↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

足を洗うなら、手が先です

作者: 週休七日
掲載日:2026/09/23

「旦那様がお帰りになるまでに、血はきれいに落としておいてください」


 俺は、銀のスプーンを握ったまま固まった。


「はい。頭のほうは、どうしますか」

「私が落とします。あなたは、そのあと骨を抜いておいて」


 分業が成立していた。


 廊下の向こうから、とん、とん、と規則正しい音がする。

 大きな振り子時計が、そちらに負けじと時を刻んでいた。俺の鼓動だけが、どちらにも合わせられずにいる。


 まず、説明しておきたい。


 俺は泥棒である。


 胸を張って言えることではない。

 しかし、この屋敷においてだけは、職種の違いを明確にしておきたかった。


 俺は人を殺さない。

 そして、人を殺さない人の家に入ったつもりだった。



     *



 屋敷に忍び込んで、まだ五分も経っていなかった。


 夕方、大きな車が一台、門を出ていくのを見た。

 金持ちの一家が出かけた。

 そう判断した。


 大きな屋敷なら、車に乗らなかった人間も大勢いる。


 その程度のことに気づかないのだから、俺はそもそも、この仕事にも向いていなかったのだろう。


 庭に面した扉から入り、食堂の近くにある食器棚を見つけた。

 そこから、銀のスプーンを一本。


 まだ一本である。


 命と釣り合うかどうかという以前に、引き返すなら今だった。


「奥様は、骨がお嫌いですからね。残っていると、すぐにお気づきになりますよ」

「はい。気をつけます」


 奥様までいた。


 旦那が戻る前に血を落とし、奥様に気づかれないよう骨を抜く。

 夫婦円満のために、誰かがたいへんな目に遭っている。


 俺はスプーンを戻そうとした。


 そのとき、先ほどの声が、今度はすぐ近くから聞こえた。


「ええ。一人です。まだ中にいます。……はい、お願いいたします」


 振り返ると、廊下の曲がり角にメイドが立っていた。


 灰色の髪をきっちりまとめ、黒い服に白いエプロン。年は六十前後だろうか。背筋がまっすぐで、片手に携帯電話を持っている。


 さっき、自分が頭を落とすと言っていた人だった。


 その人が、俺を見ても驚かなかった。


 驚いてくれ。


 人の家に泥棒がいたんだぞ。

 少しくらい、予定にないことが起きた顔をしてくれ。


 メイドは電話をしまうと、俺の顔から足元へ、ゆっくり視線を落とした。


「まあ。こんなに」

「すみません」

「廊下が」


 振り返ると、磨かれた床に、泥の足跡が点々と続いていた。

 侵入口から食器棚まで、たいへん親切な道案内になっている。


「どちらからお入りに?」

「……庭です」

「でしょうね」


 わかっているなら聞かないでほしかった。


 メイドは俺に近づかず、壁際の小卓を指さした。銀の盆が載っている。


「お持ちのものを、そちらへ置いてください」


 俺はスプーンを置いた。

 念のため、財布と家の鍵も置いた。


「一本だけです」

「一本でも、いけません」

「はい」


 何も言い返せなかった。

 相手が殺し屋であろうと、今の指摘は完全に正しかった。


「財布と鍵は、ご自分でお持ちください」


 返された。


 生きて帰れるのなら、両方とも役に立つものだった。


「お名前は?」

「佐々木です」

「佐々木さん。私は澄江と申します」


 殺し屋に自己紹介された。

 もっと刃物に似た名前を想像していたので、少し意外だった。


「先ほど、人を呼んでおります。お話は、その方がいらしてから」


 尋問は別の担当だった。


 大きな家は、何もかも分業だ。


「それまで、こちらでお待ちください。その前に、靴を」


 俺は指示されるまま靴を脱ぎ、玄関のたたきへ運んだ。用意されたスリッパに履き替えると、廊下の椅子を示される。


 台所の入口から見える場所だった。


 縛られる気配も、殴られる気配もない。

 逃げようと思えば逃げられそうだった。


 それが、かえって恐ろしかった。


 逃げたところで無駄なのだ。

 この人たちにとっては。


「あの」


 椅子に腰を下ろしかけて、俺は言った。


「何か、やらせてください」

「何か?」

「掃除でも、何でもします」


 少しでも、役に立つところを見せたかった。

 もう、じっと座って順番を待つのは嫌だった。


 澄江さんは俺を見て、それから床を見た。


「では、ご自分でつけた足跡だけ、拭いていただけますか」


