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Crimson Tear  作者: シャルル=コクトー
11/12

 聖霊となって以来、人の作った暦に合わせて行動することなどほとんどなくなった。たまに人の祭祀によって、それを思い起こすこともあったが、アルカディアにとって、それは過去のものとなってしまっていた。

 ゆえに、その日も彼女にとっては何ら特別なものではなく、明日が彼女の人としての誕生日であることなど、すでに意識にも上らない。

 そんな日に起こった一つの戦闘も、やはりいつもと同じように、ありふれた聖霊と魔神の突発的な遭遇から始まったように思われた。

 戦いは周囲の聖霊と魔神を引き寄せて膨れ上がり、やがて聖霊アルカディアと聖霊ルフィーリアにも召集がかった。そして、二人が戦場に到着した頃には、あわせて百体を越える聖霊と魔神が相争う大規模な戦闘となっていたのだった。

 戦場に突入した二人の聖霊は、もっとも戦闘が集中している地点へためらわず突入した。

 二人に気づいて戦いを挑んでくる魔神どもを次々と破り、趨勢の見えなかった戦いを聖霊たちの有利へと導いていく。

 聖霊たちは勢いづき、魔神どもは浮き足立つ。

 これまでの戦いと同じような展開となると、その場の誰もが予想した。

 だが、その予想は、一体の魔神の登場によって覆されることとなる。

 その魔神を名のある魔神と見たアルカディアは、杖に備え付けられている五つの爪を全てその魔神に向けて撃ち放った。だが、爪がその魔神を捉えたと思った瞬間、魔神の体がゆらりと陽炎のようにゆらめいて、五本の爪すべてを素通りさせてしまった。

「――――っ!」

 予想外の結果に、一瞬棒立ちとなるアルカディア。しかし、それに気づいたルフィーリアがすぐさま彼女の前にカバーに入り、アルカディアを狙う他の魔神どもを牽制する。

「ふむ。さすがのコンビネーションですね。今の一瞬で依頼も達成できるかと思ったのですが」

 黒いローブを身にまとったその魔神は、一見、人間の男性のようにも見えた。異彩を放つ形状の者が多い魔神の中では地味と言ってもいいほどだ。

 常に薄ら笑いを浮かべたその表情は、こちらを小馬鹿にしているようにも思えて、向かい合っているだけでも不快感が湧き起こってくるほどだ。

「……あなたは?」

 その魔神が口にした「依頼」という言葉が気になって、アルカディアは戦いのさなかだというのに、彼に向かって問いかけを発していた。

「これは失礼。私としたことが名乗りを忘れてしまうとは」

 大仰な科白とそれに伴う身振りが妙に作りものめいて見える。

「私の名は魔神グリディアス。あなたのお父上に召喚され、あなたを捕らえるというめいを受けた者ですよ」

「……そう」

 内心の動揺を押し隠して、つとめて冷静に反応する。

「ということは――あなたが、この聖霊と魔神の争いを始めた張本人ってわけね」

 すると、魔神はことさら大仰に驚きの表情を作り、

「なんと、あなたがそのようなことを言うのですか。この戦いの全ての元凶といえるお方が!

 そうでしょう? アルカディア姫」

 生前の敬称などをわざとらしくつけてみせるのは、もちろん事の経緯をを承知した上での当てつけだろう。

 魔神グリディアスの態度全てがアルカディアの癇にさわった。けれど、彼女は激高する自分を抑えた。かの魔神の言動が自分を挑発するためのものだということは理解できていたから。

「それで、他に言いたいことはありますか? なければ、ここでお別れです!」

 聖霊ルフィーリアとの呼吸は、お互いを見ずともわかる。アルカディアが爪を動かすと同時に、ルフィーリアがその魔神の動きを抑えるべく槍を構えて前に出る。

 槍の穂先が黒ローブ姿の魔神に向けて突き出される。だが、またしても魔神の体がかすむようにぶれて槍を素通しした。

 ルフィーリアが槍を引くタイミングで、魔神グリディアスは再び実体化。アルカディアが狙っていたのはその一瞬だった。

 アルカディアは、かの魔神の技を、存在の不確定化と見た。それは自らを否定することによって初めて成り立つ術だ。いかな高位の魔神といえど、数拍もの間存在を薄めていては、そのまま元に戻れずに霧散してしまう。

