後篇
どこにいるかなど、外に出てその場を一回りすると、すぐにわかった。神社の近くを通る川に、光輝く場所があるのだ。時彦は一目散にそこまで駆け出し始めた。
いったい何事かと思い近くに寄ると、そこにいたものを見て、唖然としながらゆっくりと速度を落とす。
光輝く物体をよく見れば、全体的に細長く、表面は鱗のようなものである。そして一番上にまで視線を送ると、そこには書物の中でしか見たことがない、生き物が宙に浮かんでいたのだ。
「龍……?」
ぼんやりと見上げながら、近づいていく。青色に輝く龍は湖の上を浮かんでいるのだ。その近くには激しく胸を上下させ、倒れ込んでいる伊兵衛がいた。顔色も悪そうで、先ほどの雨の衝撃で溺れかかったのだろうか。
そしてその龍がいる川の近くでは、千代が広げた両腕を龍に対して向けていた。赤い袴に長い髪を結っている、全身が濡れているその姿はどことなく神聖なもののように感じる。
昔、今回の手口と同様の事件があった。亡くなったのは南西に住んでいた商家の男と西にある大成神社を納める夫婦。そのとき犯人は捕まらなかったが、再び事件は起こった。
そしてまるで連続斬殺事件を示唆しているような発言をした伊兵衛。
それらから考えられることは一つしかない。昔、伊兵衛は千代の両親を含めた殺人を起こし、彼女は時を経てこの村に戻ってきた彼に対して、復讐をしようとしているのではないだろうか。
そしてこんなことも聞いたことがある。この大成村の隣にある神社には水神である龍が祀られており、その封印を解くには村に五つの印を結ぶことでできると。そしてもっとも強力な印としては、血の印が挙げられる――。
千代が大きく息を吐いたのちに、口を開いた。
「我は大成神社に仕える巫女なり。神社に奉る水神よ、今こそお力をお借しくださいませ。そやつは亡き神主と巫女を殺した罪人である!」
千代の怒りに呼応するかのように、雨足が強くなっていく。もはや前に進むにも困難になるほどだ。だがそれでも時彦はどうにかして歩を進める。
龍――もとい水神はゆっくりと千代に頭を近づけた。その威圧にも怯みそうになる。
「水神様、我の望みを叶えてくれますか?」
『望みの代わりにそなたは何を我に与えてくれる。腕か、足か、兄弟か』
口を開いた水神からはしわがれた重々しい声が発せられた。あまりの威圧と恐怖に時彦は思わず蹲ってしまう。情けない、神の言葉のみで動けなくなるとは。
だが千代は表情を変えることなく、一瞬雨音が小さくなったところで淡々と答えた。
「命」
時彦は驚愕の表情で千代を見た。彼女は後ろで固まっている少年のことなど見向きもしない。どうにかして声だけでも発したかった。歯を食い縛り、威圧に跳ね除けようとする。
水神はしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと口を開こうとした。
『承――』
「――待ってください!」
第三者の介入に千代と水神はその声がした方に振り向く。時彦は荒くなる呼吸をどうにか従えながら、立ち上がった。千代の方を見ると、睨み付けられる。
「私がすることに一切手出しは無用と言ったはずです。邪魔をしないでください」
「しかし……そんなこと――」
「そんなとはなんですか。両親が存命の貴方に何がわかるんですか! それにこれは水神様や貴方たちの為でもあるのです。あの男は力を得たいがために、村に血の印を作り、水神様を自分のものにし、この手で操ろうとしていたのです。そのようなことをされれば、村は力を誇示したいがために、無きものにされるでしょう」
憎しみが声の端々ににじみ出ている。そして吐き捨てるかのごとく、言い切った。
「――そのようなことを考えている男を生かしておく道理などありません!」
時彦が口を開く前に、千代は再度水神と向き合った。もう彼女の瞳には復讐と水神しか映されていない。
