花の香りと深緑の瞳
友達と遊び帰りが遅くなった。駅に向かう途中の高架下の細い道を急いで歩いていると、先に同じ学校の女子が歩いていた。
誰かは分からなかったが彼女の足が突然止まり道の真ん中に座り込んだ。俺は座り込んだ女子の脇を通ろうとしたが、それが同じクラスの秦野だと気づいて声をかけた。
「秦野?どうした?気分が悪いのか?」
その時ふわっとまたあの香りがし香奈がスッと立ち上がった。薄緑色の瞳は深い緑色に変わっていた。
あれ?秦野ってこんな顔だったっけ?
いつもまじまじ見ているわけではないが、明らかに顔つきが違う。
「——————……」
「えっ?」
何かを言ったが聞き取れなかったが、秦野が近づいてきて柔らかなその唇が俺の口を塞いだ。
えっ?えっ?
訳が分からない。
町田紘平、17才。
二週間後18才の誕生日を迎える俺は、ロマンチックとはかなりかけ離れた学校の帰り道の薄暗い高架下でファーストキスを奪われた。
次の日、何事も無かったように香奈は仲が良くなった女子と話している。その様子を見ながら俺は昨日の事を思い出していた。
あの時香奈は、よく海外映画で外国人がするような濃厚なキスをしてきた。俺はというと、背中を後ろの壁に押し付けられされるがまま目を白黒させるだけだった。
濃厚なキスをした秦野は「Tschuess」と言い、深緑の瞳で微笑んで行ってしまった。
「チュース」?何語??「トゥース」な訳ないよな……。
帰国して直ぐの秦野はあの芸人を知らないはずだし……。
路上でそんなことを考えているとなにやら生温かいものが鼻から垂れてきた。手で拭うとそれは真っ赤な鼻血だった。
「うわっ」
あの濃厚なキスは初心者の俺にはきつすぎたようだ。ハンカチやティッシュなど持ち歩かない俺は手の甲で鼻を押さえる。しかし鼻血は止まらない。それどころかドクドクとでてくる感じだ。どうにか水道のある場所へたどり着き、血だらけになった鼻と顔と手を洗いため息をついた。
結局鼻血が止まるまで10分以上かかり電車も数本乗り過ごし、再び母のお叱りをうけた。
それにしても、柔らかかったあの唇に舌の動き……。自分の指を唇に当て、その感触を思い出していると「なにキモい顔してんだよ」と正士が後ろから頭を叩いてきた。
「いってーな!」
叩かれた頭をさすりながら正士を睨む。
(ふふん、お前あんなキスしたことないだろう。あっ、する相手もいないか!ごめん、ごめん)
優越感に浸って、頭の中で一人つっこみをしているとまた顔がにやけていると「だからその顔がキモいんだよ!」とまた叩かれた。
「ったく、伊沢のヤツ」
俺は愚痴りながら教室へ戻っていた。授業中に居眠りをした罰として、古文の伊沢(先生)に放課後手伝いを課されたのだ。
「助かったよ。また頼むよ」
伊沢はニコニコし俺の肩をポンポンと叩き言った。
誰がやるか!
心の中で愚痴りながら教室のドアを開けると教室には誰かが残っていた。
「秦野?なにやってんだ」
椅子に座り外を見ていた秦野が振り向くと同時に、開いた窓から吹く風にのってまたあの『香り』がした。
俺は教室にいるのが秦野だけという事と鼻をかすめたその香りにビクッとした。あの香りがすると必ずなにか良からぬ事が起きると学習した俺は身構えた。
「待ってた」
「はっ?」
「あなたを待ってた」
秦野は日本語以外の言葉でしゃべり椅子から立ち上がり俺の方に歩いてきた。
「なんで?俺?」
近づいてくる秦野の瞳は妖艶な深緑だ。俺はなぜだか後ずさりした。
あれ?俺、なんで秦野のしゃべってる言葉がわかるんだ?
背中がロッカーに突き当たりそれ以上後ろには行けなくなった。深緑色をした瞳の彼女が、あの香りをまとって近づいてきて俺に向かって手を伸ばした。頬に触れたその指先はぞくっとするほど冷たかった。
「思い出して。あたしは一目見たときから分かったのに……」
「なんの事かわからないんだけ……」
言い終らないまま秦野はそっと俺の唇にキスをする。そして唇を離すと深緑の瞳でじっと俺を見つめ「オリバー」と言った。
その時、俺は信じらんない行動にでた。秦野を抱きしめ自分からキスをしたのだ。
俺はなにやってんだ!
