002:中庭で
「全く、えらい目に遭った……。」
先ほどまでの出来事を思い出しながら、アキラが見上げているのは、豪奢な建造物で講堂棟と呼ばれる建物だ。
周囲を見れば、彼と同様に真新しい軍服に身を包んだ者達が、忙しなく往来している。
時計の針が8時に至っていないことを確認した彼は、安堵半分、呆れ半分のため息をつく。
防護壁を後にしたアキラは最初、その足で魔法教会養成所の敷地に向かった。
日本に来る前に持たされたメモには管理棟という建物に行くようにと書かれていたが、そこで入寮手続きをしている最中に事件が起こった。
――――間に合ってなかったら、入隊前に除隊だったでしょうね、貴方――――
脳裏に響くは対応をしてくれた職員の、冗談なのか本当なのかもわからぬ言葉だ。
曰く、魔法教会養成所の初回訓練が本日あるとのことであった。
アキラは改めて盛大な溜息を吐く。
おそらく、この件を詰ったとしてもリーサは笑ってごまかすのだろう。
とにかく、意識を切り替えるように小さく首を振ると、彼は懐から取り出した、小型のディスプレイを搭載した端末を操作した。
この腕時計の様な端末――補助端末と職員は読んでいただろうか――と、個人識別用のドッグタグ、そして身分証も兼ねた隊員手帳が管理棟での手続きに際して渡されたものである。
それらは移動の忙しなさにかまけて、軍服のポケットに乱雑に押し込まれていた。
「第5講堂、か。」
補助端末には周囲の地図が表示されており、道案内の役割を果たしていた。
初回の訓練の集合場所を粗方頭に入れたアキラは、補助端末を右手に装着した。
また、ついでと言わんばかりに、懐に乱雑に押し込んだままにしていたドッグタグを首にかけ、隊員手帳を胸ポケットに収める。
歩きながらそのような作業を終えた彼は、第5講堂があるという建物の門をくぐったところで顔を上げて、思わず足を止めてしまった。
「あれ? 」
思わず情けない声が出る。
なぜなら、周囲は静寂に包まれており、周囲を見渡しても、先ほどまで辺りに見かけられた新人隊員たちの姿が消えていたからだ。
ちらりと、元来た道を振り返った彼は、遠く別の建物へと入出していく新人隊員たちの姿を認める。
不安に駆られた彼は補助端末から集合場所を確認するが、集合場所は此方で間違いない様だった。
「同じ新人、だよね? 」
アキラは小さく呟きながら、目の前の建物へと目を向ける。
先ほど見上げた豪華な講堂棟とは異なり、此方はかなり質素で、中庭を囲む回廊式のつくりとなっていた。
得も言われぬ不安感を抱き警戒感を高めた彼は、無意識に足音を殺して歩き始める。
第5講堂は、彼のいる位置から中庭を挟んで反対側に位置している。
人の気配が一切感じ取れない廊下は、右手が中庭を望む窓、左手は一定の間隔で部屋が置かれていた。
やや先に見える曲がり角は、この建物に入ってきた門とは別の入口に続いているのだろう。
それに目線を留めていたその時、彼の傍らにあった部屋の扉が、ゆっくりと開いた。
「っ! 」
急な出来事に、アキラは警戒の視線をその扉に向けた。
ゆっくりと開く扉に、彼は小さく喉を鳴らしながらそれを見つめる。
蝶番の軋む音さえ聞き取れそうな、刹那の静寂が周囲を包む。
しかし、どれだけの時間がたっても、扉の奥から何かが出てくるようなことはなかった。
開け放しの扉に歩み寄った彼は、息を殺しながら中を覗く。
そこは飾り気のない素朴な部屋だった。
部屋の窓が全て開いたままになっていて、おそらくそこから、風が吹き込んできたのだろう。
朝日の溢れる素朴な部屋で、カーテンが揺れるさまをみて、彼はその眉を小さく下げた。
自嘲するように小さく息を吐いた彼は、呆れたような表情で頭を搔く。
「まったく、何をしてたんだか。」