言葉だけでは無理と判断し、時彦は躊躇いもせず脇差しで自分の左太股を刺す。痛みに唸りはしたが、それにより水神からの威圧を少しでも気を逸らし、動けるようになった体で、千代の元に駆け寄る。
「あの男に鉄槌を。あの男がした所行に対する相応の――」
そして言葉を発している最中に彼女の手を引いて、抱きしめた。
千代はその瞬間に起こっていることがわからず、しばらく固まっていた。だがすぐに事の次第を理解すると、頬を赤らめながら慌てて離れようとするが、きつく抱きしめているため、逃れられない。
「何をするのですか! 邪魔をするなと言ったはずです! 離しなさい!」
邪険に突き放そうとするが、その言葉が余計に時彦の手に力を入れさせる。水神の威圧や、流れ出る血に雨が触れているため体力の減少は著しいが、意識だけは強く保つ。
「離しません! そいつのために自分の命を捧げるなんて、馬鹿げています!」
「だがこの男はいつか村に大きな災いを起こします。今、私がやらなくて、誰がやるのですか!」
時彦は薄れゆく視界の中で水神である龍を垣間見た。水神の表情など読めるはずはない。だが何かが胸の中に届いたのだ。それに応えるかのように、精一杯の声で発した。
「仮にやったとしても――その後、いったい誰がこの水神様をお護りするのですか!?」
そう叫ぶと、千代は息を呑んだ。
水神を護るのは神社を納める者のみ。今、それを行えるのは、神主と巫女の血を引いた、千代のみだ。もし千代がいなくなってしまえば、水神はその後どうなるかはわからない。
千代の目には復讐という想いが含まれていたが、若干ながら狼狽え始めていた。あちらこちらを見つつ、やがて水神のところで止まった。
程無くして、逃れようと抵抗していた手は力をなくして、垂れ下がる。そんな彼女の頭を優しく撫でた。
「巫女というのは本来、神と交信し、護るためにいるものです。それが神を利用する立場になったら、そいつと同じことです」
「……けれども、その男を野放しにしておくことはできません」
「それはもちろんです。だから、然るべきところで処罰してもらいましょう。人間の悪行は、人間による手で終わりにするのが一番いい」
「処罰をする前に脱走などされたら……」
「あの状態を見てください」
時彦は幾分落ち着いた千代を解放し、水神の下で息も絶え絶えに横たわっているのを見させた。千代は目を大きく見開きその光景に唖然とする。
「……私がやった結果ですか」
「溺れかけた代償でしょう。なに、この雨です。誤って川に落ちたという可能性ということということにも考えられます」
さっきまで何人も寄せ付けない気配を発し、復讐に命をかけていた千代は、いつのまにか普通の少女へと戻っていた。疲れ一気に出てきてしまったのか、腰を落としてしまう。
『我に何かを望むか』
黙っていた水神が言葉を発した。千代は黙り込んで、己がしたことに関して悔いるかのように口を開こうとはしない。代わりに時彦が恐る恐る答えた。
「いつまでもこの川を、村を、見守り続けてくれませんか?」
『望みの代わりにそなたは何を与えてくれる』
「……貴方をいつまでも大切に護り続ける……というので大丈夫でしょうか」
言ったはいいが自信はないため、視線は下に向いてしまう。最悪、腕くらいは覚悟しようと時彦は思っていた。
すぐに返答はなく、いよいよ望みの代償を上乗せする必要が出てくるという考えがよぎる。その時、今までで聞いた中で一番柔らかな声で返された。
『――承知した』
威圧もまったくなく、時彦自身が己をしっかり保たなくても、聞き入れることができた。
やがて水神は空高く舞い上がったかと思うと、神社の近くにある湖の中へと頭から突っ込んでいった。その瞬間、涼しい空気が一気に周辺や村を流れ込んでいく。思わず目を閉じるが、その優しい風は肌でも充分感じ取れた。
そして目を開けると、何日も村の上空に居座っていた雨雲はいなくなり、空には太陽が現れたのだ。数日ぶりに太陽を見て、時彦はようやく胸を撫で下ろすことができた。
