表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

本編

何度目かの女の子を抱いた夜

柊詞葉は三隅蓮と出会う

まるで男の子のような容姿の蓮に惹かれる詞葉

手を出せない愛情を不器用に伝える

身体じゃない繋がりを求める二人の物語

街を歩くと知ってる匂いに幾度とすれ違う。一度も振り返ることなく足を進め、扉に手をかけた。また違う香りに包まれる身体は今日も見知らぬ誰かの代わり。呼ばれる名前も、求められる愛も全部誰かのためのもの。今だってほら、君は

「タクマ。好きだよ。ずっと好きだった。」

僕じゃない名前を呼びながら気持ちよさそうに身体を揺らしてる。叶わない代わりならまだよかったのかもしれない。この子は明日、僕の知らない男のものになる。話を聞く限り絶対に両思いの二人だった。

「ありがとう。こーくんのお陰でタクマとのことうまくいきそう。」

笑顔を向ける彼女の表情と陰に霞む身体のコントラストがアンバランスで美しく見えた。女の子から言われる言葉はいつだって同じ。

「こーくんは優しいね。本当にありがとう。」

そう言ってみんな僕のもとを去っていく。別に寂しいわけじゃない、一人でいたいわけじゃない。だけど、いつだって勝手に離れてくれる人を選んでた。選べなくなっていた。

精算の終わったホテルを後にする。時計を見ると始業時刻まで歩いたら丁度いい頃を指していたから、人気のない道を選んで歩き出した。ふと見上げた空にあった月と星が目に入ったように頬を涙が伝う。街灯に照らされて宝石に溢れた視界は輝いていていつかの夢みたいだった。

「どうしたんだろう。」

周りに気配がなく、思わず口にした言葉が心に刺さり、涙が止まらなくなる。早く朝日が昇ってくれれば世界が輝き、暗闇との境目がなくなってくれるのに。どうして今日は涙が出たんだろう。

「大丈夫?君。」

誰もいないと思った空間から一筋の指が頬に触れた。きっと僕が望み過ぎて分からなくなった何かが、揺れた水面に映ったのだろう。

「俺と一緒にいてください。」

どうせ誰にも言えないんだ。誰にも聞こえないことだから。今はどうかその手に身を委ねさせてください。

頭に触れる白く細い手はまるで女神のように見えて、眩しくて素直に見れなかった。だけど、俺が泣き止むまでずっと側にいてくれて、大丈夫だと声をかけてくれた。少しずつ落ち着いてきた頭で現状を確認する。

「すみません。俺ずっと泣いてましたよね。」

身長とかふんわり香る香水から女性だと思っていた姿は正反対だった。俺と同じくらいに短い髪の毛と丁寧に施されたメイクはその人だから保たれる調和を持っている。無神経だとは分かっていても、思わず伸びる手を止められなかった。

「あなた、女性ですよね。」

触れていた手を取り優しく握る。一回り小さいその手は白くて細くて、綺麗だった。

「そうだよ。なんか大丈夫そうだね。それじゃあ私は行くから。」

彼女の踏み出す一歩を引き止めたくて腕に手を伸ばす。

「あの、連絡先教えてもらえませんか?」

初めてだった。終わりを拒んだのは。

手を口元にあて小さく笑ったと思うと、鞄からスマホを出し真っ直ぐに俺の目の前に出した。

「ここ、私の働いているところ。来てくれたら考えてあげる。」

映し出されている店の名前と住所を必死に覚え、自身のスマホに入力する。そこは自分の働いている店から二駅隣にあるところだった。

「絶対に行きます。」

そう言うと彼女は一瞬笑顔を見せて去ってしまう。素敵な夢だったと、もう一度画面を見ると先程の店名が映る。カフェBeziehung。時計はさっきより15分進んでいた。

「おはようございます。」

店につきシェフと由香里さんに声をかける。既に調理場に入っている彼女は僕の声に気づきこちらに向かってきた。

「おはよう。あんたまたお節介したね。さっさとシャワー入ってきな。」

僕がどれだけ女の子と夜を過ごそうと何もそのことに関しては言わない。でも、仕事をする上で僕の弱いところを叩いて直してくれる。由香里さんはそういう人。

「分かりました。そういえば臨時で一人増えるのって今日でしたっけ。」

この店は小さいながらも固定客のお陰で今を過ごしている。だからお客さんが望んでいることならば可能な限り叶えたいというオーナーの言葉で、今日は貸し切りのパーティーが開かれる予定になっていた。

「そう。あと15分くらいで来るはずだから段取りの説明お願いね。」

シャワーを浴びようと入った洗面所に向かって由香里さんの声が響く。ひねったバルブで堰き止めるものがなくなった水は勢いを付けて放たれた。

濡れた髪の毛を乾かし、着替えを済ませてフロアに戻ると臨時で雇われた子と由香里さんが話してるのが聞こえた。

「よろしくお願いします。あの、柊くんってどこにいますか?」

「もう少ししたら来るよ。もしかしてあんた、狙ってんの?」

前触れもなく話し始める由香里さんのお陰で助かった。この店の臨時求人は高確率で柊を知っている女の子がやってくる。そしてたまに問題を起こして去っていくこともあった。

「由香里さん、遅くなりました。」

何も知らないふりをして話しかける。すると彼女が声に気づき勢いよく振り向いた。

「柊くん、一日よろしくね。あとさ、」

今夜って空いてるかな?と耳打ちで話される。きっと色々な噂を潜ってここまで来たのだろう。何があっても断らない、まるで彼氏のように愛してくれる、でも本気になってくれない。その条件を魅力的に思った女の子たちは所構わず柊に声をかけてきた。

「大丈夫だよ。仕事終わったら裏で待ってて。」

そう小さく言った後、声を張って仕事のことを説明する。遠くで由香里さんが何も知らないふりをして食器を用意してるのが目に入り、軽く頭を下げた。

その日の仕事は難なく終わり、表で店の看板を片付けて中にしまう。テーブルの方も殆ど片付けが終わっていて由香里さんは制服を畳んでいた。

「それじゃあ今日は終わり。みんなお疲れ、朱里ちゃんも今日はありがとう。」

そう言って荷物を手に由香里さんは帰った。厨房から出てこないシェフを除きフロアに二人になった途端彼女が距離を詰める。

「ねぇ、早く行こうよ。」

身長差を使って下から視線を送る彼女は輝いていた。僕のところに来る女の子はいつだって輝いてる。笑顔か、涙か。

「分かった。これが最後だから先に着替えておいで。」

そっと肩を押して裏に向かわせる。自分の制服も畳んでロッカーに持っていこうとすると、通った厨房から声が聞こえた。普段聞いたことのない柔らかい声、スタッフの前では見せない別の顔。

「分かってるよ。愛してる。」

僕には出来ないこと。たった一人を愛すること。止まった足にもう一度力を込めてロッカーの前に立つ。制服と荷物以外何も入ってないロッカーが空虚だった。表をシェフが鍵かける音が聞こえ裏から店を出る。

「柊くん、待ってたよ。」

腕を絡ませて密着する身体。ふんわり香る匂いは知ってる匂いだった。そのまま向かったホテルは先週訪れたところ。勝手を知っている手順を踏み、部屋に入った。

「柊くん、好きだよ。」

それに僕は答えない。だって僕は好きじゃないから。首に回される柔らかい腕に引き寄せられて唇を重ねる。腰に手を回しベッドまで導いた。シーツに横たわる女の子はいつだって天使で、優しさを向ける対象。可愛がる、大切にするもの。そう学んだ。

「シャワー、行っても良い?」

少しトーンの上がった声でゆっくりと発せられる音がその日は何だか、気分が悪かった。虫の居所が悪いわけでもないのに、体調が悪いわけでもないのに、どうしてか不必要に身体に力が入った。

「行っておいで。」

見送った背中が消えるまで気持ちの悪さは消えなかった。部屋に一人で残った空間が落ち着きを与えてくれた。ふと見たスマホに昨日の夜が本物であったことの証明が映る。

「あ。」

この店、あの人が待ってる。衝動的に進んでしまいそうになったところで、シャワーを終えた彼女がほんのり熱に浮かされた顔で戻ってきた。

「先にありがとう。柊くんどうぞ。」

「分かった。すぐ戻るから。」

シャツを一枚脱いで残す。こうすると女の子は喜ぶって知ってた。シャワーは既に温まっていていたのに冷めた心にその温度は届かない。

「お待たせ。おいで。」

ベッドに腰掛ける彼女の横にゆっくりと座り、手を引く。バスローブの前を開きながら倒れてきたその身体を受け止め、愛を注ぐ。溢れないように、あと少しで満たされるくらいまで。

隣で眠る彼女を見て可愛いと言葉が出る。無意識に反射的に、意図せず言葉が出た。昔誰かに言われた言葉がふと脳で再生される。

「こーくんの可愛いって、呼吸だよね。」

当時は分からなかった言葉が何だか解けていく。そうしておけば生きていけるってどこか本能的に思っているのかもしれない。考えなくても、意識しなくても、それでも生きていける術だって。

乱れた髪を手櫛で撫で、指の間をすり抜ける感覚を繰り返し感じる。二人なのに一人のようなこの時間が心地よかった。シーツに落ちた髪の毛はまるで彼女を女神にする羽のようで、ここへ堕天してしまったように思えた。

財布から部屋代をテーブルに置き、洗面所に置いてきた洋服を身にまとう。冷えた身体にさらに冷たい布を重ねる。時計を見ると交通機関が運んでくれる時間ではなくなっていた。ふと、スマホを開くと最後に開いていたページが映る。

「まだ、やってる。」

今から二駅歩いても十分間に合うほどの営業時間で、誰もいない暗い道を一人で歩く。道路沿いなのに街灯が少なくて、歩くほど暗闇に吸い込まれていくようだった。

するとスマホにある写真と同じ外観の店が出てきた。そっと扉を開き中に入る。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

あの人だ。あの夜会った人。

「はい。あの、僕のこと覚えてませんか?」

貴女に会いたかった。

「えっと、どこかでお会いしました?」

その瞬間恥ずかしさで全身が包まれて今すぐにでも店を出たかった。だけど、その人に手を引かれ席に案内される。

「どうぞこちらへ。メニューをお持ちしますね。」

「えっと。」

何かを言おうとする前に全て妨げられる。通された席から見えるお店は夜のカフェと言うには照明が暗くて、大人な雰囲気だと思った。渡されたメニューに目を通し、注文を決める。

「すみません。ホットのコーヒーとお勧めのスイーツを1つ。お願いします。」

横に立つその人に話すと目を細めて微笑み、メニューを手に持ってお辞儀をした。

「かしこまりました。」

店には他に二人のお客さんがいて、それぞれに本を読んだりしていた。店内の音楽はスローテンポで、深夜まで動いた身体はその波が心地よかった。

「お待たせしました。こちらホットコーヒーと、私のおすすめスイーツです。ごゆっくり。」

「あの。」

何とか話をしてみたくて、引き止める。するとその人は背を向けたまま何も言わずに肩を揺らして笑っているようだった。

「あの、すみません引き止めて。人違いだったみたいです。」

先程と同じように恥ずかしさが込み上げてきて、顔をあげられない。すると影が近づいてきて目の前で止まった。

「覚えてるよ。物凄く泣いてたもんね。」

耳に口を寄せられて囁いたその人は光の加減も相まって物凄く妖艶だった。口が開いたままであることに気が付かず、目に入ったネームプレートにあるその人の名前を呼ぶと声が掠れていた。

「蓮さん。」

いつもなら名前が分かって、名前を褒めて、そしたらその人は僕の可愛いを欲しがるのに。どうしてだろう、どれもできない。

「それではごゆっくり。」

さっと身を引いた蓮さんはカウンターへ戻っていった。暖かいコーヒーの湯気が視界の端に映る。少し冷ましながら口に含むと、身体の芯に響く味がした。おすすめと言っていたスイーツに手を伸ばすと、カウンターの方から視線を感じて一瞥すると

「ご一緒してもいいですか?」

手にコーヒーを持った蓮さんが近寄ってきた。断る理由なんてなくて、どちらかと言えば何とかして関わりたいと思ってた状況に舞い込んできた好機。

「はい。ぜひ。」

正面に座った蓮さんはお店の制服であるシャツを腕まで捲り、息を吹きかけてコーヒーを飲んでる。口を開かなければ美しい男の子のようなその姿はまるで芸術品のようだった。

「蓮さん、僕のこと詞葉と呼んでください。僕は貴女のことを知りたいです。」

今までに無いほど直球な会話。全てを見透かされたようなその目には何も敵わない気がしていた。

「詞葉、ね。いい名前だね。素敵な名前だ。」

視線を逸らすこと無く真っ直ぐに向けられて動くことができなくなる。まるで先に逸らしたほうが負のような気がして気を込めて目を見た。

見つめ合うこと数分。先に逸らしたのは僕の方だった。

「君の負けだね。そのケーキ一口くれる?」

対応してくれた時より低い声で発せられるその台詞は心に揺らぎをもたらした。

「あ、はい。どうぞ。」

小さく分けてフォークを差し出す。そのまま口に含んだ蓮さんは無邪気に笑みを浮かべた。

「美味しい。ほら、詞葉くんも食べなよ。」

そう言われて僕も一口食べる。個性的なコーヒーに合うさっぱりとしたケーキは相性が抜群によくて、思わず声が出てしまった。

「お、本当だ。美味しいです。」

お互いにコーヒーに手を伸ばして飲む。同じ香りがするため蓮さんも同じものを飲んでいるのだろう。何か話題をと考えていると蓮さんが微笑しているのが分かった。

「詞葉くん、必死だね。大丈夫だよ取って食ったりしないから。」

「別にそんなこと心配してませんよ。僕は蓮さんの話が聞きたい。駄目ですか。」

食べ終わったフォークを皿に置いてコーヒーのおかわりを頼む。再び湯気が棚引く空間を揺らしたのは

「何が知りたい?この店に来てくれた回数教えてあげるよ。」

だからこれからも来てね。そう言って蓮さんは席を立ってしまった。残された僕はただ無心にコーヒーを減らし、店の空気に浸る。

「お会計で、お願いします。」

そう言うと蓮さんとは違う店員の方が対応してくれた。支払いが終わって蓮さんを探す素振りに気がついたのか

「三隅さんですよね。呼んできます。」

と裏に行ってしまった。入れ替わりで出てきた蓮さんは、制服を着ていなくて驚きを隠せない。

「えっと、お帰りですか?」

蓮さんが着てたのはあの夜と同じ服で、光景がフラッシュバックする。量産的じゃない個性を美しくまとめたような服装で、全体的に黒が多いのが蓮さんの中性的な印象を引き抱いているのだろう。