 故に、ルフィーリアが攻撃を引くタイミングで魔神は実体を取り戻すと読み、先置きで五つの爪を配置しておいたのだ。

 魔神が姿を取り戻したまさにその瞬間に、五方向から飛来した爪が突き刺さる。魔神が浮かべた薄ら笑いが、一瞬苦悶へと変わった。

「――まだ浅い!」

 ルフィーリアの声が飛ぶ。

 どうやら、魔神のまとう防壁に阻まれて、決定打とはならなかったようだ。

 それでも手傷は負わせた。

 アルカディアは手にした杖で魔神に打ちかかる。ルフィーリアも槍を繰り出した。どんな手ごわい敵であろうとこれは避けようがない。二人ともそう確信する連携であった。

 だが――

「――――姫、様」

 突如、魔神の盾にされるように現れた女性の姿に、二人ともとっさに攻撃を止めた。

「――――――え?」

 目の前に出現したその姿に、そしてその声に、アルカディアは自分の置かれた状況も忘れて、ただ呆けたように立ちつくす。

「クレ……ア?」

 たとえ人から聖霊へと生まれ変わろうと、その姿を忘れはしない。いや、聖霊となってからも何度もその様子を見に行っていたのだ。その姿を見間違うはずがない。

 そこにいたのは、人であった彼女の侍女をしていたクレアであった。

「どうして、ここに……それにその姿は……」

 いまの彼女は人ではない。どうやら魂だけの状態のようだ。それに、存在がひどく魔神に近くなっているように感じられる。これは、まさか――

「あなたのせいです……」

 クレアのつぶやきのような声がアルカディアに届いた。それは声なき声。人の耳には決して届かぬ、聖霊や魔神と同じ領域に属する声だ。

「すべてはあなたのせいです、姫様っ! あなたがお城を抜け出したせいで! あなたが流行り病を治療しようだなどと思ったせいで! あなたが勝手に死んでしまったせいで! 私は何年も牢に繋がれ、誰からも忘れ去られて! 魔神の生贄にされて、永遠に慰み物とされ続けなければならない!」

「ク、クレア……」

「わたしがどんな気持ちで過ごしてきたかわかりますか! わたしがこの魔神になにをされたかあなたは知っていますか! 私がこんな目に遭わなければいけないのは、それもこれも全部姫様のせいですっ!」

 かつての侍女の弾劾に、アルカディアは答えを返すことができなかった。

 彼女の決断と行動がクレアの運命を狂わせてしまった。その思いはずっと彼女の内にあって、消すことができないものだったから。

「クレア……その、私は…………」

 なにを言えばいいのだろう。どうすればつぐないとなるのだろう。

 答えの出ない問いにただ逡巡するばかりで――

「アルカディアっ!」

 聖霊ルフィーリアの警告にはっと我に返る。

 クレアとのやり取りに気を取られていたわずかの隙に、幾体もの魔神が彼女を捕らえようと接近していた。消滅させなければ多少痛めつけても構わないとそれぞれが手に武器を構えて。

 しまった、という単純な後悔は何の役にも立たなかった。二、三体ならばどうにかなるかもしれないが、この数を逃れるすべはなさそうだ。

 それでも、無駄に捕らえられるつもりはない。杖に呼び戻してあった爪を、それぞれに射出する。数体の魔神が急所を貫かれて落ちていった。しかし、まだ三体の魔神が正面から武器を突き込んでくる――