心と身体が別になったようだ。頭の中にもやがかかったようにボーっとすし、体が勝手に動く。俺は秦野の顔を両手で挟むと激しいキスを繰り返した。彼女の口からは甘いため息に似た声が漏れる。
唇を離し秦野の目を見る。この瞳、どこかで見た……。
またすぐに唇を奪い、舌を絡ませるような濃厚なキスを繰り返した。
急に頭のもやが晴れハッとし彼女の体をバッと自分から離した。激しいキスに知らずと息があがっていた。
俺、なにやってたんだ!?
俺の体から離れた秦野も唇に手を当て呆然としている。その瞳は深緑からいつもの薄い緑色に変わっていた。
「ごめん」
俺は机の上のカバンを取ると走って教室を出た。
なぜ俺が謝る?仕掛けてきたのは向こうじゃないか!
なんだよ?何だったんださっきのは!
「ーーーー昨日あたし……、気がついたら町田君が目の前にいたんだけど?」
次の日の昼休み、人気のいない廊下の隅へ呼び出され、決して俺を責める様子もなく秦野は聞いてきた。
「うっ、えっと……」
汗が噴き出す。正直にいう?それとも誤魔化す?
「は、秦野はさ、覚えてないの?」
彼女は首を横に振る。嘘をついているようには見えない。よし、質問を変えてみよう。
「『オリバー』って誰?」
「『オリバー』?ドイツ人の名前だね。向こうの友達にもいなかったよ」
うーん、この質問もダメか……。
「こっちに帰ってきてから、ほんの短い間記憶が飛んでる時が時々あるの。昨日も放課後の記憶が飛んでるの。気がついたら町田君が「ごめん」って走って行った。で……」
秦野は唇に指を当てて俺をおずおずと見た。
キスしたの分かってるのか?いつから気が付いてたんだ?ここまできたらしょうがない。殴られるのを覚悟で正直に話した。
「——うそっ……キ…ス?」
「ああ、しかもこれで二回目……」
俺の目は泳いで彼女は絶句している。そして彼女は昨日の事を思い出したのか赤面して下を向いてしまった。
真実を知った秦野はなかなか顔をあげない。
やべー…やっぱりごまかした方が良かったのかも。
どうにもできない状況に声もかけられないし身動きもとれない。短い休み時間が刻々と過ぎる。
「町田くんで良かった」
彼女は顔を伏せたままそう言うと休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。
スカートを翻して彼女は教室へと戻っていった。
……どういう意味だ?
俺で良かった?
あまり良いとはいえない頭をフル回転させていると「おい町田!休みとっくに時間終わってんだぞ。早く教室に戻れ」と、現国の教師に叱られ慌てて教室へ戻った。
放課後、数人と校庭の片隅でバスケをしていた。
「おい正士、パス」
「おうっ…よっと、バカやろー。たけぇーよ」
「わりぃわりぃ」
「紘平パス」
「うおっ……」
正士の投げたボールを受けようと手を出したがタイミングが合わずに指がボールに強く当たってしまった。
「いてっ」
指に痛みが走りズキズキしてきた。赤くなり腫れてきた指を押さえて「保健室行ってくるわ…先帰ってて」と言い、放り投げてあるカバンを拾い上げ保健室へ歩いて行った。
「失礼しまーすっ」
保健室のドアを開けると校医が机に向かっていた。この校医『細井』という名字だが見た目はかなり太い。
「あらどうしたの?」椅子を引き俺をみた。椅子がギシギシと悲鳴をあげている。
「突き指しちゃったみたいで」
赤くはれた指をみせると細井は俺の指に湿布を張りながらこう言った。
「そうだ町田くん、秦野さんと同じクラスだよね」
「そうですけど……」
「ちょうどよかった。秦野さん貧血でベッドにいるのよ〜。付き添ってきた眞野さんも部活に行っちゃったし私も職員室に用があるの。だからちょっとここにいてくれる?」
えっ……。
昨日、足りない頭で必死に考えある公式が頭に浮かんだ。
『秦野+花の香+深緑=危険→逃げる。予防策として秦野と二人きりにならない』
という公式を昨日出したばかりばかりなのに……。
「いやー友達待たせてるし……」という俺の返事など無視して「変なことしないのよ」と言い細井は行ってしまった。
変なことって何だよ!心配だったら俺に留守番させるな、くそっ!