「折角だし、一緒に歩かない?」

ほら行こうと言って、蓮さんは僕の手を取った。店を出た頃、まだ空は暗くて蓮さんと僕の距離感が掴めなくて時々肩がぶつかる。

「君、どっち方面?」

駅に向かって歩いているとスマホを見ながら聞かれて、なんと答えるか迷った。この人を知りたいという好奇心が道を伸ばそうとしている。

「蓮さんはどちらですか?」

スマホの画面を切って蓮さんはあっちと指さした。そこには高層ビルがあった。周りに駅などがない以上多分あれが蓮さんの家。

「あれ、蓮さんの家ですか?」

「そう。下で待っててくれる?」

歩きながら鞄から鍵を出し横にあった駐車場の車に光を付ける。言われたところに立って待っていると、飲み物を持った蓮さんがマンションから降りてきた。

「君これ持ってくれる?」

そう言って扉を開ける。車の中はまるで新車のような匂いがして、なんだか身体に力が入った。席に座ってからも上がった肩が下がらない。

「それで、どこ方面?ナビ入れるから。」

慌てて家の隣のマンションを告げる。走り出した車はどんどん海に向かっていった。後2時間で太陽が昇る。その頃にはもう蓮さんとは一緒じゃないだろう。

「明日っていうか今日なんだけど、君朝何時から仕事?」

「今日は休みです。」

咄嗟の嘘。これだけの付き合いじゃ分からないもの。だけどやっぱり、

「それなら早く連絡しな。このままドライブ行こうよ。」

ほら。どうしてか見抜かれてる。

「それとも仕事行く?」

狡い人。僕が追って来やすいようにそっと餌が置いてある。まるでたまたまそこあるだけのように。

「こんな時間にいきなり休みの連絡入れたの初めてですよ。蓮さんのせいですね。」

「そうだね。」

私のせいだ。君の同意のもと、だけど。社会が動き出す少し前の道は知らない仕事が始まっていて、子供の頃に戻ったような感覚がした。

「眠いでしょ。私、運転上手いから寝ても大丈夫だよ。」

そう言って車内にジャズを流した。蓮さんのかけてくれたピアノジャズは流れる街灯のように滑らかで、抑揚の薄い曲だった。その流れに身を任せ、僕はいつの間にか眠ってしまった。

次に見た景色は海の向こうから上がる太陽で、横にはシートを倒して寝ている蓮さん。無防備に曝け出された首元が日光に当たって白く光っている。短い髪の間から見えるピアスは当たった光を他へと逃がすためにせっせと働いていた。

その寝顔は造形の美しさだけでなく、滲み出る人間としての力があった。人を人として惹きつける力。たった一夜、夜の出会いだが、それでももっと一緒に時を過ごしてみたいと思わせる。あわよくば、その体を開いてみたい。同性のように思わせるその姿の中にある異性の部分を見てみたい。昇る太陽とは裏腹に邪が陰を作っていく。

太陽が十分に街を照らす頃、蓮さんは僕を家まで送ってくれた。去り際に声をかけられる。

「そういえば、聞きたいことあるんじゃないの?」

車の窓を開け肘を置く姿だけでも色気が溢れていて、思わず目をそらしてしまう。それでも聞きたいことは沢山あるから咳払いをして口を開いた。

「蓮さんは、あの店に行けば会えますか?」

「もちろん。君の好きな時に来ればいいよ。」

そう言って窓を閉めて蓮さんは帰っていった。まるで物語の中のような体験に心に頭が追いつかない。休みの連絡を入れたあと見てなかったスマホには2つの通知が入っていた。1つは先週会った女の子、もう1つは昨日の女の子。どちらも今夜会いたいというものだった。先週の女の子は彼氏に振られてしまい、寂しさを埋めて欲しがっている。昨日の女の子はただ会いたいの一言。僕の中の優先順位は前者の子に決まった。

”いいよ。今日一日空いてるからこの後会う?”

送信してすぐについた既読。いつも通りのことなのに、どうしてか蓮さんのことが頭を過る。あの人が僕のこんな姿を見たらなんと言うのだろう。呆れるだろうか。身体が空腹を告げたことで思考は一旦止まった。

彼女と約束した時間にホテルで待っていると、スマホが着信を告げる。

「もしもし。大丈夫?僕はもういるんだけど。何かあった?」

スマホの向こうからは何の応答もなく、何の音も聞こえない。しかし路地に入り外界の音を減らすと微かに何かの音がしていることが分かった。

’どこだ。出てこい。いるのは分かってる。’

’今更逃げるとかあり得ないからな。’

聞こえる声は男一人で、それ以外に震える息が伝わる。限りある情報で分かることをまとめて、通話をそのままに彼女の家に向かった。開け放たれた部屋の先には身体の大きい男が一人いて、入口にいる僕には気がついていない。眠気の混ざってきた頭を揺さぶり、男に近づく。

「すみません。どちら様ですか?」

そう後ろから声をかけると、素早い反応でお腹を殴られた。

「お前か、あの子につきまとっているのは。大人の癖して恥ずかしくないのか。」

頭上から聞こえるその言葉の意味を理解できるほどもう頭は動いていなかった。痛みが広がる腹部を抑えながら冷たい床を頬に感じる。髪の毛を掴まれ浮き上がった肩を足で蹴られる。

「あの子を連れてこい。俺はあいつに用がある。」

ここまでして連れてくるのが可能だと思えるならばそれはそれなりにおめでたい。状況に反して呑気な頭は既に正常からはかけ離れてしまっている。

「お前、何笑ってるんだ。」

その言葉に重なる両親。そう言えば前にも同じことを言われたような気がする。あの時はどこが痛かったんだっけ。腕とか、足とか、お腹とか、背中とか、頭とか。

「おかしくなりやがった。」

そう言って男が出ていったのをドアが閉まる音で知った。襖の奥から出てきた彼女は無傷で、僕を見た途端満面の笑みを見せてきた。

「こーくん、これで私達ずっと一緒だね。大丈夫、私がいるから。」

このタイプには気をつけてきたはずだったのに、どうしてか同じ過ちを繰り返してしまったようだった。本来ならばすぐにこの場を去ることが得策ではあるのだが、状態が酷いため指一本も動かすことができない。このまま道端にでも捨ててくれればまだ良いものを、彼女は丁寧に傷の一つ一つを触り嬉しそうに声をあげた。

「こーくんが悪いんだよ。私以外の女の子にも会うから。こーくんがそういう人だってことは知ってるよ。でもね、私が辛い時にこーくん言ってたよね。いつでも頼っていいよって。いつでも来てあげるよって。すっごい嬉しかった。やっぱり私はこーくんの特別なんだって。なのにさ、私といない間他の女と会ってるし、ホテル行くし。おかしいよね。私のこーくんでしょ。私のなのに。」

でもこれで本当に私のこーくん。そう言ってキスをされたところまでは覚えている。しかし、次に目を覚ました時に見たのは今より酷い状況だった。

倒れていた僕を彼女は車椅子に乗せて街を練り歩いた。まるで自分の新しい玩具を見せびらかしたい子供のように。殴られたのは服で隠せる部分だけだったため、外から見ても何の違和感もなかった。

「こーくん、あそこのカフェ美味しいんだ。今度一緒に行こうね。」

彼女から話しかけられる度に機嫌を損なわないようにと好意を込めた返事をする。そんなことを数回繰り返していると、先日蓮さんと出会った道にたどり着いた。夜になると街灯が少なくて周りが分かりにくくなっているが日中に訪れると、肩を並べているお店が多いことを知る。

「こんなお店あったんだ。」

初めて自分から言葉を発すると彼女は嬉しそうに後ろから腕を回して抱きついてくる。

「こーくん知らなかったんだ。ここのお店楽しいよ。」

耳元で話される知らない店のこと。僕が知りたいのはその隣の店のことなのに、なんて言えないまま道を進む。

「ごめんこーくん。少し待っててくれるかな?」

一日中鳴り続けている彼女のスマホ。流石に苛立ちを覚え始めているのか、連絡に答えるため僕から離れた。今が最大の逃げる機会ではあるが、蹴られた足が思うように動かず殴られた腹部の痛みに耐えながら走ることはほぼ不可能だった。せめて誰か知り合いに連絡をと思ったがスマホを開いても助けを求められる知り合いなんていないことを、僕自身が一番分かってる。諦めてスマホを閉じてポケットに入れようとすると滑って落ちてしまった。取ろうと手を伸ばすが、車椅子に慣れていない身体では届かなかった。

「大丈夫ですか?」

そう言ってスマホを拾い上げてくれたのは

「蓮さん。」

黒のセットアップに身を包んでいるその姿は男の僕から見てもかっこよくて、目を離せない。

「どうしたの君。この数時間でこんな怪我。」

藁にも縋る思いで助けを求めたかったが、きっと彼女は僕が女と関わるだけで何をするか分からない。最適解は蓮さんを遠ざけることだと思い、会話を終わらせる。

「大丈夫です。スマホを拾ってくださりありがとうございます。それ渡してもらえますか。」

拾われたスマホはずっと蓮さんの手の中にある。いつ彼女の電話が終わるか分からないからなるべく早く蓮さんを遠ざけたい。少し強引になってしまうが、スマホがある手に自身の手を伸ばす。

「待って。」

スマホに触れた瞬間解除された画面に何か操作をして返される。そのまま何も言わずに去っていった後ろ姿を見ていると、横から声をかけられた。

「こーくん?どうしたの。」

はっとして顔を向けると、少し機嫌の悪い彼女がいた。戻ってくるのが遅いから君を見ていたと告げると、

「ごめんね。何か父さんがうるさくって。昨日こーくんを殴ったのにまだ物足りないんだって。顔だけはやめてって言ってるのに、父さん私のこと大好きだからな。私が好きなのが自分だけじゃないと嫌なんだって。私が好きなのはこーくんなのにね。」

と言い再び歩き出す。30分程歩いた頃お手洗いに行きたいと告げて、誰でもトイレに入れてもらう。一緒に入ると言われたが絶対にそれだけは譲れないと言い続け何とか折れてもらった。トイレの鍵が閉まっていることを確認するとすぐさまスマホを開く。蓮さんが何をしたのか確認がしたかった。最初に開いたトークアプリでそれに答え合わせできた。

”三隅 蓮”

それと並んでいる数々の女の子の名前。蓮さんも女性なのにどうしてか1つだけ別物に見えた。タップして先程のお礼を再び送ると、すぐに既読が付き返信がきた。

’今どこ。’

少し迷ってスマホの位置情報を送る。すると、

’そこ動かないで。’

と返信されたため、慌てて何もしないで大丈夫だと伝える。しかし既読はつかなかった。微かにあった、蓮さんが助けてくれるという期待。でも実際に体験してみると、申し訳無さが何よりも膨れ上がっていた。連絡のつかなくなった画面を見つめ、肩の力が抜ける。黒い液晶に映った顔は実に酷いものだった。

そこから数分して蓮さんから通知が入る。

’出てきていいよ。’

恐る恐る扉の鍵を開けて出ると、蓮さんがすぐ前に立っていた。周りを見回し彼女を探すが姿はない。

「あの子ならいないから大丈夫。」

そう言って車椅子を押されてやっと心が落ち着いた気がした。何も聞いてこない蓮さんにどこまで話して良いのか分からず無言が続く。

「それで、何があったの。」

数分歩いてお昼時の人が少ない公園に着いた時蓮さんから話しかけられる。昨日から寝てない頭は視界の揺らぎを示し始めていて、全てを投げ出してしまいたくなった。

「あの子はお友達なんです。昨日約束の時間にいなかったから電話したら、何か危ない気がして家に来たら殴られました。その後これに乗せられて外を歩いてました。」

「そっか。君はどうしようもないやつなんだね。」

後ろから大きなため息が聞こえて続きを話そうかと開く口が開閉を繰り返す。すると背中から手を伸ばされて首に手を当てられる。そのまま前まで伸ばした手に顔を向けさせられた。向き合った顔から逸らせず息が詰まる。美の暴力とも言えるその面は正義や悪などに敵わないほどの圧を出していた。

「君がどういう人間であろうと関係ないけど、私を巻き込む以上私のやり方で解決させてもらうよ。」

口が触れそうなほど近づいたところで放たれたその言葉は車椅子でなければ崩れ落ちそうなほど伸し掛かった。蓮さんのやり方とはなんだろう、と問うべきだったがそろそろ身体が本当の限界を迎え意識が落ちていった。

薄っすらと明るさを捉え始めた視界に入ったのは知らない部屋で、間接照明だけが近くで灯されていた。そっと身体を起こして周りを見る。奥から蓮さんがマグカップを持ってやってきた。

「君、どこが痛いか教えてもらえる?」

近くに腰を下ろした蓮さんはマグカップを持っていた手に湿布と包帯を持っていて、大丈夫だと断ろうと腕を上げたが、不自然に片方だけ上がらないことに気づかれてしまい嘘はつけなくなってしまった。

