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4杯目。「BARちょこparty」で、呑む。

「だってさ。やっぱやめようよ」

「バァカ。この期に及んで〝開きません〟〝ハイそうですか〟ってワケにゃ行かめえよ」

 グラス傾けヨシダさん。BARプカプカのカウンター。

 日本橋の立ち呑み 毘からふらふらと歩いてきたが、ちょこぱが開くには少し早かった。ので、いつも開くのが早いプカプカに入ってダイゴローさんと話し始めた。……のは、よかったのだけれど。

「で、どうしても開かないんですか。その箱」

「そ。どうしても開かないんですよ。その箱」

「ね。どうしても開けたいんですよ。この人」

 Jさんが何処かから持ち込まれたんだか見つけてきたんだか開かずの小箱。それをよりによってヨシダさんに見せちゃったもんだから、さあ大変。どうにかして開けてやろうと躍起になるヨシダさんをどうにかして止めようとしているのだが、言えば言うほど火に油。そうだった、この人いつも、そうだった。

 怖い話、おかしな場所やアイテムには目がなくて、片足突っ込むどころか頭のてっぺんから飛び込まないと気がすまないんだ。

「Jさん来たら聞いてみないとな」

「何をさ」

「進捗」

「箱の?」

「そ」

「やーめようよぉ」

「怯懦め」

「き、きょ……?」

「臆病者って意味ですね確か」

 グラスを拭きながらダイゴローさんが解説してくれる。が、きっちり悪口だった。

「んな装甲騎兵ボトムズみたいな言葉使って……」

「いらっしゃいませー」

 二人連れのお客さんが入ってきた。手前に腰掛けている僕らの奥へ向かうので、少し身体を傾ける。

「あっ、すみません」

「コイツ、でかくて邪魔でしょう」

「んなこと言われたら困るじゃんか」

「あっ、大丈夫ですだいじょぶです!」

「ちょこぱさん、そろそろ開くかな?」

「あっ、ちょこぱさん? いま開いてるみたいでしたよ!」

「あらホント? じゃあ、俺らはそろそろ」

「そうだね」

「チェックですか。えーとじゃあ僕の分もごちそうさまです。全部でこれだけになりますねー」

 この短い間によく飲んだなあヨシダさん。

「お前のマリブコークと梅酒ソーダも入ってんだぞ」

「ごちそうさまです」

「じゃあ、また来るから!」

「ありがとさまです、お待ちしとります!」


 プカプカのドアを出てすぐ。三ツ寺会館地下の明るいお店がBARちょこPARTYだ。

 ピンク色した可愛い猫ちゃんの看板が目印で、なるほどオープンを告げる立て看板が出ている。ステッカーのペタペタ貼られた黒いドアを元気よくガパリ。

「ちょっこさぁーーん」

 ヨシダさんが珍しく猫なで声を出す。

「なんちゅー声、出してんの。気色悪いや」

「いらっしゃいませー! おーっいらっしゃい!!」

 カウンターの向こうでフライパンを振るっていた店主ちょこさんが、振り向きながらニッコリ笑って出迎えてくれる。ジャーーっと小気味いい音とともに、バターや肉、野菜の焼ける香りが店の中をワンパクに駆け巡っている。

「ちょっとごめん、みけちゃんお願いしていい?」

「はぁい。いらっしゃいませえ~」

 カウンターに座っていた二人の女性のうち、金髪で華奢なヒトのほうは〝ろぎんまる〟の人だったらしく、両手を胸元で合わせながら僕らの方に向き直ると愛想よくお辞儀をした。陶磁器のように白い素肌、潤んだ相貌をたたえつつ穏やかな稜線を描く目尻、よく上がる口角、少し酒焼けしつつもよく通る声。爽やかな青と白のアラベスク模様が絡み合うワンピースがひらり。

