024:幕間
8月。
夏、溶け落ちてしまいそうなほどの強い日差しの下。
かつての日本と呼ばれたこの地で、中部地方と呼ばれた地域。
松本地区の盆地には、魔法教会の観測所がおかれていた。
観測所、と言えば粗末な響きだが、この拠点は、旧日本領において魔獣の生態を観測するための重要拠点である。
魔法教会の庇護のある地ということでそれなりの人数の人間が身を寄せて暮らしており、東西の山々を天然の防護壁として南北に防護壁を張り巡らせた小さな要塞の如き集落を形成していた。
この観測所の起こりは、土着の魔術師が魔獣の襲撃から守った街に周囲の地域に住む人々が集まり、集落となった事が始まりである。
そうして魔獣が出現してからの数百年、やがては魔法教会の援助が入り、今の形となったわけであった。
人口で言ってしまえば、十数万人と言う規模で人が暮らしていたのである。
そして、今。
「……ちく……しょう……。」
力ない声が、虚空に響く。
観測所の中央部。
治安維持を統括する本部が置かれたそこは、瓦礫の山と化していた。
この地は今、魔獣の襲撃を受けている。
否、受けていた。
始まりは、ここから見て西に置かれていた高山地区からの通信が途絶したことだった。
「……ち……くしょう……。」
再び、虚空に声が響く。
それは、一瞬の出来事だった。
西の山を越えて黒い波が、魔獣の群れが押し寄せた。
それは本当に、これまで見たことのない大規模な魔獣の群れの襲撃であった。
過去にも数えきれない数、魔獣の襲撃がこの地を襲った記録は存在する。
それでもそれらの襲撃は、防護壁に敷設された対軍兵器を以って、魔獣の群れを迎撃することで大きな損害を出しながらも何とか防ぐことができていたのだ。
しかし、今回の魔獣の群れの襲撃は、その様相をまったく別のものとしていた。
この地を襲った魔獣達は、否、この地を通過した魔獣達は、この地を襲ったわけではなかった。
魔獣の知能は高い。
それは人語を解するというわけではないが、それでも魔獣の生態を述べるのであれば己の脅威を前にした時、その動きには躊躇が生まれる。
死を求める生物などいないが故に、これまで対軍兵器の存在が大きく効果を出していたのだと、彼らは今回の襲撃で理解した。
そして今回の襲撃は、魔獣の様子が違った。
「……ちくしょう……ちくしょう……!! 」
崩れ去った大本営の瓦礫の中に響く、その声には涙が混じっている。
下半身は、崩れた瓦礫に潰されている。
それでもなお、声の主たる男性隊員が生きているのは、その執念と、憎悪のためであろうか。
今回の襲撃は、蹂躙ではなかった。
人類を滅ぼさんとその威を振るう魔獣の、暴力的なそれではない。
魔獣達もまた、きっと何かから逃げているかのような、そんな襲撃であった。
人類を害するのではなく、ただ、何者からか逃げ出すような、そんな魔獣達の大移動。
それの軌道上にこの集落があったのは、最悪と言っていいほどの不運であっただろう。
だからこそ、この地は陥落した。
「……ぢぐじょ……ぢぐじょう……!! 」
男性隊員の手には、小振りな手が握られていた。
男性隊員の隣、人の身よりも一際大きな瓦礫から延びるその手。
瓦礫の下敷きになってしまった、彼の婚約者だった女性の手だ。
結婚しよう、と告げたときの、彼女の驚いたような顔と困ったような笑顔。
私なんかでいいのかな、とはにかむ笑顔の彼女を思いきり抱き締めた、その記憶は幸せなものだった。
どこまでも優しい彼女だからこそ、彼はその一生を彼女と過ごしたいと思ったのだ。
何があっても彼女を守り抜くと、そう誓った決意は、いとも簡単に砕かれた。
「……どうして……どうして!! 」
それは地獄のような時間だった。
