008:大浴場で
「はぁ、全然うまくいかなかったなぁ。」
「私たちも似たようなものでしたから……。」
魔法教会の寮に置かれた大浴場に、少女たちの声が響く。
湯舟の中で抱えた両膝に顎を置いた姿勢で、落ち込んだ様子で唸る奈々樹に、隣で同様の姿勢で湯に浸かる黒髪黒眼の少女が応える。
奈々樹の隣で陰のある笑顔で笑っているのは42班に所属する少女で、糸色界といった。
初回訓練を終えて、奈々樹たち41班の面々は寮に備え付けの大浴場に来ていた。
そこには先客として42班の面々が来ていて、結果として一緒に入浴することになったのだ。
「お鼻、大丈夫? 」
「え、あ、うん……。」
訓練の過程で顔に攻撃を受けた奈々樹の鼻は、風呂で上気した分紅く染まっている。
心配そうな表情で覗き込んできた界に、奈々樹は自分の表情を見られたくなかったのだろう。
その顔を水面に沈めながら小さく頷いた。
「も、森崎さん。お湯に漬けちゃうと、また鼻血出ちゃうよ……? 」
「う……!! 」
界の言葉に、彼女は訓練の内容を思い出して気まずそうに顔を歪める。
初回訓練の後、奈々樹が恐慌状態に陥って班員たちに混乱を招いたことを筆頭に、彼女達は玲於奈から説教を受けた。
ガイウス曰く、感知型の魔術師が初回に魔獣の魔力で動揺することはよくあることらしい。
これから慣れていくように、と優しい口調で声を掛けてくれた彼の姿が記憶に新しかった。
「はぁ……。」
「げ、元気出して!! 私も、失敗しちゃったから……!! 」
再び落ち込んだように大きくため息をついた彼女に、界が元気づけるように声を掛ける。
しかし、そんな彼女の言葉は、また別の人間の心に刺さったようで、浴槽の縁で備え付けの手摺に体を預けていた少女が気まずそうに口を開いた。
「うう、ごめん。」
声の主へと視線を向けると、紅髪赤眼の小柄な少女が青い顔をして彼女たちを見ていた。
彼女の名前は聖柄聖といい、界と同じく42班のメンバーだ。
彼女は代々優秀な魔法剣士を輩出する関西の家系、聖柄家の出身であり、訓練でも卓越した剣捌きを見せていた。
42班の訓練では彼女が正面からやってきたガルム達をすべて斬り捨てる、という離れ業を披露したが、後方から襲来したガルムに界が襲われて訓練中断となったのである。
糸色家は結界魔法の大家で、訓練中でもガルムの襲来を結界で防いでいたのだったが、界が眼前に迫る魔獣の姿に恐怖で結界魔法を維持できなくなったという経緯があり、教官たちに叱られたのだった。
「気にしないで、聖ちゃん。」
浴槽の縁で大きく肩を落とす聖に、界が両手を振りながらそう声を掛ける。
そんな彼女たちの遣り取りを、奈々樹は目を丸くして見ていた。
仮想空間での訓練は、フィードバックのタイミングで録画が他の班の訓練も含めて見ることができた。
彼女の戦う姿を見ていた奈々樹の記憶では、訓練中の聖は精悍な面持ちと鋭い眼光で大立ち回りをしていた。
そんな訓練中の頼りがいのある姿と、今目の前にいる気弱な少女のギャップに奈々樹は驚きを隠せなかったのである。
腰よりも長く伸ばした長髪の先を手持無沙汰に弄る聖の姿は、訓練の時とは打って変わって一回りも二回りも小さく見えた。
「背中がお留守だよ、姫。」
どこからともなく、少女の声が聞こえた。
奈々樹と界がその声の出所に首をかしげていると、次の瞬間、聖の背後の湯煙の奥から少女が一人、姿を現して彼女に抱き着いた。
否、正確には少女は聖に抱き着こうとした。
ただし、聖は体重を預けていた手摺を支えに身を翻し、彼女を回避する。
「んぉ? 」
聖に回避されることは想定していなかったのだろう。
彼女に飛びつこうとした少女はその勢いのまま湯舟に突っ込んでいき、水しぶきと共に水面に飛び込んでいった。
僅かな間を開けた後に、お湯からぷはと息を吐きながら少女が顔を出す。
ショートカットの黒髪に糸目の彼女は、すらりとした体からお湯をたらしながら立ち上がる。
「相変わらず、姫は手ごわいねぇ。」
「嫌な気配を出しすぎ。」
ハンサム、という様な良い笑顔で言った彼女に、姫、と呼ばれた聖は警戒した表情で彼女を見やった。
そして、そんな糸目の少女に向かって呆れたような雰囲気の界が、ため息とともに声を掛ける。
「咲ちゃん、何してるの……。」
「何って……ロマンだよ、界。」
咲と呼ばれた彼女は、薄い胸を張って応える。