「みけまると申しまぁす、はじめましてえ」

 お冷を出しながら名乗る彼女は、ひと言で言えば〝酒場らしい美人〟だ。様子の良さもさることながら、愛嬌というか可愛げというか、なんとも愛され属性豊富なお姉さんだった。ちょこさんからの信頼も篤いようで、早速カウンターに戻ってお酒を作る用意を始めた。

「俺ビールで、と、みけまるさんとちょこさんも何か飲んでよ」

「お! いただきま~す!」

「いいんですかあ、ありがとうございまぁす! じゃあビール頂きますねぇ」

 お酒が飲めると聞いて、遠慮なくとろんとした目尻をもうひと目盛り下げるみけまるさん。

「僕コークハイください」

「お前まだ飲むのか、ホントに大丈夫か」

「コーラならイケるでしょ」

「あっ、おにいさん!!」

 ふえ、と間抜け面をして振り返った僕の眼の前には

「おっ、知り合い?」

「ちょい前うちの店にも来てくれたことあるんすよ」

「へえーヨシダさんてメイドカフェ行くんですねー!」

 料理をしながらちょこさんが笑うやら驚くやら。

「彼女、暑い中チラシ配ってたから顔出そうと思っててさ。そしたらコイツと出かけてる時にたまたま店の前に来たから、コーヒー飲みにね」

 そう述懐するヨシダさんの向こうに、飲みかけの中ジョッキをしっかり握った日本橋Café SPiKAのあぶくちゃんが座っていた。今日は私服らしいが、白いブラウスにグレーのレザーエプロンを合わせ、黒い靴に白いソックス。つやつやした黒髪はツインテールにまとめていて、白い素肌の首筋を垂直に彩っている。しかし僕としたことが、お店に入った時に後ろ姿で気付けなかったとは……一生の不覚っ!

「お前は今日もう前後不覚だろ! 元気だった?」

「元気ちゃむー。お兄さんたちは、ゲームソフトみつかった?」

「ああ、おかげさまで……あのあとすぐに、ね」

「え、ほんとにあったんだ!」

「まあな」

「はーーいおまたせ!」

 ちょこさんがあぶくちゃんに出したのは、可愛いオムライスとポテトサラダ。アイスクリームよろしくまんまるに盛り付けた白いポテトに、人参やコーンが練り込まれた本格的なシロモノだ。オムライスにもケチャップで猫ちゃんが描かれており、バターをまとった卵の香りがこっちまで漂ってくる。

「うおーかわいー! いただきまーーす!!」

「猫ちゃんかわいいでしょお、自信作です!」

 えっへん、とわざとらしく胸を張るちょこさんの切れ長の目、白い歯、えくぼの浮いた頬、それらを包んで肩まで伸びるサラっサラの髪。派手すぎない赤い柄物のワンピースから伸びる細い腕を腰に当てて少し照れているさま。全部かわいい。こうしてみると、みけまるさんとちょこさんは顔や属性や服の色合いまで好対照だ。愛され属性高めなのは、同レベルだけど。

「おまたせしましたあ」

 そこへ、みけまるさんが僕とヨシダさんの飲み物を持ってきてくれた。もちろん自分のジョッキも。ちょこさんは即興で何やら可愛いお酒(ローズヒップとハーブのリキュール、あと何かを炭酸で割ったらしい)を手早く作り、各自のグラスを自然と掴み、あぶくちゃんも口の中のオムライスをそのままにジョッキを差し出し

