3杯目。「立ち呑み 毘」で、呑む。
夏の夕暮れ。谷町九丁目から乗り込んだ地下鉄千日前線は相変わらずの混雑ぶりで、空調と人々の熱気が狭い車内の天井あたりで渦を巻きせめぎ合っている。灼熱の季節を迎え、その熱気を拭い去る間もないまま冷房の効いた車内で汗をかいていると背中のあたりが冷えて実に気持ちが悪い。それに背の高いヨシダさんが横に立って吊り革を掴んでいるので、
「痛いなあ、もう!」
「すぐ着くんだガマンしろ」
「ちょうど肘が僕の……いてえ!」
さっきから僕の肩や顔に肘が当たりまくっている。
「お前だって暑苦しいんだよ。このクソ暑いのに」
「好きで過ごした夏なんかありゃしないやい」
日本橋までたったのひと駅とはいえ、お情け無用のお祭り電車は今日もスシヅメで些か堪える。まあ地下鉄どころか街のメインストリートを路面電車が走っている僕のふるさと豊橋が、よほど呑気なのだということでもあるのだけれど。
ピンクの地下鉄を降りて、10番出口を上がって、もわーんと蒸し暑いミナミの黄昏時に溶け込んで。堺筋をまっすぐ下ればすぐ、日本橋パールビルが見えてくる。
濃橙色の空に低い灰色の雲を背負って浮かぶ看板の一つに、漢字一文字で「毘」とあり、ここが今日のお店。
【立ち呑み 毘】さんだ。
パールビルの1階、カレー屋さんの奥にも立て看板が見える。ステッカーやポスターで彩られた、年季が入ってツルツルした引き戸をガラガラと開ける。この瞬間がいつも少しドキドキする。
「こんばんは、二人いいっすか」
「こんばんはー!」
「おっ、いらっしゃい!!」
カウンターにずらりと並んだ一升瓶の向こうから、ボスの柔和な笑顔が出迎えてくれる。鮮やかな赤めの茶髪をサラッと乗せた華奢な体躯ながら、忙しいときはノンストップで料理やお酒を作り続ける、いわば酒場の小さな巨人である。みんながボス、ボスと呼んでいるので、いつしか僕らもそれにならってボスとお呼びするようになった。
大抵のお店が早くても19時くらいからなのに対し、毘さんは16時から開けてくれているのもうれしい。
カウンターにお腹をくっつけるようにしてひと息つく。
「お前の後ろ、通れないな」
「だから端っこに寄ってるんじゃん」
いつもお店の左右の端っこが僕の定位置だ。
「隅っこって落ち着くじゃん」
「こんな可愛げのないすみっこぐらしも珍しいぞ」
「170センチは〝ちいかわ〟の範疇じゃんか!」
「柔道と少林寺の段持ちでアマレスまでかじった100キロもある奴ぁ、〝ちい〟とも〝かわ〟とも言わねえーんだよ!」
「ふっふふ。あ、なんにします?」
店に入るなりよくわからないことで口論寸前になっている僕らを見ても気にするどころかいつものことだと面白がってくれている。色んなお客さんが来るから、この程度じゃ驚かないのだろう。
「えーとじゃあ、俺ビールで! 生ビールください。ボスも何か飲んでよ」
「ありがとうございます!」
「僕は鍛高譚の梅をロックで!」
「あれ、今日は飛ばすじゃねえか」
僕はココに来たらコレなのだ。
カウンターに設置された〝めにゅ~〟のほか壁にはオススメの品も色々ある。ちなみにこのめにゅ~のほうにも、ボスからのコメントが添えられているので必見である。
「えーと明太山芋目玉焼きと、鶏の唐揚げ、あとタコの吸盤のお造りください」
「俺は……メヒカリの唐揚げか。これにしよ」
「メヒカリ美味しいよね」
「お前、食ったことあったっけ」
「愛知でもたまにあるんよ。最近ちょっと話題だもんで、深海魚」
「はいっ、ビールと梅ロックお待ちどうさまです!」
「「どうも!」」
「僕も、いただきます!」
ボスの手には種子島の焼酎の入ったコップ。ヨシダさんの冷えたジョッキ。そして僕の銀色のロックグラス。三者三様の酒がカウンター越しにカチリと鳴って乾杯だ。
ぐいっとコップをあおったボスは早速お料理に取り掛かった。僕らの他愛ない話に相槌を打ちながらも、さっきまでニコニコだった目つきだけが鋭く料理人のスイッチに切り替わっている。お造り、目玉焼き、揚げ物と注文したので包丁にフライパンにフライヤーと八面六臂だ。
「ああー、うまいな! おかわりください!」
早くもジョッキのビールを飲み干したヨシダさんが満面の笑みを魅せる。
「早いなあ相変わらず」
「ビールはスピードだよ」
「初めて聞いたよそんなこと」
「攻めなきゃ飲めねえから」
「肝臓を攻めてどうするのさ」
「はいっ、ビールおかわりと唐揚げとタコの吸盤!」
僕らの矢継ぎ早の注文を、矢継ぎ早の提供で返してくるボス。そして出てくるたびに思うけど
「デカいなあ」
「お前の握りこぶしよりデカいんじゃないか」
この唐揚げの巨大さ、である。試しに僕が小橋建太さんよろしく拳を握って見ると、それでも一回りくらい唐揚げのほうがデカい。
「僕もおかわり……じぇいじぇいくだしゃい」
「おい大丈夫か、そんな飲んで」
「へえ?」
