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二つの夜明け



――武田元明視点ーー


夜が明けた。

東の空が白み始め、闇がゆっくりと退いていく。

その淡い光の中で、元明は思わず息を呑んだ。


本堂の両脇に積み上がった“それ”は、

最初は柵か土塁かと思った。

だが近づくにつれ、違うと分かった。


――人だ。


三好の兵が折り重なり、

まるで壁のように積み上がっている。

夜のうちに何度も押し寄せ、

そのたびに撃ち捨てられた者たちの成れの果てだった。


「……なんや、これ……」


声が震えた。

戦っている最中は、ただ必死だった。

鉄砲を回し、火皿に火縄を落とし、

闇を撃ち払うことしか考えられなかった。


だが、朝の光は残酷だ。

夜の戦の結果を、すべて照らし出す。


三好の兵は、もういなかった。

夜明けとともに、残った者たちは霧のように散り、

戦場には、ただ静寂だけが横たわっていた。


その静寂を破ったのは、遠くから響く馬の蹄だった。

最初は一頭。

次に二頭、三頭……

やがて地面が震えるほどの数へと膨れ上がる。


元明は反射的に振り返った。


朝日を背に、一団が姿を現す。

その先頭に立つ男を見た瞬間、

胸が強く打った。


――織田信長。


信長は馬を止め、ゆっくりと地へ降り立った。

その動きには一切の無駄がない。

まるで、この光景を見慣れている者のようだった。


彼は本堂前の“死体の壁”へ歩み寄り、

積み上がった兵の山を静かに見渡した。

その背中には、勝者の余裕と、

戦場をただ“確認しに来た”だけという冷たさがあった。


光秀が膝をつき、深く頭を下げる。

「信長様。状況を――」


「良い、聞いておる。」


その一言で、空気が張りつめた。

低く、静かで、しかし絶対に逆らえぬ声。

“説明は不要だ”という意志が、そこにはあった。


信長は藤孝の書状を受け取り、

岐阜から急ぎ京へ戻ってきた。

夜襲が始まったと報を受けたのは、

ちょうど関ヶ原を抜けたあたりだった。


――ここから急いでも、半日はかかる。


そのとき信長は、

「……遅れたか」

と、誰にも聞こえぬほどの声で地団太を踏んだ。


だが、明け方に届いた物見の報告は、

その想像をはるかに超えていた。


光秀は黙って頭を下げ直す。

信長はその横顔をちらりと見ただけで、

再び死体の壁へ視線を戻した。


「……なるほど。

 聞くのと、見るのとでは違うな。」


その声音は、戦場を“作品”のように眺める者のものだった。


光秀が静かに添える。


「雑賀衆と藤孝殿の采配が噛み合い、

 敵を撃退することができました。」


「……で、あるか。」


信長の空返事は、考えを巡らせているときの癖だ。

褒めはしない。

だが、否定もしない。

ただ、結果があればよい――

そんな男の声だった。


信長は死体の山の前に立ち、

その中に横たわる三好三人衆の一人、岩成友通の顔を見下ろした。


三人衆の中でも特に勇猛と謳われた男。

その目は半ば開き、

まだ戦場の向こうを睨んでいるようだった。

その眼光の残滓が、

かえって彼の最期の激しさを物語っていた。


信長は一度だけ、わずかに目を細めた。

哀れみでも怒りでもない。

強者の終わりを見届ける者の、静かな敬意のようなものだった。


「……三好の牙は折れた。

 あとは掃除をすればよい。」


その声は、夜明けの冷気よりも冷たく、

しかし揺るぎない“王者の宣告”だった。


元明はその背中を見つめた。

胸の奥で、何かが静かに形を変えていくのを感じていた。


岩成の半開きの目と、信長の静かな横顔。

その対比が胸の奥に深く刺さる。


つい先ほどまで京を脅かしていた猛将が、

いまはただの“ひとつの死”にすぎない。


――戦とは、こうして終わるのか。


元明の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。




――三好正康視点――



桂川・宇治川・木津川――三つの川が絡み合う中州に、淀古城はあった。

 古代から港町として栄えた淀津の中心であり、水運も軍事も経済も握る要衝。

 その地に、三好本隊を率いる三好正康は陣を敷いていた。


淀の川風が、冬の名残を引きずった冷たさで頬を刺す。

 三好義継が馬を降りた瞬間、正康の胸の奥がざわりと揺れた。


義継は河内で育った。

 長慶の甥として、家中の者らに甘やかされ、誰にでも笑いかける人懐っこさのまま大きゅうなった。

 武家の嫡男でありながら、戦の空気よりも人の顔色を読むことばかり覚えてしまった――そんな子や。


……戻ってきよったか。何の報せもせずに、ようもまあ。


義継はへらりと笑い、悪びれもせず言った。