「肩を蹴られました。」

すると蓮さんはゆっくりと僕の上着に手をかけて脱がした。僕も片手で手伝うが、上がらない腕から服を脱ぐのは困難で殆ど蓮さんに抱きつくような体勢でやることになってしまう。

「シャツも脱げる?無理そうなら片腕だけでも抜いてもらえると何とかできそうなんだけど。」

もぞもぞと動きながら辛うじて動かせる片方を抜くと、蓮さんは慣れた手付きでシャツを脱がしてくれた。現れた傷の部分は酷いほどに変色していて、見るだけで痛くなりそうなほどだった。

「寒かったら言ってね。ブランケットあるから。」

タンクトップ姿になった僕の横に座った蓮さんは優しい手付きで、湿布を貼り包帯を重ねた。その上からビニール袋に氷を詰めたものを乗せて固定する。至れり尽くせりな状況に、これ以上何かをさせる理由にもいかず寒さを言い訳に腹部を隠すものを受け取った。

「君、これ。このまま持っててくれる?」

膝にブランケット、肩に氷冷を乗せている不思議な状態が面白いのか立ち上がった蓮さんは笑いを隠すように袖で口を抑えている。

「面白がってませんか?」

「それなりに面白いよ。君。」

そう言って脱いだシャツを肩にかけてくれた。下を向くたびに耳に髪をかける姿は色っぽくて、直視できない。

「これ飲める?市販のブラックコーヒーだけど。」

渡されたマグカップを受け取ろうと手を離すと氷が膝に落ちて体が跳ねる。それが蓮さんのツボにハマったらしく、小さかった声は隠すことをやめていた。

「ごめん、手空いてないよね。」

飲ませてあげようか?と既に温くなっているコーヒーを持ち上げて言われる。唖然としている僕にそのまま近づくと唇が重なった。氷の冷たさが身体に警報を鳴らすように全身を駆け巡る。何かがいけない。この人とこうなりたいと思った罰なのか。

「甘っ。」

離れた唇を赤い舌が撫でる。開いた口を通る酸素は何食わぬ顔をして肺まで流れていった。何も言わない僕に蓮さんが乗り上げてくる。首をなぞりそのまま胸元を辿って行き着いた腹部をそっと押されて痛みに顔を歪ませた。

「嘘つき。」

「すみません。」

そこからの蓮さんの行動は無駄がなくて、あっという間に寒さが薄くなるほど包帯を巻かれた。

「多分内臓まではいってないと思う。でも、心配だから明日病院行ってね。近くだったらどこでもいいから。」

そう言うとこれで終わりだよなと言わんばかりに目線を送ってきて深く頭を下げることにした。

「ありがとうございました。手当までしてもらってすみません。」

そう言うと蓮さんは何も言わずに立ち上がり、台所へと歩いていった。二十分ほどしてトレーで運ばれてきたのは温かそうなお粥で、横には卵スープまであった。

「大したもの食べてなさそうだったから、これでも食べて。」

私はシャワー浴びてくると言って蓮さんはリビングからいなくなった。家主のいない部屋を流すように見回すと、実に女の子らしい部屋であることが分かる。置かれている家具は全体的にパステルカラーで、所々にある小物は兎や熊がモチーフになっていた。

蓮さんが帰ってこないと食べれないことを思い出したのは部屋を一周見終わったときで、大人しくソファーで座って待つことにした。蓮さんには聞かなくてはならないことがいくつかある。考えながらソファーに背を預けると思いの外沈み、一人では身体を起こせなくなってしまった。その包まれるような感覚に力が抜けていき、いつの間にか眠ってしまっていた。

顔に冷たい液体が落ちる感覚で目が覚める。目を開けると濡れたままの蓮さんが僕の腰に跨っていた。

「君、本当に大丈夫?流石にもっと体力あると思ってたんだけど。この数分で寝るとは。」

それよりも現状の説明をしてほしいなと言いたかったが、蓮さんに触れている僕の下半身が非常に反応しているため、気づかれないように蓮さんを下ろすことが第一優先となった。

「れ、蓮さん。このままだと風邪をひきますよ。ドライヤーとかしてくださいね。」

見る限り近くにドライヤーはないから、それをするために一度僕の上を退く必要がある。それを踏んでの提案だったが、どうしてかこの人にはそれが通じない。

「君ってちゃんと男の子だよね。」

蓮さんは濡れているタオルを僕の首にかけて、そのタオルをなぞるようにして下がっていった指を足の付け根に添わせる。思わず身体が跳ね、腰を引いた。それでももしかしたらという一抹の期待が残り、勢いよく上半身を起こす。唇まであと数ミリというところで蓮さんは立ち上がってしまった。

「残念。私とはできないよ。」

楽しそうに笑いながらタオルを首から引いた蓮さんは、テレビのスイッチを入れ床に座った。いつの間にかその手には缶ビールが握られていて気持ちのいい破裂音がする。

「君ももの好きだね。こんな私とやりたいなんて。見た目殆ど男の子だけど。」

テレビに顔を向けたまま話すその後ろ姿は確かに男のようだった。短い髪の毛だけでそう判断してしまうのは些か浅はかであると思うが、シルエットだけで見ればそうとも言えてしまう。

「蓮さんは可愛いですよ。それに魅力的です。僕が抱けそうなほどに。」

「君の基準は低そうだ。私もその中の一人になるのか。」

今までの女の子と無意識に並べていたことに気が付き、慌てて訂正しようとするが初めての感情に適切な発言が思い浮かばない。

「あ、でもやってないからそれ以下か。」

何だか面白そうに言う蓮さんに言う言葉が無くなり、会話は終わった。既に冷えている料理をすっかり忘れていた僕と蓮さんは温め直したものを二人で食べる。

「一回冷えちゃうと美味しさが若干減るね。」

「蓮さんが作ってくれたので十分に美味しいですよ。」

そんな会話をしてる間に空腹は満たされて、僕もビールを1つもらった。その日はお酒を飲みながら特に会話もなくテレビを見ていた。

次の日、朝方に入った家はひんやりしていて異空間みたいだった。それでも日は上り出勤の時間までに着替えを済ませて荷物を整える。何となく過ごしていた時間の中に蓮さんという大きな節目ができた。人生で初めて、何かのために一日頑張ろうと思っている自分がいる。スマホにある’蓮’の一文字。これだけで今日を頑張ろうと思えてしまう。

店につくといきなり休んでしまったことを大変心配されたが、シェフだけは何も言わなかった。由香里さんには良くないことがあったと何故か見抜かれていて、心配の言葉としてこってり怒られた。

「あんたそろそろ一人を選んだら?」

テーブルを拭きながら由香里さんが言う。もし選ぶ権利があるのだとしたら僕は蓮さんを選びたい。でもこれだけの関係でいきなり将来のことを言われるのはハードルが高いはず。

「好きな人ができたんです。でも、あまり相手にしてもらえるような感じがしなくて。」

「違うよ。お一人様を選んだら?ってこと。」

思ってたのと違う返答に思わず振り返り由香里さんに近寄る。

「どういうことですか。僕がやっと本当に好きな人に出会えたかもしれないのに。」

そう言うと大きくため息をついて近くの椅子に腰掛ける。由香里さんも向き合うように椅子を移動し、持っていた布巾を畳む。

「あのね、本当に好きな人が出来たことは素敵なことだよ。でもね、今までのことが無くなるわけじゃないの。だから今更自分は真っ当になりましたって言っても、いくらでも今までのことは着いてくるの。そうなったとき、何があってもその人守れるの?あることないこと沢山言われて、それでもその人に信頼し続けてもらうこと出来るの?あんたが今までやってきたことは、その場で終わってることじゃない。昨日だってそういうことじゃないの?良いように利用してるつもりかもしれないけど、あんただって利用されてるんだからね。」

言い切った由香里さんは椅子を戻して、裏へと入ってしまった。不誠実だという自覚はあった。だけどそれでもいいという子しか会ってこなかった。だから誠実であるという条件が今の反対であることしか分からない。

「ほら、そろそろミーティングの準備。シェフが待ってるから。」

考えている僕に遠くから由香里さんが声をかけてくれて、一旦絡まった思考を置いておくことにした。

「今日は予約が少ないので、臨機応変にフロアはお願いします。あと、予約の山本さんのアレルギーは皆さんで共有しましたが、確認します。甲殻類全般がアレルギーということなので、忘れないでください。最後に来週から私は休みをもらうので臨時が一週間入ります。仕事の説明は明日の閉店後なので柊くんお願いします。シェフは覚えていると思いますが面接の三番目の方です。以上でミーティングは終わります。」

そう言って由香里さんはフロアの掃除の仕上げに向かった。僕も後を追いかけようとすると、後ろからシェフに呼ばれる。

「おい、柊。」

名前を呼ばれるどころか、話し声を聞くことすら普段なかったのにいきなりの発言に身体に力が入った。

「はい。どうしましたか。」

正面に立つと物凄いオーラを放つシェフは真っ直ぐに僕の目を見ていて、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。何かを言うのかと待っているが、特に言うわけでもなく腕一本分までの距離で来た。

「お前、Beziehungに行ったのか。」

「行きましたけど。それが何か。」

そう言うとシェフは踵を返し厨房の奥へと行ってしまった。残された僕はどうすることもできずフロアに戻る。

「シェフ怒らせないでよね。あとで大変だから。」

「別に怒ってないと思いますけど。どうしたんでしょうか。」

蓮さんの働いている店とシェフに何の関係があるんだろう。どういう繋がりなのだろう。眼鏡に指紋がついた景色みたいになっている状態がむず痒く、もやもやが残る。

「まぁ、とりあえず今日と来週乗り切ってくれればいいから。留守を任せたよ。」

それじゃあ看板出してくる、と言って由香里さんが店を出る。僕も切り替えなきゃと頭を振って大きく息を吸った。

結論から言うとその日はうまくいった。週末だったのもあってランチからディナーまでずっと満席で、ずっと僕たちは動いていた。全てが終わった後、由香里さんはさっさと片付けを終えて帰っていく。僕は蓮さんの店に行こうと思ったが、あまりにも疲れていたためそのまま家に帰ることにした。フロアの片付けが早く終わったため、厨房のシェフに早く上がることを伝える。

「シェフ、お先に失礼します。」

まとめた荷物を抱えて小さく頭を下げると、片手で返事をされる。再び小さく頭を下げて店の裏口から外に出ると、そこに一人の女の子がいた。

「こーくん、この後予定ある?」

名前を思い出せないその子は、甘い匂いを漂わせたまま腕に抱きつく。近づいたその目元が涙に濡れていることにさえ気が付かなければ断っていたかもしれない。

「大丈夫だよ。どうしたの?」

大まかに検討はつくが、言いたいところまで言ってくれたほうが助かる。どこまで言わないほうがいいのか区別できるから。

「この前、いい人がいるって言ったでしょ?その人と付き合えたんだ。だけど、」

涙がその先を止めたが、この子の場合付き合ったが身体が目的だったとかそういう結末だろう。数回しか会ったことがないが、話したりしているとその片鱗が見えた。

「大丈夫。そんなに泣いたら折角可愛いのに台無しになっちゃうよ。ほら、これで隠してあげる。」

着て来ていた上着をフードだけで頭にかけて優しく抱きしめる。胸元で声を殺しながら泣くその姿を見ながら普段ならもっと声をかけてあげられるのに、どうして今はこれ以上出てこないのだろうと冷静な自分が後ろに立っている感じがして腕に力がこもった。

「こーくん、私の家来ない?ホテル行きたくないの。」

あの人を思い出しちゃうから。涙とアイシャドウに濡れた目元は光が少し差すだけでカラット数が上がる。

そのまま彼女の家に行き、夜を共にした。太陽が昇る前、隣りにある白い肌を見てこんな子でも恋が出来たんだと考える。本当に好きな人に何度も出会っているこの子と自分を比べて、勝手に自分を棚に上げていただけだと知った。

「こーくん?どうしたの?」

いつの間にか目が覚めていた彼女が眠気眼を擦りながら、体勢を変えて膝に乗ってきた。頭を撫でるように手を乗せると嬉しそうな顔をする。

「大丈夫。寒くない?」

素肌に布団を触れさせているこのままでは些か寒いかもしれないと思い、近くにあるブランケットに手を伸ばすとどこからか伸びてきた彼女の手に阻止される。

「なら、暖かくなることしよ。」

そうして再びベッドに身を沈めるとそこから時計が二周するまで僕らはそこから移動しなかった。

「おはよう。今日仕事は?」

太陽が朝を告げた頃、シャワーで濡れた髪を拭きながら彼女に問う。こんなことをしていたとしてもお互いに社会的にはもう大人で、日が昇れば働かなくてはならない。

「昨日辞めてきた。あの人がそうしてほしいって言ったから。」

俯いたままそう言った彼女は遠い目をしていて、己の軽率な行動を反省しているように見えた。これからこの子がどうしようと自分には関係ないと冷たい自分に思わず笑いがこぼれる。

「笑えるよね。どうしよ、今日から晴れて無職だー。」

勢いよくベッドに倒れたその体はバスローブが捲れて素足が見えている。朝日に照らされて白く光るその肌を見て僕は蓮さんを思い出した。

「こーくんのお店ってバイトとか探してないの?こーくんと働きたいなー。」

「臨時しか探してないよ。基本的に僕ともう一人でしか回ってないから。でも、いつか働けたら面白いかもね。」

落ちている服を身につけて彼女に帰ると告げる。店に着くまでに一度家に帰りたかったため、あまり長居はできなかった。

「分かった。こーくん、ありがとう。またね。」

「無理しないようにね。ばいばい。」

家につき、荷物をソファーへ置く。ふとスマホを見ると通知が三件あった。

’こーくん、今日の夜空いてる?’

’久しぶり!今度合コンやるんだけど人数合わせ頼める???’

