だから三月を待っている
訂正する。訂正する。訂正する。
記憶のあやまりを、精緻なパズルを組み替えるように訂正する。
あれは五月。
わたしは当時小学六年生。
本家からおばあさまが、授業参観に来てくださる。浮かれていた。
その日の授業内容は『わたしのとくぎ』を発表しよう。
私はおばあさまに、普段から練習し続けていたお琴を見てもらおうとしていた。
曲名は桜の雅楽、おばあさまのお気に入りの演目の曲で、流れるような曲調が特徴的なむずかしい曲だった。
つぎ、桜庭ちはやさん。
はい。
わたしは今から桜の雅楽を琴で弾きます。
さすが、桜庭さん。
都合のよい記憶の改ざんを---訂正。
じっさいは、実際は、じっさいは。
「稚拙な音。………聴くに耐えません」
待って、おばあさま。
帰らないで。
おばあさま、ちはやはできる子だよ。
やれば、できる子だよ。
おとうさまはできそこない、だったかもしれないけど……まごのわたしは、ああ、待って、おばあさま………わたしを、見て、くれなかった。
その日の授業参観。
拍手喝采だった。
ただ、教室にすでに、おばあさまはいない。
その事実が胸を重く、かなしく、やりきれなくさせる。
分家筋、落ちこぼれの次男のつくった子供。
かわいく、ない子。
おばあさまの評価をくつがえすチャンスだった、死んじゃったおかあさんの無念、晴らす機会だった。
それなのに、わたしは失敗したんだった………。
それから、十年。
都内の某高級アパートメント。
わたしの父はあいもかわらず、気だるく、株のやり取りだけで暮らしている。
同居するわたしはスーパーのレジ店員をやって、なんとか平凡なひとなみの生活を保っていた。
「ちはや。
本家のおばあさま、ご危篤だそうだ」
どきり。
胸が痛む。
でも、思い出されるのはあの、失敗した授業参観と、去っていく小柄な背中ばかり。
「大学病院の一等病室だ。
俺は一応、行くが……ついて、くるか?」
「行かない。
シフトがあるもの」
自分の口から飛び出した言葉は、氷よりも温度がなく、つめたいものだった。
血筋、か。父が皮肉めいた笑みを浮かべる。
つめたいひと。父はよく実の母……おばあさまのことをそう評していた。
わたしは、そのつめたい部分が良くも悪くもにているらしい。
職場のおばさんからも、よく言われた。
桜庭さんは、ほんとはつめたいひとだね、って……。
「いらっしゃいませ」
「あれ、いつものレジのおじょうさん。
………なんだか、表情暗いわよ」
結局、わたしはおばあさまの病室には行かず、タイムカードを切り、いつもどおりの日常を選びとった。
声をかけてきたお客様は、和装をしていて、小柄で、おばあさまに、ふしぎなほど良く似ていた。
「おばあさま……おばあちゃんが、危篤で」
「まあ。それなのに、お仕事なの?」
「休めなくって」
嘘をつく。できる限り綺麗な形の嘘をパズルのように組み立てる。お客様に悪い印象を持たせないように。
「仲は、わるかったのかしら」
「良かったですよ。
誕生日、一回だけお祝いしてもらえて。
かんざし………」
嘘の中につい本当、が混ざる。
初めての顔合わせのときに、おばあさまがくれたんだった。
あのかんざし、どこへやったっけ………。
部屋の小物入れ………蓋付きのオルゴールの中………。
「おじょうさん。
大丈夫?
顔色、真っ青」
「大丈夫………じゃ、ありません。
レジ、済ませてしまいます。
おなか、いたくなっちゃって………」
とっさに打ち間違えたレジを訂正………訂正、訂正、する。
はやく。なにをしている。みかんは手レジ、トマトは袋のバーコード、お惣菜は二十円引き。
てが、ふるえる。うまく、いかない。うまく、できない。あのときのお琴といっしょだ。
おばあさま、待って。行かないで。話を聞いて。
こっちを、見て。
背をそむけたのは、こんかいはお前だろう。
あたまのなかで声がする。
小銭が手からこぼれ落ちる。
見かねたパートさんが、ああもう、と声を上げ、割って入る。
「そんなに体調わるいなら、かえりな」
「そう、させて、もらいます」
なかばブレーキの壊れた自転車を、泣きながら漕いだ。
おばあさま、待って。
待ってよ、どうして、いつもきめつけるの。
父はだらしないひと、だった。
不出来なひと、だったよ。
がんばる、ということをしないひと、だよ。
でも、わたしはがんばったよ。
お琴も、ピアノも、塾も、がんばった、がんばったんだよ。
おとなになっても、がんばった。
お琴も、ピアノも、塾も、やめた、けど。
なにかひとつでも、認めてほしかったよ。
「おとおさあん!おとお、さん!
おばあさま!おばあちゃん!
おばあちゃんは、おばあちゃんは」
知ってた。間に合うわけなかったことも。
すでにおばあさまの顔には白い布がかけられていて、みんな暗い顔をしていて、お医者様はすでに病室をあとにしていて、わたしだけが声を張り上げていて。
「………終わったよ。
これで、呪いは解ける」
父は泣いてる。親族みんな、泣いてる。
わたしだけ、涙が、凍りついたように出ない。
だれよりも、誰よりもかなしいのに。
「手紙が、お前あてに。
おばあさまの遺言。
だれにも、見せるなって」
ひったくるようにして、和紙の手紙便箋を受け取る。
手紙からはまだ御香のにおいがした。
『桜の庭をみにきなさい』
本家に来てもいい。
それを意味する遺言がひとことだけ。
「おばあさまの………お顔、見てもいいですか」
頑固に真一文字に結ばれた唇。
瞳のまわりには、なみだのあと?そんな。
泣くような人じゃない。なくわけない。
わたしのことなんか、見てくれなかったのに。
ねえ、おばあちゃん?
………こたえて、くれるはず、ない。
訂正、する。
おばあさまは、わたしがきらい、じゃなくて。
再度訂正、する。
わたしが、おばあさまを遠ざけた。
こわかったから。
訂正する。いや、できない。
一度起きてしまったことは、どうにもならない。
「おとうさん。
のろい、なんか、ないよ。
わたし、さいごのさいごで、おばあちゃんのこと、すこしは、わかったよ」
「あいつは冷血人間さ。
実のむすこより、お前を優先する………。
あの日、おまえの授業参観。
俺は来るなって言ったんだ。
なのに、あいつは勝手に来たんだよ、それでへそ曲げて帰った。
孫の顔見れただけで、満足だったんだとさ。
ほんと、わらっちゃうよな。
………おれはあいつが死んでも、本家によんでもらえなかったのに」
言えなかったひとことは、たくさん、ある。
あの日、来てくれてありがとう。
今日は、間に合わなくて、ごめん。
本家には、きっと、いくよ。
きっと、言えなかったから、こそ。
言葉は記憶にのこるのだろう。
そう、自分に言い聞かせ、わたしは、ふとおもいたって病室の窓を開け放つ。
窓の外は葉桜が見事に生い茂っていた。
おばあさまは、葉桜はきらい、だった。
だから、花のさく季節にきっと………。