そんな彼女の反応を見て、界は再び大きくため息をついた。
彼女は42班で斥候役を務める少女で神楽咲といい、界の幼馴染でもある。
界の冷たい視線を受けても尚、その視線を受ける咲はどこか興奮した様子で言葉を続けた。
「程よく鍛え上げられた肢体、そして流石に界ほどではないが、美乳というような程よい大きさの乳!! そう、姫の体はとても魅力的だ!! あれに触れられずにいるのは、人類の損失ではないかね? 」
そう言って彼女は、聖の肉体を舐めまわすように見つめる。
その視線を向けられた彼女は反射的にその身を隠すように腕を回すと、まるで汚物を見るかのような目を咲に向けた。
だがしかし、彼女の視線に咲は興奮したように頬を上気させてその身をぶるりと震わせてみせる。
「ああ、その目……触れられないからこそ、姫は良い……。」
「あの……聖ちゃん、馬鹿が変なこと言ってごめんなさい。」
「だ、大丈夫……界が謝ることじゃないよ。」
彼女の言葉に、聖は苦笑と共に小さく手を振った。
しかし、その目は界ではなく彼女の持つ、浴槽のお湯に浮くほど豊かなそれに向けられている。
その視線を受けて、彼女は一度大きく目を見開いた後で、きっ、と咲の方を睨んだ。
「咲ちゃんのせいで、何か変な雰囲気になったじゃない!! 」
「それは誉め言葉だよな? 」
「違うよ!! 」
咲の言葉に、界は声を上げる。
42班の少女たちは、そんなやり取りをきゃあきゃあと続けていて、界の隣でお湯に浸かっていた奈々樹はそれらを驚いた様子で眺めていた。
ふとそんな奈々樹たちの目の前を、レイが仰向けでお湯に浮きながら通過する。
「おいこら泳ぐな!! 」
洗い場から体を洗い終えて出てきた舞が、お湯に浮かぶ彼女を見つけて声を荒げる。
初回訓練で最後に防御魔法にとらえたガルムを攻撃した後、レイは体力を使い果たして倒れた。
体がうまく動かないと言い張るレイのために、先ほどまで舞が彼女の髪や体を洗っていたのだが、それを終えた後にレイはこのようにお湯に体を浮かせていたのだった。
「浮いてるだけ。」
「また屁理屈を……!! 」
自由気ままにふるまうレイを捕まえようとしているのだろう。
バシャバシャと水音を立てながら、舞は浴槽に踏み込んでくる。
そんな彼女に対して奈々樹を盾にするようにレイは、するり、と彼女の背後に回り込んだ。
「へるぷ。」
「うひゃっ!? 」
思わず湯舟の中で立ち上がった奈々樹の背中に、レイの慎ましやかな胸のふくらみが押しあてられる。
奈々樹はその感触に驚いたように声を上げたが、気が付けばレイは彼女を盾にするように羽交い絞めにしていた。
そのことを咎めるように声を上げかけた彼女は、抱き着くレイの脚は生まれたての小鹿のようにかくかくと震えていた。
どうやら彼女の疲労は本物の様で、おそらく無理をしているのだろう、という事が伺われる。
「ナナ、 そいつを押さえてくれ!! 」
奈々樹がレイの様子を見て動きを止めていると、舞がそう言いながら、彼女に向かって手を伸ばす。
だがしかし、その手がレイに届くか否かというタイミングで、奈々樹は背後から強く押される。
疲労困憊な彼女を支えなくては、と意識を割いていた奈々樹はいともたやすくバランスを崩した。
「ちょ!? ちょっと!! 」
「おわっ!!?? 」
突然倒れこんできた奈々樹に、舞は反射的に彼女を受け止めようとするが、奈々樹の背後からはレイも併せて飛び込んできていた。
2人分の体重を咄嗟に支えることもできなかったため、彼女たちは3人まとめて湯舟のお湯に向かって倒れこみ、盛大な水音と共に水しぶきが吹き上がる。
「わぁ………。」
「に、にぎやかだね。」
順に界と聖が、浴槽の縁に腰かけて奈々樹たちの遣り取りを眺めている。
浴槽の中から奈々樹たちがざばりと体を起こし、顔を流れるお湯を素手で拭う。
「ぷはっ! ちょ、ちょっと舞!! レイちゃんは疲れてるんだよ!? 」
「な? ナナはそいつの味方をするのか!!?? 」
「みかっ!? 味方って!!?? 」
彼女の言葉を聞いて、舞がショックを受けたような表情になる。
それを受けて、奈々樹も戸惑ったように声を上げた。
湯舟の中でわぁわぁとそんなやり取りをしていると、奈々樹の鼻から血が垂れてくる。
それを見た舞は、顔を真っ青にして声を上げた。
「な、ナナ、ナナ!! 鼻血!! 」
