草原の女と転校生
ピピッ
脇から抜いた体温計を目の前に持ってくる。
38度7分
その数字を見ただけでまた熱が上がった気がした。
「あークソっ……」
木曜日彼女に振られた。約1ヶ月という短い交際期間だった。そしてタイミングが悪いことに、その日の夜から熱が出始めて金曜日は学校を休んだ。
〈なに?お前、女に振られて熱出したんだって?繊細なヤツだな〉
仲のいい正士からメールで言われた。
〈んなわけないだろ!〉
しかし俺は《彼女に振られたショックで熱を出した》という不名誉な噂の主らしい。
告白してきたのも彼女、別れを告げたのも彼女。
「ごめんなさい、他に好きな人が出来たの。だって紘平くんってつまらないんだもん……」
つまらない?俺が?
ああ、つまらない男で悪かったな。どうせキスもまだだったさ。悪かったな、生まれこのかたまだキスさえしたことないさ。
じゃあなにか?告白したその日にキスしろと?一ヶ月後にはHしろと?周りにあわせろというのか?周りあわせていたらつまらなくなかったのか?
思い出しても腹が立つ。
しかし腹が立つと頭もカッカする。すると熱が上がるという逆効果の繰り返し。
「腹減った……のど乾いた……」
母親はパートに行っており家には俺ひとりだ。たしか母親がパートに行く前に軽く食事を用意して行った。
「あとで食うから置いといて……」
薬で眠かった俺はそう言ってウトウトしていた。
あん時食べときゃ良かった。考えてても腹は満腹にならない。意を決しベッドから降りると目眩がした。
「あぶねぇ」
壁に手をつきふらつきながら階段を降り台所へ。用意してあった食事を食べ皿を流しに置き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して部屋に戻った。
腹がいっぱいになったらまた眠くなってきた。ミネラルウォーターを一口飲むと俺はベッドに潜り込みまた眠った。
夢を見た。
目の前にはどこまでも広い花畑が広がっている。見たことのない花が咲き乱れて優しく吹く風がその花をなびかせている。
その花の中に人がいる。長い髪が風になびき花の香りと共にその人の香りも届く。その人の顔はぼんやりとしてはっきり見えないが自分の方を見て微笑んでいるのがわかる。
その人は何かを言っている。だけどその声は風に揺られる木々の音に遮られ俺には聞こえない。「何?」と言おうとしたが口が開かない。彼女は微笑みながら頷くと花畑の中に消えた。
目が覚めるとなんだか体がふわふわする感じに俺は突然猛烈な吐き気に襲われトイレに駆け込んだ。
「うっ…おえっ」
便器を抱え込みさっき食べたものを全て吐き出した。
洗面所で口をすすぎついでに顔も洗った。だいぶすっきりした。フラフラしながら自室に戻るとベッドに倒れ込み、今度は夢も見ず朝までぐっすりと眠った。
「よっ紘平!」
火曜日、やっと熱が下がった俺は一週間ぶりに学校へ行くと、正士が病み上がりの俺の背中を挨拶代わりに叩いてきた。
「うっごほっ。バカやろう、イテーよっ!」
「ごめんなー俺寂しかったぞ」
俺らははじゃれながら教室に入るとクラスの女子が一カ所に集まっていた。よくみると誰かがその中央にいた。紘平がちらっと見ると、見たことのない知らない女の子がクラスの女子に囲まれていた。
「誰あれ?」
「ああ、お前休んでたから知らないんだっけ。転校生だよ」
「転校生?こんな時期に?」
「あれ?なんだっけ名前?」正士は近くの女子に名前を聞いた。
「秦野香奈さん。お父さんさんの仕事で五年間ドイツにいたんだって。あれ町田くん、熱下がったの?良かったね」
ニヤニヤしながら何かいいたげな顔で俺をみる女子に「あ、ありがとう……」ととりあえず無難にお礼を言い自分の席に座り、もう一度その転校生ちらっと見た。
その瞬間「あっ!!」と声を上げた。俺に「なっなんだよ!びっくりさせんなよ」と大げさに驚いた正士は胸に手を当てた。
彼女、昨日の……。
そう、それは昨日。やっと熱が下がった俺は病院にいた。
熱が下がったのに何故病院かって?あまりに高熱が続いたため医者に『熱が下がったらもう一度来て』と言われていたからだ。
検査の結果はもちろん異常無し。17才男子の体力をなめてもらっちゃ困る。
明日からは一週間振りの学校だ。気分的に楽になった俺は帰りに寄り道をしてしまい、帰宅が遅くなってしまい駅への道を急いだ。
乗り込んだ電車内はそれほど混んではなかった。俺は窓の外に流れる景色を吊革に掴まりながら眺めていた。隣にいる人は眠いのか吊革に掴まり電車の揺れに合わせ右へ左へと揺れている。
すると急に肩が重くなった。
それほど混んでいないにも関わらず、隣の女の人が俺の体に寄りかかってきたのだ。
いい香りがするな……
なんてこと思いながら、ちょっと肩を動かした。が、女の人は更に寄りかかってくる。
「あの……」ちらっと顔を見ると気分が悪いのか顔が真っ青だ。
「あの、大丈夫ですか?」
ほっとく訳には行かず俺は声を掛けると「すみません。無理…みたいです……」と返事が返って来た。
ええっ……無理って!