* * *
その後は、数日ごとに雨と晴れの日が入れ替わり、どちらかが一方的に続くと言った極端な天気の移り変わりはなかった。村人たちはその天気に喜び、農作物も順調に育っていった。
伊兵衛は奉行所に送られてからしばらくして、その他の仲間と同様に死罪になったという話を聞いた。時彦が意図的に急所を外した相手も結局は死んでしまい、やるせない想いが募る。だが定彦に言わせれば、そのようなことはよくあることで、そこで立ち止まってしまっては、助けられる人も助けられなくなる恐れがある。
剣を振るい続ける限り、殺さずに生かしても意味がないと感じることもあるかもしれない。だが、殺すことが絶対ではない世の中では、生かすことに何らかの意味はある。また己の手を血で染めるということは、その心の中も血で染めると言うこと。それを定彦はしてほしくないため、綺麗ごとではあるが、“生かす剣”を第一にして、道場を開いているのだ。
話によれば、過去にも血の印を作ろうとした伊兵衛だったが、昔、千代の両親とその時に不意に出てきてしまった水神によって、大怪我を負い、しばらく動けなかった。だが月日を経て、怪我も回復し、血の印を張ることに執着していた結果、先日の殺傷事件が起きたのだ。
時彦の道場の近くで死んでいた男も仲間であり、本来なら雨の中を一人で村を巡回していた千代が血に染まる対象だったらしいが、不意の事故で男自身が死んだらしい。果たして、偶然の事故かどうかはわからないが。最後の漁師の夫婦は何とか夫も一命を取り留めたため、死者は最小限に抑えられたと思いたい。
そんなことを考えながら、時彦は稽古の後に少し休憩をしていたが、思い立ったように立ち上がった。
「父上、少し出かけてきます」
「またいつものところか?」
「はい。約束をしてしまいましたし。できるところからやらなくてはいけません」
「この天気なら雨が降ることもないだろう。行ってこい」
定彦に押されるように、時彦は神社へと急いだ。
村を出てから少し歩いたところにある分かれ道で、隣の村に向かう道ではなく、神社の方へ向かう。最近では通い慣れた道へとなりつつある。分岐点にある祠は、一つの水神のための祠らしく、今日も菖蒲が供えられていた。
鳥居をくぐり、木々に囲まれた参道を歩くと、神社の前に辿り着く。そこには何人かの村人たちが荒れ果てた神社内を片づけ、掃除していた。その中には地味な和服を着た千代も床を磨いていた。そんな彼女に時彦は近づいていく。
「千代さん、こんにちは」
顔を床から時彦へと向けた千代は、少しだけ頬を緩ませた。
「いつもすみません、時彦さん」
「いえ、自分が言ったことですから、水神様のために。何かお手伝いすることはありますか?」
「男の方たちが、社内で物を移動させています。宜しければ、そちらを手伝っていただけませんか?」
「もちろんです。……あの、お時間があったらで構いませんので、夕餉を我が家で食べませんか? 新鮮な野菜を入手できたと言っており、ご迷惑でなければ……」
緊張しつつも言葉を出すと、千代はくすっと笑った。
「ありがとうございます。喜んで行かせていただきます」
爽やかな笑顔を向けられ時彦の頬は朱色を帯び、胸が高鳴った。
昨日は雨が降ったため、しばらく雨は降らないだろう。
水神が奉られている神社の裏にある湖は、穏やかに波をたてながら、静かに佇んでいた。
了
お読みいただき、ありがとうございました!
前書きでも言いましたが、和風企画小説参加作品であり、初めての和物の小説です。
いえ、むしろ設定が和くらいな勢いであり、私としては、現時点での精一杯の和な風味の小説です。
当初はまったく違う設定だったのですが、次第にドシリアスになり……。
しかし今まで入れたかった内容、「雨」、「復讐」というのが上手く混ざり合えて良かったとは思っています。
宜しければ、一言頂けれると、非常に嬉しいです。
ありがとうございました。