「えええ!!?? 」
舞の声に驚いた奈々樹は、バシャバシャと浴槽を飛び出す。
いつの間にかタオルを用意していた咲からタオルを受け取った舞が、彼女の鼻にタオルを押し当てる。
バタバタとしたやり取りの中、大浴場に置かれたベンチに腰かけた奈々樹と、その隣にレイが腰かける。
そっと彼女の肩に頭を預けるレイに、奈々樹が怪訝な視線を向けると、彼女は上目遣いでじぃ、と見つめてきた。
「レイちゃん? 」
「元気、出た? 」
ぽつり、告げられたのは、先ほどまで落ち込んでいた奈々樹のことを気遣う様な言葉であった。
それを受けて、初めて彼女はレイの狙いを理解する。
「……!!!! ありがと、レイ。」
「ん。」
トラブルメーカーだと思っていた少女の気遣いを理解して、奈々樹は朗らかな笑顔で感謝の意志を伝える。
それを受けて、西洋人形の如き少女は困ったように小さく頬を染めた。
◇◇◇
寮に備え付けられた大浴場の、女湯が少女たちの賑やかな様であるのに対して、男湯は比較的静寂に包まれていた。
「あんまり、上手く行かないものだね。」
蓮が湯舟に浸かってはなった第一声は期せずして、壁を挟んだ反対側で奈々樹が呟いたものと殆ど同一の物であった。
そんな自嘲するような彼の言葉に、彼の隣で湯に浸かる誠人が反応する。
「そうか? 4体全部倒せたんだから、大したもんじゃねーかな。」
「ははは、それはそうかもね。」
彼の言葉に、相変わらずの微笑で応えた。
蓮の脳裏に蘇るのは、訓練直後の玲於奈とガイウスから受けたフィードバックである。
────四条君に、他のメンバが付いていけていない────
その言葉は、彼の心中に大きな重石となって残り続けている。
蓮は魔法教会大学校に入隊する前から、血の滲む様な努力をしてきていた。
防御魔法の行使とその応用方法を練習し、戦闘中の判断についても訓練を重ねてきていた。
そうして挑んだ初回の訓練は、防御を生業とする彼にとって、負傷者がいるなど課題ばかりという結果に終わってしまったのだ。
────四条君は独りで戦う以上のことを覚えなさい────
自分よりもずっと優秀だと思った戦士が、課題を提示されている。
さらに加えてその課題が、自分たちが足手まといである、或いは足手まといになりえる、という意味を含んでいることに、彼は大きな衝撃を受けていたのだった。
「気合い入れて準備していたんだけどね。」
彼は自嘲するように小さく呟く。
蓮はアルカイクスマイルのままでいるとはいえ、その気勢と口調から、大きく落ち込んでいることが察することができた。
「まぁ、それは誰だってそうだろうよ。俺なんて魔力切れでダウンしてっからなぁ。」
せめてもの気休め、と言わんばかりに、誠人が呟く。
すると、暗澹たる雰囲気の彼らに、湯煙の奥から声がかけられる。
「随分と辛気くせぇなぁ。初回の訓練で心やられすぎだろ。」
湯煙の奥から姿を現したのは、長身瘦躯の少年だった。
穏やかそうな顔つきとは対照的に、その瞳には好戦的で苛烈な灯がともっている。
「あーえっと、42班の? 」
「光だよ、竹光光。」
彼の姿を確認して誠人が言葉を探していると、少年は自身の名前を告げる。
光は広い浴槽をぐるりと見渡した後で、僅かに眉を上げて口を開く。
「あんだ? あのバケモンはいねーのか? 」
「バケモン? 」
光の疑問に、蓮が小さく首をかしげる。
彼の言葉を受けて、光は面倒くさそうに頭を掻きながら再び口を開く。
「てめーらんとこの、2体倒した奴だよ。」
「ああ、アキラの事か。彼なら部屋でシャワー浴びるって言って、いないよ。」
大浴場に、アキラは来てない。
彼は公衆の浴場を使用できない事情があるらしく、部屋に備え付けのシャワーで風呂を済ませるとのことだった。
蓮の説明を受けて、光はその表情を、まるで物事を理解できないかのように歪めて見せる。
「あんだよ、協調性が足りてねーな。事情があるんだろうが、チーミングは重要だろ。特に実力者の場合はよ。」
彼の言葉に、蓮は少し驚いたように眉を上げていた。
というのも、口の悪さとは対照的に発言は合理的で強く否定できるような内容ではなかったからだった。
誠人も同様の反応を見せており、それらを見た光が、なんだよ、と小さく声を上げる。
そんな彼らの外から、再び声がかけられた。