 音は聞こえなかった。

 痛みもなかった。

 ただ、目の前に背中が見えた。見慣れた背中。聖霊になってから、ずっとそのあとを追い続けていた背中。

 その背中から三本の刃の切っ先がのぞいていた。

「――ル、ルフィ……リア」

 苦痛の悲鳴も別れの言葉も何もなく、聖霊ルフィーリアの存在はただ風の欠片と散って消えていった。

「あ、うぁ……ああ……」

 言葉になるより先に身体が動いた。

 正面を杖で薙ぐと、一体の頭部が潰れるようにはじける。残りの二体は爪を飛ばして始末した。

「よくも……よくもっ!」

 邪魔者を排除して、さらにアルカディアは黒ローブの魔神グリディアスへと突進する。右手の杖を振り抜かんと、左肩越しに振り構えて――

 再び盾として突き出されたクレアを眼前にして、その動きは止まった。

「どうしました? 何をためらっているのです。もう一度あなたの手でこの哀れな侍女にとどめを刺せばよいではないですか」

 グリディアスのさも嬉しそうな嘲笑に、杖を握る手がぶるぶると震える。

「ぐ、こ……このっ……」

 だが、クレアの怯えきった目を見ていると、どうしても手が動かなかった。たとえそれが、かつての侍女を解放することになるとわかっていても。

「さぁ、どうしますかアルカディア姫。このまま、私と一緒に来てもらえるならば、この場から魔神を引き上げてもいい」

 周囲を気にする余裕などなくなっていたが、ふと気がつくと、聖霊ルフィーリアが散り、聖霊アルカディアが押さえられたことで、この戦場の主導権は魔神側に移りつつあった。

 じわじわと数を減らしていく仲間たちを見て、ついに聖霊としてのアルカディアを支えていたものが折れた。


 こうして、魔神グリディアスは、契約通りアルカディアの魂として聖霊アルカディアを捕らえることに成功したのである。



 アルカディア姫の魂を捕獲することに成功した、との知らせは、魔術士よりただちに皇帝ネロの元へと届けられた。すでに日は落ち、空には月が高く上っているような刻限ではあったが、ネロ帝はただちに姫の蘇生の儀式をおこなうように命じ、ソリエード伯を伴って姫の遺体が安置された地下室へと向かった。

「今宵は、見事な月が出ておりますな」

 その途中、中庭を横切っているときに、ふと天を見上げたソリエード伯がぽつりとつぶやいた。

 ネロ帝もその言葉に誘われるように空を見る。

 そこには、真円を描く紅の月がいつになく大きな姿で地上のあり様を見下ろしていた。

 あまりにも鮮やかなその紅色は血の色と呼ぶには明るすぎたが、どうしてかネロ帝の脳裏には、今日の月光の差すところ全てが血に染まっている情景が浮かんでくるのだった。

「そうだな……急ぐぞ、ソリエード伯」

 いやな印象を頭から振り払い、皇帝は足を早める。「は」と短く答えて伯もその後に続いた。



 アルカディア姫の身体が置かれている地下室では、魔術士たちの手によって蘇生の儀式の準備が進められていた。

 かつて一度試みて失敗した術とは少し異なっているようだ。

 あの時の儀式は他者の命を姫の体へと移すためのものであった。それだけではアルカディアが目を覚ますことはなかったが、少なくともその身体だけは生き返らせることができた。

 今回は、その身体に姫の魂を戻すためのものだ。

 そして魔術士たちにとってもこれが最後の機会である。この儀式が失敗すれば全員を処刑する、と告げてある。彼らも死にものぐるいで取り組むはずだ。

 そんな魔術士たちの様子を少し離れた位置から薄ら笑いを浮かべて眺めている者がいる。黒いローブの魔神グリディアスだ。

 ネロ帝の目には魔神の姿は映っている。これは、かの魔神が人と話ができるように意図的に姿を見せているからであるらしい。

 その傍らには何者の姿も見えない。魔術士たちの話ではグリディアスが聖霊のアルカディアを捕らえているということであったが、果たしていまそこにアルカディアはいるのだろうか。

 ネロ帝の視線に気づいたのか、魔神グリディアスは薄ら笑いを浮かべたまま、

「アルカディア姫ならばこちらにちゃんといますよ」

 ネロの目には何もないとしか見えない空間を示して言った。

「ええ、あれだけ手を焼かせてくれた姫君も、いまはおとなしくしてくれております。そう、あなたが――」と、背後に控えるソリエード伯に向かって、

「あなたが教えてくれた姫君の弱点は実に効果的でした。伯爵には感謝していますよ」

 そう言って、おどけたように一礼。ソリエード伯は気まずそうに、姫がいると言われた場所から目をそらした。

 聖霊アルカディア捕獲のために、グリディアスの生贄とされたクレアを利用することを示唆したのはソリエード伯であった。姫に手荒な事をしないという条件付きでそれを魔神に伝えたのではあるが、果たしてその約束が守られたのか、それを知るのは魔神自身と、そしていまここにいるという聖霊たるアルカディア姫の魂だけであろう。