……また二人っきりの状況になってしまった。
秦野を一人置いてきぼりにする事も出来ず、仕方なく近くにあった椅子を引き寄せ窓の外をぼけーっと眺めていた。
「晶子?誰?」
カーテンの向こうでシーツが擦れる音がした。
「俺、町田」
「町田くん?」
秦野は起き上がり顔だけをカーテンの隙間から覗かせた。その顔はまだ青白く見えた。
「晶子と先生は?」
事情を話すと「そっか」と言って顔を引っ込ませたその直後、カーテンの奥から『ガシャン』という派手な音が聞こえた。さっきと同様、窓の外を眺めていた俺はびっくりした。そしておそるおそるカーテンのひかれているベッドへ近寄った。
「おい秦野、大丈夫か?」
返事がない。でもやっぱりカーテンは開けちゃまずいよな……。でも倒れてたら……というのはおかしいけど、ここ保健室だし。大げさだがもし一刻を争う事態になってたら?
「秦野?」
俺は遠慮がちにチラッとカーテンをあけると俺はギョッとして後ずさった。
そこには深緑色の瞳をした秦野がベッドに起き上がりこっちを見てる。寝るときにシャツのボタンを少し緩めたのだろう。胸元からは胸の谷間と下着が少し見えていた。そして鼻をかすめるあの匂い!
ヤバい!キタ!
この状況はアレだ。逃げなくては!
しかし俺の足は一ミリとも動かない。まるで床にピッタリと張り付いてしまったように。
そして彼女はベッドの上を移動し、開いたシャツから胸の谷間を覗かせながら妖艶な顔つきで俺を誘うようにワイシャツの上から俺の胸元を指先でなぞってきた。口元は何かをいいたげに少しだけ開いている。
「秦野!」
俺は大きな声で叫んだ。そのとたん秦野の瞳の色がスッと薄くなり伸ばした手も唇も動きを止めた。
「町田くん?」
キョトンとした秦野は状況を確認した後自分の胸元を見て「きゃあ!」と叫んだ。
慌ててカーテンを閉めベッドから離れた俺は、運悪く用事を済ませて帰ってきた細井と目があってしまった。細井は秦野の悲鳴も耳にしていたらしく、慌てている俺の様子を見て怒りに顔を真っ赤にしている。そして外まで聞こえそうな怒号が保健室に響いた。
「町田くん!なにしてるの!!」
「お、俺はなんにもしてねーよ!」
俺の意見に聞く耳を持たない細井に説教される中、服装を整えた秦野がカーテンの奥からおずおずと出てきた。
「秦野さんもう大丈夫なの?」
「はい……」
「何かされたの?怖がらずに言って」細井はチラッと俺を見て秦野に尋ねた。
なんもしてねーって言ってんだろ!この『ふとい』が!!
俺は細井の後ろ姿を穴が開くぐらい(あの太い体に穴は絶対に開かないだろう)睨みつけた。
「あ、いえ、起き上がった時に少し目眩がして点滴台を倒してしまって。心配した町田くんが見に来てくれたんです」
「本当?」
「はい。町田くんは何もしていません」
細井は俺に疑いの目をむけながら「今日は帰りなさい。町田くん責任持って送って行きなさい!くれぐれも……分かってるわね」
と言ってきた。
だったら俺に送らせるなよ。
最高に不機嫌な気持ちで秦野の前をイライラしながら歩いていく。
「ごめんね」
「ったく、ほんとだよ」
俺はイライラした気持ちを口にし脇にある木の枝に八つ当たりした拍子に、突き指した指がモロに枝に直撃し涙目になってしまった。
「ごめんなさい」
消え入るような小さな声が後ろから聞こえた。
あっ……しまった……。
相手が秦野だと言うことをすっかり忘れていた。
……が時すでに遅し。秦野は泣きそうな声で「ごめんなさい」ともう一度謝った。
ううっ、俺ってなんなの。ツイてねー……。
「お前んちどこなん?」
「芝延」
小さな声で駅名が帰ってきた。
「なんだ同じ駅じゃん。だけど朝あんまり会わないな……」
って当たり前だ。自慢じゃないが、俺はいつも遅刻ギリギリか遅刻だからな。
「じゃあちゃんと送ってくよ」
「えっいいよ……」
「いや、送ってく。送って行かなかったのがバレたらまたふと……細井に何言われるかわかんねーし」
事故だったとはいえ胸の谷間と下着を見てしまい、そのうえ男友達と間違えキツい言葉で泣かせる一歩手前までしてしまった罪悪感から俺は強引に家まで送ることにした。