「梅酒ロック1杯で呂律が回ってねえじゃんか」
「はいっ、JJどうぞ。明太目玉焼きコチラですねー!」
「ありがとうございまあす!」
火照った顔の内側を冷えたジャスミンがキンと冷やして流れてゆく。すると今度は胃の腑が燃える。酒とは不思議な飲み物だ。
「酔ってんな、お前な」
「目玉焼き、これ不思議にウマイよ。ちょっと食べる?」
「んん? おお、ホントだ。フカフカだけどしっとりしてら。で塩気が効いてて酒に合うよな」
「ねえ! マグロの頭肉のお造りだって」
「あ、それもう多分ラストですね!」
「ほんとですか!? じゃあーそれくださぃ」
「俺も、タコの唐揚げとビールおかわり!」
「ありがとうございます!」
「お疲れ様ですー!」
「おおー、早かったね」
ガラガラと引き戸を開けて慌ただしく入ってきたのは、いつもお手伝いに来ている女の子だった。
「すみませんね今日、バタバタしちゃってて」
「そういえばボスお一人だったですね」
「電車とまっちゃってえ、もうサイアクー!」
「なるほど、じゃゲン直しだ。お姉さんも1杯飲んでよ」
「わーありがとうございます!」
駆けつけイッパイというやつで、手早く身支度をした彼女が早速グラスにお酒を注いで、ついでにヨシダさんのビールも出てきて「いただきまーす!」とまた乾杯した。
ヨシダさんが女の子と何やら話し込んでいるのが、ぼわんと温まった頭の後ろ隅っこから聞こえるような聞こえないような。JJの残りをぐいっとあおって、唐揚げやお造りに箸を伸ばすと……無情にもお皿の上はからっぽだった。
「ヨシダさん、また僕の食ったろ!」
「んああ!? お前ホント大丈夫か、さっき全部きっちり平らげてたろ!」
「ぇへあ?」
「唐揚げなんかこんなデカいのに、一口でガブガブいってたし……お造りも2枚3枚まとめてかっさらってたぞ。味わって食え、もっと!」
「ふあーい」
「はあーい、タコの唐揚げでえす!」
お店の白い灯りと、その向こう側のメニューやポスターを背景に、お皿の上で鎮座まします褐色のタコの唐揚げから立ち上る湯気がゆらゆらゆらと揺れて霧消する。
「あいっ、マグロのお造りお待ち!」
ボスが僕の前にお皿を差し出し、ニカッと少しはにかんだ。
鮮やかな薄桃色の部分と、艷やかな赤身の部分がお皿の上でしっとりと横たわっている。ぎらりと脂が膜を張り、お橋でつまむだけでとろけそうだ。
「うわ、うま!」
味としてはトロより甘くて濃厚だけど、舌に乗せた瞬間に脂がすっと溶けて、マグロの風味がそのあとでふわっと来る。これでお酒を入れてもいいし、ご飯を食べても絶対いい。脂も風味もしつこくなくて、新鮮さがいちばんの味付けになっている。
「んだと思う! たぶん!!」
「酔ってんな、お前な」
そういうヨシダさんもタコの唐揚げをひょいパクひょいパク次々に放り込み、それをまたビールで流し込んでいる。
カウンターの向こうでは洗い場を片付けながらボスたちも和気あいあいとしている。普段はなにかと面白おじさん扱いをされてはいるが、何処かきっちり信頼されている様子。
フワフワいい気分で引き戸の木目を追っていると、それがバラバラっと乾いた音を立てて開いた。立て続けに2組、それも2、3人ずつ来店したので一気にお店が賑やかになった。それぞれがそれぞれの話の続きを持ち込んで、そこにお店もお客同士も巻き込んで。
心地よい喧騒ではあったが、そろそろ僕たちは出ることにした。元より長居するタイプじゃないヨシダさんだが、今日はビールをよく飲んでいた。
「ボス、ごっそさんです!」
「ありがとうございます!」
手早くお会計を済ませている間にも、注文や喚声が湧いて出る。
酒場の夜が動き出す。
忙しくてもお店の外まで送り出してくれたボスと手を振りあってパールビルを出ると、まだ19時。夏の夕暮れが夜と溶け合って、いちばん深い橙色がビルの向こうの空をわずかに染める。
「美味かったなあ、タコの唐揚げ」
「マグロのアタマのお造り絶品だったよ」
「でも思ったよりは早えな」
「三ツ寺まで歩けば、ちょうどいいんじゃない?」
「そうだな。ちょこさんとこ、行くか」
「いいね。お腹すいた」
「お前いま、散々ぱら食ったろ!」
「ヨシダさんだって飲み足りないって顔してるじゃん」
「まあな。そういやJさん、まだかな」
「え、今日来るの!?」
「おう。俺ら世話になってるからな、たまにはご馳走しねえと」
「お坊さんでしょ。お酒にツマミ……大丈夫なの?」
「まあ、いいんだろ。あの人だし」
そりゃそうか。
「ま、いいや。先に行ってようぜ。そのうち来るだろ」
「そうだね」
堺筋を上がって宗右衛門町を通り越し三ツ寺筋に入る。あとは喧騒に巻かれて歩けば、大阪ミナミに佇む年代物の愛すべき魔窟が見えてくる。酔醒の散歩というのもオツなもので、一足ごとに流れ落ちる汗になってお酒が抜けてゆく気がする。
暑いなあ。早くまた涼しいお店に入って飲み直そう。