「「「「かんぱーーーーい!!!!」」」」

「ふぁんふぁー、もごっ」

「あぶくちゃん、食べてからでいいのよ?」

「もごむぐ!」

 サムアップをしたあぶくちゃんがオムライスをビールで流し込む。ヨシダさんは向かいに立ったみけまるさんと話し始めた。

「んはぁ~ん、美味しぃっ!」

「みけまるさん飲みっぷりがいいねえ、強いんだ。ずいぶん可愛いバッカスだな」

「酒神ぃ~~♪」

 よくわからない褒め方をされたみけまるさんだが、素直に親指と人差指でハートを作って身体を傾けている。

で、僕は、もう、どうにも彼女が気になって

「ん~~チラチラ見てるねえ、そんなにあぶくちゃんのこと気になるんだあ」

 ちょこさんにイタズラっぽく冷やかされた。

「あ、あの、まあ、うん……」

「あぶくちゃん可愛いもんねえー。ウチのお客さんにも人気あるしさ、若いし」

「ちょこさんだって、そんな変わらないでしょ」

 ヨシダさんがそこへ入って、みけまるさんがウンウンと小動物みたく頷いている。

「いやいやー、もぉそんなには」

「けど、そういやちょこさんのトシ知らねえや」

「ほんとだ。僕よりちょっとお姉さんだろうなーって思ってた」

「ありがとーー」

「ちょこさん、おかわりおなしゃす!」

「はーい、ビールでいい?」

 上機嫌のあぶくちゃんが注ぎたてのビールでオムライスの残りを流し込み、濁点の点いた溜息を漏らして愉悦を味わう。


「こんばんは……」

「いらっしゃいませー」

「いらっしゃいませぇ、どうぞお入りくださいなー」

 そこへ音もなく開いたドアの向こうから響く低く優しいがドスの効いた声の持ち主を、ちょこさんとみけさんが明るく出迎えた。

「今日、星野さんも来てくれる日だったんだあ」

「おおー遅かったねえ」

 Jさんだ。というか

「えっJさんって星野さんだったの?」

「なんだお前、知らなかったのか」

「なんなら、なんでお坊さんなのに〝じぇい〟なのかも知らないけど……?」

「まあ、これには、深ぁい……ワケが……ありましてね」

「坊さんとしての名前が寂然じゃくねんさんだから、頭文字でジェイなんだよ」

頭文字イニシャルJ……」

 いま呟いたのは、あぶくちゃんだ。


 僕、ヨシダさん、Jさんの順でカウンターに並ぶ。向かいにはみけさんとちょこさん。

 そしてJさんからひとつ開けてあぶくちゃん。賑やかな夜だ。

「ちょこさん、今日の服もステキじゃんそれ」

「にへへぇ。でしょお、気に入ってるのコレえ」

 ちょこさんが天井を仰ぎ見るように顔を上げて、ネコみたいにウニャーっと微笑む。

「ステキが服着て歩いてるようなヒトだもんね」

「ありがとー。でも、そうやって褒めてくれる人がいるから僕も可愛くいられるんだよねえ」

「褒め言葉が先か、褒めたいヒトが先か」

「だってきっと人間てみんなミラーボールみたいなもんでしょ」

「ほうほう?」

 グラスを傾けながらヨシダさんが続きを受け取る構えを見せた。

「褒め言葉が光で、それを浴びせてもらえるから輝いててキレイだねって、そういうことなんじゃないかなって。だけどそのためには、光を浴びせてもらう自分自身を磨いてないと、いくら褒められたって光れないって。思うのよね」

 と、グラスを片手に、ちょこさんはそう話す。

「このヒトのアタマも輝いてるけどな」

 ヨシダさんがJさんを指してまぜっかえす。

「そういえばJさん、お酒にツマミに大丈夫なの……?」

 ちょこさんなら、精進料理も作ってくれそうなもんではあるが。

「まあ……嗜む程度には、いいでしょう」

 良くも悪くも何かと騒々しい酒場であってもゆっくり話すJさんは異質で、でもなんとなく、みんな彼の返答を聞こうとしてしまう。お坊さんって不思議だ。

「星野さんって、どうしてお坊さんに?」

 ちょこさんが疑問を発した。

「あー、そういや知らねえな。それも」

「ヨシダさん、Jさんと長いんじゃないの?」

「んや。お前と手形のときにお寺行ったろ、あのちょい前くらいだったと思うぞ」

 僕がヨシダさんと一緒に心霊スポットのトンネルに行ったら、この人ご自慢のスカイラインの窓という窓に白い手形がベタベタついて取れなくなり……何をやっても消えないどころか家の中の鏡まで手形まみれになったので観念して駆け込んだのがJさんのお寺だった。僕は、そのときがJさんと初対面だった。

「ちょこさん、おかわり!」

「あいっ!」

「私は……そうですねえ、ビールを、くださいな」

「Jさんビール飲むんだ」

「バカお前、俺より強いぞ」

 ヨシダさんより強いって、もはやウワバミじゃあ……?