 自分から証拠隠滅を申し出てしまった。


「その手袋は外してください。手も汚れていますね」


 言われて脱ぐと、湿った手袋の汚れが指に移っていた。


「あの、俺、もう足を洗います」


 ほとんど叫んでいた。


「本当です。今日で最後にします。二度と盗みなんて――」


「手が先です」


 澄江さんは洗面台を指さした。


「石鹸を使って、指の間まできちんと」


 殺し屋一家は、衛生観念が高かった。


 俺の人生が終わる前に、俺の手の雑菌が終わった。



     *



 俺は廊下を拭いていた。


 澄江さんは台所と入口を行き来しながら、ときどき指示を出した。


「そこ、端に残っています」

「はい」

「力任せにこすらない。傷がつきます」

「はい」

「きれいになったところを、また踏まないでください」

「すみません」


 俺がこの家に来てから発した言葉の半分は、謝罪だった。

 普段からこれくらい謝れる人間なら、もう少しましな人生があった気がする。


 床はよく磨かれていた。

 雑巾を動かす俺の顔まで、ぼんやり映っている。


 自分の足跡を、自分で消す。


 このあと俺が消えても、そもそも屋敷へ来ていないことになるのだ。


 合理的だった。

 合理的すぎて、俺は少し泣いた。


「どうかなさいました?」

「いえ。洗剤が」

「水ですが」


 逃げ道のない人だった。


 足跡を拭き終えると、澄江さんは入口から床を確かめ、うなずいた。


「丁寧にできるじゃありませんか」

「ありがとうございます」


 褒められて嬉しかった。

 この状況で、褒められて嬉しかった自分が悲しかった。


「では、その辺りでお待ちください。私は火を見てきますので」


 台所へ戻る背中を見送り、俺は椅子のほうを向いた。


 そこで、見つけてしまった。


 椅子の前に敷かれた、薄い色の絨毯。

 その隅に、赤黒い染みがある。


 血。


 まだ残っている。


『旦那様がお帰りになるまでに、血はきれいに落としておいてください』


 俺は廊下だけを拭いて、仕事を終えた気になっていた。


 危ないところだった。


 いや、これは俺につけられた仕事ではない。

 つけられた仕事ではないが、ここで気が利くところを見せれば、


『こいつ、便利だな』


 となる可能性がある。


 犯罪組織への就職という、最悪の生存ルートだった。


 掃除道具の籠から新しい白い布を取り、水で湿らせる。こすって広げないよう、染みの端から押さえた。


 昔、清掃のアルバイトをしたことがある。

 あのころも、これくらい真面目に働いておけばよかった。


 顔を近づけると、かすかに酒の匂いがした。


 ワインか。


 いい酒を飲ませてから殺すのだろうか。


 気遣いの配分が、どうかしている。


「あの」


 声に振り向くと、若いメイドが立っていた。


 二十歳そこそこだろう。頬に少しそばかすがあり、髪を後ろで一つに結んでいる。白いエプロンには、赤い点がいくつかついていた。

 手には、食器を載せた盆を持っている。


 頭について質問していた声だった。


「お手伝いの方ですか?」

「……今は、そうです」

「よかった。私、小春といいます。入ったばかりで、今日で三日目なんです」


 三日。


 俺より、ずいぶん先輩だった。


「今日はお客様が二十人もいらっしゃるので、朝から大変で」

「二十人」

「はい」

「一度に?」

「はい」


 にこやかに答えられた。


 この若さで、もう感覚が麻痺している。


「下準備は済んでいるから、二人いれば何とかなるって澄江さんはおっしゃるんですけど」


 二人で二十人。


 一人十人。


 それを三日目に任せるな。


「私、まだ全然慣れなくて。失敗しないようにしなきゃと思うと、余計に手が震えちゃうんです」


 小春さんは、盆を持ち直した。


 まだ、引き返せるんじゃないか。


 俺は思った。

 自分のことは棚に上げた。盗みに入ってから、物を棚に戻すのはこれが初めてだった。


「辞めようとは、思わないのか」

「え?」

「その……仕事」


 小春さんは目を丸くして、それから困ったように笑った。


「まだ三日目ですから。せっかく雇っていただけたんですし、もう少し頑張りたいです」


 真面目だった。


 真面目な人は、どうして頑張ってはいけない場所でまで頑張るのだろう。


「あ。ちょっと待っていてください」


 小春さんは食堂に盆を置いて戻ってくると、ポケットから飴玉を取り出した。


「これ、どうぞ。旦那様にいただいたんです。働いてると、お腹がすくだろうって」