「――準備、完了しました」

 魔術士の一人が、皇帝と、そして魔神とに順番にうなずいて見せた。

 皇帝には報告として、魔神には促しとして。

「だそうですよ、アルカディア姫」

 魔神グリディアスは、そう自分の左隣のなにもない場所に向かって言った。

「――先ほど彼らが言っていたように、あの魔法陣の上に乗ってもらえますかね。ああ、嫌だというならそれでも結構。その時はあなたの侍女にたっぷりと涙を流してもらいますから。といっても魂には流す涙もありませんがね」

 いかにも楽しげにそう語った魔神の視線が、自分の左隣から指定された魔法陣へと向きを変えていく。

 おそらくはアルカディア姫が魔法陣の上まで移動したのだろう。

「おやおや、ずいぶんと素直になったではないですか。あれだけ私の手を煩わせてくれた方とは思えませんね。あなたが私に深手を負わせてくれたおかげで、大事な生け贄を五人も食べなければならなかったのですよ。ああ、もちろんあなたの大切な侍女はまだ食べたりしませんのでご安心を」

 魔神はそう言って、くっくと心地よさそうに笑った。

「さて、あなた方の姫君の準備も整いましたよ。儀式とやらを始めてくださいな。私は、なにが起こるのか、この場で見させてもらいましょう」

 この場の主導権を完全にかの魔神が握っていた。そのことを忌々しく感じながら、ネロ帝は、確認するようにこちらを見てきた魔術士にひとつうなずいた。



 そんな地上の様子を、天高く人には届き得ぬ場所から注視している者がいた。

 神々である。

 原則として、神は地上に生きる者たちには干渉しない。もちろん水に棲む魚にも、空を飛ぶ鳥にも干渉しない。それは長い年月をかけて線引きされた規則だ。

 だが――その結果がこれだ。

 次代の大聖霊にと期待をかけていた聖霊を奪われ、あまつさえ、その者を人に戻すという。

 人の愚かな願望を野放しにしておいたがために、このような結果を招いてしまったのだ。

 もはや愚かなる人をこのままにしてはおけない。そして神々の威信にかけても聖霊アルカディアの人としての復活を許すわけにはいかない。

 人がこれ以上好き勝手をしないよう、地上には“人の天敵”を置く必要あるのだ。その役をアルカディアに担わせることにする。

 それは、何かにつけて意見の対立する神々にとっては異例中の異例といえる速やかな合意であった。



 そしてまた、魔神グリディアスも儀式が進んでいくのを、ある思惑を持って眺めていた。

 ――人とはかくも愚かなものか。

 たかだか百人程度の生贄で、魔神が人の手助けをすると本気で信じているのだから、おめでたいことこの上ない。

 聖霊アルカディアには多くの魔神が打ち倒されたが、実はグリディアスにとってそれは小指の先ほども心を痛めることのないことであった。

 そう、これより生まれいずるであろう強大な魔神に比べれば、群れなす雑魚魔神などいくら消え去ろうと構わない。

 グリディアスは、彼にしては非常に珍しいことに、ひどく高揚した気分でその時を待っていた。



 かくして、人と神々と魔神たちの思惑が交差する中心点で、アルカディアの運命は決まった。



 魔術士たちの詠唱が響く中、アルカディア姫の魂が立っているはずの魔法陣が淡く光り始めた。それに同調するように、寝台に横たえられた姫の身体もうっすらと光をまとう。

 いよいよ復活の時は近い、と魔術士たちの声にも熱が入る。

 皇帝ネロもまた、悲願の時が近いであろうことを感じていた。

 図らずも、明日は生前のアルカディア姫の誕生日である。愛娘が十一歳の誕生日を待たずして息を引き取ってから七年の時が過ぎた。あの日以来止まっていた彼女の時が、ようやく動き出そうとしている。