指示系統は混乱、東西の防護壁はいまだ健在、それ故逃げ場を失った人々の悲鳴だけが、大本営に鳴り響いていた。
何もせずに通過してくれればいいものを、奪うものは奪っていく。
漆黒の波のように押し寄せた魔獣達は人々を食らう。
そんな、絶望ばかりを告げる通信の中、それは訪れた。
猛烈な爆風。
そう彼が認識したときには、すべてが破壊されていた。
そして、彼の隣で、絶望に打ち震えていた彼女の頭上に、巨大な瓦礫が落ちてきた。
本部が崩れ落ちて瓦礫の山へと姿を変えたと彼が認識したのは、彼女のいたはずのそこに巨大な瓦礫が鎮座しているのを認めたときだった。
どうして彼女は死んだのか。
どうして自分は生きているのか。
どうして、どうして。
そんな、彼の世界のすべてが崩壊した、瓦礫の中で。
遠く堅牢な防護壁に逃げ場を奪われた人々の悲鳴が聞こえる中、本部だった廃墟の中にも声にもならない彼の悲鳴が響いていた。
「――――!! 」
どれだけの時間を過ごしただろうか。
無限のような一瞬の中で、彼は音を聞いた。
ざくり、ざくりと瓦礫の中を歩く音。
それは虚ろな視線の先、地平線と呼ぶにはいささかお粗末な、瓦礫の山の向こうから聞こえた。
ざくり、ざくり。
決して大きくないその音はやけに大きく彼の耳に届いた。
決してそれは人の足音ではない。
そんな生存者はここには存在しないと、彼は確信していた。
この地獄の中で悠然と歩みを進めることができる、そんな存在は一つだけである。
「――――っっ!! ――――っっ!! 」
燃え盛る炎天の中に悠然と姿を現したそれへと、彼は虚ろな目を向ける。
憤怒。
怨嗟。
呪詛。
憎悪。
絶望。
諦観。
その感情はその目からは読み取ることができない。
彼は半身をつぶされてもなお生きていた。
気道は血で塞がり、呼吸もままならなく、その命は風前の灯火であった。
ただ虚ろなその目に映る、彼の全てを奪ったすべての元凶たるその姿。
それに対して、彼は何を思うのだろうか。
「……。」
醜悪にして優美。
それを表現するのであれば、その二つの言葉が最も適したそれであっただろう。
漆黒に輝くそれは見るものすべてに、生物としての嫌悪感を抱かせる姿をしていた。
怪しげに光を反射する漆黒の全身が無駄を排した質素なそれであるのに対応するように、頭部にはまるで咲き誇る楷の様に枝分かれした意匠の装飾が施されている。
人のような形をしているようにも見えて決して人間ではないということは理解ができる、2メートルにも届こうかという体躯とやけに細長い両手足。
両の腕は地につかん程であり、そして、その身と同じほどの長さを感じさせる巨大な尻尾を有している。
言葉に表すなら、中華文明に見られた甲冑を纏った手足のアンバランスな龍人といったところか。
神秘性さえ感じさせる、それでいて何かが欠落した芸術品だと、彼は思った。
兎にも角にも、その姿を認めて、彼は何を思っただろうか。
漆黒の甲冑が、その手をゆっくりと持ち上げた。
鋭くとがれた4本の爪が鈍く輝く。
刹那。
彼の胸は、伸縮したその腕によって穿たれていた。
彼がそれを認識していたかはわからない。
それはある種の解放の様な、安堵の表情を彼は浮かべていた。
その腕は彼の胸を貫いており、そして彼は、その命の花を散らしていた。
「……。」
静寂。
寒空の中、遠くに聞こえる人々の悲鳴を、その甲冑は聞き届けているのか。
それを知る者はいない。
「……。」
それは再び、歩みを始める。
西から東へ、ひたすら東へ。
歩みを進める先にあるのは、極東の街。
それを、それが、知っているかはわからない。
ざくり、ざくり。
地を踏みしめる音だけが、瓦礫の世界に響いていた。
【2024/10/16】タイトルを変更