’こーくんたすけて。しにたい。’

いつもなら全部に返信をするのに、どうしてかその気になれず画面を閉じて目も閉じる。アラームだけ設定して寝ることにした。

頭に響く音で目覚めたのはそれから5時間後で、頭も身体もある程度すっきりしていた。もう一度見たスマホは四件の通知を示している。会話アプリを開くと、事態の危機を感じて慌てて電話をかけた。しかし相手には繋がらない。何度もかけて、連絡をするが応答はなかった。その時ふと、他の男といるだけなのかもしれないと頭に浮かぶ。それならば、これほど焦る必要も心配する必要もない。

その後いつも通りに店に出勤した。

「おはよう。臨時の子が後ちょっとで来るから。説明よろしくね。」

由香里さんは何だかいつもより元気で、はきはき動いている。余程来週からの休みが楽しみなのか、鼻歌まで聞こえてきた。

「わかりました。来週そんなに楽しみなんですか。」

スキップまで始めそうなその姿は失礼かもしれないけど可愛かった。

「そりゃ楽しみだよ。旦那と船旅行くんだー。」

「由香里さん、結婚して何年でしたっけ。」

掃除機をかけている由香里さんは指を折って数えている。片手で収まると思っていたのか指が足りなくなり、折った指を戻しているから反対の手がおざなりになっていた。そっと掃除機を取り、代わりに隅っこまでかける。

「そう言えば10年目だったわ。私達。」

「十分に楽しんできてくださいね。」

掃除機終わりましたから、と少し嫌味っぽく付け足すと耳をほんのり赤らめてありがとうと言われる。ほんわかした空気が流れているフロアに外気が流れ込んだ。

「こんにちは。バイトで来ました水都です。」

思わず誰だっけと由香里さんを見ると、強く背中を押された。耳元で、臨時の子!と言われ慌てて掃除機を託しエプロンを軽く叩いて入口に行く。

「こんにちは。来てくれてありがとうございます。仕事の説明は夜のはずですが。」

昨日のミーティングでの話を思い出して、彼女を見る。するとはっとした顔をして、勢いよく頭を下げる。

「すみません!時間を間違えました!後で出直します!本当にすみません!」

言うやいなや店から走り去っていった。呆気に取られていたが、ゆっくりと後ろを振り向くと由香里さんもぽかーんとしていて、目があった瞬間思わず笑いだしてしまった。

「すごい子が来たのね。真面目そうだし大丈夫じゃない。」

「そうですかね。パンチのある子だとは思いましたけど、僕はもう心配ですよ。」

そんな一日の始まりをした店だったけど、なんてこと無いまま営業を終える時間になる。

「それじゃあ、お疲れ様。シェフ、お土産期待していていいですよ。」

厨房に一瞬顔を出して帰っていった由香里さんは、やっぱりスキップしてた。裏から出ていった由香里さんと入れ違いに、水都さんが入ってきた。

「こんばんは。お昼はすみません。来週からよろしくお願いします。」

深く頭を下げた水都さんを店の裏に通して、由香里さんがやっていた仕事を一通り説明する。一応飲食店で働いた経験があるため、飲み込みが早くいつも店を閉める頃には終わることが出来そうだった。

「わかりました。当日はご迷惑かけてしまうかもしれませんがよろしくお願いします。」

最後にロッカーの鍵を渡し、時間の最終確認をして彼女と入口まで歩く。

「大丈夫ですよ。僕はこの店長いですから任せてください。」

扉を開けて彼女の見送りをしようとすると、水都さんは僕に抱きついてきた。

「柊さん。私、起きるのが苦手なんです。一緒に寝て起こしてもらえませんか?」

耳元で囁かれた言葉が僕の頭に氷を置いた。せめて水をかぶるくらいの衝撃の大きさがあれば、拒否できたのに。

「そうなんですか。それじゃあ、どうしようかな。」

頭に手を置きそのまま髪を耳にかける。腰に巻かれた腕を外して、首に回した。自身の腕を彼女の腰に回し、引き寄せる。

「私の家来てくれるんですか?」

首に触れる唇の感覚がくすぐったい。流される今までしか例がなくて、断りたいという気持ちを受け入れられない自分が違和感で、また家に帰らない日を重ねた。

水都さんが働く間、彼女の家から出勤を続ける。一緒に行って帰って来るから、当然蓮さんの店にも行けない日々が重なった。

「こーくん、明日からも私の家にいて良いんだよ?」

最後の日、水都さんを腕に抱き夜を過ごす。もう少しで朝日が昇るという時間になって、ふと目が覚めた僕は先に起きていた水都さんにそう言われた。

「嬉しいですけど、無理ですよ。僕にも家はありますから。」

「そっかー。いつでも来ていいよ。私は大歓迎。」

それじゃあ、お風呂入ってくる。と言って水都さんは寝室を出た。残された僕は落ちている服を探し、下着だけ身につける。その後リビングに向かい、勝手を知ったキッチンで水を飲んだ。身体に怠さはないが、一週間一度も家に帰れていないという疲れと蓮さんに会えていないストレスが心を苦しくする。

「私にももらえる?」

お風呂から上がった水都さんも僕と同様下着だけでキッチンに並ぶ。今までの僕だったらこの火照った顔に持て余すほどの欲を掻き立てられていたはずなのに、どうしてかそんな気分になれなかった。

「僕は帰りますね。一週間ありがとうございました。」

僕の口つけたグラスに再び水を入れて水都さんに渡す。水都さんは受け取る素振りを見せない代わりに、小さく口を開いた。ご要望通りに口移しをすると満足そうに笑ってグラスを僕の手から取っていく。そのままソファーへ座った彼女を横目に寝室に戻り、一週間分の荷物をまとめる。玄関で靴を履いていると水都さんに声をかけられた。

「こーくん。またお店行っても良い?」

「いつでも来てください。僕はあそこにいますから。」

そう言って僕は水都さんの家を出た。一週間ぶりに帰った家は生活感を失い、薄っすらと埃が積もっていた。空気を入れ替えようと窓を開けてソファーに腰を下ろす。スマホを開くと1つのネットニュースが目に留まる。

’成人女性、自殺か’

スクロールした先にあった写真の女性は、先週連絡があった人だった。驚いて落としてしまったスマホをもう一度拾い、しっかりと顔を見る。

「どうして。」

誰も答えないと分かっていても思わず言葉に出てしまった。僕があの時返事が返ってくるまで連絡していれば、警察にでも相談に行けば、誰かに助けを求めていれば。たらればにいくら首を締められても死んだのはあの子。細くなった呼吸が喉を通り、次第に苦しくなった。徐々に力が抜けていくのが分かり、微かに動く手で電話をかける。

「もしもし。」

ああ、この声が欲しかった。優しく包むようでもなく、暖かく照らすようでもない。ただ、そこにいてくれるこの声が。

「君、間違えたの?」

絞り出すように這ってスマホに近づく。跳ねる肩を何とか治めようとしたが、上手く行かず呼吸は乱れる一方で、声は掠れた。

「蓮さん。会いたい。」

此方側に非常事態が起きているということを感じ取ったのか、すぐ行くと短く返答し電話を繋いだままにしておくようにと言われたような気がする。

「君、大丈夫?部屋の鍵空いてたけど。」

薄っすらと浮上した意識が認識した声は、頭上からしていて、暖かいものに身体は包まれていた。

「どこか痛い?おーい、聞こえてる?」

霞む目を擦って視界をはっきりさせると、自分が蓮さんに膝枕されているということを知る。もしかして夢でも見ているのかと頬に手を伸ばし抓ってみるが、当然のように痛みを感じる。

「起きてそうだね。いきなり驚いたよ。こんな時間に電話なんてかかってきて、それに応答ないんだもん。」

そう言いながら僕の頭を撫でる蓮さんの心の内が読めない。十分に鮮明になってきた記憶を思い返して、ゆっくりと身体を起こす。

「いきなり呼んですみません。朝早かったですよね。お店の時間遅いのに、こんな時間に本当にすみません。」

ソファーで隣り合うように座り、膝に頭が付きそうなほど身体を折り曲げる。自分の勝手な問題に蓮さんを巻き込んではいけないと思い、線を引いた。

「もう大丈夫ですから。ご心配をおかけしました。お詫びに家までタクシーを呼びますよ。本当にすみませんでした。」

そう言って立ち上がろうとすると蓮さんに腕を引かれてソファーへ逆戻り。肩を掴まれて強制的に向き合った顔は真っ直ぐそのまま真実を引き抜かれてしまいそうで、目を合わせられなかった。

「言ってみなよ。私に出来ることがあるかもしれない。話を聞くことくらいできるよ。」

左耳に真っ直ぐ届いた言葉に縋ってしまいたい。正体の分からないこの苦しみから開放されたい。

「蓮さん。助けて。」

言うと同時に涙が頬を伝い、声が続かない。肩を震わせて泣く僕を蓮さんは優しく抱きしめた。

「ゆっくり話しな。最後まで聞いてあげるから。」

呼吸が落ち着いた頃、スマホのネットニュースを見せて事の全容を話した。顔色1つ変えずに最後まで聞いてくれた蓮さんは優しく頭を撫でてくれた。

「どうしよう。俺が悪いのかな。俺が話を聞けてたら。会いに行ってたら。あの子は生きてたのかな。」

落ち着いたはずの感情がまたぶり返してきて、涙で溢れた。泣いているのを意識したのは数年振りで、収め方が分からない。

「君はね、悪いよ。これは君にも責任がある。だって、何もしなかったんでしょ?」

柔らかい声なのに、鋭くて心を締め付ける。欲しかった言葉はこれだったはずなのに、もらった途端その重さに耐えられない。

「どうして連絡があったときすぐに返さなかったの?もしその時何か一言でも返してたら今頃こうなってないかもしれないよ。」

分かってる。何度も頭の中で考えた。あの時をやり直せないかと。指で数えるほどしか会ったことはないけれど、それでも知らない仲ではない。だから、俺が悪い。

「それで、どうするの?君が背負った責任は、どうやって精算していくの?」

「俺は、責任を。」

言葉に詰まる俺に蓮さんは何も言わずただ黙っていた。まとまらない脳内を時間をかけてゆっくりと整理していく。少しずつ落ち着いてきた頭は理性を取り戻し、再度言葉を紡げるようになった。

「俺は責任をとります。本当に亡くなったのが彼女なのか確認をします。そして彼女が何に悩んでいたのか本当のことはもう分かることはできないので、後悔することをやめます。俺はその罪を背負って、忘れること無く生きていきます。」

そこまで何も言わなかった蓮さんはさっと立ち上がり、目の前に立った。ひどい顔をしているとは分かっているが、視線を蓮さんに向ける。

「蓮さん。僕は間違えてますか?」

見上げたその顔は見たことのないもので、何だか目をそらしてはいけない気がした。大きく息を吸った蓮さんは、何かを我慢するように下唇を噛む。物凄い力が籠もっているように見えてそっと手を伸ばす。触れた唇は水分が少なくて指に引っかかるのを感じた。

「蓮さん。そんな顔しないでください。」

立ち上がりその口に近づく。はっとした蓮さんは僕を突き飛ばす。再度ソファーは沈んだ僕の身体を包んだ。

「ごめん。君は合ってる。それでいいよ。そうしてあげて。私、帰るね。」

去る後ろ姿を追うことはできず、足音が聞こえなくなるまで動けなかった。

その日仕事に行くと、気がつけば一日が終わっていて、ロッカーで私服に着替えていると後ろから何かを投げられた。

「あんた、今日変だったけど。」

後頭部に当たったのは由香里さんが丸めたエプロンで、そこまで痛くないが衝撃は大きい。

「まぁ、仕事はちゃんとやってるから問題ないけど。」

一週間ぶりに会った由香里さんは少し日焼けしていて、健康的な雰囲気をまとっていた。だから対象的に不健康ですオーラを何とか隠している僕に由香里さんは眩しい。

「大丈夫ですよ。昨日夜更かししちゃって。寝不足ですね。若さを過信しました。」

後ろを振り向かず着替えを終える。荷物をまとめて店を出ようとすると、珍しくシェフが裏に入ってきた。

「柊、ちょっと来い。」

力の限り引かれた腕に痛みを感じながらも無抵抗に連れられる。半分以上照明の切れているフロアの椅子にシェフは座った。

「お前、蓮に会ってるのか。」

やっぱりと思い、今度は自分から質問をする。

「シェフに何の関係があるんですか?」

特別に関係が悪いわけではないが、ここまで蓮さんの話をされると心の靄が濃くなる。たとえどんな関係であろうとも自分に口出しできる立場ではないと分かっているが、それでも知りたかった。

「俺の質問に答えろ。話はその後だ。」

額に手を当てそう言い放ったシェフに、たまたまこの前外で会っただけだと言う。すると、

「お前はあの子に近づくな。頼むから。」

「どうして僕は駄目なんですか。」

それは、と言ってその先を続けないシェフに近寄る。

「僕は本気で蓮さんが好きなんです。一緒にいて欲しいと思った初めての人なんです。」

そう言うとシェフは小さく何かを言った。聞き取れなくて聞き返すと、

「あの子は、オーナーの弟さんのことが好きだったんだ。だけどその弟さんは死んだ。その日から蓮は変わっていった。それでも少しずつ前を向いて生きてきたんだ。好きな人がいきなり死んでいなくなるってどれだけ辛いか俺には分かってあげられない。弟さんと俺も長い付き合いだった。当時は、彼には彼女がいて蓮の気持ちが叶うことはなかった。それでも蓮は側にいられれば良いって言ってた。」

