足を洗うなら、手が先です
「旦那様がお帰りになるまでに、血はきれいに落としておいてください」
俺は、銀のスプーンを握ったまま固まった。
「はい。頭のほうは、どうしますか」
「私が落とします。あなたは、そのあと骨を抜いておいて」
分業が成立していた。
廊下の向こうから、とん、とん、と規則正しい音がする。
大きな振り子時計が、そちらに負けじと時を刻んでいた。俺の鼓動だけが、どちらにも合わせられずにいる。
まず、説明しておきたい。
俺は泥棒である。
胸を張って言えることではない。
しかし、この屋敷においてだけは、職種の違いを明確にしておきたかった。
俺は人を殺さない。
そして、人を殺さない人の家に入ったつもりだった。
*
屋敷に忍び込んで、まだ五分も経っていなかった。
夕方、大きな車が一台、門を出ていくのを見た。
金持ちの一家が出かけた。
そう判断した。
大きな屋敷なら、車に乗らなかった人間も大勢いる。
その程度のことに気づかないのだから、俺はそもそも、この仕事にも向いていなかったのだろう。
庭に面した扉から入り、食堂の近くにある食器棚を見つけた。
そこから、銀のスプーンを一本。
まだ一本である。
命と釣り合うかどうかという以前に、引き返すなら今だった。
「奥様は、骨がお嫌いですからね。残っていると、すぐにお気づきになりますよ」
「はい。気をつけます」
奥様までいた。
旦那が戻る前に血を落とし、奥様に気づかれないよう骨を抜く。
夫婦円満のために、誰かがたいへんな目に遭っている。
俺はスプーンを戻そうとした。
そのとき、先ほどの声が、今度はすぐ近くから聞こえた。
「ええ。一人です。まだ中にいます。……はい、お願いいたします」
振り返ると、廊下の曲がり角にメイドが立っていた。
灰色の髪をきっちりまとめ、黒い服に白いエプロン。年は六十前後だろうか。背筋がまっすぐで、片手に携帯電話を持っている。
さっき、自分が頭を落とすと言っていた人だった。
その人が、俺を見ても驚かなかった。
驚いてくれ。
人の家に泥棒がいたんだぞ。
少しくらい、予定にないことが起きた顔をしてくれ。
メイドは電話をしまうと、俺の顔から足元へ、ゆっくり視線を落とした。
「まあ。こんなに」
「すみません」
「廊下が」
振り返ると、磨かれた床に、泥の足跡が点々と続いていた。
侵入口から食器棚まで、たいへん親切な道案内になっている。
「どちらからお入りに?」
「……庭です」
「でしょうね」
わかっているなら聞かないでほしかった。
メイドは俺に近づかず、壁際の小卓を指さした。銀の盆が載っている。
「お持ちのものを、そちらへ置いてください」
俺はスプーンを置いた。
念のため、財布と家の鍵も置いた。
「一本だけです」
「一本でも、いけません」
「はい」
何も言い返せなかった。
相手が殺し屋であろうと、今の指摘は完全に正しかった。
「財布と鍵は、ご自分でお持ちください」
返された。
生きて帰れるのなら、両方とも役に立つものだった。
「お名前は?」
「佐々木です」
「佐々木さん。私は澄江と申します」
殺し屋に自己紹介された。
もっと刃物に似た名前を想像していたので、少し意外だった。
「先ほど、人を呼んでおります。お話は、その方がいらしてから」
尋問は別の担当だった。
大きな家は、何もかも分業だ。
「それまで、こちらでお待ちください。その前に、靴を」
俺は指示されるまま靴を脱ぎ、玄関のたたきへ運んだ。用意されたスリッパに履き替えると、廊下の椅子を示される。
台所の入口から見える場所だった。
縛られる気配も、殴られる気配もない。
逃げようと思えば逃げられそうだった。
それが、かえって恐ろしかった。
逃げたところで無駄なのだ。
この人たちにとっては。
「あの」
椅子に腰を下ろしかけて、俺は言った。
「何か、やらせてください」
「何か?」
「掃除でも、何でもします」
少しでも、役に立つところを見せたかった。
もう、じっと座って順番を待つのは嫌だった。
澄江さんは俺を見て、それから床を見た。
「では、ご自分でつけた足跡だけ、拭いていただけますか」
自分から証拠隠滅を申し出てしまった。
「その手袋は外してください。手も汚れていますね」
言われて脱ぐと、湿った手袋の汚れが指に移っていた。
