中篇
* * *
翌日も雨であった。晴れると期待はしていなかったが、それでも起きて太陽の光を拝めないのは辛い。
定彦の部屋を覗いたが、戻ってきた形跡はなかった。門下生たちには、しばらく定彦は戻らないと伝えておいたので、道場に人が来るのはほとんどいないだろう。彼らの中には師範の助けに参りますと言い、どこにいるかも見当が付かない定彦の後を追った者もいた。
今日の予定も待機のみ。とりあえず庭を一望できる道場前に行こうと思い、移動し始める。やがて雨足が酷くなってきた。これはしばらくすれば土砂降りになるだろうと思っていた矢先――急に甲高い悲鳴が聞こえた。
女性の危機を知らせる声に、時彦は脳よりも体が勝手に動き、敷地内から出る。
声は敷地内から出て、左側の方から聞こえた。その方向にただ走る。それだけしか情報はないため、無作為に調べるしかない。
早くしなければ彼女に対して、何かが起きてしまう。その前に一刻も早く駆けつけなければ――。
焦る思いをあざ笑うかのように、雨の降りは酷くなってくる。風も激しく吹き、前に進むのが辛い。
道着もびしょ濡れで、目を開けて進むのが困難であったが、不意に小さな路地が目に付いた。無人の建物に挟まれた路地。一か八かに賭ながらそこに入ると、赤い袴をはいた黒髪の長い少女が顔を手で埋めて立ち竦んでいた。
ゆっくりと近づくと、地面に広がる異質な光景に気づく。赤黒い液体が流れ出ている。そしてその視線の先には男の後頭部から大量の血が流れ出ていたのだ。近くに大きな廃材があり、雨によって崩れ落ちて当たり、打ち所が悪かったのかもしれない。
男が絶命していることを、手を取って確認をすると、放心状態である少女の元へと近寄った。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
震えながらも顔から手を離すと、真っ赤に目を腫らした顔が露わになる。彼女の顔を見て、時彦は目を瞬かせた。
「千代さん……」
髪は乱れており、恐怖に溢れた表情からはなかなか判別はできなかったが、彼女は間違いなく時彦が一目惚れした少女であった。
「……時彦さんですよね。どうしてここに」
「家がすぐ近くで、悲鳴が聞こえたから飛び出してきたんです。この格好では、ご自宅に戻るにもはばかれるでしょう。雨が止むまで――」
「いえ、申し訳ありませんが、そのご好意は受け取れません。それに雨は何もしなければ止みません。駆けつけてくれて、ありがとうございました。これから一層、雨が強く降る場合もありますので、時彦さんはお気をつけてお戻りください」
何を根拠にそんなことを言っているのだろうか。一方で千代の目から赤みは引き、また表情から恐怖がなくなっていた。
千代が簡単なお礼と挨拶をしたのち、すぐにその場から去ってしまった。出会った頃のようなお淑やかなお嬢様ではなく、まるでどこか戦にでも行くかのような意気込みである。その後ろ姿が、目に焼き付けられ、より惹きつけられた。
時彦の頭の中では、無理にでも止めさせて道場へと連れていくべきだという考えと、そのまま放っておけという考えもあった。だが、結局選んだのは第三の選択肢――。
意を決して、千代の後を追って路地を出れば、赤い袴を着た少女の後ろ姿がまだ見える。全力で走るとすぐに追いつき並ぶことができた。時彦を見た千代は眉を顰める。彼女の口から言葉が漏れる前に言い切った。
「こんな雨の日です。何が起こるかわかりません。護衛として同行してもよろしいですか?」
「剣術には自信がおありなの?」
「父親が師範です。それなりに教育はされています」
立ち止まり、目を細めて、千代は時彦の全体を見渡した。
「一つだけ条件があります」
「何でしょうか」
「私がすることには一切手出しは無用です。その条件が呑めるのなら、護衛をお願い致します」
雨で濡れて体力が減少しているはずだが、千代の表情は乱れることはなかった。時彦は心拍数が上がりつつも、しっかり頷いた。
