“初めて”の休日【前編】
窓の外は晴れ。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
「みなとー、起きてー」
リアがそっと湊の部屋ドアを開けながら入ってきた。昨夜のジャージ姿のまま、寝癖のついた髪を手で解かしながらベッドに近づいてくる。
「ねぇ、もう朝……というかお昼、だよ?」
湊は枕に顔を埋めながら、うめき声のような声色をあげた。
「今日、学校……休み……だから……」
「ふーん、」
湊の言葉にリアの口の端が緩んだ。
「じゃあ、一日中一緒にいられるね」
嬉しそうに言ったリアは、ベッドの端にちょこんと腰かける。
それでも湊は、枕に顔をうずめたまま微動だにしない。
「……みなと?」
リアが不思議そうに首をかしげた次の瞬間だった。
「えいっ!」
湊の体にかかっていた布団が、勢いよく引き剥がされる。
「うおっ!? ちょ、な、なにしてんだリア!!」
「起きないみなとが悪いんだよ?」
両手で布団を抱えたリアは、くすくすと笑いながらベッドの下に降りる。
ジャージの裾がわずかに揺れて、朝の光が彼女の銀髪にきらめきを落とした。
湊は仕方なく寝癖をぐしゃぐしゃとかきあげながら、上半身を起こす。
「……まったく、朝から元気だな」
湊がぼやくと、リアは布団を持ったまま小さく首をかしげた。
「だって今日は“初めての”おやすみだよ? 湊と一緒に過ごすの、楽しみにしてたんだもん」
その言葉に、湊は一瞬だけ言葉を失う。
窓の外から差し込む光が、彼女の瞳を柔らかく照らしていた。
「……じゃあ、ちょっと待ってろ。着替えてくる」
「うんっ!」
「リアも着替えといて、クローゼットのやつ適当に選んでいいから」
「えー、私これがいい」
リアがジャージの裾を両手でつまみながら言った。
ジャージに書かれた「冨永」と言う刺繍が小さく揺れている。
「いやいや、それはパジャマだろ。外出るんだから、ちゃんとした服に着替えろって」
湊が苦笑いしながら突っ込むと、リアはちょっと不満そうに唇を尖らせた。
「でも……みなとがくれたやつだし……落ち着くんだもん」
「それはそれとして、せっかくの“初めて”おでかけだろ?」
リアのただでさえ緩みまくっていた口元が更に柔らかくなった。もはや、ただのニヤケ顔だ。
「“初めて”のおでかけ……いわゆる“初デート”ってやつ?」
リアが目を細めて、まるでからかうような声色で言う。
湊は一瞬動きを止めて、寝癖のついた髪をぐしゃっとかきあげた。
い、いや別に“デート”ってわけじゃ……!」
「ふふっ、顔赤いよ?」
からかうように笑うリアに、湊は顔をそむける。
「……ほら、早く着替えろよ。あとで後悔すんなよ?」
「はいはい、わかりましたー。じゃあ、可愛いの選んでくる!」
そう言ってリアは、嬉しそうにクローゼットへ向かう。
湊はその背中を見つめながら、ため息交じりに小さく呟いた。
「……まったく、朝からペース乱されっぱなしだ」
けれど、その声にはどこか緩んだ笑みが混じっていた。
クローゼットの前で、リアは真剣な表情で服を見つめていた。
「うーん……どれが“地球の正解”なんだろ……」
Tシャツやパーカー、スカートにジーンズ。どれも湊の姉が置いていったらしい、少しレトロな雰囲気の私服たち。
「……あ、これとか良くない?」
リアが手に取ったのは、筋肉の陰影がプリントされた黒のタンクトップ。
「なあリア。どこでそのセンス覚えた?」
え? 強そうだし。あと、お腹のとこに“Power!!”って書いてあるの、なんかイイ」
「それ絶対、近所の子どもに笑われるやつだから。もっと普通のやつ選んで」
「普通ってなに? 湊、選んでよ」
そう言ってリアは、少し不機嫌そうにほっぺを膨らませた。
湊はため息をひとつついて、クローゼットをのぞき込む。
「んー……これとかどうだ?」
湊が差し出したのは、淡い水色のワンピース。涼しげな素材で、裾に花の刺繍があしらわれている。
リアはしばらく見つめてから、ふわっと笑った。
「……かわいい、みなとはこういうのが好きなの?」
「……いや、そういうわけじゃなくて……!とにかく着てみてよ、多分…似合うと思う……」
