006:仮想空間で②
恐怖に強張る身体と、目蓋の裏の闇の中、しかしそれでも、彼女の身には、恐れたような魔獣の攻撃が当たることはなかった。
1秒、2秒とその時間が延びる程に、彼女は冷静さを取り戻す。
耳を押さえていた両手を下ろすと、周囲の音が耳に届いた。
先ほどまで目の前に聞こえた、魔獣の唸り声が消えている。
「……? 」
奈々樹は、きつく閉じていたその目を恐る恐る開く。
目の前には、今朝知り合ったばかりの少年の背中があった。
「あひ……らふ……。」
「ごめん、対応が遅れた。」
奈々樹の、鼻を怪我した不明瞭な声に、アキラは声だけで応えた。
その横顔は先程までの外見相応の少年の物とは違って、歴戦の戦士のように鋭い眼光を宿していた。
そしてその目は彼女ではなく、警戒するように何処かを凝視していて、その視線を追ってみれば地面に伏してもがく魔獣の姿が確認できた。
それを見て彼女は、彼がそれを蹴り跳ばしたのだと理解する。
成る程、彼は自身を助けてくれたのだろう。
そこまで考えて、彼女が彼に視線を戻したときだった。
ぽたり、と彼の身体から一滴、何かが落ちた。
「ち、血が。」
アキラの体から滴る赤黒い液体を見て、彼女は焦ったようにふがふがと声を上げる。
怪我をしているのだろうか、彼の身を包む軍服の至る所が血液に濡れて、怪しく光を照り返していた。
だがしかし、焦る奈々樹に対して彼はひどく冷静に、小さく眉を動かすだけでそれに反応する。
「ああ、これは返り血だから、気にしないで。」
「返り血……? 」
彼の言葉を、彼女はぼんやりとした表情で繰り返す。
そしてそこでようやく、先程探知した背後の魔獣の気配が消失していることに気が付いた。
どうやら奈々樹達が前方から接近してきた3体に気を取られている内に、彼は後方の魔獣を倒してきた様子だった。
「それよりも、怪我なら奈々樹の方が大変そうだけど。」
「う……。」
ちらりと視線だけ彼女の方に向けたアキラの指摘に、彼女は閉口する。
奈々樹は今、鼻血をぼたぼたと流しながら彼のことを見上げている。
その様子に僅かに目を細めたアキラは、視線をガルムの方へと戻しながら再び口を開いた。
「僕は奴の対処をするから━━━━
「ひゃっ!? 」
その言葉を言い終わるよりも、前だった。
蹴り跳ばされていた筈のガルムが、彼に向けて飛び付いた。
大口を開いたそれは彼の頭部を噛み砕かんと、すさまじい速度で駆け寄り、飛び上がっている。
加速魔法。
低級の魔獣が扱う、ただ魔力を運動エネルギーに変換するだけの単純な魔法だ。
蹴り跳ばされたガルムは、自身が危機にさらされていると判断したのだろう。
それはアキラを仕留めるための不意の加速で、そしてそれに、彼は頭部を庇うように左腕をあげる。
差し出された左腕ごと、ガルムの顎は全てを噛み砕いた。
━━━━奈々樹は、自分の手当てをしていて。」
最悪の光景を幻視し、反射的に目を瞑った奈々樹の耳に、がぎん、と硬質な金属音が響く。
続いて聞こえた彼の言葉に目を開くと、そこには腕を噛みつかれながらも、その場に微動だにせず立つ彼の姿があった。
彼の足元には騎士と永劫蛇の意匠を象った魔紋が広がっている。
それは魔獣の突進で吹き飛ばされないために、彼をその場に固定する硬化魔法の応用だった。
「腕、腕が!! 」
彼が噛みつかれているのは腕を包むプレートアーマーで、それはガルムの鋭い牙が食い込むたびに、徐々に亀裂を広げている。
その光景に顔を青くした奈々樹が声を上げるが、彼は、問題ないよ、と小さく笑っただけだった。
「中々やるね。」
ガルムに向けて視線を戻した後で、ふっとアキラは小さく嗤った。
そして彼の右手が、ガルムを撫でるようにその頭部に置かれる。
否、その頭部に置かれた右手は、そのままゆっくりと、その頭部に沈みこんでいった。