思わぬ所で知った蓮さんの過去。先日自分に起こった出来事と蓮さんとのことを思い出し、空白だったピースが埋まっていく。

「そうなんですね。僕、蓮さんのこと本気だって言いました。必ず証明します。お時間をください。」

シェフがどれだけ蓮さんを気にかけているか痛いほど伝わった。そして知らない蓮さんを持っていたシェフに嫉妬もした。

「お前が遊び人なのは知っている。だから信用できないんだ。それを優しさだと知っていても。」

この人には見抜かれていた。そして痛いところを突いてくる。何も言えなくなった僕を置いてシェフが厨房に戻った。残された僕は、働き始めて初めて入口から帰った。

帰り道、蓮さんの店へと足を運ぶ。夜の街は良くも悪くも色んなものを掻き乱していく。その中で今、蓮さんに会うことが果たして最適解なのかという不安が生まれた。立ち止まった僕を人が避けていく。気がつけば家に着いていた。上着を脱ぎ、荷物を下ろす。食事を取る気にもならなかった僕は、フローリングに膝をついた。冷たいそこはまるで僕を歓迎してないようで、じわじわと膝に痛みが広がる。

気がつけば二時間ほどその体制を続けていたようで、立ち上がろうとしたら足に力が入らず倒れる。頬に触れる冷たさに何故か涙が出てきて止まらない。

人に会えないだけでこんなにも寂しいと思ったことはなかった。会いたいけど、あの人に会って良い自信がない。自分から会いたいと思った人も初めて。だからどうしたら良いかわからない、止められない気持ちが収まらない。

「これが好きってことなのかな。」

それとも別の感情なのかな。何かおかしいのかな。

「会いたいよ。蓮さん。」

明かりも付いてない部屋に溶けていく言葉が虚しさを表す。

次の日、いつもより早い時間に起きて二駅歩いてから電車に乗った。店までの道もゆっくり歩くといつもとは違うものに気づく。

「こんにちは。」

「おはよう。」

店の前で会ったシェフとオーナーに挨拶をする。今日オーナーが来るなんて話を聞いていなかった。一緒に店に入り、さっさと裏に行ってスマホで由香里さんに連絡をする。

「こんにちは。由香里さん、今日オーナー来るんですか?」

「えっ。そんなの聞いてないけど。ってかあんた今日早いね。」

寝起きの声で答える由香里さんは別に大したことないよと言い、勝手に通話を切っていった。厨房に二人の気配があったため、着替えを終えて向かう。中からの会話が廊下を歩いている時に薄っすらと聞こえてきた。

「オーナー、蓮大丈夫ですか?あいつが何か余計なことしてないといいんですけど。」

「今のところ大丈夫だよ。蓮にも昨日会ってきたんだ。店の様子を見るついでにね。そしたら、元気ですよって言ってたから。」

「蓮のことだから無理してたりしませんか?」

「そこも心配だったんだけど、本当に大丈夫そうだったんだ。」

入るタイミングを失った僕は裏に戻って仮設ベッドを立てて寝ることにした。いつもならあと1時間後にいるはずの場所で、することなんてないし。

「あんた、そろそろ起きな。準備するよ。明日定休日なんだから、ほらしゃきっとして。」

由香里さんに起こされて目を開けると、いつも通りの時間になっていた。

「こんにちは。起こしてくれてありがとうございます。オーナーってまだいるんですか?」

今日の予約を確認している後ろ姿に声をかけて、まだ若干寝ぼけている頭を起こす。

「いや、帰ったみたいだよ。私来た時にはもういなかったから。」

珍しいねあんたが朝早いなんて。槍でも降るのかな。と少し失礼だろというようなことを言われたが聞かなかったことにして、お礼を言ってフロアに出る。いつも通りの掃除を終えてミーティングをした。

今日はランチの予約が多くてディナーが少なかったため、早めに賄いをもらう。ディナーに切り替えるタイミングで少し長めに休憩をとり、シェフと由香里さんと僕で小さい机に並び食事をした。

「シェフ、これ美味しいじゃん。メニューにしないの?」

賄いは場合によっては試食会の候補を食べるときもあって、今日はその日だった。

「少しパンチにかける気がして迷ってる。付け合せ次第になる気もするけど。」

お前はどう思う、と話を振られ素直に感想を言うとふっと笑われた。

「シェフ、分かっててやってますよね。僕は味の表現が苦手なんです。お客様に説明する時だって由香里さんの受け売りみたいなもんなんですから。」

そう言うとシェフも由香里さんも笑いだしてしまい、恥ずかしさを隠すために残りを一気に食べきる。そして流しに食器を持っていき、布巾を持ってフロアに出た。普段あまり笑ったり会話のない三人ではあるが、賄いを食べるこの時間だけは仕事仲間らしく会話をする。フロアに一人で立って店を見回すと、空間に一人しかいない感覚になり押し込んでいた寂しさが込み上げてきた。できる限り仕事の間は思い出さないように、大人として、人として。男として。明日の定休日まで何とか我慢すれば、そこで考えれば良い。一度考え始めたら思考が一直線になってしまうことは分かっているから、十分な対策が必要だった。だけどそのせいで我慢の反動が酷い時だってある。

「ほら、ディナーの用意始めるよ。」

由香里さんの声で準備が始まる。開店の札を出すと、一番に入ってくる女性が一人いた。

「いらっしゃいませ。って水都さんじゃないですか。こちら、ご案内いたします。」

窓側の一人席に通し、メニューを持ってくる。

「本日のメニューはこちらになります。ドリンクメニューもお持ちしますね。」

手渡ししたメニューの下で水都さんに手をなぞられる。無理に振り払うこともなくそっと引くと、

「こーくんさ、この後どう?今日ゆっくり食べるつもりだったからさ。終わったら家においでよ。」

と囁かれる。このままついて行けば明日の休みは確実になくなる。

「すみません、この後先約があるんです。」

初めての告白のような勇気の使い方をした。次がない断り方なんて知らなかったけど、言わなければその場を乗り過ごすことが出来ると咄嗟に思い口にする。すると年上の余裕を見せたいのかあっさりと引いた。

「そっか。それじゃあ、また今度にするね。」

そう言っていた水都さんはあっさりと食べ終わって帰った。お会計をした由香里さんは何か見覚えがあるんだけど誰だか分からないとこっそり言ってきて、僕も知りませんと言ってみた。

「いや、どっかで会った気がするんだけど。最近物忘れ始まったのかな。」

心底嫌な顔をするから、由香里さんの代打ですよと伝えるとひらめいたような顔をして僕を指差す。

「その子か!少ししか会ってないから忘れてた。」

からかったことに関してのお咎めは特に無くて、平和にディナーの営業も終わった。今日はどうやらシェフも早く帰るようで最後の戸締まりを任された僕は、暗くなった店を一周する。するとスマホが鳴っているのに気が付き、着信を見ると蓮さんからだった。

「もしもし。蓮さん?どうしましたか?」

「あ、あのね。最近お店で会わないじゃん。だからどうしたのかなって。」

蓮さんから連絡が来たというだけで暗いはずの世界に光があふれる。心拍数も上がって血の巡りが良い気がした。

「先日はご心配をおかけしました。今日、行こうかなと思ってたんです。やっぱりこの前何か嫌な気持ちにさせてしまったのかなって思ってたんで。」

話しながら店の鍵を閉めて鞄に入れる。今から向かえば既に蓮さんの店は開いている頃だろうと思い、近くを通るタクシーを止めた。

「大丈夫だよ。私の問題だから。そういえばオーナーが君のこと知ってたんだけど、もしかして知り合いとか?」

「知り合いというか同じオーナーですよ。僕の店にも今日来ましたし。」

マイクを押さえて運転手に行き先を告げる。蓮さんの話してる向こうから少し車の音が聞こえてきて、外にいるのかと尋ねると店の二階のベランダにいると返ってきた。

「二階もお店なんですか?」

「いや、私達の生活空間。」

「蓮さんお店に住んでるんですか?」

そう言うと、女子だけでね。共同生活っていうか、ルームシェアっていうかって感じ。と言われた。

「もう少しで着きますよ。一回切ってもいいですか?」

「そのままにしててよ。話さなくてもいいから。」

どうしたのだろうと思ったが、支払いを終えて車を降りると店の目の前に蓮さんはいた。

「本当に来た。」

いたずらっ子のようにニヒル口をした蓮さんは1つ道路を挟んだ対向車線側にいて、何だか嬉しそうだった。

「行きますって言いましたからね。それにこの前のことちゃんと話したいので。」

信号が変わるのを待ち、緑に光ったと同時に一歩を踏み出す。すると信号の向こうから蓮さんが走ってきた。

「君、気に入った。キスまでなら許してあげる。」

道路の真ん中でという条件がなければそこから動けなくなっていただろう。いきなりトンデモ発言をした蓮さんを腕を引き店まで連れて行く。

「あの、蓮さん。どういった経緯でその考えに?というか俺まず謝ろうと思ってたんだけど。」

驚きと喜びに包まれた感情をどうしたらいいものか分からず、気持ちが先行し口調が変わる。それに気がついた蓮さんはドッキリ大成功と言い、店の中に引き入れた。

「ドッキリ?嘘ってことですか?」

頂点から突き落とされたような感じになった頭はいきなり冷えて、荒ぶった言葉は元に戻る。この前来たときと同じ席に通されて、向かい合った。

「嘘?違うよ。教えるっていうドッキリ。」

何もない机に向かい合う二人。まだ準備中の店内は奥から人の声が聞こえてくるだけだった。

「まず、僕から話してもいいですか。」

ちょっと待って、と言って一度裏に行った蓮さんは両手にマグカップを持って戻ってきた。お店の雰囲気とは違うそれに入っているのはコーヒーではなくホットココア。

「これ飲みながらにしよう。そのコップは私のだし、ちゃんと洗ってるから大丈夫。」

特に潔癖であるということは無いが、蓮さんなりの気遣いだと思いありがたく飲むことにした。ほんのり甘いそれは逸る気持ちを落ち着かせてくれる。

「ありがとうございます。美味しいです。それじゃあ、話しますね。まずこの前はいきなり呼んですみませんでした。来てくれてありがとうございました。あの後、いくつか他のネットニュースを見ました。そこに記載されている情報が確かだと、亡くなったのは彼女で間違いありません。数回会っただけですが、僕には他人事に出来ませんでした。それにオーナーと交流のある僕の店のシェフから蓮さんの過去について聞きました。シェフは蓮さんを心配して僕に注意しただけなので、シェフは悪くありません。それでも、僕と一緒にいてくれますか?」

真っ直ぐに僕を見つめ、話を聞いてくれた蓮さんは身体を乗り出し僕の首根っこを掴む。強く引かれたかと思うと唇が重なった。ふっと笑うと椅子に座り、ココアを一口飲む。覚悟するように息を吸うと再び視線を合わせ話し始める。

「君のことはオーナーから聞いてるし、シェフの守さんからも聞いてる。だからどんな関係を作ってきたのかとか、どういう女の子と会ってるとかも知ってる。君のことを勝手に知ってる私は嫌?それにあの人のことはトラウマとかじゃないし、ちゃんと乗り越えてる。守さんとオーナーが過保護過ぎるだけ。私のなかでは、ちゃんと好きで、ちゃんと区切りを付けてる。素敵な人を好きになったって。ただ、最期の時がこの前の君の出来事と重なって思い出しただけ。あの人の最期も同じだったから。彼女がいるの知ってたし、自分から気持ちを伝えるつもりはなかった。だけどあの人が死ぬ前、私に会いたいって連絡が来てたの。嬉しさと、良いように使われたくないって気持ちがせめぎ合って、結局無視した。次にあの人のことを見たときは死んでた。ね、君のと似てるでしょ。」

そこまで言って蓮さんはマグカップに添えていた僕の手に自分の手を重ねてきた。暖かいものを飲んでいたはずなのに冷たい指先から微かな緊張を感じる。

「蓮さん、無理しないでください。もし僕といてその方を思い出してしまうなら、きっと一緒にいないほうがいいでしょう。」

「大丈夫。乗り越えたし、思い出して苦しいってこともないから。それに君といる時間を作りたいなって思ってるの。」

僕はまだこの言葉が無理しているのか見抜ける程の関係ではなくて、ただそこにある言葉を信じることしか出来なかった。

「いいんですか?僕は、貴女の想像している人とは違うかもしれませんよ。一緒にいたらそういう姿を見るかもしれない。それでもいいんですか?」

そう言うと蓮さんは何か思い出したように手のひらを叩いた。

「分かってる。でも一緒にいたらそういうことくらいあるでしょ。どんな人でも。それに、付き合ってとは言ってないからね。」

確かに言ってない。でも一緒にいたいってそういうことだと勝手に思ってた。それは、まずはお友達からっていうことなのかもしれない。

「そうですよね。いきなりお付き合いってこともないですよね。」

勝手に一人で盛り上がってることがありえないほど恥ずかしくて、視線を手元に移す。俯いた僕を見て蓮さんは少し笑っている。顔が熱くて、赤くなっている気がする。

「君ってそういうところ純粋だよね。沢山遊んでるのに。まあ、私も十分元々遊んでたからあんまり人のこと言えないんだけどね。」

「えっ。」

蓮さんにその雰囲気がなくて、ただ人をからかうのが好きなだけだと思っていたからその意外さに驚き顔をあげる。正面にいる蓮さんは笑っていて、その笑顔を見ると何だか全てがどうでもよくなる気がした。

「え、分かってるでしょ。誰にでもこうするわけじゃないけど。君が店に初めて来た時、少し遊べるかなってカマ掛けてみただけだし。そしたら今までの人とは何か違う感じで呼ばれるから驚いたけど、気がついたら面白そうだなって思ってた。それに、あの雰囲気になって身体が触れて拒否しても君は怒らなかった。仕掛けたのは私なのに。」

「僕は蓮さんの何になれますか?」

椅子から立ち上がり蓮さんの横に跪く。真っ直ぐにその瞳を見つめ、姫を迎えに来た騎士の如くその手をとった。

「僕は今まで出会ってきた女の子との関係を全て終わらせてでも、蓮さんの側にいたいです。僕は蓮さんが好きです。たったこれだけの時間で好きになるなんて信じられないけど、本気なんです。一目惚れしました。」