小さくそうつぶやいたアキラは、先ほどよりもリラックスした表情で、なんとはなしに中庭に視線を向けた。
中庭、と言ってもその作りは随分と素朴で、手入れの行き届いた芝生と、一本の木が植わっているだけである。
木漏れ日に照らされる芝生は、黄金を散らしたように美しく輝いていた。
そして、その木漏れ日の中に、一つのベンチが置かれていた。
「うん? 」
その中庭の、ベンチを見て、アキラはその足を止めた。
そこには一人の、少女がいた。
ベンチに腰かけた彼女は、俯いたまま力なく背もたれに身を預けている。
顔は見えないが、腰の辺りまで伸ばした黒髪と、その隙間から見える白磁の肌は、木漏れ日を受けてつややかに輝いていた。
やや傾いだ頭と、規則的に上下する肩をみるに、彼女は眠っているのだろう。
その姿を見る限り、彼女は彼と同じ今年入隊の新人なのだろう。
ちらり、と時計を確認する。
集合時間を鑑みれば、彼女をこのままにしておくのは危ういだろうと思えた。
そう考えた彼は中庭に踏み出すと、さくさくと芝生の上を歩いて、彼女の座るベンチへと歩み寄った。
「……んぁ……? 」
気配を感じ取ったのだろうか、アキラが木陰に足を踏み込んだ辺りで、彼女は目を覚ましたようだった。
びくり、と肩を動かした彼女に、思わず彼は足を止める。
「ん、んんんっ。」
彼女はアキラの存在に気が付いているのか、それともいないのか、うん、とその場で伸びをしている。
一通り筋を伸ばしたのか、脱力した彼女は、口元に垂れた唾液に気が付いて、小さな手で拭い取る。
そして、そのタイミングで、彼女は近くに立つ彼に、気が付いたようだった。
彼女の琥珀色の瞳はまだ覚醒しきっていないようで、溶けた視線を彼へと向けている。
しっかりと数秒、お互いは目線を合わせたままだった。
かすかにそよぐ風が彼女の髪をさらさらと揺らす。
「……あ、えっとその。」
しどろもどろに口を動かしたアキラは、怪しまれまいと、しかしそれでも何を言えばいいのかと焦っていた。
準備していた言葉もあったはずだったが、彼の口がそれらを紡ぐことはなかった。
十分覚醒したのか、だんだんと、彼女の眼の焦点が揃う。
それとともに、彼女の整った顔が、みるみるうちに紅く染まった。
「だ、い、あの……きゅぃ。」
彼女は何から話せばいいのか分からなくなっている様で、謎の音を喉から漏らしながら、目をぐるぐるとまわしている。
どう声を掛ければいいかと困っていた彼であったが、彼女のそんな様子があまりに可笑しかったため、思わず吹き出してしまった。
「……あはは。」
笑われてしまったことで不服そうに頬を膨らませた彼女であったが、彼につられたのだろう。
やがて二人は、木漏れ日の中で小さく笑いあった。
笑った後で、木陰の元には、再び静寂が訪れる。
どうしたものかと視線を落とした彼に、先に口を開いたのは彼女であった。
「ええっと。」
その言葉に視線を上げれば、彼を正視する彼女と目が合った。
その表情は先ほどの紅潮が抜けきっていないが、それでもその目は確かに彼の瞳を捉えている。
そんな彼女の様子に、彼は自然と背筋を伸ばした。
言葉を選ぶように、ゆっくりと動く彼女の口に、彼は次の言葉を待つ。
「君は、今期の新人? 」
一体どんなことを訊かれるのかと身構えていた彼だったが、思いのほかシンプルな質問であったために拍子抜けする。
どうしてその様なことを、と思いながら彼は、彼女に肯定の言葉を伝える。
すると彼女は、僅かに震える声で、次の問いを口にした。
「えっと、し、四条、アキラ君? 」
はて、なぜ彼女は自分の名前を知っているのだろう。
彼は一瞬、そんな疑問を覚える。
しかし彼女の、不安そうな表情を見て彼の疑問の感情は鳴りを潜めた。