「自分を……よく知ってるだけ。ですよ」

「そーゆーちょこさんは、なんでお店しようと思ったんですかあ?」

 今度はみけまるさんがちょこさんに尋ねる。雇い主に聞く質問が今それってのも珍しい気がする。

「んーー、ちょこさんはねえ……なんでだろ」

 全員ずっこけた。

「あーいや、違うの違うの! 単にお店はじめた理由がわからないんじゃなくて、なんでお店だったのかなって。僕、自分も家族も全く飲まなかったからお酒の知識ゼロだったの」

「え、絶対のんべぇの家系だと思ってた!」

「わたしもぉ」

「いやいや、ビールの栓抜きとかもなんなのかわからない、グラスも全部いっしょに見えてたぐらいだよ……あとほら、よくあるドラマとかの背景にお酒の瓶が並んでるでしょ、あれ見てもお酒だと思ってすら無かったの」

 身体をハテナの形にして部屋の片隅を見上げて、指折り思い出しながら語るちょこさん。

「それでよくお店やろうって思ったよね」

「うーん、だから自分でも、なんでだったのかなって。たぶん、みんなで楽しく過ごせる場所がほしかったんだなあって。僕」

 ちょこさん、一人称が僕っこになるのもかわいい。

「そっか、ちょこさんはちょこさんが先でお店が後なのか」

「ほんとだ」

 大抵の場合お店を始めたり雇われたりした人が、その場所やSNSなんかで名乗る時、自分で自分につけた名前を使う。でもちょこさんの場合は

「そうそう。僕、小さい頃からちょこまか動くから、ちょこ、ちょこって呼ばれてて。だから〝ちょこ〟なんだよね。だからお店より、ちょこさんが先ぃー!」

 満面の笑顔でバンザイするちょこさんの腋の下が淡く優しい照明でツルツル光る。

「まあ元々飲食で働いてたこともあったし、脱サラしたあと修行させてもらえて。色々あった……それは、今もあるけど。でもやっぱり僕は僕の好きな人とか、ココに来てくれるお客様とか。みんなが楽しく過ごしてくれるのが僕のハッピーだから。そのための手段がお店だったのかな」

「みんなで楽しく遊ぶことが目的で、そのための手段がお店。って、なんかカッコいいね」

「けっこう大変なことも多いんじゃないですか。変なお客が来たり暴れる奴が居たり。これだけ広いお店だと後片付けするのも……」

 という僕のありきたりな疑問に、ちょこさんが続けて答える。

「んーー、でもすぐ切り替えちゃうからなー」

「どうやって切り替えてるんですかあ、私も知りたあい」

 長いまつ毛に包まれた潤みがちな瞳を揺らして、みけまるさんが尋ねる。

「あのね、そっちの広いとこに出てね……あにゃ?」

「うっす。ちょっと酔ったんで……ソファお借りしていいっすか」

「うん、勿論いいけど」

「あざっす。じゃちょい眠剤カチ込みますわ。眼から」

 いつのまにか店舗左奥のソファにはあぶくちゃんが横たわり、無線ヘッドフォンと携帯端末をしっかり準備していた。

「め……眼から?」

「そうなんすよ。私これ見て精神安定と安眠するんで、兄弟でラリーする映画で兄は整備士で弟がレーサーで、まあいい兄弟愛なんすよ。で主役はレーサーの弟じゃなく整備士の兄なんすけど、私もともと」