 そう、今日この日がアルカディアの新たな生誕の日となるのだ。

 ネロ帝は寝台の愛娘を見つめる。淡い光を身にまとって眠り続けるその姿は我が娘ながら神々しさすら感じさせられる。蘇った暁には、きっと帝国を導くよき指導者となってくれることだろう。

 魔術士たちの詠唱が調子を高めていく。魔法陣とアルカディア姫の放つ光も徐々にまぶしくなっていく。

 それが最高潮を迎えたその瞬間――


 神々によるアルカディアの身体の作り替えが行われ、そこに神々の力が流れ込んだ。


 魔神たちによるアルカディアの魔神化が行われ、そこに魔神たちの力が流れ込んだ。


 同時に流れ込んだ二つの力のせめぎあいが、地下室に荒れ狂う風を起こし、稲光のような立て続けの閃光を生む。その場の誰もが目を覆い、風に抵抗しようと身を伏せる。

 そして、二つの力が渦巻く、そのただ中に、アルカディアの魂が自分の身体へと飛び込んでいった。



 地下室に静寂が戻ってからも、しばらくは誰も動かなかった。

 それは、突如起こった暴風でろうそくがすべて消えてしまったため、室内を暗闇が覆っていたからでもあった。

 やがて、誰もが静寂に耐えきれなくなりかけたその時、

「明かりを、早く明かりをつけろ」

 魔術士の一人がそう声を上げた。

 それにより、複数の動きが生まれ、魔術士たちの火の魔法でろうそくに明かりが灯されていった。

 灯火に照らされた室内は、嵐のあとの様子を見せていた。儀式のための祭具が周囲に散らばり、そのほとんどがなんらかの破損を被っているようだ。中には真っ二つに裂けているようなものまでもある。

 それらの祭具は、無秩序に散らばっているようでいて、実はある一点を中心とした円を描いていることに気づいている者はいなかった。だがそれでも、この暴風と閃光がどこから発生したのか、ということは誰もが理解していた。

 それこそが円の中心。すなわち、寝台に寝かされたアルカディア姫の身体である。

「……成功、した……のか?」

 魔術士の一人がそうつぶやく。それはその場にいる全員の思いを代弁していた。

 そして、その言葉をきっかけに全員の視線がアルカディア姫へと集中し――

 皆の注目の中、寝台のアルカディア姫がゆっくりとその身を起こした。

「おお」と短い歓声が湧きおこる。

 人々が注視する中、アルカディア姫はよどみのない動きで寝台を降り、両足で床石を踏みしめた。何年も寝ていたとは信じられないほどのしっかりした足つきで。そうして、顔を上げると、少し寝ぼけたような表情で周囲を見回した。

 その視点が、ある一点で止まる。その先に、彼女のほうへと一歩踏み出そうとしている皇帝ネロがいた。

「おお……アルカディア」

 ネロ帝の口から感極まったような声がこぼれる。

「よくぞ……よくぞ戻ってきてくれた」

 皇帝は、一歩一歩にこの七年の思いを込めているかのごくと、ゆっくりとした足取りで愛娘の元へと向かっていく。

 周囲の魔術士たちは様々な表情でもって、その様子を見ていた。親子の再会に胸を打たれ涙ぐむ者がいる。一方で冷ややかな表情で眺めている者もいる。蘇生が成功したとて、これまで奪ってきた者の命が戻ってくるわけではないし、魔神との契約という禁じられた行為がなかったことになるわけでもない。

「アルカディア……」

 それでも、ネロ帝の目はただ娘の姿にのみ向けられ、その歩みはただ娘の元に向かって進められる。

 立ち尽くすアルカディア姫の眼前で立ち止まった皇帝は、石床に膝をついて、目線を娘の高さに合わせた。

「アルカディア……わしのアルカディア……もう一度、笑っておくれ……」

 ネロ帝は、両の手をアルカディアの両頬に当て、ぎこちなく微笑みかけた。

 それに反応するように、アルカディア姫の右手が皇帝の頭の上に載せられる。それはまるで、父を慰めるために頭をなでようとしているように見え――

 次の瞬間、アルカディアの小さな手が、父帝の頭をぐしゃりと握りつぶした。

 血しぶきが、頭蓋の破片が、つぶされた脳が周囲に飛び散る。

 誰一人、声すら上げられなかった。誰にとっても、この光景は想像の彼方にも存在しないものだった。

 残された顔の下半分にぎこちない笑みを浮かべたまま、皇帝の体はうずくまるように倒れた。アルカディア姫は予想外に機敏な動きでそれを避け、もはやその遺体に興味を失ったように周囲を見渡す。