「あの、俺、もう足を洗います」
ほとんど叫んでいた。
「本当です。今日で最後にします。二度と盗みなんて――」
「手が先です」
澄江さんは洗面台を指さした。
「石鹸を使って、指の間まできちんと」
殺し屋一家は、衛生観念が高かった。
俺の人生が終わる前に、俺の手の雑菌が終わった。
*
俺は廊下を拭いていた。
澄江さんは台所と入口を行き来しながら、ときどき指示を出した。
「そこ、端に残っています」
「はい」
「力任せにこすらない。傷がつきます」
「はい」
「きれいになったところを、また踏まないでください」
「すみません」
俺がこの家に来てから発した言葉の半分は、謝罪だった。
普段からこれくらい謝れる人間なら、もう少しましな人生があった気がする。
床はよく磨かれていた。
雑巾を動かす俺の顔まで、ぼんやり映っている。
自分の足跡を、自分で消す。
このあと俺が消えても、そもそも屋敷へ来ていないことになるのだ。
合理的だった。
合理的すぎて、俺は少し泣いた。
「どうかなさいました?」
「いえ。洗剤が」
「水ですが」
逃げ道のない人だった。
足跡を拭き終えると、澄江さんは入口から床を確かめ、うなずいた。
「丁寧にできるじゃありませんか」
「ありがとうございます」
褒められて嬉しかった。
この状況で、褒められて嬉しかった自分が悲しかった。
「では、その辺りでお待ちください。私は火を見てきますので」
台所へ戻る背中を見送り、俺は椅子のほうを向いた。
そこで、見つけてしまった。
椅子の前に敷かれた、薄い色の絨毯。
その隅に、赤黒い染みがある。
血。
まだ残っている。
『旦那様がお帰りになるまでに、血はきれいに落としておいてください』
俺は廊下だけを拭いて、仕事を終えた気になっていた。
危ないところだった。
いや、これは俺につけられた仕事ではない。
つけられた仕事ではないが、ここで気が利くところを見せれば、
『こいつ、便利だな』
となる可能性がある。
犯罪組織への就職という、最悪の生存ルートだった。
掃除道具の籠から新しい白い布を取り、水で湿らせる。こすって広げないよう、染みの端から押さえた。
昔、清掃のアルバイトをしたことがある。
あのころも、これくらい真面目に働いておけばよかった。
顔を近づけると、かすかに酒の匂いがした。
ワインか。
いい酒を飲ませてから殺すのだろうか。
気遣いの配分が、どうかしている。
「あの」
声に振り向くと、若いメイドが立っていた。
二十歳そこそこだろう。頬に少しそばかすがあり、髪を後ろで一つに結んでいる。白いエプロンには、赤い点がいくつかついていた。
手には、食器を載せた盆を持っている。
頭について質問していた声だった。
「お手伝いの方ですか?」
「……今は、そうです」
「よかった。私、小春といいます。入ったばかりで、今日で三日目なんです」
三日。
俺より、ずいぶん先輩だった。
「今日はお客様が二十人もいらっしゃるので、朝から大変で」
「二十人」
「はい」
「一度に?」
「はい」
にこやかに答えられた。
この若さで、もう感覚が麻痺している。
「下準備は済んでいるから、二人いれば何とかなるって澄江さんはおっしゃるんですけど」
二人で二十人。
一人十人。
それを三日目に任せるな。
「私、まだ全然慣れなくて。失敗しないようにしなきゃと思うと、余計に手が震えちゃうんです」
小春さんは、盆を持ち直した。
まだ、引き返せるんじゃないか。
俺は思った。
自分のことは棚に上げた。盗みに入ってから、物を棚に戻すのはこれが初めてだった。
「辞めようとは、思わないのか」
「え?」
「その……仕事」
小春さんは目を丸くして、それから困ったように笑った。
「まだ三日目ですから。せっかく雇っていただけたんですし、もう少し頑張りたいです」
真面目だった。
真面目な人は、どうして頑張ってはいけない場所でまで頑張るのだろう。
「あ。ちょっと待っていてください」
小春さんは食堂に盆を置いて戻ってくると、ポケットから飴玉を取り出した。
「これ、どうぞ。旦那様にいただいたんです。働いてると、お腹がすくだろうって」
俺の手に、黄色い包みが乗った。
「甘いもの、お嫌いでなければ」
「……好きです」
「よかった」
台所から、小春さんを呼ぶ声がした。