リアはワンピースを胸に抱えたまま、しばらく湊の顔をじっと見つめていた。
「……じゃあ、着てくるね」
にこっと笑って部屋を出ていった彼女の背中を見送りながら、湊は耳まで真っ赤になって頭を掻いた。
「……なんだよ、あれ……」
数分後。
「みなと、着たよ……!」
リアの声がして、振り向くと、そこには水色のワンピースをまとったリアがいた。
淡い光に包まれて、まるで空のかけらが人の姿になったみたいに見えた。
「どう……かな?」
リアは少し恥ずかしそうに裾をつまんで、くるっと一回転する。
湊は一瞬、言葉をなくしたあと、かすかに笑って頷いた。
「……似合ってる。すげー、かわいい」
リアの頬が赤く染まり、少しだけ視線を逸らす。
「ふふっ、みなとが選んでくれたから…」
湊からの不意打ちにリアが怯んだ。
湊も少しだけ視線をそらしながら言った。
「髪、寝癖残ってるし……整えてやるよ。いいか?」
リアは一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐに小さく頷いた。
「……うん、お願い」
湊はリアの後ろに立ち、小さくため息をついた。
「髪、すごいことになってるぞ……。こっち向けよ」
リアはくるりと背を向けて、素直に正座する。
「ごめんね、寝相が悪いのかも」
くすっと笑う声が、どこか恥ずかしそうだった。
湊は手ぐしで軽く髪をすきながら、指先に感じる銀色のさらさらした感触に、わずかに息を呑む。
「……すげぇな、ほんと。光、反射してるみたいだ」
「変なの。髪の毛、褒められたの初めて」
リアがうつむきながら、小さく呟いた。
「変じゃない。……きれいだよ」
それは湊の本音だった。
一瞬、リアの肩がぴくっと揺れた。
けれど、振り返りはせず、ただ小さな声で返す。
「……そっか。ありがと」
その背中が、どこかいつもより小さく見えた。
「よし、さっきよりだいぶマシになった。」
髪を粗方解かし終えると、湊がリアの髪からそっと手を離した。
「へへっ、じゃあ“初めて”のおでかけ、行こっか」
「リア、さっきからすげー“初めて”を強調するよな」
「だって、特別感があって好きなんだもん」
休日の午前、少し遅めの時間帯。
二人を乗せたバスは、ゆるやかに坂を下りながらショッピングモールへ向かっていた。
窓の外には、春の陽射しを受けた街の景色が流れていく。
リアは隣の席でじっとそれを眺めていたが、ふと顔を湊の方に向けた。
「ねぇ、バスってさ、なんか好きかも」
「急にどうした」
「ううん、なんか……いろんな人が乗ってて、みんなそれぞれの目的地に向かってて。ちょっと、地球って感じがする」
「地球って感じ……」
湊は思わず吹き出しそうになったが、リアはいたって真剣な表情だった。
しばらく黙ったあと、リアが少しだけ顔を近づけてくる。
「……私ね、今日ずっと緊張してる」
「え?」
「こうやって、ちゃんと“人混みに出る”のも、“服を選びに行く”のも、初めてだから」
湊は一瞬、返す言葉を探すように口を開きかけ、それを閉じた。
それから、そっとリアの手の甲に触れる。リアが驚いたように目を丸くした。
「大丈夫。俺が一緒にいるから」
「……ふふ、頼りにしてるよ、みなと」
バスの窓をすり抜けた陽の光が、そっと二人の影を重ねていた。
ショッピングモールの入口を抜けた瞬間、リアの足がぴたりと止まった。
まるで別世界に迷い込んだかのように、彼女の瞳が忙しなく周囲を見渡す。
「……すごい、人がいっぱいいる……」
「まあ、休日だしな。モールってのはいつもこんな感じだよ」
「音も……匂いも……全部、混ざってる……」
リアがぽつりと呟いたその声は、どこか不安げで。
湊は、そっとリアの手を取った。
「大丈夫。ほら、ちゃんとつかまってろって」
リアは少しだけ目を丸くし、それから、照れくさそうに笑った。
「……うん」
ぎゅっと繋がれた手。
リアは、そのぬくもりを確かめるように、そっと握り返した。
「じゃあまず、服屋から行ってみよっか。リアの、今日のメインイベントだし」
「……うん、“初デートの服”選ばなきゃね」
その言葉に、湊が少しだけ咳き込んだ。
「べ、別に“デート”とは言ってないけどな……!」