「あー、そいつ口は悪くて正論ばっかいう奴だが、気を悪くしないでやってくれ。」
そういう声と共に、もう一人の少年が浴槽に足を踏み込んできた。
声の主を見てみると、茶髪を肩の辺りにまで伸ばした小柄な少年が、肩にタオルをかけて立っていた。
彼は湯船に勢いよく身を沈めると、深く息を吐いたあとで、気持ちのいい笑顔を蓮達に向けた。
「成瀬信だ、よろしく。」
信と名乗った少年は、そう言いながら自ら髪を手で束ねて、手首に着けていたヘアゴムで後ろに纏める。
どうやら彼は、平時はその髪を後ろに纏めているのだろう。
誠人がその髪型を見て、合点がいったように、42班の奴か、と小さく呟いた。
彼に遅れて光も湯船に浸かると、おもむろに誠人が口を開く。
「にしても、バケモノってぇ言い回しは何なんだ? 仮にもうちの班のメンバーなんだがよ。」
それは、最初に光がアキラの事に触れたときの言い回しについて抗議をするものであった。
おそらく光は、自分がそう言ったことを忘れていたのだろう。
暫くの間を空けてから周囲の視線が自分に向かっていることに気が付いて、口を開いた。
「いや、新米があれだけ戦えんなら、そりゃバケモンだろ。」
光は、当然だろ、と全く悪びれることなく首をかしげる。
それを受けて蓮が、いつもの微笑を浮かべながら口を開いた。
「申し訳ないけど、そうなると君のところの聖柄さんも、化け物になっちゃわないかい? 」
彼の指摘は、日中の42班の訓練で獅子奮迅の活躍を見せていた聖の事を指摘するものであった。
仲間の事も化け物と呼ぶのか、と言う彼の指摘に、だがしかし、光はあっさりと頷いた。
「そうだな。聖はバケモンだよ。」
何処か感慨に耽るような口調で、彼はそう呟いた。
竹光家は魔獣が出現するよりもずっと昔から、聖柄家との付き合いをしてきた古い魔術師の家系であり、聖と光は幼馴染の関係である。
長い付き合いを通して、彼は彼女を化物と呼んでいた。
「あいつらは別格だろ。むしろ逆に、あんたらはあれだけ戦える連中と、自分を同格に扱いてぇのか? 」
彼の問いに、蓮達は口をつぐむ。
そんな彼らを置いて、光は言葉を続ける。
「どうにもイレギュラーな奴らってのはいるもんだよ。そーゆー別格な連中と比べて気に病むなら、さっさと割りきっちまった方が良い。俺達は俺達で一人前になれりゃ良いんだ。」
彼の言葉に、蓮がはっとしたように顔を上げた。
彼の目は蓮に向けられてはいなかったが、その言葉は先程まで気を落としていた彼には、とても意味のある言葉に聞こえた。
「ありがとう。」
「んだよ、ニヤニヤして気持ちわりぃな。」
感謝の言葉を述べた蓮に、彼は僅かに眉を顰める。
そんな彼の反応に蓮が苦笑を漏らしていると、誠人が、それにしても、と口を開いた。
「まぁすげぇ奴らが2人もいて、流石は特務科、って言ったところだよな。」
感慨にふけるようにそうつぶやくと、誠人はざぶりと倒れこむように、湯の中に身を沈めた。
そうかもしれないね、と自嘲するように笑った蓮に、光が首を振ってそれを否定する。
「なにいってんだ? やベーやつはもう一人いるだろ。」
「ん? まだいるのか? 」
彼の言葉に、湯の中から顔を出した誠人が、滝のように水を垂らしながら反応する。
彼の言葉に光は呆れたような表情になりつつ、口を開いた。
「43班の白い女だよ。」
「アクア……さんのことかな? 」
「あいつ、何もしてなかったよな? 」
彼の言葉に、蓮と信が反応する。
彼らが思い出すのは、43班の訓練の録画映像である。
43班の面々は、襲い来る魔獣たちに翻弄されるばかりであったが、その中でも特異な動きをしているメンバーが二人いたのである。
否、正確には、何もしていない、という言い方が正しいだろう。
彼の班のメンバーである、アクアとハサン。
アフリカ出身のメンバーである彼らは、魔獣が襲い来る仮想空間での訓練の中で、特に何もせず、戦場の中央で立ち尽くしていたのである。
彼女たちは戦うこともせず、43班のメンバーを見捨てていたのだった。
「あいつら、めちゃめちゃ感じ悪かったよなー。」
「居残りさせられてた奴だろ? あいつらそんなにやべーのか? 」
順番に信と誠人が言った言葉に、光は、ああ、とうんざりしたような表情で頷いた。
「ああ、特に女の方は、人でも殺してんじゃねーか? 」
彼の言葉は、湯煙立ち込める浴室に、やけに響いて聞こえた。