何事もなくそっと添えられるように見えたその手には、万力のごとき力が込められていたのだ。
彼の左腕を噛み砕かんと上げられていたガルムの唸り声は、やがて苦悶の声へと変化する。
「暴れないで。」
「……え。」
目の前の光景に、思わず奈々樹は声を漏らす。
めきめきと骨が砕ける音ともに彼の右手はガルムの頭部に沈み混み、そしてそれを握り潰していく。
プレートアーマーに突き立てられていた牙を、今度は必死に外そうとともがく魔獣を、アキラは酷く冷たい目で眺めていた。
肉を突き破る頭蓋骨や押し出される眼球、そして吹き出す血液を浴びながら、やがてガルムの牙が外れて自由になった左腕で、彼は腰に挿されたナイフを抜く。
「逃がさないよ。」
アキラが小さくつぶやく。
頭部を握り潰されても尚、魔獣は生きていた。
4本の足で彼を蹴り跳ばすように暴れているが、アキラは潰れた頭部をそのまま握りしめて離さないでいる。
そして彼は、暴れる魔獣の肉体を小さく持ち上げ、地面に思い切り叩き付けた。
「わっ!!?? 」
彼の足元は魔獣の突進を受け止めるために、硬化の魔法で強化されている。
その為、魔獣が地面に叩き付けられても亀裂や陥没は一切発生せず、衝突音と言うには余りに水っぽさを含んだ音が周囲に響いた。
「ふん。」
飛び散った魔獣の血液が頬に付着したのを見て不快そうに鼻をならした彼は、左手のナイフをガルムの脇腹に突き立てる。
瞬間、大きな咆哮を上げながらガルムは暴れ始めるが、彼は淡々とナイフを押し込んで行く。
固い筋繊維を切り裂き、強固な骨格を折り砕く音と、最早悲鳴ですらない音と化したガルムの声。
「見つけた。 」
ガルムの体内を探るようにナイフを押し込んでいたアキラが、小さく言葉を漏らした。
そしてその言葉と共に彼は、魔獣の肉体から乱雑に腕を引き抜く。
彼の手は何かを掴んでいるのか、固く握りしめられていた。
安堵したようなため息と共に開かれたその手のひらには、赤黒い血液に濡れた結晶質の固まりが怪しく輝いていた。
「ひとまずこれで、2体目かな。」
魔獣の体内には、その魔力、生命力の源となる核が存在している。
核の摘出は、魔獣の確実な討伐方法だった。
核を抜き取られた魔獣は彼の足元で、事切れたようにぴくりとも動きを見せない。
今回の戦闘は魔道具によって再現された、仮想空間における模擬戦である。
そのため彼の手のひらで輝いていた核は、すぐに光の粒子となって雲散霧消してしまった。
「消えるなら全部消えてくれれば良いのに……。」
宙を舞う光の粒子を名残惜しそうに見つめながら、彼は手を濡らす魔獣の血液を振り払うように手を振った。
全身に浴びてしまった魔獣の返り血に不快そうに眉をしかめながら、彼は奈々樹の方へと振り返る。
「痛てて……。」
奈々樹は自身の鼻血の治療をしていた。
治癒魔法を使っているのだろう、鼻筋に添えた手から魔紋が出現していて、もう鼻からの出血は止まっているようだ。
やがて彼女は魔法を止めると、自らの鼻筋に恐る恐るという様子で手を触れる。
痛みが走ったのか、彼女は小さく声を上げながら表情をゆがめた。
治癒魔法は消耗が大きいため、原則として応急処置のみの使用に留めること、とされている。
鼻の怪我は、まだ完全に治癒していないのだろう。
「……。」
「あ、アキラ君。」
アキラが視線を送っていることに気が付いたのだろう。
地面に腰を下ろしたままの彼女は、その顔を血に汚しながらも朗らかに笑った。
そんな彼女の様子を見ながら、アキラは物思いにふけるように顎に手を当てる。
というのも、彼は振り返る途中で視界の隅に、未知の存在を見上げる僅かな恐怖を含んだ彼女の目が見えた気がしたからだった。
だがしかし、今の彼女の様子は、そのような気配を一切感じさせない。
視界の隅にとらえた恐怖の目は勘違いだったのかと彼が自問していると、彼女が口を開く。
「あ、ありがと、助けてくれて……。」