 俺の手に、黄色い包みが乗った。


「甘いもの、お嫌いでなければ」

「……好きです」

「よかった」


 台所から、小春さんを呼ぶ声がした。


「じゃあ、私、戻りますね」

「あの」

「はい?」


 逃げたほうがいい。


 言いかけて、台所の入口を見た。

 澄江さんがこちらを見ている。


「……気をつけて」

「ありがとうございます」


 小春さんは笑って戻っていった。


 俺は、飴の包みを開けた。


 レモン味だった。


 人生最後の味が、思ったより爽やかで困った。



     *



 絨毯の染みが少し薄くなったころ、台所の奥で鍋の蓋が鳴った。


 澄江さんが入口から姿を消す。

 小春さんの声も、奥のほうから聞こえていた。


 今だけ、廊下を見ている人がいない。


 俺は使った布を、バケツの縁にきちんとかけた。

 逃げるときまで怒られたくなかった。


 庭に面した扉までは、すぐだった。


 もちろん、外に仲間が待っている可能性はある。

 しかし、このまま待っていれば、電話で呼ばれた何者かが来る。


 どちらにせよ、賭けだ。


 靴は玄関にある。

 取りに戻る余裕はない。スリッパのままでいい。


 廊下を進む。

 俺が磨いたおかげで、床はつるつるだった。


 転んだら、あまりにも自業自得だ。


 扉の取っ手に手をかける。


 開いた。


 風が入り、頬を冷やした。

 土の匂いがした。

 どうということのない、夕暮れの庭だった。


 こんなに素晴らしい庭を、俺はほかに知らない。


 あと一歩。


 そのとき。


 台所で、何かが派手に割れた。


「きゃっ」


 小春さんの声だった。


「ご、ごめんなさい!」


 俺の足が止まった。


「旦那様が大事になさってるものなのに……私……」


 続いて、澄江さんの低い声。


「小春さん。動かないで」

「……私、クビになりますか」


 心臓が、嫌な跳ね方をした。


 普通の家なら、仕事を辞めさせられるという意味だろう。


 普通の家なら。


 だが、この家では、ついさっきまで頭を落とす相談が行われていた。


「そこにいてください。危ないですから」


 硬いものに、金属が当たる音がした。


 包丁を置いたのか。

 別のものを持ったのか。


 見えないことが、すべて悪いほうへ想像できた。


「旦那様がお戻りになる前に、片づけましょう」


 最初と同じだった。


 旦那様が戻る前に。

 血を落として。

 きれいに。


 庭では、葉が風に揺れていた。


 逃げられる。


 今なら、逃げられる。


 小春さんは、俺の名前も知らない。

 俺がいなくなったって、恨みようさえないだろう。


 俺は、口の中の飴を噛んだ。


 ぱき、と小さな音がした。

 酸っぱさが、一度に広がった。


 あの子は、俺と違って、仕事をしに来ただけなのだ。


 金を盗みに来て、自分よりましな人間を見殺しにして帰る。


 そこまで駄目な人間になって、俺はどこへ帰るつもりなのだろう。


「……くそ」


 俺は、扉を閉めた。


 良心というのは、レモン味の飴玉一個で戻ってくるらしい。


 そんなに安いのなら、もっと早く買っておけばよかった。


 玄関のほうで、扉の開く音がした。


「ただいま。ずいぶんいい匂いだねえ」


 男の声。


 旦那様だ。


 この状況で、食欲があるのか。


 俺は、台所へ走った。



     *



「その子だけは、見逃してやってくれ!」


 俺の声が、台所に響いた。


 小春さんが、びくりと肩を震わせた。

 澄江さんが、こちらを向いた。


 二人とも、驚いていた。


 よかった。

 まだ驚くことはあるらしい。


 小春さんは中央の作業台の向こうで、身を縮めていた。

 澄江さんのそばの台には、大きな包丁が置いてある。


 間に合った。


「銀のスプーンを盗んだのは、俺だ!」

「存じております」


 勢いが、少し落ちた。


「その子は、悪くない!」

「何のお話でしょう」


 もっと落ちた。


 しかし、ここで引くわけにはいかなかった。


 俺は入口脇で両膝をつき、床に頭を下げた。


「俺を、煮るなり焼くなりしてくれていい!」


 口にしてから、心底後悔した。


 この家では、それは決意表明ではなく、調理法の希望になる。


「でも、小春さんだけは殺さないでくれ!」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 床には、俺の指が十本見えていた。