「君、本当に面白いね。でも私恋人にはならないよ。」

手を引かれ鼻と鼻が触れそうなほど近づいた蓮さんはいたずらっ子みたいな笑顔を見せて、ニヒルと笑って言った。

「だって、えっちできないもん。キスまでね。」

いきなり身体に力が入り表情が硬直する。蓮さんと対照的な顔をしてる僕が面白いのか、くふくふと笑っていた。

「それじゃあ私、お店の準備してくるから。その席いていいよ。」

椅子を引いて立ち上がった蓮さんはそう言って、裏に行ってしまった。床に膝をついたままの僕を残して行った蓮さんの声が遠くから聞こえる。そのまま足を折って床に座った。冷たさを感じる脹ら脛は不思議と痛くなくて、痺れも感じない。どれくらいそうしてたか分からないが、制服に着替えて髪もメイクもセットされた蓮さんが出てきた時驚かれた。

「君、ずっとそうしてたの?早く椅子に座りなさいよ。今、コーヒー出してあげるから。」

そう言われて立ち上がると薄れていた感覚が戻ってきて、膝から力が抜けていく。音を立てて倒れた僕を蓮さんじゃない誰かが起こしてくれた。

「大丈夫?あの子雑なところあるでしょ。」

あ、私アリサ。蓮と一緒に上に住んでるの。そう言った女の人は、僕が椅子に座ったのを見て裏に戻ってしまった。その全てを見ていた蓮さんは笑いを堪えられないようで覆われた手から笑いが漏れている。

「君、動揺が分かりやすいね。アリサ可愛いでしょ。一緒に上に住んでるの。あとミオって子もいるよ。」

はいこれ、と渡されたのは初めて香る甘いコーヒーで口をつけると優しさが身体に染み渡った。カップを机に置き、蓮さんに感謝を伝えるとミオも呼んでくると言って階段を駆け上がって行った。

数分後蓮さんが引きずるように連れてきたのは艶のある黒い髪を2つに結んだ女の人で、大きめの服を着ているせいか、幼く見えた。

「あんた、蓮の何。」

既に嫌われているような素振りに蓮さんが苦笑いし、僕を紹介してくれた。

「ちょっとミオ。この子は別に今までの人みたいじゃないから。ちゃんと初めから私のこと女の子として分かってるから。」

蓮さんがそう言ってミオさんの頭を撫でるとミオさんは頬を少し赤くして蓮さんに抱きついた。その後蓮さんとミオさんで仲良く話し始めてしまい僕の入る隙間はなくなってしまう。

「ごめん、君のこと忘れてた。ミオ悪い子じゃないからさ、嫌いにならないであげて。」

一通り話し終わった蓮さんはそう言ってまた裏に戻る。時計を見ると開店時間は過ぎていて、外を見ると道を歩いている人は殆どおらず、この店だけが起きているような気がした。

その日から僕は蓮さんと遊びに行ったり、ご飯に行ったり。お互いの家にも行くけど一線を超えることは一度もなかった。一緒に露天風呂のある温泉に行ったりもしたけど、混浴みたいにお互いに水着を着たまま入った。言うまでもないが僕は当然のように興奮するし、身体に兆候も現れる。それでも僕は手を出さなかった。体格差や力の差を考えたら無理やり抑え込むことだって出来た。だけどそれをやらないのが誠意だと思ったし、今までとの区切りをつける方法だと思ってる。

それなのに、

「ねぇ、そこ座ってもいい?」

と言って僕の膝に腰を下ろす。お風呂上がりの温かい身体を直接感じるこの状態は非常に僕の理性へ悪影響だった。

「聞いときながらもう座ってるじゃないですか。僕を試したいんですか。」

アイスを片手にテレビを見る蓮さんはメイクも髪のセットもないから、より中性的な美しさが増して吸い寄せられそうだった。だったというより実際に吸い寄せられて首に口づける。くすぐったそうに身体を捩らせるが、笑うだけで抵抗はされなかった。

「抵抗しないんですね。キスまでならいいからですか?」

綺麗に刈り上げられた首元やうなじにも口づけた。そっとお腹に腕を回して引き寄せる。耳元で蓮さん好きです、と囁くと

「君は本当に私のこと好きだね。」

と言ってあんまり相手にしてくれない。本気になってもらおうとしてるけど、その成果を感じることはなかった。

「はい。好きですよ。だって他の女の子の連絡先をちゃんと消しましたよ僕。それも全部ちゃんと話しに言って殴られたり、怒られたりして。」

ゆったりと揺れながらなんてこと無い時間を過ごす。これは十分に幸せを感じられる場面であった。でも、やっぱり人間とは欲深いもので特別になりたいと思ってしまう。

「そうだね。たまにすごい怪我で店に来たこともあったね。それはそれで面白かったけど。」

食べ終わったアイスのごみをきれいな放物線を描いてゴミ箱に入れた蓮さんは、テーブルに置きっぱなしだったビールを開ける。気持ちのいい音がして開いたそれに口づける横顔に見とれていると、振り向いた蓮さんの唇が重なった。

蓮さんからの行動は殆どなくて、嬉しさを噛み締め固まっていると重なったところからビールが流し込まれる。ぬるくて少し粘度を感じるそれは決して美味しいものではないはずなのに、どうしてか世界で一番だと思ってしまう。

「キス。しちゃったね。」

唇を舐めてそう言った蓮さんは本当にずるい。色気を放つことをきっと分かっていて、自分で司っている。そして僕は恥ずかしげもなく踊らされていた。

「もう、寝ませんか。明日、行きたい朝ごはんあるって言ってましたよね。」

これ以上いじられてると恥ずかしさでどうにかなってしまいそうになり、膝から隣に下ろす。まだ半分以上残っている缶を振って僕に突き出した。

「僕、飲みませんよ。お酒弱いって言ってるじゃないですか。」

「これくらいいいじゃん。だってなくならないと私寝ないよ?」

どうせ最初から飲ませたいと思っていたのだろう。さっき一口もらってるし、まぁいいかと思い缶を受け取る。何故か期待の目を向ける蓮さんを見ないふりして、全て飲みきった。

「はい、寝ますよ。僕のベッド使ってくださいね。」

これもいつものこと。蓮さんを僕のベッドに寝かせ、僕はソファーで寝る。蓮さんの家に行くときも同じ。初めの頃は、一緒にベッドで寝ようとせがまれたがそれだけは出来ないと理由を告げると大人しく聞いてくれるようになった。

「今日もありがとう。それじゃ、おやすみ。朝、起こしてね。」

そう言って寝室に行った蓮さんを見送り、ソファーの裏に置いていたブランケットを出す。蓮さんとの関係が深くなって新調したこのソファーは男の僕が寝ても全身が入るくらい大きくて、かっこいい。部屋の電気を消してアラームを確認する。僕はあと数時間で起きなければならない。お店の営業時間が遅いため、そこから家に帰ると夜はとうの昔に深まっている。それでも生活リズムを崩したくないとたまに言い出す蓮さんは、こうやって朝ごはんの美味しいお店を見つけてきた。

次の日、というかその日の朝。アラーム通りに起きた僕は寝室の蓮さんを起こしに行く。

「おはようございます。蓮さん。朝ですよ。ほら、起きてください。」

扉から声をかけても返事がないことは分かってる。それでも一応ノックをして部屋に入った。頭まで被ってる布団を剥がし、身体を揺さぶる。はだけている隙間から見える白い肌は光にあたり不健康を表した。太陽の出ている時間に殆ど外へ出ない蓮さんは、見える所全てが真っ白だった。

「おはようございます。蓮さん。朝ごはん間に合いませんよ。」

光を遮るように顔に被せた腕を引いて身体を起こす。首に巻き付いてきた蓮さんはまだ寝ぼけている。

「おはよう。早くない?」

「行く気残ってますか?そろそろ家出る時間になりますよ。」

スマホを顔まで近づけて見せる。薄っすらと開かれた瞳がそれを見ると、ぎゅっと腕に力が入った。

「今日は家で食べますか。材料ありますので、僕作りますよ。」

ここまで動かないと外に出ることはないと分かってるから、起こした身体をベッドに戻してカーテンも閉める。間接照明だけ残して、僕はキッチンに行く。

簡単に作った朝食をトレーに乗せて寝室に行く。扉を開けると上半身を壁にもたれさせた蓮さんがスマホをいじってた。

「ご飯出来ました。机出してもらえますか?」

ベッドの下にある机を開き、その上にトレーを置く。ベッドの上で向き合うように座り、ご飯を食べた。

「ごちそうさまでした。美味しかった。ありがとう。」

布団を膝までかけたままの蓮さんを見れるのが自分だけだと錯覚しそうになる。どれだけ一緒に時を過ごしても常に共有出来ているわけじゃないから、僕の知らない蓮さんもいるし、蓮さんの知らない僕もいる。もっと知りたいし、蓮さんがほしい。

「君、朝ごはん作ってくれたお礼に何が欲しい?」

少し猫撫で声になっている蓮さんはやっぱり女の子で、ふわふわのパジャマがズレて見えた肩の華奢さも相まって愛おしくなる。朝ごはんを作ったときは決まってお礼という名目で何かを与えたがる蓮さん。実際に何かをもらったことはないし、もらうこともないけど、それでも毎回聞いてくる。

「大丈夫ですよ。蓮さんとこうやって過ごせてるだけで十分嬉しいですから。」

そう言うと蓮さんは唇を尖らせてすねてる顔をする。どうやら今日はイレギュラーな日のようだ。

「そういうことじゃなくてさ。だって私、君にもらってばっかりだよ。何か返さないと。身体、は無理だけど。それ以外にさ、何か欲しいものとか。」

初めて引き下がらない蓮さんを見ていると、いつもの余裕がなくなって面白い。

「何か君、面白がってない?」

何も言わない僕がつまらないと言わんばかりに伸ばした足で蹴ってくる。食器を倒すと危ないと思い、トレーを持って立ち上がると服の裾を引っ張られた。

「どうしました?危ないので片付けてきますね。」

振り向いてそう言うと、膝立ちになった蓮さんの唇が触れる。頬を赤らめるのが珍しくて伝染するように顔が熱くなった。

「ありがと。」

ぼそっと言った蓮さんはベッドに戻り布団を被ってしまった。

水道に食器を置いて洗いながらさっきの蓮さんを思い出す。いつも通りでありながらも、どこか様子のおかしい蓮さんが引っかかった。お店で何かあったのだろうか。それとも僕以外と会っている時に何かあったのだろうか。一人で考えても出ない答えに脳内を使ってしまい、泡のない食器を二度も洗った。

ランチの時間が迫るため僕は蓮さんに鍵を預け家を出る。ディナーまで営業しそのまま蓮さんの働く店に行く。今日もいつも通りのはずだった。

「こーくん?」

店の片付けが長引いてしまい、少し近道のためにいつもと違う道を歩く。すると正面からすれ違った女の子に後ろから声をかけられる。

「やっぱり。こーくんだ。いきなり会うのやめようとか言うからどうしたのかと思ってた。ねぇ、今一人じゃん。ホテル行こ?」

僕と認識できた瞬間、腕を絡ませてきた彼女の身体を剥がす。どうしてか分からないけど、蓮さん以外が触れているという事実が嫌だった。

「どうしたの。今まで行ってたじゃん。それとも、何。好きな女でも出来たわけ?今更そんなこと許さないよ。こーくんは私だけって言ってたじゃん。嘘だったなんて言わせないから。ほら、私だけって言ってよ。」

持ちうる感情の全てをぶつけてきたことに何も言えない僕はただ、立ち尽くすだけだった。思っていた反応と違ったのか、それ以上言葉を紡がない彼女は苛立ちを露わにしたまま立ち去る。嵐のように過ぎ去っていった後ろ姿がなくなり、やっと動き始めた足でお店に着くといつもと違うことに気がついた蓮さんが席に案内してくれた。

「君、大丈夫?」

頼むものは変わらないからメニューを持たずに蓮さんが向かいに座る。まだ放心している状態から抜けない僕を心配そうにしてくれる蓮さんを見ると安心できた。

「大丈夫です。コーヒーお願いします。」

全てを話してしまいたいという気持ちを抑えるために、下を向いたままオーダーを伝える。話したくないと受け取った蓮さんは、分かったと言い厨房に向かった。足音が無くなるまで顔を上げられなかった僕は、周りにいる人に気が付かなかった。

「ちょっと、あんた。何があったのか知らないけど、蓮のこと泣かしたら許さないから。」

隣りにいたのはミオさんで、可愛らしい装いとは対極に表情は険しい。言い放ったミオさんは僕の肩を軽く叩き去っていった。

入れ違いに裏から出てきた蓮さんからコーヒーを受け取る。暖かさが手に染みて、筋肉が緩むのを感じた。身体まで染みてきたコーヒーに肩の力が抜ける。

「よかった。一息ついてね。」

そう言って何かを話そうとした瞬間ドアが入店を告げた。形式的な挨拶をする蓮さんを横目にコーヒーを口に含むと、蓮さんの様子がおかしいことに気がつく。

「どうして、来たの。」

2つ隣の席に座ったその人に小さくそう言った蓮さんは両手をきつく握りしめていた。

「別に。ただのお客様。」

渡されたメニューを見ながら答えるその人の態度が気に障るが、オーダーを受け取って裏に蓮さんが戻るのを確認して気持ちを落ち着かせる。外見はチャラくて、不必要だと感じてしまうほどの装飾品があった。その人の注文した品を持ってきたのはアリサさんで、裏から出てこなくなってしまった蓮さんに心配が募る。不安定に不安に襲われて、支払いを済ませて店の裏に行く。仕事中なのは百も承知で電話をかけた。

「もしもし、蓮さん。」

出ないと思っていたコールは一回で切れて、慌てて話す。

「どうしたの。もう、お会計したって。」

「どうしたのって。蓮さん大丈夫ですか?」

僕の問いかけに答えない蓮さんに怒りが急かさせる。感情で動いてはいけないと分かっていても、心配という盾を振りかざしてしまいそうで、思考がまとまらない。

「大丈夫だよ。君はもう帰るの?私あと2時間はシフト入ってるから、またね。」

今日は特に約束をしているわけではなかった。だけど、店に来る前の一件があったからどうしても蓮さんといたい。

「蓮さん、待って。お店が終わったら、僕の家に来てください。何時でも待ってます。」

「いいけど。でも、」

その続きを言う前に、待ってますと念を押して電話を切った。道路に出て捕まえたタクシーに乗る。家に着いて荷物を床に置いたままシャワーを浴びた。熱に判断の舵を渡しかけていた頭は冷えたことで主導権を取り戻す。蓮さんが戻ってくるまでの間、待つことしかできない僕は家の中を歩きまわったりしていた。ソファーに座ってテレビを見るなんてことも、ベランダで外の空気を吸うなんてことも出来なくて、手からスマホが離せない。もう何百回も見た時計が店を出てから二時間を示す。

やっとスマホの液晶が光ったと分かると、食いつく勢いで画面を開く。

’お店終わった。まだ起きてる?’