「いや、遅くなったから……。」
彼女は、気恥ずかし気に苦笑いを浮かべながら、上目遣いで彼を見つめる。
そしてそんな彼女の視線に、彼は少し言葉を濁した。
彼は奈々樹を襲っていたガルムの前に、後方から接近していた別の個体を倒していた。
アキラは魔獣との戦闘では初めてではないため手早く終わらせるつもりだったが、今回の戦闘は想像以上に時間がかかってしまったと認識していた。
もう少し早ければ、彼女はもっと怪我をせずに済んだだろうと、彼は気に病んでいた。
「よくわからないけど、助けてくれたんだからお礼は言わせてほしいな。」
言葉を濁したアキラの様子に、奈々樹は口をとがらせる。
そんな彼女の様子に僅かに目を丸くした後で、ありがとう、とアキラは小さくつぶやいた。
その言葉に満足そうにうなずいた彼女の目の前に、彼の手が差し出される。
「ん、ありがと。」
彼女はその手に気が付くと、ふっと小さく笑った後で、その手を握った。
そして、握った彼の手を支えに彼女が立ち上がろうとした、その時だった。
アキラの背後からごう、という轟音が鳴り響く。
「うわっ……!!?? 」
「くっ! 」
爆風と共に爆煙が吹き荒れ、アキラの軍服を揺らす。
咄嗟に奈々樹の体を引き寄せた彼は、彼女を庇う様に自身の背を盾にしながら、爆発の元へと目を向けた。
彼の目の先には、濛々と土煙を上げるクレーターと、その隣に立つガルムの姿があった。
道路脇の瓦礫の山ノ上には、銃を象った右手をガルムに向けた姿勢で立つレイの様子も見える。
彼女のその指先には星をあしらった十字の意匠を象った魔紋が浮かんでいて、先ほどの爆風がレイの放った魔法によるものだと物語っていた。
「おい外すな!! 援護する身のことも考えろ!! 」
その瓦礫の山の麓の辺りで、土埃にまみれて傷だらけの舞が彼女に向かって悪態を飛ばす。
レイは彼女の言葉を聞きながら、不満げな表情でガルムを睨みつけている。
「避けられた……外してない……。」
彼女は息を切らしつつも、いつもよりも言葉多くの言葉をつぶやく。
そして口をへの字に曲げたあとで、小さく頬を膨らませた。
「威力を落としたらもっと早く攻撃できたりしないのか!? 外してばかりだぞ! 」
「無理。そういうのじゃない。……威力も最低。」
どうやら彼女は、魔獣に向けて何度か攻撃を加えている様子だった。
しかしそれは、全て回避されてしまったのだろう。
彼女たちが対応するガルムは道路に空いた無数のクレーターの中央に立っていて、無傷と言っていい状態だった。
このままでは消耗の激しい彼女たちはガルムに負けてしまうだろう。
「このままじゃあじり貧じゃないか━━くっそ、来るぞ! 」
レイ達が話していると、唸り声を上げたガルムが足に力を込めて地面を蹴る。
舞が魔道銃を構えるが、ガルムはそれを嘲るように、加速魔法を発動する。
どうやらこれまでの戦闘で、彼女達が対応したガルムは加速魔法を使用していなかったのだろう。
瞬間的に加速した魔獣の突進に、彼女は対応できなかった。
「はやっ!!?? 」
超速で目の前に迫ったガルムに、レイは回避行動にも移れない━━否、彼女は回避しようとすらしていなかった。
大口を開いた魔獣が彼女に噛み付かんとしたその瞬間、ガルムとレイの間を隔てるように荊と盾持ちの意匠を象った魔紋が出現する。
それは、空間を隔てる防御魔法だった。
薄く繊細な魔紋の見た目とは裏腹に、ガルムの突進はその魔紋を突き破ることが出来ずに防がれた。
突進の勢いのまま壁に激突したためだろう、レイを襲った魔獣はよろよろと足をふらつかせる。
「……遅い。」
「ごめんごめん。」
レイの声に返事をしたのは、いつの間にか彼女の側に歩み寄っていた蓮だった。
彼の返事とともに、ひとつ、ふたつと追加の防御魔法が展開されて、四足の魔獣を取り囲む。