 その行為が、ようやく魔術士たちの本能的な恐怖を呼び起こした。あれは、次の獲物を探している――!

 一斉に呪文の詠唱が起こる。これだけの魔法が集中すれば、強大な魔獣すら一瞬で消し去ることができるだろう。

 だがそれは、魔法が発動すればの話だ。

 詠唱を確認したアルカディアは口の中で何かをつぶやく。それは現存するいかなる言語とも違う言葉であった。

 つぶやきのような詠唱は一瞬。

 全方位に向かって打ち出された衝撃が魔術師たちと、その後方で自失していたソリエード伯を押しつぶし、肉塊へと変えた。

「……こ、これはこれは」

 生きている“人”は存在しない地下室に声が響く。

 ここまで事の成り行きを見ていた魔神グリディアスである。

 彼の表情に薄ら笑いはまだ消えていない。だが、その様子にはもう余裕は感じられなかった。全身で、アルカディアの次の動きを警戒しているのがありありと見えた。

「われわれ魔神の力ともまた少し違いますね。

 あの瞬間、あなたに流れ込んだもう一つの力……神と呼ばれている連中がよけいなことをしてくれたということ――」

 独白のようなその科白を最後まで言わせず、アルカディアは魔神に向かって突進した。ぼそり、と詠唱すると同時に右手が光を発する。

 その右手が、魔神の腹部をごっそり削り取った。

 それでも魔神はどうにか後方へと跳びすさって、第二撃から逃れる。そして、

「そこまでにしてもらいましょうかアルカディア姫。これ以上こちらに向かってくるならばあなたの侍女がどうなっても知りませんよ?」

 生け贄とされた侍女クレアの魂を呼び出して盾とする。

 おびえるクレアの魂が、アルカディアの放った魔法により一瞬で吹き飛ばされ、そのまま消滅した。

「――そうですか、もはや以前のあなたではないということなのですね」

 魔神グリディアスは、地下室の天井に向けて力を放つ。

轟音とともに地上への穴が開く。降り落ちてくる瓦礫や土砂の隙間を縫うように魔神は外へと飛び出す。

 後を追ってアルカディアも上へと跳ぶが、外に出たときにはすでに魔神の姿はなく、ただ紅い月の光が中庭に差しているだけであった。

 穴を開けられた地下室の天井が、加重を支えきれずに、ごぼり、と陥没する。中庭に咲いていたアリシネアの花を巻き込んで、土砂が一斉に地下室へと流れ込み、惨状の痕をすべて埋め尽くしてしまった。

 そのときには、アルカディアはすでに皇城の城壁へと跳びあがっていて、墓標なき墓所となった地下室の跡をじっと見つめていた。

 月の光に照らされたアルカディアは、あれだけの殺戮を行ったというのに、その身体に返り血をほとんど浴びていなかった。だが本人も気づかなかったのだろう、ただ一カ所だけ、ただ一滴だけ、おそらくは父帝の血が、右の頬に当たって一筋流れ落ちていた。

 そうして、アルカディアは天に向かって声を上げた。雄叫びとも高笑いともとれるような。そう、もはやそれは獣の咆哮のごときものだった。

 アルカディアは笑った。人の愚かさを。アルカディアは哄った。魔神の狡猾さを。アルカディアは嗤った。神々の身勝手さを。

 血の涙を一筋頬に残し、アルカディアはこの世のすべてのものを呪って、ただひたすらに笑い続けた。

 その声は風に乗り、近隣の人々を心から震え上がらせるとともに、ダヴィオン帝国の終焉を知らしめたという。



※次回アップ予定は8/31です。

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