 きょとんとするちょこさんに早口でまくしたてるあぶくちゃん。

「よっぽどお好きな映画なんですねえ」

 とホンワカした受け取り方をするみけまるさん。

「前から突飛な子だと思ってたけど、寝方も攻めてんな」

「攻めなきゃ寝れねえから……じゃ、おやすみなさーい」

 スチャっとヘッドフォンを装着し、あぶくちゃんは映画の世界に入っていった。その前にちょこさんがトテトテとやってきて

「こーやってー、くるくる~って回って……そうするとね、たーのしーなーー、って」

 にこにこ笑いながら両手を広げて、竹とんぼのようにくるくる回るちょこさん。柔らかで優しい照明と、床や壁紙の色合い。それと調和したゆったりソファ。の、上に毛布をかぶったあぶくちゃん。それらをバックに、回る回るちょこさん。

 嗚呼。なんて美 しい時間だろう。なんて楽しい夜なんだろう……。

「で、気が済むまで回ったら、あーー何やってんだろ。後片付けしよ。って我に返るの」

 急に真顔になったちょこさんがピタっと止まって、カウンターの中に戻ってきた。

「そうやって気分を切り替えるってワケか。流石ちょこさん斬新だな」

 ヨシダさんは相変わらずちょこさんをよく褒める。そういえば、とカウンターを見ればJさんは

「ほう……そういう、バンドがね」

「そぉなんですよお。今度も行くんですけどお」

「ふぅむ。難波で、ねえ。ギグ……というやつ、ですか」

「ぎぐ?」

 小リスのような顔をして、みけまるさんがきゅるんと顔をかしげる。何やら彼女の好きなバンドの話をしているらしいが、ギグというのはいつの時代のライブを指すのか。

 そして僕はというと──

「見てるねえ」

「見てんなあ」

「隣、座ってきたら?」

「あぃえ!? え、いや、あの僕は」

 ちょこさんからもヨシダさんからも冷やかされっぱなしの僕。ソファで寝転がるあぶくちゃんがこちらに脚を向けているせいで、スカートの中が見えそうで、気が気じゃなくって。

「いいから、ホラ行ってこい!」

「がんばって!」

 ヨシダさんに小突かれ、ちょこさんに励まされた僕はおずおずとソファに向かい、あぶくちゃんから30センチほど離れて腰を下ろした。

「……」

 だけど、実はさっきから随分お酒が回ってしまって。やっぱり飲みすぎたみたいで。喋るどころか座ってるだけでも難儀なわけで。ぐわんぐわん回る天井と足元を交互に見て、時々ちらっと横目で見るあぶくちゃんの寝顔が天使みたいで。淡いベージュの光に包まれた素肌と、寝息で上下する胸元、近づいて気づいたスースーという呼吸の音がリズミカルに、永遠に続くかのようで。

 ずっと会いたかった。話なんて出来なくてもよかった。顔を見て声を聞きたかった。笑っていてほしかった。僕は愛知に住んでいるけど、僕が愛知に住んでいることをこれほど悔やんだことはなかった。東大阪でも八尾でも藤井寺でも泉佐野でも、どこでもいいからもっと近くに居られたらよかった。

 そのあぶくちゃんと偶然に出くわしたら、僕のことも覚えていてくれた。

「バカ、俺のことだよ!」

「うるさいなあ」

 そのあぶくちゃんが今、眼の前で酔っ払って眠りこけている。彼女に話しかけても、きっと答えは帰ってこないだろう。だけど聞こえているかもしれないし、目を覚ますかもしれない。彼女の寝起きの加減なんてきっとそうでもなければ、一生このまま知る由もない。

 手を伸ばそうか。肩や背中を揺らして、彼女を起こして、小さな声で何処か他のお店に誘ってしまおうか。そのどれも出来ないまま夜だけが更けてゆくのか。きっとそうだろう、僕自身どうせそれを望んでいるんじゃないのか。