三角錘を形作る様に三方を防御魔法で囲むことによって、ガルムを捕らえる檻が出来た。
「……すごいな。」
それを遠目に見ていたアキラが感嘆の声を漏らす。
防御魔法を操る蓮の様子はとても手慣れていて、檻を構築するまでの一連の動作だけでも防御魔法への造詣の深さを感じさせた。
「アキ……らく……。」
ふと、彼の胸元から、消え入りそうな奈々樹の声が聞こえた。
その声に視線を向ければ、彼の腕の中で大きく目を見開いて硬直する奈々樹の姿があった。
彼女は絞り出すように、言葉を続ける。
「は、放して貰える……? 」
「あ、ああ、うん。」
ぷるぷると震える彼女に彼は、奈々樹の背中に回していた手を放して彼女を解放する。
解放された彼女はしばらく硬直したままであったが、自身に魔獣の血液やら肉片やらが付着していることに気が付くと、ぶるり、とその体を大きく震わせた。
負傷したゆえに赤らんだ彼女の鼻が、血の気の引いた様子と相まってより紅く見えた。
「な、なんかごめん……。」
「ダイジョウブ、キニシナイデ。」
アキラにとっては咄嗟の行動だったのだが、過ぎた行いだったのだろうかと自責の念にかられる。
申し訳なさそうに首を丸めたアキラに、血液や肉片を拭いながら、奈々樹が震える声で返した。
彼女としても、彼の行いは自分を守る為の順当な判断であることは理解していて、それ故に両者の間には微妙な沈黙が広がる。
そんなやり取りをしていると、彼らに向けて蓮が口を開いた。
「アキラ、森崎さん。一応、巻き込まれないように下がって貰えるかい? 」
彼の言葉に、アキラ達は防御魔法に捕らえられたままのガルムへと視線を移した。
それはせめてもの抵抗と、周囲を取り囲む防御魔法に向けて突進を繰り返している。
蓮は、捕らえたガルムに止めを指そうとしている様だった。
「私? 」
蓮の言葉を聞いて、防御魔法の檻に捉えられたガルムの姿を眺めていたレイが口を開いた。
手短に告げられた彼女の問いは、捉えたガルムに自分が止めを差すのか、という意味だろう。
「疲労困憊。」
蓮の口調が、レイが攻撃を担当することを前提としていることに気が付いて、彼女はそれを拒む様に、きろりと彼を睨む。
そんな彼女の反応に、彼は変わらずのアルカイクスマイルで応える。
「これでも1体片付けて来たんだから、赦して欲しいな。」
そう言いながら彼は、そっと他方を指差す。
彼の指が指し示す先を見ると、道路の反対側で地面に仰向けに転がりながら、荒い息を整える誠人の姿が見えた。
「……。」
どこか胡散臭いものを見るような目で、彼のことを睨んだ彼女は、小さく息をついた後で防御魔法による檻から距離を取った。
瓦礫の山から降りて道路の中央辺り、開けた場所に立った彼女は、その手をガルムに向かって再び掲げる。
どうやら彼女は止めを指すために魔法を使うことにした様子だった。
「ありがとう。」
「黙って。」
蓮の言葉に、彼女は氷のごとき視線と共に応えるが、彼は小さく肩をすくめるだけでそれに応える。
そんな彼のことを確認するでもなく、彼女は魔法を発動した。
「単層充填」
そっと呟くそれは、魔法の起動詠唱である。
ガルムに向けられた、彼女の指先に橙色の光が集まっていく。
小指の先程の大きさの光球は、高密度に圧縮された魔力の塊だ。
そのエネルギー総量はガルムの討伐に過分で有ることは一目瞭然であったが、彼女が魔力のコントロールが苦手なのか、それとも、散々攻撃を回避された鬱憤を込めているのか、それは本人のみが預かり知ることだろう。
「発射」
小さく呟くような声と共に、彼女の指先に星と十字の魔紋が出現する。
その瞬間、発光と共に橙色の光を放つ塊が、防御魔法に捕らわれたガルムへと発射された。
魔力とはすなわちひとつのエネルギーであり、高密度に圧縮されたエネルギーが産み出すのは破壊である。
撃ち出された光球はそのまま直線を描き、四足の魔獣を捉えた。