姿は見えず、左右には打ち捨てられたように死体が転がっている。
ぎゅっ、と手に力を込めて握りしめ、煙を目指して歩く。
帝都の中央大通りといえば、端から端までゆっくり歩くだけで五レムル(約一時間)かかるといわれるほどの大路だ。煙のところまでまだかなり距離がある。カーディアをここにも連れてくるんだった、とアルカディアは少し後悔した。
汗をかきつつ、まるで荒野のような大通りを進んでいく。はじめのうちは、見通しが良いわりに、遠すぎて煙の下の様子もよくわからなかったのだが、近づいていくにつれ、人の姿が形を取り始めてきた。
同時に、またしても強烈なにおいが漂ってくる。肉の焼ける匂い。それが“何”を焼いているのか知っているアルカディアにとっては、近づくことすらためらわれるにおい。
けれど、そこに行かないわけにはいかない。おそらく、そこでなら、何らかの手がかりを得られるだろう。
やがて、炎と煙を高く噴き上げている大きな焚火がはっきりとその姿を現した。その側にいた人影も、近づいてくるアルカディアに気づいたようだ。のろのろと作業をしていた手を止めて、こちらをじっと注視しているらしき様子が見て取れる。
アルカディアも無言のまま接近していき――すでに声かければ届こうという距離まで来たところで足をとめた。
それは、アルカディアの歩いてきた方向からは炎の背後に隠れていた小山に気づいたから。
――積み上がった死体でできた小さな山に。
最初、目の前にある小山が何なのか理解できなくて、アルカディアはしばらくそれをぼんやり見つめていた。だが、自分の見ている二つの濁った黒点が人の目だと気付いた瞬間、地から模様が浮かび上がるように、彼女の目に、一つ一つの死体がくっきりと形を伴って立ち現われた。
思わず息をのみ、死者たちと向き合うのを恐れて目をそらす。
「――こんなところに何をしに来た」
ちょうどそこに、声をかけてくるものがいた。
作業をしていた男だ。
彼にその意図はなかったかもしれないが、アルカディアは、自分が積み上げられた死者から目をそらしたことをとがめられたような気がした。
「あ、あの……ごめんなさい。私は――」
「その身なり、どこぞの貴族の娘か? いまここがどういう状態なのか知らんわけじゃなかろうに……ガキはおとなしくお屋敷の中で震えてろ」
うんざりしたように言うその声には、隠しきれない疲労と倦怠がにじんでいた。おそらくは、ずっとここで死体を焼く作業を続けているのだろう。
男は、兵士であるらしかった。麻布の上下に、肩当て、胸当て、腰当てをつけてはいるが、そのいずれもが異臭を放つ汚れを帯びている。
防具に包まれたその体も、筋肉を削げ落とされたようになっており、頬はこけ、その目も力なく澱んでいる。この過酷な作業をどれほど続けてきたのか――あるいは、この兵士自身、すでに病に身を侵されているのかもしれない。
「私は……流行り病の研究を……」
答えかけたアルカディアの言葉をさえぎるように、兵士は手を大きく振った。
「クソガキが……お前もこいつらと一緒に火の中に放り込むぞ!」
「――――」
その剣幕に、アルカディアは反射的に口をつぐむ。
どうにか、病に罹っている患者か、病で亡くなった人の体を調べることはできないだろうか……。
思考のために動きを止めたアルカディアをよそに、兵士は死体の一つを引きずり出してきて、勢いよく燃える炎の中に放り込もうと――
ぴくり、とアルカディアのまぶたが反応した。
――何だろう、いま、見過ごしてはいけない何かを目にした気がする……。
じっと瞳を凝らす。
ぴくり、とまたまぶたが動く、アルカディアのまぶたと……兵士に引きずられている死体のまぶたが。
「――――――!」
死体だと思っていた男性のまぶたがぴくぴく痙攣している。その口元も息を吸いこもうとしてかすかに開く。
アルカディアの全身が総毛だった。
「――――っ! そ、その方はまだ生きていますっ!」
彼がそのことに気づいていないと思って、アルカディアは大声で注意を促した。
だが――
「……それがどうした?」
「え……?」
返ってきた答えに、彼女は耳を疑った。
「え……?」
返ってきた答えに、彼女は耳を疑った。
「どうしたって……生きているのですから、すぐに手当てを――」
「手当て? こいつはもう半分死んでいる。手当てなどするだけ無駄だ。だったら、ここで火葬にしてやったって何の問題もない。むしろ苦しみから逃れられるだけこいつのためだ」
「そんな――!」
アルカディアはあわてて兵士の引きずる男性へと駆け寄った。膝をついてその男性のことをつぶさに観察する。
遠目に、死んでいるのと見間違えたのも無理はない。男の体からはすでに生気というものが失せているように見えた。
病魔に体を喰らいつくされ、ガリガリにやせ細った体はいまにもぽきりと折れてしまいそうだ。土色の顔は頬がこけ、すでに肌が乾燥しきっている。かろうじて浅く呼吸している口と、ぴくぴく痙攣するまぶただけが、この男性の生きている証であった。