 あと何秒、全部そろっているだろうか。


 澄江さんが、静かに言った。


「佐々木さん。まず、そこをお退きください」

「嫌だ」

「困ります」

「どかない。俺から先にしろ」

「オーブンが開きません」


 俺は顔を上げた。


 膝の横に、大きなオーブンがあった。

 中が、赤く明るい。


「……もう、準備を」

「焼きすぎてしまいますから」


 俺は無意識に、少し横へずれた。


 澄江さんは厚い手袋をはめると、オーブンを開けた。


 熱気が広がった。


 バターの匂いがした。


 出てきたのは、パンだった。


 丸くて、つやつやしていて、こんがり焼けたパンだった。


 どう見ても、最初からパンだった。


「……パン」

「パンです」

「人は」

「焼いておりません」


 澄江さんは、天板を台の上に置いた。


 俺は立ち上がり、初めて台所全体を見た。


 大きな鍋。

 刻まれた野菜。

 ボウルいっぱいの葉物。

 レモン。

 香草。

 盛りつけを待つ料理。


 そして、銀色の皮が残った白い切り身。

 その脇のトレーに、鯛の頭が載っていた。


 俺は、それを指さした。


「……血は」

「鯛の血です」

「頭は」

「鯛の頭です」

「骨も?」

「鯛にも骨はございます」


 知らないところで、鯛がずいぶんたいへんな目に遭っていた。


「奥様は、小骨がお嫌いなので、丁寧に取っておりました」


 澄江さんは、ひどく不思議そうに俺を見ていた。


 俺の中でも、不思議なくらい急速に、いろいろなものが崩れていた。


「あの、絨毯の、赤い染みは」

「絨毯?」

「俺が拭いていた……」

「ああ。昼食のときにこぼれた、赤ワインです」

「……ワイン」

「落としてくださっていたんですね。ありがとうございます」

「いえ」


 俺は、新しい布まで使って、頼まれていない掃除をしていた。


 小春さんが、口元を押さえた。

 肩が小さく震えている。


 泣いているのでは、なさそうだった。


「じゃあ、二十人っていうのは」

「本日のお誕生会のお客様です」


 澄江さんが答えた。


「旦那様が、七十歳になられましたので」


 二十人まとめて始末する日ではなかった。

 一人の人間が七十歳まで生きたことを祝う日だった。


 方向性が、真逆だった。


 俺は、小春さんを見た。


「……クビって」

「お仕事を辞めさせられるんじゃないかと思って」


 小春さんは、足元を指さした。


 作業台の向こう側に、大皿の破片が散らばっていた。

 その脇には、箒と金属のちり取り。


 澄江さんは、小春さんが破片を踏まないよう、その場にいさせていたらしい。


「旦那様のお気に入りを、落としてしまって」


 俺は皿を見た。

 小春さんの首を見た。

 もう一度、皿を見た。


 命を賭けた救出劇の現場に、割れた皿が一枚あった。


「ずいぶん賑やかだね」


 入口から、白髪の男が顔をのぞかせた。


 柔らかい色のセーターを着た、穏やかそうな老人だった。

 後ろから、小さな女の子が「じいじ、おばあちゃんは?」と顔を出す。


 旦那様は、俺を見た。


「その方は?」

「泥棒でございます」


 澄江さんが答えた。


 呼び名だけが、現実に戻った。


「……そういう余興は、頼んでいないが」

「本物です」


 なぜか俺が補足した。

 ここで本業に誇りを持つ必要は、まったくなかった。


 旦那様の顔から、笑みが消えた。

 孫を自分の後ろへ下がらせる。


「大丈夫なのかい、澄江さん」

「はい。警察には、すでに通報しております」


 警察。


 その響きが、これほど頼もしく聞こえたのは初めてだった。


「さっきの電話って」

「警察です」

「一人です、まだ中にいます、っていうのは」

「あなたのことです」


 そこだけは、合っていた。


「いつから気づいてたんですか」

「食器棚を開けていらしたときです。廊下の鏡に映っておりましたので」


 あの大きな鏡か。


 金持ちは、防犯設備まで額縁が立派だった。


 澄江さんが事情を説明するあいだ、俺は小さくなって立っていた。

 旦那様の眉は何度か上がり、俺が土下座したくだりでは、元の位置へ戻るのを忘れたようだった。


「人を殺す家だと、思っていたんですか」


 小春さんが尋ねた。


「……はい」

「それで、私のことを」


 俺はうなずいた。


 小春さんは少しだけ目を伏せて、それから、笑わずに言った。


「ありがとうございます」


 胸の奥が、変に熱くなった。


「でも、泥棒は駄目です」

「はい」


 叱られ方が、だいぶ幼かった。

 反論できる材料も、その程度しか持ち合わせていなかった。


 旦那様は、床の破片に目をやった。


 小春さんが、慌てて頭を下げる。


「申し訳ありません。私が、落としてしまって」