「ふふふっ」
笑いながらリアが歩き出す。その横顔は、さっきよりもずっと明るかった。
店内に足を踏み入れた瞬間、リアはキラキラした目で辺りを見回した。
「わぁ……ここ、全部服なんだね。選び放題……!」
「まぁ、服屋だからな……。サイズさえ合えば、好きなの選んでいいぞ」
そう言った湊をよそに、リアは小走りでラックに向かう。
そして――数秒後、見事にピンポイントで選び出す。
「みなと! これっ!」
「え、もう? ……って、それは――」
嬉しそうにリアが手に取ったのは、真っ赤な生地に金色の龍がでかでかと描かれているTシャツだった。まるで中華街の土産物レベルのインパクト。
「うわっ……なんでそれ選んだ!?」
湊が思わず目を見開く。
「かっこよくない? ドラゴン! ほら、強そうだし、守ってくれそう」
リアは真剣な表情で胸に当てて鏡の前へ。
金の龍が胸から肩、袖へと大胆にはみ出し、さらに袖にも“破邪顕正”と刺繍されている。
「リア、それ着たら絶対怖い人だと思われるから! 違う意味で“守られる”ぞ!」
「えー……でも、インパクトは大事でしょ?」
「いや、インパクトにも限度があるから!」
リアは残念そうにTシャツを戻しながらも、まだ棚を名残惜しそうに見つめていた。
リアは本気の顔だった。
湊はぐっと口を引き結び、頭をかきながら深くため息をつく。
「……あとでまともなのもちゃんと見ような」
「えー、これがいいのに」
拗ねたように口を尖らせるリアに、湊はつい笑ってしまう。
「ほんと、お前って変なとこあるよな」
「えへへ。変って、褒め言葉?」
「……まぁ、リアらしいってことだよ」
そう言った湊の頬も、どこか赤かった。
リアは湊の言葉を聞いて、ふと表情を緩めた。
さっきまでの拗ねた顔はどこへやら、いたずらが成功したみたいに、にこりと笑う。
「じゃあ、それでいーや。“リアらしい”ってやつで」
「なんでちょっと勝ち誇ってんだよ……」
呆れたように言いながらも、湊の声にはどこか優しさがにじんでいた。
そしてリアは、ふと湊の笑顔に目を止める。
その目元が少しだけ緩んで、口元に自然な笑みが浮かんでいた。
――あぁ、こういう顔が、好きなのかもしれない、
リアは自分でも驚くほど素直に、そう思ってしまった。
何着かの服を手に取りながら、リアは試着室の前で首をかしげていた。
「ねぇ、湊。こういうのって、どう選べばいいの?」
「え、俺に聞くのかよ」
湊のことばを、リアはちゃんと覚えていた。
あのとき「似合うと思う」と言ってくれた湊の顔が、なぜだか少しだけ赤かったことも。
――湊が選んでくれたものなら、なんでも好き。
――だって、それは湊が「私のことを思って」選んでくれたってことだから。
「……じゃあ、俺が選んでみる」
「ほんと? わーい」
ぱっと顔が綻ぶのが、自分でも分かった。
まるで子供みたいだって思うけど、それでも嬉しくて仕方ない。
リアはそっとベンチに座りながら、湊の背中を目で追う。
――ねぇ、湊。
私、今すごく幸せだよ。
たった一緒に服を選ぶだけで、胸がこんなにぎゅうってなるの。
……これって、やっぱり……
「……これ、どうかな」
湊が戻ってきた時、手には淡いラベンダー色のブラウスと、白のフレアスカート。リアの目が一瞬でそれに吸い寄せられた。
やさしい色。清楚で、可愛らしくて、どこか大切にされた気がする。
「わっ……かわいい。湊って、センスいいんだね」
「いや、なんとなく……リアに似合いそうだなって思っただけ」
「……うん」
リアは小さく頷いて、服をそっと胸に抱きしめる。
ほんの一瞬、ぎゅっと目を閉じた。
――湊、ありがとう。
その“なんとなく”が、私には一番嬉しい。
「ありがと、湊。……これ、着てみるね」
そう言って試着室に向かうとき、リアの胸の中には、さっきよりずっと大きな“好き”が静かに膨らんでいた。
「……どう、かな?」
試着室のカーテンをわっと開いたリアが、照れくさそうに言う。
湊は一瞬だけ目を見開いて、それから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……うん、綺麗だよ」
リアの頬が、ゆっくりと赤く染まっていった