すぐに付いた既読で起きていることが分かったのか、着信が来た。

「君、何か食べない?私、お腹すいてるんだけど。」

出て早々コンビニに行く宣言をされた僕は、夜は危ないからと見え見えな魂胆を提示して合流する。

「お、来た。別に大丈夫なのに。まぁ、いっか。」

少し感じる歯切れの悪さについてどこまで踏み込んで良いのか分からない。それなりに一緒に過ごす時間を重ねてきて、お互いのことを知ってるつもりでいる。だけど、それは僕からの一方的な仕送りだったのかもしれない。

「もう朝ごはんのパンが並んでるよ。そんな時間か。」

手にメロンパンと焼きそばパンを持って迷う素振りを見せる蓮さん。いつもなら僕が食べるからどちらも入れようと提案するからそれを待っているのだろうか。でも、今の僕はどちらか選んで欲しい。そして僕を選んで。

「今日は焼きそばパンかな。君は何食べる?それとも食べた?」

籠を腕にかけたまま振り向いた蓮さんに朝日が当たる。全てがどうでもよくなってしまいそうな程美しいその姿が僕の動きを止めた。数秒止まった呼吸は不思議と苦しくなくて、むしろ呼吸なんかしたら空間が汚れてしまうと思ってしまう。

「大丈夫?私の奢りだから好きなの食べていよ。」

「大丈夫です。飲み物だけもらっていいですか?」

無理やり身体を動かしてペットボトルが陳列されている前に立つ。飲んだことの無い新発売の炭酸飲料を持って蓮さんの元に戻る。

「お願いします。」

「分かった。お会計してくるから、外で待ってて。」

女の子に支払いをしてもらうなんて体験は蓮さんに出会うまでしたことがなかった。年上の人でもご飯の時もホテルの時も全部僕が支払っていた。外から会計をする蓮さんを見る。終わってこっちに歩いてくる蓮さんは僕が見ていることに気がついたのか少し照れた顔をする。

「もう、何でずっと見てるの。ほら行くよ。」

ビニールを受け取ろうと腕を伸ばすとありがとうと言って渡してくれる。中を見ると籠にあった記憶のないお酒が入っていて、飲みたいというのをバレたくなかったという小さな抵抗が可愛くて愛おしくなる。

だけど今日は絶対に話さないといけないことがある。それだけクリアできれば今まで通りが返ってくる。

「どうぞ。買ったやつ冷蔵庫入れておきますね。」

部屋に上がった蓮さんにシャワーをすすめて僕はキッチンに行く。今日は朝食を作る必要はないし、なんならこれから晩酌を始めるようなものである。荷物を部屋の端っこに置いた蓮さんはありがとうと言って洗面所に行った。

袋に入っていたのは思ったより多い数のお酒で、本当に一人で飲むのかと心配になる。余ったら次来た時でいいだろうと冷蔵庫に入れた。

数分前までこの部屋をうろついていた自分を想像すると何だか気分が悪い。そんなことをしたって蓮さんが早く来るわけでもないし、遅くなるわけでもない。だけどそれだけ、蓮さんに会いたかったのは分かってしまう。

「ありがとう。シャワー。お酒もらうね。」

パジャマに身を包んだ蓮さんがビールを片手におつまみを持って僕の横に腰を下ろす。ソファーに隣同士で座ることは今まで幾度とあった。だけど心臓の動きだけは今までと違った。

「君、私に聞きたいことあるでしょ。何でも答えるよ。」

テレビを付けること無くただお酒を進めていく蓮さんはこちらを向くこと無く話す。

「何でもですか。」

蓮さんにとって僕はどこまで心を許した人なのだろう。これは信じていいのだろうか。

「そうだよ。だって君だもん。」

もうどうにでもなっていい。僕は貴女を信じる。大きく息を吸って覚悟を固めた。

「今日、お店に来てた人との関係を知りたいです。」

蓮さんと僕の視線は交わらない。だけどそれでもいい。

「あの人は、大学の先輩。昔付き合ってた人。初めての恋人。私のトラウマの人。」

「何があったんですか?蓮さんの辛くない範囲で知りたいです。」

そこから蓮さんが語った話は聞いている僕が涙を我慢していた。泣きたいのはきっと蓮さんだろうに、なんてことないように流暢に話す。

あの人はサークルで出会った人で、当時からメンズライクをしていた蓮さんによく話しかけていた。蓮さんの中で勝手にチャラい人は遊んでるって思ってたから、可愛らしい服を着ていない自分に興味を持ってくれているというのが嬉しかったらしい。そこから二人だけでご飯に行ったり、その人がよく行くメンズ服のお店に行ったりと楽しく過ごしていた。しかし、次第に彼の視線やスキンシップに違和感を覚え始める。それでも多数派ではないと思っている自分とこうやって過ごしてくれているということを手放せなかった蓮さんはある日その人の家に行くことになってしまった。

「そこでね襲われた。もう子供じゃないし、方法だって知ってる。だけどどうしてか私はそういった映像とか見るのが苦手だった。だから、実際に自分がその状況になったときあり得ないほどの恐怖に襲われたの。」

だからあの人のことを突き飛ばした。それがきっかけで学校に行く度に虐められるようになったという。蓮さんは大学を休学していたが、日が出ている間に外に出ることがストレスになっているため復学を諦め辞めた。

「こんな感じかな。だから君より年上だけど、実際の年齢で言ったらあんまり変わらないと思うよ。」

1つ空っぽになった缶が机に置かれる。コトリと音を立てたそれの空洞に無が響いた。

「ありがとうございます。蓮さんに話してもらえて嬉しいです。」

本当は他にかけるべき言葉があっただろう。だけど何か話さなければと焦っている心を汲み取った頭は冷静に言葉を吐いていた。

「僕じゃ蓮さんを守れませんか?」

「私を守る?どうして。」

別にもうトラウマじゃないよ。と言ってキッチンから二本目のビールを持ってくる蓮さんに立ち上がり近づく。

「だって、まだ朝が怖いんですよね。僕は一緒にいます。朝も夜も。」

プルタブにかかった指が止まる。握っている手は冷たいだろうに細かに震えていた。そっと缶から手を離し指を絡ませる。後ろから包みこんだ華奢なその肩に精一杯暖かさが伝わればと気持ちを込めた。この人にどうすればこれが伝わるだろう。行く宛の分からないこの劇薬のような感情を、愛情とも恋とも言えないこれを、言葉でどう伝えられるのだろう。考えているのに心がそれを追い越す。思っていることの真髄が無計画に口から飛び出した。

「俺に恋しなくていいですよ。それでもいいから俺といてください。俺たちの関係が恋や愛じゃなくても、それでもいいから貴女の特別にしてください。俺は貴女と一緒にいたい。」

蓮さんは何も言わないまま腕を力なく落とした。後ろからでは分からないその表情は艶のある髪の毛に隠されている。それでも髪の隙間から見える耳がほんのり赤くて、期待してしまう。

「君はそれでいいの。詞葉くんは。」

いつになく真面目に話す蓮さんは俯いている。どうしてもその顔が見たくて身体を前に回した。

「俺はそうしたいです。」

誠実であるという方法は分からない、でもどうしても伝えたかった。これが信頼であるということを。

「私は疑い深いよ。いつか自分が信じられなくて君を裏切るかもしれない。太陽が出てる時に外で歩いたりとか出来るまで時間かかるかもしれないよ。それに、キス以上はできないよ。」

それでもいいの。と潤んだ瞳で見つめられる。零れ落ちた一雫をキスで受け止めそのまま不安が溢れる口に蓋をする。震えていた唇は徐々に力が抜けていき、重なりは深くなった。頭に手をまわし梳かすように触れるのが気持ちいいのか目尻が下がる。開くことのなかったビールをそのままに蓮さんを抱きかかえ寝室に行く。優しくベッドに下ろして再び口づける。甘いお菓子みたいなそのキスは中毒性があって次から次へと欲しくなった。違和感ないように押し倒したつもりだが、どうだろうか。

「君、心臓ドキドキしすぎだよ。」

下から上目遣いでそう言われると直接的に欲を刺激される。気づかれないように身体を離したつもりが、蓮さんには分かってしまうようで小さく笑われた。

「君は分かりやすいくらいに欲に忠実な身体をしてるね。」

「すみません。気持ち悪いですか?」

身体を浮かせたまま覆いかぶさる僕は必死に身体の熱を抑える。今まで開放的に過ごしてきた身体は簡単に言うことを聞かない。

「そうでもないかな。だって君はそうしないって分かってるから。」

首に回された腕で勢いよく抱きつかれる。耳元でそっと囁かれた。

「信じてるから。」


1ヶ月後蓮さんとの同居を決めた。何度もお互いの家に行ってたし、交わっている生活だったから引っ越しは案外すんなりと事がすすんだ。夜ご飯を俺の家で食べながら正面にいる蓮さんが引っ越しの書類を見ている。間取り図を見ながらレイアウトを考えるのが楽しいようでいつも片手に持っていた。

「ソファーはどっちにする?ベッドは君のがいいんだけど。」

「俺はどっちでも大丈夫ですよ。」

気がつけば一人称はかつてのものに戻っていて、蓮さんは相変わらず俺を’君’と呼ぶ。

「そっか。それなら私のやつでもいいかな。君の捨てることになっちゃうけど。」

「いいですよ。特別なものでもないので。」

蓮さんの働いている店の二階で座ったソファーを思い出す。そう言えば初めて蓮さんの部屋に入った時この空間にしては大きいソファーだと思っていた。ということは部屋に合わせて買ったものではないのだろう。

「ありがとう。手配とか自分でやるから、ベッドの方お願いするね。」

近くでまとめていたやることリストに付け加える。

「そういえばいつか聞こうと思ってたんですけど、初めてお店に行った日に家だって紹介してたあそこは誰の家なんですか?蓮さんの家じゃないですよね。」

そう言うとはっきり覚えていないのか首を傾げた。宙で視線が彷徨った後見つけた顔をする。

「あ!あそこね。あそこはオーナーの家。車使いたい時いつでもいいよって言われてるから。」

「そうなんですか。てっきりあそこに住んでいるもんだと最初は思ってたんですよ。」

「免許は持ってるけど車は持ってないからさ。オーナーからありがたくたまに借りてるの。」

その方角にいるわけじゃないのに手を合わせる蓮さんが面白くて少し笑う。すると蓮さんもつられて笑い始めた。呼吸を落ち着かせて真っ直ぐに蓮さんを見る。

「わかりました。あと、」

途中まで言いかけて一呼吸つける。持っている箸を置いて姿勢を正す。空気が変わったことが伝わったのか蓮さんも箸を置いた。

「オーナーとシェフに報告をしないといけないと思ってるんです。一緒に来てくれませんか?」

「何の報告?別に付き合ってるとかじゃないけど。」

両手を膝に置いて覗くように俺を見る蓮さんは不思議そうに首をかしげた。

「そうですけど、一緒に住むわけですから。何か報告はしないと、と思って。」

「なるほどね。何もないってのも失礼か。あれだけ心配かけてるし、もう大丈夫ですよってことで来週くらいに行こうか。どうせなら引っ越しとか全部終わってますって状態で言いたいし。」

紅茶を一口飲んだ蓮さんは続けてニヒルと笑った。

「それに、事後報告なら文句言えないもんね。」

それは俺が硬みの狭い思いをするのではとは言えず、そうですねと返しておいた。

「何、君。緊張してるの?大丈夫だって、あの人達ちょっと過保護なだけだから。」

ちょっとじゃないんだよな。それが。

「蓮さんのこと大切に思ってますもんね。」

「それに多分、あの人のこと少し責任を感じさせちゃったから。それは私が謝らないといけないことなのに。」

食べ終わった食器を片付けながら水道に二人で並ぶ。食べてすぐ洗うという行動はお互いの生活にあって、一緒にやることになっている。

「私がぼろぼろになってるときに一番話聞いてくれたのが玄さんだったの。」

「玄さんって?」

水道を止めて手を拭いた蓮さんはソファーに座った。俺も後を続いて横に座る。

「オーナーの、徳さんの弟さん。」

「初めて名前知りました。シェフと話してるのは聞いたことあるんですけど名前までは。」

「シェフの名前も知らないんじゃないの?君。」

流石に知ってますよ、守さんですよ。と言うと流石にねと笑って頭を肩に乗せてきた。

「本当に後悔とかない?だって好きな人と一緒にいてキスまでって辛いでしょ。」

私は分からないけど、そういうものだって聞いたことあるから。と語尾が少し小さくなりながら頭を擦り寄せてくる。警戒心の強い猫が心を許してくれたみたいで嬉しい。

「大丈夫ですよ。正直に言うと当然のように欲情します。えっちしたい気持ちになります。でも、それをして蓮さんが苦しい思いをすると分かっているので、理性を失うことはありません。もし理性を失うことがあったら、俺を殴ってください。蓮さんがいくら俺を試してもいいです。それで俺が苦しいことはありませんから。ただそれがないことで、心配はしないでください。俺と蓮さんのどちらが悪いわけでもありませんので。今までどんな人と蓮さんが出会ってきたか分かりませんが、その人達と俺は違うと思ってください。俺は特別だと思ってください。」