「おいガキ。下手に触るとお前も感染って(うつって)死ぬぞ」
「触って感染するのであれば、あなたはどうなのです?」
その問いに兵士は口をゆがめる。
「もちろん、とっくに感染ってるさ」
「ならばあなたも手当てを!」
「手当て? どこで受けろと? 施療院の薬師はもう皆死んだ。診てくれる者はこの街には一人もいない。だが、城や神殿の神官たちは、神への祈りは王や貴族たちのためだけにおこない、俺たちのためには一言の祈りすらこぼしはしないじゃないか!」
「それは…………」
アルカディアは言葉に詰まった。たしかにその通りなのだから。
「生き残るのはお前ら貴族ばかりで、俺たちには死ねという。どうせ皆死ぬのなら、死にかけの男一人火に放り込んだからといって咎められることもないはずだ」
「ですが! それでも命の灯が消えてない方を見捨てるなんて――見捨てるだけでなく、火あぶりにしようだなんて、それはやってはいけないことです!」
「は! 見捨ててはいけないだと? だったらお前はその男をどうするつもりだ。お前のような小娘がそいつを救えるのか? どうせ何もできまい」
アルカディアは迷った。
自分なら、この男性を死の淵からこの世に引き戻すことは可能であろう。
だが……それをしてしまっては、体が持たないかもしれない……。
アルカディアは、迷いながらも、男の手を取る。その骨ばった手はこちらの手を握り返してくることもなく――
「…………せ、聖霊、さま……」
「――え?」
男の目がわずかに開いている。その濁った瞳にアルカディアの姿はどう映っているのか、うわ言のように口から言葉がこぼれる。
「……どうか、神様のところへ……私をお導き……くだ、さい……」
かすれるような声は、かろうじてアルカディアの耳に届いた。
――駄目だ。
と、アルカディアは思った。目の前の助けを求める人を見捨ててはおけない。
アルカディアは聖霊ではないし、この男性を神の元へと連れて行くこともできない。
けれど、彼をこの世界に繋ぎ留めることならばできる。
その手を取ったまま、アルカディアは呪文をつぶやき始める。同時に、心を――魂すらつながるほど深くつなげる。
いまにも消え行きそうな魂を引き留め、彼の体に繋ぎ止め、アルカディアの魂の活力を分け与えていく。
生気を失い、半ば死者の国に足を踏み入れていた男の顔に少しずつ赤みが戻ってくる。呼吸が、心音が、徐々に力強くなっていく。
その一方で、アルカディア自身は体にのしかかる疲労感に襲われていた。文字通り命を削るような行為だ。どこまで治癒魔法をかけ続けるかの見極めを間違えれば、このままアルカディアが動けなくなりかねない。
「――――ぁ」
男が、小さく覚醒の声を上げたのをきっかけに、アルカディアは呪文を唱えるのを止めた。心臓が激しく鼓動を打ち、呼吸は荒く、顔からも血の気が引いて、寒気とめまいが彼女を襲う。
息をどうにか整えてから、男とつなげていた魂を分け、心を離す。しばらくは、アルカディアの中に残った男性の記憶や感情に引きずられて、自分を取り戻すまでに時間がかかってしまう。
握っていた男の手を離し、その様子を見る。
と、男はゆっくりと目を開き、その身を起こした。まるで、たったいま心地よい眠りから目を覚ました、とでもいわんばかりの様子で。
後ろで、兵士が驚愕のうめき声を上げるのが聞こえる。
「そんな……馬鹿な……本当に、死にかけの人間が生き返ったっていうのか!?」
その声に、当の生き返った男がびっくりした顔を向け、
「そういえば……体が……なんともない……?! あんなに苦しかったのに――!」
二人が同時に、まだ青い顔をしたままのアルカディアのほうを向いた。
「き、きみが……いや、あなたが僕を助けてくれたのですか?」
「――まだ、命の、ある人を……死なせるわけには、いきません、から」
いまだ立ち上がることすらできないアルカディアは、とぎれとぎれにそう答える。
と、後ろから髪の毛を、突然つかまれた。
「――あ?! 痛いっ!」
何が起こったのかわからないまま、ひきつるような痛みとともに頭を上げさせられる。
「おいガキ、俺も治せ」
髪をつかまれたまま、目の動きだけで横を確認する。声で予測できたことであるが、あの死体処理役の兵士がアルカディアの髪を根元近くでつかんで、血走った眼でこちらをにらみつけてきていた。
「俺も流行り病に侵されてるんだ。このままじゃ死んじまう……っ。だからっ、だから俺も治せ! できるんだろうが!」
「ま、待ってくださいっ!」
兵士の剣幕にかすかに怯えつつ、それでもアルカディアは気丈に声を返す。
「この流行り病の分析を終えたら、もっと手軽に使えるこの病専用の治癒魔法を組み上げます。それまで待ってください」
「ふざけるな! そんな言い逃れを信じるとでも思ったか! あいつを治せて俺のことを治せないことがあるか! いいか、いますぐ同じようにしろ」
