ドアマットヒーロー
風刺です。
ドアマットヒーローの席は、機体の翼がある場所付近の窓際だった。背もたれは、おかしな方向に少し傾いていたが、倒れているわけではない。前の乗客が乱暴に立ち上がった拍子にガタンと傾いたのか、それとも最初からこの角度だったのかはわからない。だが彼は、何も言わなかった。
通路側の男はすでに座っており、大きな荷物を彼の足元に押し込んでいた。靴が当たるたびに、金属の縁が脛に当たって痛かったが、それもまた「そういうこともある」と、彼は思った。わざとではないのだから、とも思った。だから、何も言わなかった。
飛行機が動き出す。エンジンの唸り、荷物棚の軋み、低く重たい音が機体全体に広がった。彼は小さく息を吐いて、窓の外に視線を向けた。グレーの滑走路が後ろに流れていき、遠くの格納庫がどんどん小さくなっていく。視界の端に、CAがにこやかに笑いながら安全ベルトの説明をしていた。
彼はじっと、その笑顔を見ていた。あの人は、ちゃんと毎日笑えるのだろうか。仕事だからだろうか。それとも、自分もあの人のようになれるのだろうか。彼は何かを考えかけたが、やめた。
一時間後、前の座席の男がリクライニングを倒した。ガタン、と勢いよく背もたれが傾き、ドアマットヒーローの膝に乗っていた小さなペットボトルが床に転がり落ちた。
「あっ……」
声が漏れかけたが、彼はすぐに口を閉じた。周囲を見回し、誰も気にしていないことを確認する。足元に手を伸ばしてペットボトルを拾い、キャップを念のため締め直す。リクライニングのせいで座席空間がさらに狭まり、肘を曲げるにも少し工夫が必要だった。
だが、彼は言わなかった。「すみません、少し戻していただけますか」と言うだけのことが、どうしてもできなかった。迷惑になる気がした。何より、迷惑をかけたくないと思っていた。
胸元からメモを取り出し、紙に書いてある「沈黙は金」という文字を彼は凝視した。そして、何かを噛み締めるような顔をした後メモを丁寧にしまった。
***
食事が配られる時間になった。通路側の男には、あたたかいパスタの乗ったトレーが手渡された。中央の席の女性にも、少し遅れて同じものが届く。
だが彼の前には、何も来なかった。
5分ほどして、通路にいたCAが彼の隣を通り過ぎるとき、彼は一瞬だけ呼び止めようとした。体を少し前に乗り出し、口を開けかける。
だがその瞬間、CAが別の乗客に呼ばれ、進路を変えた。
彼は、体を元に戻した。呼ばなくてよかったのだと思った。きっと、配り忘れただけだ。あるいは、自分の予約に食事は含まれていなかったのかもしれない。どちらにしても、大したことではない。
「言うほどのことじゃない」
そう自分に言い聞かせた。再び胸元からメモを取り出して、「沈黙は金」という字を確認した。
前の席から、食事の匂いが漂ってきた。パスタのバジルソースの香り。とろみのあるトマトソース。機内という密閉空間では、匂いは逃げ場なく漂う。
「おい! 俺の分はどうしたんだよ! お客様は神様だろ、忘れんなよ! 俺だって腹減ってんだから早くしろ!」
ドアマットヒーロー以外にも、食事が届けられていない人間がいたようだ。CAが慌てて「申し訳ございません、すぐお持ちします」と走り去り、彼の前にトレーが置かれた。彼は「ったく、ちゃんとやれよな」と言いながらパスタをかき込み、周囲に聞こえるように箸をトレーに叩きつけた。
そして、ふとドアマットヒーローに目をやり、苛立ったように言った。
「お前もなんか言えよ。俺ばっか喚いてるとバカみたいだろ」
彼は一瞬固まり、「えっ……いや……別に……」と呟くのが精一杯だった。男は「チッ」と舌打ちし、「お前みたいなのがいるから舐められるんだよ」と吐き捨てた。
ドアマットヒーローは騒いでいる男をちらりと見た。彼の目を通して映る大声で喚き散らすその姿には、周囲を圧倒しているようでいて、どこか空虚さが感じられた。誰も彼に笑いかけず、誰も賛同しない。ただ、煩わしいだけの存在として扱われている。
「お客様は神様だろ」と繰り返すその声に、なぜか寂しさが滲んでいるように感じた。
彼は窓の外に視線を戻した。見えるのは雲だけだった。真っ白な、音のない風景が続いていた。