どうすりゃいいんだよ
とりあえず次の駅で降りて駅員に言ったほうがいいのか?降りる駅ではなかったけど、彼女をこのままほっくわけにはいかないから、俺は次の駅で彼女と一緒に降りた。
「あの、大丈夫ですか?」
ホームの片隅に置かれているベンチに彼女を座らせる。
……えっと……
……俺、どうしたらいい?
このまま彼女をほっといて帰ってもいいものなのか?
いくらなんでもそれは薄情か……
しばらくじっとしていた彼女はたいふ気分が落ち着いてきたみたいだ。
「はい、これ飲んでください」
手短な自販機で水を購入し彼女に差し出すと、彼女は顔を上げ俺をみた。よく顔を見ると彼女は少し日本人離れした顔をしていた。さっきまで青白かった顔には少し赤みが差し、薄緑色をした瞳がとてもきれいだった。
もう一度水を差し出すと彼女は「ありがとう」と水を受け取った。数本の電車が通過した後、彼女は「本当にありがとう」と言ってベンチから立がると、少しよろけ俺の胸にぶつかり彼女を抱きかかえる様な形にり、彼女の胸の膨らみを感じちょっとドキドキした。
その時微かにどこかでかいだことのある匂いが鼻をかすめた。
「あっごめんなさい」
彼女は俺の胸に手を当てすぐにスッと離れた。
「ありがとうございました」何度もお礼を言うと彼女は到着した電車に乗り込んだ。車内からもう一度頭を下げる彼女の瞳は深い緑色をしていた。
「どこまで行ってたの!!」
家に帰ると母さんの怒号が飛んできた。
「どこって病院だよ」
「こんな遅くまで?電話しても繋がらないし」
俺はポケットにはいっている携帯を取り出し開いた。電源が入っていない……。そうだ、病院にいたから電源切ってたんだ。
「ごめん、電源切ってそのままだった……」
母さんはため息をつくと「もう夕飯食べちゃったわよ。紘平の分とっておいたから温めて食べなさい」と、冷蔵庫を指差して風呂場に消えた。遅めの夕飯を食べた後、少しまったりしてから風呂に入り、久しぶりに行く学校に少々どきどきしながらベッドに入った。
『人の噂も75日』とあるがあれから3日がたち、俺の不名誉な噂はすっかり消え去っていた。
みんなの興味をかき立てる新しい噂は日々校内を駆け巡る。
『あの強面の先輩が実はあの真面目な子と付き合っている』だとか『誰々が街でスカウトされた』だとか……
大方は女子が喜びそうな噂ばかり。
俺は噂されていたことなどすっかり忘れ日々正士とバカなことばかりして過ごしていた。
転校生の秦野香奈もクラスに馴染み始め、昼休みは数人の女子と机を並べ弁当を広げ食べている。祖母がドイツ人で本人はクォーターらしく顔は少し日本人離れしている。目が少し緑色をしていて髪の毛も日本人とは違った色合いの黒髪だ。その容姿は同い年のクラスメートと一緒にいてもひときわ大人びて見えた。
だから、この教室で初めて彼女をみた時は驚いた。
電車で合った時、彼女は年上の人だとずっと思ってたから。