「じゃあ、私、戻りますね」
「あの」
「はい?」
逃げたほうがいい。
言いかけて、台所の入口を見た。
澄江さんがこちらを見ている。
「……気をつけて」
「ありがとうございます」
小春さんは笑って戻っていった。
俺は、飴の包みを開けた。
レモン味だった。
人生最後の味が、思ったより爽やかで困った。
*
絨毯の染みが少し薄くなったころ、台所の奥で鍋の蓋が鳴った。
澄江さんが入口から姿を消す。
小春さんの声も、奥のほうから聞こえていた。
今だけ、廊下を見ている人がいない。
俺は使った布を、バケツの縁にきちんとかけた。
逃げるときまで怒られたくなかった。
庭に面した扉までは、すぐだった。
もちろん、外に仲間が待っている可能性はある。
しかし、このまま待っていれば、電話で呼ばれた何者かが来る。
どちらにせよ、賭けだ。
靴は玄関にある。
取りに戻る余裕はない。スリッパのままでいい。
廊下を進む。
俺が磨いたおかげで、床はつるつるだった。
転んだら、あまりにも自業自得だ。
扉の取っ手に手をかける。
開いた。
風が入り、頬を冷やした。
土の匂いがした。
どうということのない、夕暮れの庭だった。
こんなに素晴らしい庭を、俺はほかに知らない。
あと一歩。
そのとき。
台所で、何かが派手に割れた。
「きゃっ」
小春さんの声だった。
「ご、ごめんなさい!」
俺の足が止まった。
「旦那様が大事になさってるものなのに……私……」
続いて、澄江さんの低い声。
「小春さん。動かないで」
「……私、クビになりますか」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
普通の家なら、仕事を辞めさせられるという意味だろう。
普通の家なら。
だが、この家では、ついさっきまで頭を落とす相談が行われていた。
「そこにいてください。危ないですから」
硬いものに、金属が当たる音がした。
包丁を置いたのか。
別のものを持ったのか。
見えないことが、すべて悪いほうへ想像できた。
「旦那様がお戻りになる前に、片づけましょう」
最初と同じだった。
旦那様が戻る前に。
血を落として。
きれいに。
庭では、葉が風に揺れていた。
逃げられる。
今なら、逃げられる。
小春さんは、俺の名前も知らない。
俺がいなくなったって、恨みようさえないだろう。
俺は、口の中の飴を噛んだ。
ぱき、と小さな音がした。
酸っぱさが、一度に広がった。
あの子は、俺と違って、仕事をしに来ただけなのだ。
金を盗みに来て、自分よりましな人間を見殺しにして帰る。
そこまで駄目な人間になって、俺はどこへ帰るつもりなのだろう。
「……くそ」
俺は、扉を閉めた。
良心というのは、レモン味の飴玉一個で戻ってくるらしい。
そんなに安いのなら、もっと早く買っておけばよかった。
玄関のほうで、扉の開く音がした。
「ただいま。ずいぶんいい匂いだねえ」
男の声。
旦那様だ。
この状況で、食欲があるのか。
俺は、台所へ走った。
*
「その子だけは、見逃してやってくれ!」
俺の声が、台所に響いた。
小春さんが、びくりと肩を震わせた。
澄江さんが、こちらを向いた。
二人とも、驚いていた。
よかった。
まだ驚くことはあるらしい。
小春さんは中央の作業台の向こうで、身を縮めていた。
澄江さんのそばの台には、大きな包丁が置いてある。
間に合った。
「銀のスプーンを盗んだのは、俺だ!」
「存じております」
勢いが、少し落ちた。
「その子は、悪くない!」
「何のお話でしょう」
もっと落ちた。
しかし、ここで引くわけにはいかなかった。
俺は入口脇で両膝をつき、床に頭を下げた。
「俺を、煮るなり焼くなりしてくれていい!」
口にしてから、心底後悔した。
この家では、それは決意表明ではなく、調理法の希望になる。
「でも、小春さんだけは殺さないでくれ!」
沈黙。
長い沈黙だった。
床には、俺の指が十本見えていた。
あと何秒、全部そろっているだろうか。
澄江さんが、静かに言った。
「佐々木さん。まず、そこをお退きください」
「嫌だ」
「困ります」
「どかない。俺から先にしろ」
「オーブンが開きません」
俺は顔を上げた。
膝の横に、大きなオーブンがあった。
中が、赤く明るい。
「……もう、準備を」