このまま、このまま……。


 グラッ、と一瞬だけ眼の前が暗転した。心地よい疲れと酔いの混じり合った目眩に誘われるまま、僕もソファに横たわろうと白くぼんやりとした脳の奥が決めた。そのとき。

「あ、ちょこさーーん!」

「おーいらっしゃい!」

 がぱっと開いたドアから勢いよく、三人組の女性客がなだれ込んできた。

「え、まってメッチャええ匂いせん!?」

「ウチ今メッチャお腹すいてんけど~~!」

「あたしも、ちょこさん今日なにがあります?」

「うちビールとー、えーちょっまってー!」

「今日はね~オムライスなら、すぐ出来るよ! あとは焼きおにぎり、ピザトースト、他なんでも!」

「あっ!? うーん……」

 今までの和気あいあいとした雰囲気が一気に騒々しくなり、ちょこさんとみけまるさんが再び慌ただしく働き始めた。ヨシダさんとJさんは席を詰めて何やら話している。

 その賑やかさに気がついたあぶくちゃんが、右に左にと寝返りを打ちながら少しずつ目を覚まし始めている。僕はそれを黙って見ている。それしか出来ないでいる。

「いらっしゃいませえ」

 再びガパンと開いたドアから、今度は安そうな背広を着た会社員が二人ちょっとカッコつけたステップで踊り込んできた。

「ふたりね」

「いい?」

「はあい、どうぞぉ」

 みけまるさんの愛想の良い対応に気を良くした背広たちが、女性三人組とヨシダさんJさんを挟んで店の一番右に座る。

 相次ぐ注文と乾杯、そして嬌声に店の中はワイワイガヤガヤ。ちょこさんとみけまるさんはテンヤワンヤ。けど、それを次々に捌いて料理を作り酒を出し微笑み続ける二人が、頼もしいくらい美しかった。さっきまでのまったりムードが一転してのバタバタぶりだが、その忙しさをどこか楽しんでいるというか、充足を感じているようにすら見えるのだ。ちょこさんは徹頭徹尾、お客様という言葉を使っていた。こういうときの仕草、顔つきを見ると、あの言葉に嘘は無かったのだとわかる。

 やっぱり、ちょこさんはお店とお客、そして自分が三位一体となるこの場所が何より好きで、楽しいんだ。そしてその隣で、時にカウンターで遊撃手よろしく小回りの効いた接客を見せるみけまるさんもきっと同じなんだ。この二人は見た目こそ別タイプのべっぴんさんだが、根っこのところで共通点が多いようだ。

「混んできたなあ」

「そろそろ、我々は……」

 ああ、まだ行きたくない。帰りたくない。

「おいカズヤ」

「んー?」

 少し大げさに、酔ったふりをして返事をした。

「お前しんどいだろ、邪魔んならないならそこで寝かせてもらっとけ」

 へ?

「お大事に……」

「ちょこさん、ちょっとあの丸いの置いてっちゃうけど……いいかなあ」

「うん、ぜんぜーん! 寝かせておいたげよ!」

「ありがとね。じゃチェックで!」

「はあい、今計算しますねえ」

 パタパタと会計の準備をするみけまるさん、料理に酒にとテンテコ舞いのちょこさんが、閉じかかったまぶたの向こうで踊るように働いている。

 何やら話し込みながら会計を済ませたJさんとヨシダさんが、視界の左右に引かれた暗幕の外へフェードアウトしてゆく。めまいに後ろ髪を引かれるように身体がソファに沈み込んでゆく。

「なんのかんのガキだな、まだ。可愛いもんだ」

「まあ、若いウチ……ですよ」

 それが僕を指した言葉なのだと気づくか気づかないかのうちに、僕の意識はすっかり三ツ寺会館の暗渠を脈々と流れる地下思念水脈に溶け込み、誰も知らない闇の中で浮かび上がる光のあぶくを探してさまよい始めた。


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