***
通路側の男が、肘掛けをこちらに押し込んでくる。気づかずにやっているのか、それとも意図的なのかはわからない。ドアマットヒーローの腕は、自動的に引っ込んだ。肘は腹に当てたままにし、膝の上で手を組んだ。
「これが一番丸く収まる」
そう思うようにしていた。争わないこと、文句を言わないこと、不満を口にしないこと。以上をまとめて「沈黙は金」。それが、自分の美徳なのだと、いつの頃からか思うようになっていた。
やがて機内アナウンスが流れた。
「ご意見・ご要望がございましたら、お気軽にクルーまでお声がけください。皆様の声が、サービス向上につながります」
彼は天井の呼び出しボタンを見上げた。
そのボタンは、あまりにも軽く、あまりにも小さく、ただのプラスチックにしか見えなかった。指を伸ばせば届く距離にあった。手を挙げれば、CAも気づくだろう。
しかし、彼は動かなかった。
「そんなに不便なわけじゃない。無理に言うことでもない。大丈夫だ。……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、心の中で何度もつぶやいた。
***
飛行機は、定刻より少し早く着陸した。誰かが軽く拍手をしたが、それは機内全体には広がらなかった。ほとんどの人は、スマートフォンの画面を見ていた。
彼もまた、スマホを手に取った。画面は暗く、バッテリー残量は2%。何も通知は来ていなかった。だから、すぐに電源を切った。
***
機体が停止すると同時に、乗客たちは一斉に立ち上がった。頭上の荷物棚が開き、がさがさとした物音とともに、人々の移動が始まった。
彼は座ったまま、それを見ていた。先に動こうとする人の邪魔をしてはいけない。荷物を取る人の手を遮ってはいけない。
座っている自分が立ち上がることで、誰かのリズムを乱すことがあってはならない。
通路側の男が先に立ち、荷物を引き出して降りる準備をする。彼はその背を見ながら、タイミングを計っていた。
やがて通路が空き、彼の順番が来た。
「沈黙は金」と、心の中で唱えながら、静かに立ち上がる。背もたれはやはり少し歪んでいたが、誰にも言うつもりはなかった。
***
手荷物を肩にかけ、彼は通路を歩いた。出口が見えてきた。もうすぐ外に出ることになる。
その瞬間、小さな段差につまずいた。足元のカーペットが微妙に浮いていたのだ。彼の靴がそこに引っかかり、彼は体勢を崩した。
彼が「あっ」と小さく声を上げたときには、彼の身体は、出入り口のど真ん中で横たわっていた。
痛みはあった。膝も手も、打ちつけた。だが彼は、何も言わなかった。
慌てて起き上がることもしなかった。体をどけることで、さらに誰かの足を止めてしまうかもしれないと考えたから。
通路の先で、最初の乗客が彼の横たわる姿に気づいた。
一瞬だけ、足を止める。だがすぐに、また歩き出す。大きくまたいで、彼の上を越えて行く。
二人目も、三人目も、次々と。誰も彼に声をかけない。気づいているのか、気づいていないのか、曖昧な雰囲気でドアマットヒーローを踏み越えていく。
彼は顔を伏せたまま、そこにいた。
キャリーケースが彼のわき腹を擦る。ブーツの踵が、彼の足をかすめる。
子どもの靴が、遠慮がちに太ももを踏んでいく。
香水、整髪料、機内食の余韻、人の気配――無数の「誰か」が、彼を踏み越えて、出て行った。
先ほど騒いでいた男が、「おい、早く行けよ」と前列の人間を小突いていた。前列の乗客は無言で肩をすくめ、男は「ったく」と呟いて通路を進んだ。誰も彼を見ようとはしなかった。
彼は心の中で、何度も唱えた。
「沈黙は金、沈黙は金、沈黙は金……」
***
清掃が終わり、座席が整えられ、カーペットが引き直された。
彼の姿は、もうそこにはなかった。そして、彼が転んだ理由となった「段差」も、誰にも知られることはなかった。
次の便の乗客が、同じ窓際の席に座った。
背もたれに、ほんのわずかな違和感を覚えたが、すぐにスマホを取り出して、画面上に意識を集中させた。
風刺でした。他作もよろしく。
近々(と言っても、一年以内)長編を公開する予定です。