「焼きすぎてしまいますから」
俺は無意識に、少し横へずれた。
澄江さんは厚い手袋をはめると、オーブンを開けた。
熱気が広がった。
バターの匂いがした。
出てきたのは、パンだった。
丸くて、つやつやしていて、こんがり焼けたパンだった。
どう見ても、最初からパンだった。
「……パン」
「パンです」
「人は」
「焼いておりません」
澄江さんは、天板を台の上に置いた。
俺は立ち上がり、初めて台所全体を見た。
大きな鍋。
刻まれた野菜。
ボウルいっぱいの葉物。
レモン。
香草。
盛りつけを待つ料理。
そして、銀色の皮が残った白い切り身。
その脇のトレーに、鯛の頭が載っていた。
俺は、それを指さした。
「……血は」
「鯛の血です」
「頭は」
「鯛の頭です」
「骨も?」
「鯛にも骨はございます」
知らないところで、鯛がずいぶんたいへんな目に遭っていた。
「奥様は、小骨がお嫌いなので、丁寧に取っておりました」
澄江さんは、ひどく不思議そうに俺を見ていた。
俺の中でも、不思議なくらい急速に、いろいろなものが崩れていた。
「あの、絨毯の、赤い染みは」
「絨毯?」
「俺が拭いていた……」
「ああ。昼食のときにこぼれた、赤ワインです」
「……ワイン」
「落としてくださっていたんですね。ありがとうございます」
「いえ」
俺は、新しい布まで使って、頼まれていない掃除をしていた。
小春さんが、口元を押さえた。
肩が小さく震えている。
泣いているのでは、なさそうだった。
「じゃあ、二十人っていうのは」
「本日のお誕生会のお客様です」
澄江さんが答えた。
「旦那様が、七十歳になられましたので」
二十人まとめて始末する日ではなかった。
一人の人間が七十歳まで生きたことを祝う日だった。
方向性が、真逆だった。
俺は、小春さんを見た。
「……クビって」
「お仕事を辞めさせられるんじゃないかと思って」
小春さんは、足元を指さした。
作業台の向こう側に、大皿の破片が散らばっていた。
その脇には、箒と金属のちり取り。
澄江さんは、小春さんが破片を踏まないよう、その場にいさせていたらしい。
「旦那様のお気に入りを、落としてしまって」
俺は皿を見た。
小春さんの首を見た。
もう一度、皿を見た。
命を賭けた救出劇の現場に、割れた皿が一枚あった。
「ずいぶん賑やかだね」
入口から、白髪の男が顔をのぞかせた。
柔らかい色のセーターを着た、穏やかそうな老人だった。
後ろから、小さな女の子が「じいじ、おばあちゃんは?」と顔を出す。
旦那様は、俺を見た。
「その方は?」
「泥棒でございます」
澄江さんが答えた。
呼び名だけが、現実に戻った。
「……そういう余興は、頼んでいないが」
「本物です」
なぜか俺が補足した。
ここで本業に誇りを持つ必要は、まったくなかった。
旦那様の顔から、笑みが消えた。
孫を自分の後ろへ下がらせる。
「大丈夫なのかい、澄江さん」
「はい。警察には、すでに通報しております」
警察。
その響きが、これほど頼もしく聞こえたのは初めてだった。
「さっきの電話って」
「警察です」
「一人です、まだ中にいます、っていうのは」
「あなたのことです」
そこだけは、合っていた。
「いつから気づいてたんですか」
「食器棚を開けていらしたときです。廊下の鏡に映っておりましたので」
あの大きな鏡か。
金持ちは、防犯設備まで額縁が立派だった。
澄江さんが事情を説明するあいだ、俺は小さくなって立っていた。
旦那様の眉は何度か上がり、俺が土下座したくだりでは、元の位置へ戻るのを忘れたようだった。
「人を殺す家だと、思っていたんですか」
小春さんが尋ねた。
「……はい」
「それで、私のことを」
俺はうなずいた。
小春さんは少しだけ目を伏せて、それから、笑わずに言った。
「ありがとうございます」
胸の奥が、変に熱くなった。
「でも、泥棒は駄目です」
「はい」
叱られ方が、だいぶ幼かった。
反論できる材料も、その程度しか持ち合わせていなかった。
旦那様は、床の破片に目をやった。
小春さんが、慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません。私が、落としてしまって」
「怪我は?」
「していません」
「それならよかった」