どこか縋るようにも見える彼女の視線に、彼は答えざるを得なかった。
「うん、そうだ――
「本当っ!!?? 」
「おぉ!? 」
アキラが返答を言い終わるのを待つこともなく、彼女が歓声のような声を上げた。
彼女の表情は不安の混じったそれから、歓喜に満ちた笑顔へと変わっている。
ベンチから飛び起きて彼へと詰め寄った彼女は、その手を取って胸元に抱きしめる。
「手続したっ!? ギリギリって怒られたっ!? 」
「え、あ、……はい。」
感情を爆発させ、ぴょんぴょんとその場で飛び上がる彼女に、彼の返事は敬語になってしまう。
背景がわからず、目を白黒とさせていた彼であったが、目の前の彼女は彼を置き去りにして喜びを噛み締めている様だった。
彼女のそれは、泣き笑いのような表情にさえ見える。
「良かった。……本当に良かった。ちゃんと、合流できて……。」
「……!! 」
ぽつりと漏れた、彼女の言葉に、彼はようやく、合点がいく。
魔法教会養成所の新人隊員は班ごとに分けられ、そして、その班ごとに共同の寮生活を行うと、リーサが言っていた。
管理棟で手続きが遅いと言われたということは、予め手続きは済ませておくものという意味であり、つまり初回の訓練の日を迎える時点で本来は寮生活がスタートしているのだろう。
それに遅れていたアキラは、同じ班のメンバーからすれば、それこそ消息不明の仲間、だったのだ。
彼女のこの喜びようは、おそらく、仲間の無事を喜んでいる、ということなのだろう。
そしてそれと同時に、彼女が今後、彼の仲間としてともに過ごす相手であることを物語っていた。
そこまで思い至り、彼は目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
そしてゆっくりと目を開くと、目の前でえへえへと、力の抜けた笑顔を浮かべる少女を正視する。
「四条白です。アフリカから来ました。よろしくお願いします。」
彼の言葉を受けて、彼女はその目を、大きく丸く、見開いた。
胸に抱いてた彼の手を放した彼女は、詰め寄ったその彼我の距離を気恥ずかしく思ったのだろう、何歩か後ろに引いた後で彼の正面に向き合う。
そして、自身の胸元に手を当てて、口を開いた。
「森崎奈々樹、よろしくっ。」
やや大きな声で自己紹介をして、奈々樹は朗らかに笑った。
そして、その手をアキラに向けて差し出す。
握手を求めているのだろう。
その手を取ろうとした彼は、ふとその手首に、無骨なブレスレットが装着されているのを見つけた。
装飾性というよりも、何かの機能を優先したデザインで、少女の着けるそれとはそぐわないものだ。
「っあ……。」
彼がそれを見ているのを、彼女は気が付いたのだろう。
彼女は急いだ様子で軍服の裾を引っ張り、それを隠した。
気まずさを誤魔化すように笑った彼女に、彼は申し訳ない気持ちに包まれる。
奇妙な沈黙の中、彼女が風になびく髪をそれとなく押さえた、そんなときだ。
「ナナ? そろそろ時間だぞ? 」
彼らのいる中庭の外から、新たに少女の声が聞こえた。
アキラが声の方を見ると、中庭を覗くための窓から、此方を訝しげに見る少女と目があった。
茶髪をショートヘアーに整えた彼女は、すらりと背が高く、その凛々しさを感じさせる顔立ちだ。
彼女には、可愛い、と言うよりも格好良い、と言う言葉が似合うだろう。
アキラがかける言葉に悩んでいると、彼女は、ははあ、と納得がいったような表情で、口を開いた。
「由留守 舞だ。」
舞の自己紹介を受けて、アキラもまた自己紹介をする。
それを聞いた彼女は、ハンサムな微笑で、よろしくな、と改めて告げた。
「遅くなっていた奴か。」
「あはは……」
彼女の指摘に、彼は苦笑で答える。