肩に乗せていた手を下ろして腰を引き寄せる。細い腰は彼女が異性であるということを強調させた。

「本当に君は面白い。」

「俺からも心配なこと一個いいですか?」

首元で上目遣いになった蓮さんに見つめられるとそんな大したことではない、言いたいことを言うのを躊躇ってしまう。するとそれを重大なことだと勘違いした蓮さんの瞳が微かに潤んだ。

「どうしたの。」

「別に大したことじゃないんです。ただ俺の名前呼んでもらえないのかなって。出会った初めの頃はよく呼んでたじゃないですか。」

そう言うと蓮さんは肩を震わせて笑った。

「そんなに呼んでほしいの?だって君、色んな人に呼ばれてるじゃん。私まで呼んだら他の人と一緒になっちゃうかなって。」

「そうなんですね。それなら名前全部で呼んでください。女の子たちにはこーくんとしか呼ばれたことがないので。詞葉って呼んでください。」

「あー、その手があったか。」

閃いたと手でモーションを示した蓮さんは俺の膝の上に移動して正面から頬を挟む。頬に触れる手は若干暖かくて柔らかい。

「詞葉。ありがとう。」

好きな人が幸せそうに自分の前にいる。大切な人が自分を大切だと思ってくれている。

「俺こそ。蓮さん、ありがとうございます。」

引っ越しが終わった頃、俺はディナーが終わった時間にシェフとオーナーに約束をしていた。

「何、あんた結婚でもするの?」

野次馬のように興味本位で今日は残ると言った由香里さんは何故か楽しそう。横でそわそわしている俺を見るたび笑いそうで、不本意に力が抜けそうになる。

「違います。まぁ、同じくらい大切なことなんですけど。」

そんなことを話していると裏口がノックされた。

「誰。」

知っている人しか出入りしない扉に知らない人が訪問。由香里さんは一気に声のトーンを落とした。

「すみません。出てきます。」

ゆっくり扉を開けるとお店に出勤する前の状態の蓮さんがいた。本当は表から入ってもらおうと思っていたが、オーナーが絶対にそっちから入ってくるのが分かっていたため裏からにしてもらった。

「お待たせ。もう徳さん来てる?」

「あと少しで到着するそうです。シェフに先に話とかしますか?」

上着を預かりながらそう尋ねると、由香里さんに気づいた蓮さんが頭を下げた。

「詞葉くんと一緒に生活させていただいています。三隅蓮と申します。」

いきなりの蓮さんに驚いている由香里さんが何だか面白くて笑いを必死に堪えているが、蓮さん越しに俺に気づいた由香里さんが慌てて何かを伝えようと手を動かす。

「蓮さん、この方は由香里さんです。ここで一緒に働いている方です。」

「よ、よろしく。あなた、この子のことちゃんと分かってるのよね。」

その、今までのこと。と言った由香里さんを見て蓮さんは俺を見た。そして微笑むと手を絡ませる。

「勿論です。その上で一緒にいたいと思ったんです。」

その言葉に嘘が無いことが分かった由香里さんは蓮さんに近寄り思い切り抱きしめた。

「ならよし!この子と一緒にいると大変なこともあると思うけど、見捨てないでやってね。根はいい子だから。」

「分かってます。」

その後何故か意気投合した二人の会話についていけず、蓮さんが来たことを伝えようと厨房に入る。

「シェフ、蓮さんが来ました。オーナーはもう少しですか?」

綺麗に掃除された部屋の隅で窓を見てるシェフに声をかける。返事がないままなのでそっと裏に戻ろうとすると

「お前、責任とれよ。蓮と一緒に生きる責任を。」

と言われた。俺は少し考えてシェフの横まで歩く。

「責任はとれません。」

はっきりと声にして伝える。自分の決意と彼女の決意を。俺の言葉が気に触ったのかシェフは一歩踏み出した。シェフが何か言う前に俺が一歩踏み出して言う。

「共に歩みます。」

以上ですと小さく最後に言って裏に帰る。後ろにいるシェフからの圧に負けないように足を動かした。

「あれ、君どこ行ってたの?」

由香里さんと肩を並べて話す蓮さんに、シェフに喧嘩売ってきちゃいましたと言うと爆笑を始めた。唖然とする由香里さんを置いてきぼりにしたまま店の表が開けられた音がする。

由香里さんにフロアへ来ないでとお願いをして蓮さんと二人でフロアに行く。

「徳さん、お久しぶりです。」

「蓮、この前店で会っただろ。素直じゃないんだから。」

蓮さんの横からオーナーに声をかける。

「面接の時以来ですね。本日はお時間いただきありがとうございます。」

小さく頭を下げると手を伸ばされて頭に手をおかれた。それが退くまで頭を上げるのをやめていると、

「ちょっと徳さん。詞葉で遊ばないでくださいよ。」

と手を退かしてくれた。

「いや蓮の言う通り面白い子だね。僕はいいと思うよ。守は?やっぱり嫌?」

何故か勝手に許可の話になってしまい、一緒に住んでいるという報告を言うタイミングを完全に逃してしまう。

「俺は心配なだけです。それなりにこいつのこと見てきて、女関係に誠実だとはどうしても思えないんです。」

「そうだよね。守が思う所ってそれだもんね。それについてはどう説明するの?」

いきなり話を振られ驚きで肩が上がるが、大きく息を吸って落ち着かせる。

「俺は、蓮さんとはしません。二人でルールを決めたんです。キスまでって。だから絶対に身体は重ねません。」

そう言うとシェフは

「お前も男だから分かるはずだ、フラストレーションはどこかで必ず吐き出さなければならないと。蓄積されていくそれはどうするんだ。」

他に相手でも作るのかと、鋭く睨んできた。ただ我慢をすればいいと思っていた俺は何も言えない。言葉に詰まった俺を見て蓮さんが肩に手をおいた。

「別にいいよ。性欲を満たすだけの相手なんて何人いても。相手の子には可哀想だけど彼にとってその子は欲の矛先を向けているだけなんだから。」

蓮さんはそう言って俺の前に立った。守ってくれたその背中に愛おしさが募る。

「君より蓮のほうが随分大人みたいだね。年齢は蓮のほうが年上なんだっけ。良い決心だ。だけどせめて相手はお金を払いなよ。」

考えを変えるつもりがないのかオーナーは観客のように近くにある椅子に座りながら話している。

「蓮の言い分も出揃ったよ。守、どうするの。」

「俺は蓮が悲しまなければそれでいいです。玄さんの事があったから心配なだけで、徳さんが良いなら俺は。」

「守、ここまで僕たちへの誠意を見せてくれたんだ。もう良いだろ。」

オーナーがシェフの肩に手を回し何かを耳に囁いた。その後シェフは渋々と言う感じではあったが俺たちが一緒にいることを認めてくれた。

「よかったね、詞葉。」

「はい。ありがとうございます。」

ほっとしたのも束の間。蓮さんが本題である爆弾を帰り際に落とした。

「シェフとオーナーはまだ残りますか?」

「今日お前が鍵持ってるのか。いいよ、まだ二人で話すことがあるから受け取る。帰っていいぞ。」

ポケットから鍵を出してシェフに渡した。裏口で待っている蓮さんと合流すると、何かを思い出したように蓮さんが中に戻っていった。

「そうだ!徳さん、守さん。私達、一緒に住んでるから。お付き合いはしてないよ。」

やりきったという顔で戻ってきた蓮さんの手を取り走って店から出る。追いかけてくるとは思ってないが、どうしてもあの場からすぐさま立ち去りたかった。

「どうしたの。本題伝えてなかったのを思い出したから言ってきただけなのに。」

「いや、それはいいんですけど。言い方っていうのと言うタイミングっていうのが。なんとも絶妙というか。何と言うか。」

歩きながらぶつぶつと言う俺を見て蓮さんは歩みを止めた。蓮さんが後ろにいることに気が付かなかった俺は数メートルの距離を空けてしまう。

「ちょっと詞葉。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ。」

後ろから大きな声で言われて足が止まる。拗ねていますと顔に書いてある蓮さんに近づいて、顔を合わせた。

「すみません。本当は俺が言うべきなのに蓮さんに言われてしまって少し恥ずかしいんです。恥ずかしいというか不甲斐ないというか。」

「詞葉、もしかして男の自分が言うべきとか思ってるの?だったら考えを改めたほうがいいね。私は男として君といるんじゃない。人として君といるの。だから私も君も対等。どっちがやるべきとか、どっちかの仕事とかないの。分かった?」

蓮さんはそう言って俺の手をとった。

「ほら、帰ろう。」

やっぱり蓮さんには敵わない。最初から敵うなど思ってはいないが、少しでも超えられそうだと思わせないその隙の無さがかっこいい。さっきまでのもやもやはなくなり、街灯に照らされる蓮さんで視界は煌めいていた。

一緒に住み始めて半年後。初めての来客を迎える準備をしていた。

「ちょっと詞葉。それあっち。アリサのだから。」

「ごめん。でも蓮さん、それ要らないよ。」

「あ、持ってきちゃった。ごめん。置いてくる。」

「ありがとう。それじゃあ、そろそろかな。」

家のインターホンが来訪を告げる。玄関にアリサさんとミオさんがやってきた。

「お邪魔します。蓮、やっと呼んでくれたね。ずっと待ってたんだから。」

「どうして呼ばないのよ。アリサと私ずっと行く気だったのに。」

それぞれ蓮さんに言いたいことがあるようで玄関で話している。立ち話もなんだからとリビングに誘導しようとすると矛先が俺に向いた。

「ちょっとあんた。蓮に何かしてないでしょうね。」

「この子に何かあったら流石の私でも許さないよ。」

少し冷や汗を感じたが、これにも対応出来るようにはなってきた。何度もお店に足を運ぶ内に俺と蓮さんの関係が変わったことに気がついた二人には、何度も尋問のように問い詰められている。

「大丈夫です。だってそれは蓮さんが証明できるから。ね。」

視線を送ると蓮さんは少し悩んだふりをして視線を外す。裏切られたのか。

「詞葉が証明してくれないと。私がいくら言っても信じてもらえないよ。」

「えっ。俺が証明するの?」

すると蓮さんが近寄ってきていたずらっ子のような顔をする。ふふっと笑ったと思えば視界は蓮さんで埋まった。

「えっ。蓮。」

「ちょっと!」

蓮さんから、キスされた。驚いて固まると顔を離した蓮さんがニヒルと笑い、唇を舐める。

「これで証明できたね。手を出してるのが私だってこと。」

「ちょっとその発言はまずいと思うよ。訂正しようか。」

肩に手をおいて俺に背を向ける。ほら、と背中を少し叩いて促した。

「私が手を出してるというわけじゃなくて、一緒に手を伸ばしてるって感じ。」

アリサさんとミオさんは大きくため息をついて蓮さんの腕を引いた。そのまま二人に抱きしめられた蓮さんはよくわからないといった顔でされるがままになっている。

「あんたはそういう子だよね。分かってたよ。」

「何かあったら私達が守るからね。」

結局俺には勝てない壁がここにもあった。


柊 詞葉   ひいらぎ ことは

大学卒業の頃就職もせずにひたすらバイトだけをしていたところ、オーナーに目を留められて正社員としてレストランで働くことになった

父子家庭で育った

母親は父親の不倫癖に耐えられず離婚し、家を出ていった

今でも時々父親からお金が振り込まれている時がある

三隅 蓮   みすみ れん

大学で来輝からの虐めが耐えられなくなった時、玄に恋をした

しかし外へ出ることへの恐怖心がなくならないことを徳が心配に思い、自分の店で働くように勧めた

働き初めの頃は一緒にいたが、アリサやミオが入ってからは二人に任せることにしていた

もともと性への興味は人並みではあったが、年齢が上がるにつれそういった動画などを目にしたとき、不快感を感じることがあった

それに加えて来輝のことがあったため、今では完全に拒否反応のようになっている

青山 守   あおやま しゅう

自分の店が持ちたいと専門学校を出たがバイト三昧の日々で、腐りかけていたところを徳に拾われる

初めは見習いとして働いていたが、先代が別に自分の店をもつというタイミングでシェフへ昇格した

緑谷兄弟繋がりで三隅と知り合い、面倒を見るようになる

柊が遊んでいることに関して黙認をするつもりだったが、三隅が関わっていると分かり無視できなくなった

杉浦 由香里 すぎうら ゆかり

最初は主婦としての時間を持て余したためのバイトだったが、働く楽しさを思い出し正社員扱いとして今は働いている

夫とは会社員時代に出会い、寿退社をした

その後夫がリモートワークになったため、お互いの生活に自由時間が増えたことがきっかけて働き始める

柊は生意気な若者くらいにしか思っていないが、一応は心配している

緑谷 徳   みどりや なる

三隅と柊が働くお店のオーナー

結構楽観的な人でとりあえず当人が楽しそうならそれでいいと思っている

緑谷 玄   みどりや はる

故人

三隅が片思いをしてるとき玄には彼女がいた

しかし若さ故か、性格が噛み合わないのか、衝突が絶えない

そんなある日あった喧嘩で傷心してしまい三隅に連絡を入れた

都合よく呼んでいることは分かっていたが、頼りたいと思い浮かんだのが三隅だった

しかし願いは届かず彼女の後ろにいた組織に殺される

彼女が危ない組織の人だということは知っていて付き合っていた

アリサ

ミオの彼氏

ミオ

アリサの彼女

井上 来輝  いのうえ らいき

三隅の大学の先輩

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