「わ……わかりました。わかりましたから、髪を離してくださいっ!」
兵士はじろりとアルカディアの顔を見て、その言葉の真偽を慮っていたようだが、とりあえずアルカディアの髪をつかんでいた手を離した。
へたりこんで、荒くなる息と怯える心をどうにか押し殺しながら、アルカディアは乱れた髪を整える。
顔をあげると、決して逃がさぬと、兵士がこちらを睨むように監視している。
――もう一回くらいなら……どうにか。
アルカディアは意を決して、
「じゃあ、そこに横になってください」
「……おかしなことするんじゃねぇだろうな」
「信じられないのだったら、最初から『治せ』だなんて言わないで」
その一言で兵士は口をつぐみ、おとなしく道の上に横たわった。
アルカディアはその兵士の胸の上に両手を乗せ、先ほどと同じように呪文を唱えながらゆっくりと心をつなげていく。深くつながるにつれ、彼の病に対する不安と恐怖が膨れ上がっていき、こちらにもしみ込んでくる。
――そう……あなたも、怖かったんだ……。
そう思ったら、何やら向こうから反発の感情を感じたが、無視して治癒を進める。
幸い、この兵士はまだ病の進行半ばだったため、さほど時をかけずに病魔を退けることができた。
「これで……大丈夫…………」
やはり大きく息を乱しながら、アルカディアはそれだけ告げた。
さすがにキツい。これ以上の治癒魔法の行使は確実に体を壊してしまう。
けれど、二回の治療でこの流行り病については感触を得ることができた。あとはこれを基に、この病に対処できる治療用魔法を組み上げれば――
「あ、あのっ、ウチの妻のことも診てくれませんかっ!」
新たに降りかかってきた声に顔を上げると、最初に治癒魔法を使った男が、アルカディアの腕をつかんでくる。
振り払う力もなく、ただ為されるがままに体を引き上げられる。だが、すでに彼女には自らの足で立つことすらできなかった。
そんなアルカディアの様子に気づいていないのか――あるいは気づいていて、無視しているのか――男は彼女を自らの家へと引っ張っていこうとする。
半ば引きずられる形のアルカディア。だが、別の人間が引きずる男の行く手を阻んだ。
「待て! 俺のことを治すのが先だ!」
「あたいのが先だよ!」
「ズルいぞお前ら! ウチのはもう今にも死んじまいそうなんだぞ!」
これまでのいきさつをそれぞれの家の中からひっそりうかがっていたらしき、まだ生き残っている人々がわれ先にと群がり始めた。
「ま……待って……すぐに、治療法を解析するから……それまで――」
アルカディアのとぎれとぎれの懇願は、
「やかましい! こちとら明日にも死ぬかもしれないってのに、そんな悠長なこと言ってられるか!」
といった怒声にかき消された。
髪をつかまれ、殴られた。手足をそれぞれてんでに引っ張られ、たまらず悲鳴を上げる。
結局その場で一番甲高いキンキン声をあげていた婦人の治癒をさせられることになったが、その途中で「もういいだろう。次はこっちだ」と引っ張られ、別の男に治癒魔法をかけさせられる。
そこから幾度も幾度も治癒魔法を使い続けて、とっくに限界は過ぎていた。体はもう自分のものではないみたいだ。心も、幾度となく他者との融合と分離を繰り返し、自他の区別すらあいまいになりつつある。体が壊れるのが先か、心が融解してしまうのが先か――
ごぼっ、とアルカディアが大量の血を吐いた。腹中に何か燃えているような感覚、熱いのか痛いのかそれすらわからない。
だが、周囲の人間はそれでも彼女に群がり続ける。むしろ、この少女が壊れてしまう前に自分だけは助かろうと、一層圧力を強めてくる。何度も殴られ、脅され、だがアルカディアにはそんな声も意味を成さなくなりつつあった。
うかつだった。
もはや思考も失われつつ頭でアルカディアは思った。
少し待ってもらえれば治療法が完成する。そう訴えれば人々はキチンと納得して理性的に待っていてくれると、そう信じ込んでいた。
だが、流行り病と死に対する恐怖は、人々から理性を奪い取ってしまった。
自分は世界を知っているつもりだったが、まだ“人”というものをわかってなかったということなのだろう。
だけど――後悔するだけでは駄目だ、どうにかして流行り病の治療法を完成させないと……そのためにはここから脱出しないと――
そのための方策すらもはや浮かばないアルカディアの体を、制御を失った群衆の中からすくい上げる者がいた。
黄褐色の大柄な猿――グァ猿のカーディアだ。
いまは彼とは心をつなげている状態ではない。だが彼はいかに友人の危機を察したのか、人々の頭を文字通り踏み越えてアルカディアの元にやって来てくれた。
その敏捷な動きでアルカディアを抱えると、人々が何が起こったのか理解できずにいる間にさっと身をひるがえして、群衆を置き去りにして帝都のはずれへと飛ぶように駆けて行った。
あとには、希望を奪われた人々の怒声と悲鳴がとり残された。
※次回アップ予定は7/28です。