千代は外見によらず、思ったよりも体力があるようで、雨の中も速度を落とさずに走っていく。行き先は教えてもらえず、時彦はただ後を付いているだけであった。
時に激しく雨が降る中、外に出て歩いている物好きなどおらず、いつもは人々で賑わっている通りは閑散としている。
方角からして、北西の方に向かっているようだ。もう少しで村の端――そう思っていた矢先に、千代が突然立ち止まった。
目を閉じて、呼吸を落ち着かせる。何かを探るかのように、神経を尖らせていた。
そして振り返ると、ただ「戻ります」とだけ言い、今来た道を引き返す。途中で左に曲がり、そのまま直進すれば、真北から村から出るというところに来た。だが突然、後ろから時彦は呼び止められた。
「時彦、こんなところで何をしている」
走りながら振り返ると、そこには定彦ら、村の治安維持の者たちが辺りを警戒しながら立っていた。千代はほんの少し定彦らを垣間見ただけで、立ち止まることもせず、走り続ける。一瞬、板挟みされる状態になった時彦だが、止まらない千代を見て、定彦に向かって一声投げた。
「すぐに戻ります。心配しないでください!」
「時彦、こんな時に出歩いては危険だ!」
「大丈夫ですから!」
背中越しから怒鳴られ声がするが、雨の音にかき消される。帰った際に壮大に怒られるのは重々承知であるが、それよりも千代を放してはいけないと時彦は思っていた。
――あの目は――何かを覚悟している目だ。
やがて村を通り抜け、北にある神社の脇に流れている川が見えた。その手前には小屋があり、近くに小舟も停泊していることから、漁師か何かの部屋であろう。だが、閉じているはずの引き戸は全開だ。僅かに漏れる明かりによる影から、人が争っているのが見える。
目的地はあそこなのだろうが、さすがに疲労も出てきたのか顔を歪ませている千代は、それ以上に速く進むことはできない。そのため時彦は一人で彼女の横を通り過ぎて、一目散に小屋へ直進した。
腰に差していた刀を手で添えつつ、開いた戸の中へと踏み入る。そしてそこに広がる光景を見て、絶句した。
男が三人ほど立っており、その一人が持っている刀からは血が滴っている。その先には腹を切られた男性を女性が泣きながら抱きしめていたのだ。
「貴様、何をしている!」
噛みつくように言うと、うるさそうな目で振り返られた。擦り切れた着物を着ており、腕には大きな傷が入っている強面で体格のいい男である。一瞬、その眼光の強さに怯みそうになったが、奥にいる夫婦の様子を見ると、そんな感情は消え去ってしまった。
すぐに抜刀できる状態にし、負けじと睨み返す。だがその男よりも、後ろにいた細身の男たちが剣を抜いた。
「伊兵衛様、この少年も生贄にしますか」
伊兵衛と呼ばれた強面の男は時彦を見ると、くすりと笑う。
「ああ。多い方に越したことはない」
瞬間、二人が一気に刀を振りかざしてきた。
時彦はぎりぎりまで引きつけ、前に振り払うかのように鋭く刀を抜く。それに驚いた二人は一瞬たたらを踏む。
その隙に下がって、半分外に出る。雨が降り注ぐのはやりにくいが、狭い部屋に他にも一般人もいるところではこれが一番妥当な戦い方だ。
入り口は一人しか通れない。必然的に二人の男のうち一人が先行して、やってくる。
勢いのある振り方ではあるが、流派の欠片もない隙だらけの型だ。毎日定彦にしごかれている時彦にとっては、その勢いすら馬鹿馬鹿しくなってしまう。
振りかざされた刀を易々とかわし、すれ違う瞬間に胴を斬り抜いた。深手ではないため、動きが鈍る程度である。
その勢いで後ろに突っ立っていた男の腕に、今度は容赦なく一斬り与えると、呻き声を発しながら刀を手から落とした。
そして先ほど胴を斬った男が反撃をしてくるが、臑に一斬り入れると、もがきながら倒れ込んだ。
動けなくなった男二人を見ながら、伊兵衛の方へと向く。伊兵衛は妻を人質にとって、時彦をにやけながら上から見下ろしていた。そして挑発するように、妻の頬に刀の先を突きつける。刃が刺さったのか、か細い声を上げた。
「やめろ!」
「なら刀を放せ」