「いや〜正康、信長が、めっちゃ早よぅ来よってなぁ。びっくりしたわ。

 でも、ここまで戻ったらもう大丈夫やろ? ここで待っとったら岩成殿も、そのうち帰ってくるやん?」


その無邪気な笑顔に、正康は一瞬、言葉を失った。

 胸の奥で、怒りとも悲しみともつかぬものが軋む。


「岩成殿が……どうかなすったのですか?」


「ん? ああ……昨日の夜から帰ってけぇへん。

 先だって突撃されていったきりでな。

 わいは言いつけ通り、順番に兵を送り出しとってん。

 本圀寺は入口が狭ぁて、一遍に攻められんよってに、四列で入れるように並ばせて……

 もう眠ぅてヘトヘトやねん。」


誇らしげに胸を張る義継を見て、正康は頭を抱えたくなった。


「岩成殿から連絡は?」


「それが、中入ってもうたら誰も連絡よこさへんねん。

 帰ってもけぇへんし、反対側に抜けてもうたんかな思て。

 中では鉄砲も鳴ってたし、こりゃ激戦やわ思て、どんどん兵を送り込んどったんや。」


「……おかしいとは思わへんかったんですか?」


「そりゃ少しは思たけど、岩成殿も居てへんし……

 最後の方なんか、ビシーッと並ばせるようになってんで?」


(……この方は、ほんまに何も分かってはらへん。

 あれだけ兵を送り込んで、誰一人戻ってきてへんのに……

 岩成殿に何かあった思うんが普通やろ……)


正康は喉の奥で息を呑み、努めて声を整えた。


「それで信長がやって来たので、岩成殿の捜索もせずに戻って来た……と。

 ……で、中へ入った兵はどうなったんです?」


「せやから、誰も帰って来ぇへんねんって。

 一緒にここまで来たんは八百ほどやから……千二百人も送り込んだんやで。

 まあまあ大変やったよ。」


(こやつは……こんなにも阿呆やったか!)


怒りが喉まで込み上げたが、正康は噛み殺した。

 義継は三好家の“最後の柱”。折らせるわけにはいかない。


「……義継様。本圀寺へ送った兵、ここまで戻った者は一人もおりませぬ。」


「え? そうなん?

 でも岩成殿がまとめて連れて帰ってくるやろ。あの人、強いしさぁ。」


(……強いとか弱いとかの話やない。

 信長が来た時点で、挟まれる。岩成殿は、もう――)


正康は頭を抱えたくなる衝動を押し殺し、言葉を絞り出した。


「義継様。岩成殿は……戻らぬ可能性が高うございます。」


義継はぽかんと口を開けた。


「え〜? そんなわけあらへんて。岩成殿やで? 討たれるわけないやんか。」


(……“討たれるわけない”やと?

 何故、誰一人戻らん時点で気づかれへんのや……

 いや、これは副官を置かんかったわしの手落ちでもある。)


正康は胸の痛みを押し隠し、静かに告げた。


「義継様。信長はすでに京を押さえました。

 畿内の三好勢は、もはや再起不能。

 このまま淀に留まれば、いずれ包囲されます。」


義継はようやく少しだけ不安そうな顔をした。


「え?……まだ兵士いっぱいおるやん。再起不能は無いんちゃう?」


正康は目を伏せ、義継の“分かってへん顔”に胸が痛んだ。


「……義継様。兵が残っとるいうても、ただ“数”があるだけでございます。」


義継はきょとんとしたまま。


「兵は“誰が率いるか”で生きも死にもいたします。

 本圀寺へ向かったのは、三好の牙――岩成殿の精鋭。

 その者らが戻らんいうことは……三好の“戦える力”そのものが折れたいうことです。」


義継の表情が曇る。


「残っとる兵は、寄せ集めの足軽ばかり。

 指揮官もおらず、戦の形にもなりませぬ。

 これでは“兵が多い”とは申せませぬ。」


「ほな……どうすんの? 正康が何とかしてくれるんやろ?」


その無邪気な言葉に、正康は胸が締めつけられた。


(……“正康が何とかする”。

 あんたは、ほんまに……

 けど、その甘えを断ち切らせるわけにもいかん。

 あんたを守らな、三好家はほんまに終わる。)


正康は深く頭を下げた。


「……淡路へ退きます。

 安宅衆の力を借り、海へ出るのです。

 義継様を守るためには、それしかございませぬ。」


義継は一転して明るい顔になった。


「おお、淡路か! 海きれいやって聞いたことあるわ。

 ええやん、行こ行こ!岩成殿も、もしかしたら帰って来るかも分からへんし。ね?


その笑顔を見つめながら、正康は胸の奥で静かに呟いた。

(……この方は、ほんまに何も分かってへん。

 けど……それでええ。

 その無邪気さが、今の三好家を辛うじて支えとるんや。)

「ほんまに...... 帰って来はったらええですなぁ...」


そして正康は、義継の横顔を見つめたまま、淡路への退却を決意した。


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