「怪我は?」

「していません」

「それならよかった」


 旦那様は、ほっとしたように息を吐いた。


「皿は残念だが、次からは両手で運んでおくれ」

「……はい」

「私も若いころ、同じ失敗をしている。そんな顔をしなくていい」


 俺は、旦那様の首を見た。


 なるほど。

 ついている。


「ただ」


 旦那様が、今度は俺を見た。


 俺は背筋を伸ばした。


「君がその子を助けようとしたことと、うちへ盗みに入ったことは、別の話だね」

「……はい」


 善行と犯罪は、合算して帳尻を合わせられないらしかった。


 もっともだった。



     *



 ほどなくして、警官が二人やって来た。


 俺は、玄関へ迎えに出そうになった。

 澄江さんに止められた。


「お客様をお迎えするのは、私の仕事です」

「すみません」


 役割分担に厳しい家だった。


 玄関から入ってきた警官が、澄江さんに俺を示して確認する。

 それから、こちらを向いた。


「お名前を教えてください」

「佐々木です。助かりました、お巡りさん」

「……はい?」


 何でもありません、と俺は首を振った。


 さっきまでは、殺されるのが怖かった。

 今は一刻も早く、この家から連れ出してほしかった。


 無事だとわかった途端、恥ずかしさで死にそうになっていた。


 俺は住所を答え、銀のスプーンを盗もうとしたことを認めた。


 何があったのか説明しようとしたときには、


「まず、鯛の頭なんですが」


 と始めてしまい、


「あなたがしたことからお願いします」


 と、やんわり止められた。


 澄江さんも、もう一人の警官から、今後は相手と距離を取って安全な場所で待つよう言われていた。


「承知いたしました」


 澄江さんは素直に頭を下げた。


 この人も、叱られることがあるのか。


 不思議なものを見た気がしたが、叱られる原因を作ったのは俺だった。


 やがて、銀のスプーンが載った盆が運ばれてきた。


 あれほどの騒ぎの原因にしては、頼りなく小さかった。

 柄の先に、細かな模様が彫ってある。


 俺が勝手に、金に換えようとしたものだ。


 そのスプーンにも、割れた皿にも、使っていた人の時間があったのだろう。

 そんな当たり前のことを、俺は他人の家の床を拭き終わってから考えていた。


「すみませんでした」


 今度の謝罪は、骨を抜かれないためではなかった。


 旦那様は、黙ってうなずいた。



     *



 屋敷を出る前、澄江さんが玄関で俺の靴を拭いていた。


 たたきには新聞紙が敷かれている。

 靴底についていた泥が、丁寧に落とされていた。


「……そこまでしてくれるんですか」

「お巡りさんの車を、汚してしまいますから」


 理由が、一貫していた。


 俺は靴を履いた。


 借りていたスリッパをそろえる。

 さっき逃げようとした庭の扉ではなく、玄関から外へ出た。


 食堂のほうから、家族の声がした。

 小春さんが何かを運び、女の子がケーキを見つけて喜んでいる。


 誰かが七十歳になった夜だった。


 それだけの夜を、俺が勝手に、ずいぶん物騒にした。


 玄関先で振り返ると、澄江さんが立っていた。


「あの」

「はい」

「俺、本当に、足を洗います」


 澄江さんは、俺の靴を一度見た。


 それから、顔を上げた。


「ええ。今度は、ご自分で」


 俺は、もう一度、頭を下げた。


 パトカーの後部座席に座ると、身体から力が抜けた。

 指先には、まだ、濡れた布を絞っていた感触が残っている。


 助手席の警官が振り返った。


「では、続きは署で。洗いざらい話してくださいね」


 俺は、自分の両手を見た。

 指の腹が、少ししわしわになっていた。


「……まだ洗うんですか」


 警官が、黙って俺を見た。


 俺は慌てて、言い直した。


「全部、話します」

掃除も料理も、途中の会話だけを聞くと、なかなか物騒です。


「血を落として」「頭を落として」「跡を残さないで」。


何の話をしているか、当人同士にはわかっている。そこへ、やましいことのある人間が一人入り込むと、立派な殺し屋一家が出来上がります。構成員の大半は、本人の想像力ですが。


今回の泥棒は、ほとんど何も正しく理解できていません。

それでも、逃げられる場面で引き返したことだけは、間違いではなかったと思います。もちろん、スプーンの件は別勘定です。


命懸けの潜入劇になるはずが、気づけば、ずいぶん床のきれいになる話になりました。


なお、全員の誤解が解けて丸く収まったように見えますが、鯛だけは最初から最後まで、聞こえたとおりの目に遭っています。


本日の主菜です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。