伊兵衛と同じく血で滴っている刀を見た。これを放せということは、同時に屈服することも意味をしている。こんな卑劣な男に従うなど、自分自身の中では許せることではない。だがそうでもしなければ、人質が斬られる。それは時彦の道理にも反する。
やがて伊兵衛の方を見ながら、刀を床に投げた。それを見ると、口を大きく釣り上げる。
「童は素直でよろしい。生贄は多い方がいいからな」
妻を引きずりながら、ゆっくりと近づいてくる。このまま殺されるのだろうか。いや、それでは人を生かすために教え込まれた剣術が無意味になってしまう。伊兵衛との間合いと落とした刀との距離を考えて、最悪の事態に対抗する手段を模索する。
真っ直ぐに来るかと思ったが、少しだけ伊兵衛は右に逸れた。そして時彦が腕に傷を負わせて、座り込んでいる男の前に立った。
「伊兵衛様、申し訳ありま――」
「役立たずは、体を張って、血の贄となれ」
「そ、そんなお待ち――」
言っている途中で、鈍い音がした。男は驚愕の表情で固まり、口から血を吐いて、絶命した。
抱えられていた妻は悲鳴を上げる。そのうるささを振り払うかのように、すぐ近くの壁へと叩きつけた。妻は崩れるようにして床に倒れ込んだ。
そして伊兵衛は新たに付いた血を舌で舐めながら、時彦の方に向いた。
「これで血の贄の印は完成だ。五か所すべてに死者の魂を作り出した。だが、もっと血が欲しい。そうすれば、神を抑えるものも容易になるだろう」
「神……だと?」
何を馬鹿げたことを言っているのだと、笑い飛ばしてやりたかったが、伊兵衛が真顔でそう言っているのを見ると、何かが起こるのかもしれないという気がしてならない。
その時、床を軋む音がした。視線だけを移動をすれば、ずぶ濡れになった千代が小刻みに呼吸をしながら立っていた。先行して時彦は伊兵衛たちの悪事を暴こうと思ったが、それは叶わず、むしろ間の悪いときに彼女は来てしまったのだ。
「また増えた」
嬉しそうに言いながら、千代の方に体を向けた。時彦より、武器を持たないか弱い彼女を先に殺ろうというのか。
だが千代は動じることなく、伊兵衛を鋭い目で見返していた。そして口元が微かに動いていることに気づく。
「最期の念仏か? 意外に信仰心が高いんだな。しかし念じても神などではしない。無駄な抵抗だ」
悠々と近づいていくが、千代はまったく動かない。この状態では時彦が刀を取って斬りかかる時間より、伊兵衛が千代を斬る方が先だ。だが何もしなければ変わらない。殺気がこっちに向かなくなった瞬間を見計らって飛び出そうとした。
「最期に誰かに言葉を残すか?」
今だ、そう思ったが、別のところから発せられる圧力に押されて、動かなくなった。千代の表情が険しくなる。
「――抜かせ。元より死ぬ気などない!」
次の瞬間、伊兵衛の頭上から桶をひっくり返したような雨が突き刺さった。屋根に穴が空いているにしては、偶然すぎる。あまりの水圧に伊兵衛はしゃがみ込む。
「この……女!」
苦々しい言葉をどうにか吐くが、気が付けば伊兵衛の姿はいなくなっていた。千代は冷淡な顔で身を翻して、雨が降り注ぐ外へと出る。
時彦もようやく我に戻りつつ、刀を拾って鞘に戻した。すぐに後を追おうと思ったが、目に入った血塗れの夫の元にまず駆け寄った。脈を計ると、辛うじてある。近くにあった布を傷の患部に当てた。
「私がやります……」
意識が戻ったのかよろけながら、妻は夫の傍に座り込んだ。
「あのお嬢さんは、貴方のお連れ様?」
「お連れ様といいますか、勝手に後を追っているだけと言いますが……」
時彦から受け取った布を使って、赤く染まった背中に押しつける。
「ならば早く後を追いなさい。夫のことは私がどうにかします」
「しかし……」
「お嬢さんの目には漆黒の闇しかありません」
「え……?」
妻は少しだけ会釈をして、真っ直ぐな目で時彦を見てきた。
「随分容姿が変わりましたので、気づきませんでした。あのお嬢さんは――昔、あの男に両親を殺された神主の娘です」
雨は降り続く。
彼女の心の中のように――。