本来は事前に入寮を済ませておくべきだったという事実は、しばらく指摘の的となりそうだ。
そんな彼の反応に、気にするほどでもないと判断したのだろう。
気にする様子を感じさせないさっぱりとした笑顔で、彼女は口を開いた。
「まぁ、色々あったんだろ。よろしくな。」
「よろしく。」
彼女の配慮に心中で礼を述べながら、彼はそう答えた。
それを聞いた彼女は、ふと何かを決めたように、奈々樹の方へと首を向ける。
その顔には先ほどまでの凛々しさはなく、人の悪い様子でにやにやと笑っている。
「ああ、それとだが。」
「……? 」
「口説くにしてもほどほどにしておけよ? もうすぐ時間なんだからな? 」
「んなっ!? 」
彼女の言葉に、奈々樹は勢いよく彼女のほうへと振り返った。
彼女は不意をつかれたようで、目を見開きつつ口をパクパクと開閉させるばかりだが、みるみるとその顔は紅くなっていく。
そんな奈々樹の反応を見て満足したのだろうか、彼女は窓の奥へと姿を消した。
僅かな間をおいて、扉の開閉する音が聞こえる。
なるほど、第5講堂に集合する、というのが当初の目的であったと、彼は思い出していた。
「まったく舞ったら……あの、アキラくん? あれは冗談で、そんな狙おうだなんてことはしないんだからね? 」
硬直から立ち直った奈々樹が、ぐりん、とその首をアキラへとむける。
まるで何事もなかったかのように、あくまで冷静な体でいたいのだろう。
或いは馬鹿正直とも言うのか、先程のやり取りについてしっかりと訂正をいれてくるのは、ある意味では舞の術中に嵌まっているのかもしれない。
しかしそれでも、ふとなにかに思い至ったのか、今度はあたふたと余裕を失って口を開く。
「あ、でもえっと、まったく興味がないわけではないの。いや、そうじゃなくて!! えっとその、あの。」
「ははっ。」
コロコロと表情の豊かな様に、思わずアキラは吹き出してしまった。
そんな彼の様子に、彼女は最初、あわあわと目を白黒させていたが、それでもすぐに釣られるように、笑い始める。
「ごめんごめん、なんか可笑しくて。」
「いや、そんな。」
中庭に、2人の笑い声と風のせせらぎが溶けていく。
木漏れ日の向こうでは、空は青く透き通っていた。
「奈々樹さん。」
ふと声をかけられて、奈々樹は怪訝そうに彼を見た。
そんな彼女に、アキラは気恥ずかし気に頬を掻きながら、その手を差し出す。
「よろしく。」
ぎこちなくなかっただろうか。
それを彼は知ることはできなかったが、なけなしの笑顔とともに、彼女にその手を差し出した。
差し出された手を見て怪訝そうな表情を浮かべた彼女だったが、彼の言葉にハッと顔をあげると、ふわりと笑顔を綻ばせる。
「よろしく!! 」
彼女はそう言って、はにかみながら彼の手を握った。
そよぐ風が彼女の髪を揺らす。
彼はその笑顔が眩しいかのように目を細めた。
「じゃあ、いこっか! 」
満足げに握手した彼女は、その手を握ったまま移動を始めた。
第5講堂に向かわなくては、そろそろ集合時間も近いだろう。
「あ、あと。」
「……ん、なに? 」
ふと、足を止めた奈々樹に、彼は怪訝そうな表情で首を傾げる。
アキラを見つめる彼女の瞳は少し冷ややかな色をしていた。
「女の子の寝顔見るのはシュミ悪いよ。」
「へっ!? 」
急な彼女の言葉に、彼の喉からは奇妙な音が漏れた。
そんな彼の反応は、彼女のお気に召したようだった。
破顔一笑、愉快そうに笑いながら、彼女は再び歩き始める。
彼の手を引きながら、彼女は背後のアキラへと言葉だけを投げた。
「あはっ、冗談冗談。意地悪な舞とアキラ君へのお返しだよ。」
「だったら舞さんにも言って欲しいんだけど……。」
彼の言葉は、誰に聞かれるでもなく、朝日に照らされた中庭へと転がっていった。