旦那様は、ほっとしたように息を吐いた。
「皿は残念だが、次からは両手で運んでおくれ」
「……はい」
「私も若いころ、同じ失敗をしている。そんな顔をしなくていい」
俺は、旦那様の首を見た。
なるほど。
ついている。
「ただ」
旦那様が、今度は俺を見た。
俺は背筋を伸ばした。
「君がその子を助けようとしたことと、うちへ盗みに入ったことは、別の話だね」
「……はい」
善行と犯罪は、合算して帳尻を合わせられないらしかった。
もっともだった。
*
ほどなくして、警官が二人やって来た。
俺は、玄関へ迎えに出そうになった。
澄江さんに止められた。
「お客様をお迎えするのは、私の仕事です」
「すみません」
役割分担に厳しい家だった。
玄関から入ってきた警官が、澄江さんに俺を示して確認する。
それから、こちらを向いた。
「お名前を教えてください」
「佐々木です。助かりました、お巡りさん」
「……はい?」
何でもありません、と俺は首を振った。
さっきまでは、殺されるのが怖かった。
今は一刻も早く、この家から連れ出してほしかった。
無事だとわかった途端、恥ずかしさで死にそうになっていた。
俺は住所を答え、銀のスプーンを盗もうとしたことを認めた。
何があったのか説明しようとしたときには、
「まず、鯛の頭なんですが」
と始めてしまい、
「あなたがしたことからお願いします」
と、やんわり止められた。
澄江さんも、もう一人の警官から、今後は相手と距離を取って安全な場所で待つよう言われていた。
「承知いたしました」
澄江さんは素直に頭を下げた。
この人も、叱られることがあるのか。
不思議なものを見た気がしたが、叱られる原因を作ったのは俺だった。
やがて、銀のスプーンが載った盆が運ばれてきた。
あれほどの騒ぎの原因にしては、頼りなく小さかった。
柄の先に、細かな模様が彫ってある。
俺が勝手に、金に換えようとしたものだ。
そのスプーンにも、割れた皿にも、使っていた人の時間があったのだろう。
そんな当たり前のことを、俺は他人の家の床を拭き終わってから考えていた。
「すみませんでした」
今度の謝罪は、骨を抜かれないためではなかった。
旦那様は、黙ってうなずいた。
*
屋敷を出る前、澄江さんが玄関で俺の靴を拭いていた。
たたきには新聞紙が敷かれている。
靴底についていた泥が、丁寧に落とされていた。
「……そこまでしてくれるんですか」
「お巡りさんの車を、汚してしまいますから」
理由が、一貫していた。
俺は靴を履いた。
借りていたスリッパをそろえる。
さっき逃げようとした庭の扉ではなく、玄関から外へ出た。
食堂のほうから、家族の声がした。
小春さんが何かを運び、女の子がケーキを見つけて喜んでいる。
誰かが七十歳になった夜だった。
それだけの夜を、俺が勝手に、ずいぶん物騒にした。
玄関先で振り返ると、澄江さんが立っていた。
「あの」
「はい」
「俺、本当に、足を洗います」
澄江さんは、俺の靴を一度見た。
それから、顔を上げた。
「ええ。今度は、ご自分で」
俺は、もう一度、頭を下げた。
パトカーの後部座席に座ると、身体から力が抜けた。
指先には、まだ、濡れた布を絞っていた感触が残っている。
助手席の警官が振り返った。
「では、続きは署で。洗いざらい話してくださいね」
俺は、自分の両手を見た。
指の腹が、少ししわしわになっていた。
「……まだ洗うんですか」
警官が、黙って俺を見た。
俺は慌てて、言い直した。
「全部、話します」
掃除も料理も、途中の会話だけを聞くと、なかなか物騒です。
「血を落として」「頭を落として」「跡を残さないで」。
何の話をしているか、当人同士にはわかっている。そこへ、やましいことのある人間が一人入り込むと、立派な殺し屋一家が出来上がります。構成員の大半は、本人の想像力ですが。
今回の泥棒は、ほとんど何も正しく理解できていません。
それでも、逃げられる場面で引き返したことだけは、間違いではなかったと思います。もちろん、スプーンの件は別勘定です。
命懸けの潜入劇になるはずが、気づけば、ずいぶん床のきれいになる話になりました。
なお、全員の誤解が解けて丸く収まったように見えますが、鯛だけは最初から最後まで、聞こえたとおりの目に遭っています。
本日の主菜です。




