一話、消えた彼女後編
後ろ姿が、ゆっくりと振り返る。
雅之を見て、煩わしそうに眉を潜めた。そこに立っていたのは、その表情は間違いなく咲だった。
アイボリーのスーツにヒールの靴。こんな場所には似つかわしくないが、それは確かに咲のクローゼットから消えたいた彼女のスーツだ。
そうだ……、あの日も咲はそのスーツを着ていた。あの日、咲の会社の前で待ち伏せしたり日も……。咲はそうやって煩わしそうに雅之を一瞥し、艷やかな髪を耳に掛けた。
「咲、お前今まで何処にいたんだ!!、どれだけ探したと思ってるっ、さっさと帰って家の中を片付けろっ、俺の飯を作れっ!!、いや、それより」
腹の底から怒鳴り散らせば、大声とともに涙がぽろぽろ、ぽろぽろと、流れた。夢遊病のように、咲の白い腕へと手を伸ばした。その温もりを感じたい。温かな肌のぬくもりを感じたい……。
あぁ、俺はこんなにも咲を求めていた。愛していたんだ。咲なしでは、日常さえままならない程……。
「帰るぞっ」
そう言って掴んだ咲の腕はぐしょっと気味悪く濡れていた。自分の手もベッタリと粘度の高いもので濡れた。鉄さびのような臭いが鼻を突く。
咲の腕も、自分の手も血塗れだった。顔を上げれば、幾筋も幾筋も咲の顔を血が流れていた。
「…………あぁ、そうか。そうだった、咲はもう」
俺が殺したんだった……。
“あの山道は磁場が狂っている。いや、狂っているのは磁場ばかりではない。恐らくは時間の流れが狂っている”
“その道で人は過去に、或いは未来に邂逅する。会いたい人に、会えるかもしれない……”
咲はもう、死んでいる。ここにいるのは過去の咲だ。
「違うっ、違うっ、違うっ、俺は殺してないっ。ただ、教えてほしくて……。どうして、お前が出ていったのか」
「殺されそうになったから、逃げたの……」
ぞくっ、と身体が震えた。
血の気を失った白い唇が小さく動き、鈴の鳴るような声が無感動に響いた。まるで幼女のような声。その身体は、その表情は確かに咲のものだ。だが声は咲のものではなかった。
「殺すはずがないだろうっ、俺が、お前にっ!、そんなことするはずがないだろうっ。お前が馬鹿なことをしなければっ」
絶叫した。
喉から血を吐くのではないかと思うほど叫んだ。けれど咲はいつも通り、冷淡に雅之を見返した。
「私はあなたに、殺されたの」
「違う、違う、違うっ、俺はお前を愛していた。お前だって、俺を愛していたよなっ……?!」
すがる思い出の中の咲はいつも笑っていた。俺の後ろを子犬のようについて回る。俺といられるだけで、嬉しくて仕方ないと。
表情の乏しかった咲の顔が、血に濡れた髪の向こうで嗤った………。
…………
「咲、元気にしている?、そっちの状況はどう?」
「うん、学校と部屋の往復で1日が終わってる。本当は近くのスーパーとか、カフェとか探したいんだけど」
まだそんな余裕なくて、と電話口の声は笑った。咲の声は明るく生命力に富み、溌剌としていた。彼女は今、カナダに語学研修に出かけていた。何年も準備を重ねて、ようやく狭き門である社内の語学留学のチャンスを掴んだのだ。その努力と熱意をそばで見ていただけに、自分のことのように嬉しかった。何よりも嬉しかったのは、この語学研修を機に、咲がやばい同居人との縁をきっぱりと切ったことだ。
「ところで、アイツそっちに行ってない?」
「来たよ?、咲の婚約者だとか言って、電話かけてきたり、会社のエントランスの前で待ち伏せしたり、受付にズカズカと入ってきちゃったり」
「うわぁっ、マジで?」
電話の向こうの声が悲痛に響いた。まるで身内の恥を嘆くように。
「いいの、いいの。咲は気にしない。もう警察にも相談したって言ってたし。受付の子、咲は退職したと勘違いしてたみたいで、先日辞めましたけど、って言っちゃったらしいけど、かえって良かったかなって。けどアイツ、自分のこと咲の婚約者って言ったらしいよ、」
美紀は録音された雅之の怒鳴り声を聞いていた。
『お前のせいで俺達の結婚が破綻になったらどう責任を取るつもりだっ。訴えてやるっ、損害賠償を請求する、機械みたいな声で喋りやがって、女のくせに!!、お前本当に○○○ついてるのか』
その後も聞いている方が恥ずかしくなるような陳腐な罵声を繰り返したが、電話の相手が男性に代わった瞬間、一気に声が小さくなって、モゴモゴと聞き取れなくなった。
『この会話は録音されている。警察に業務妨害と脅迫にあったとして相談する』
部長はそう言って電話を切った。
美紀は自分の声に冷笑が浮かぶのを自覚した。咲と雅之とは大学時代からの友人だった。どちらかと言えば冴えない学生だった雅之を、咲はそれでも向上心のある人、と見初めて自分から告白した。女に免疫のなさそうな雅之は有頂天になって交際はスタートした。
多分この頃は本当に、咲は雅之を気に入ったいたんだろう。けれど就職の時点で咲と雅之にははっきりと差が開いた。つり合わないな、と周囲は思い始めていたが、それでも二人の交際は続いて、大学を卒業して数年後、同棲を始めた。
結婚を前提にしているのだと、友人達の間では思われた。けれど、咲はまさか、と苦笑した。
その頃から咲の口から語られる田中雅之の生態はヤバ過ぎだ。二人が借りたマンションは都内でそこそこ利便性のいい場所だった。咲には難なく払える額だが、折半とは言え雅之には少し荷が重いのではないかと思った。だが、雅之がそのマンションを気に入り譲らなかったという。さらに賃貸の名義は自分だと主張したと言うから面白い。
案の定、家賃や家計は完全に折半でありながら、家事は一切しなかったという。男女平等の世の中なのだから、生活費は完全折半、だが家事は女の仕事だと同じ口で平然と言えてしまう程に雅之は馬鹿だった。
その話を聞いた大学時代の友達は、男でさえ失笑した。ほら、不器用な奴ってとことん不器用だから。仕事できないやつって、マルチタスクの塊みたいな家事って難しいんだよ。馬鹿だよな、結婚もしてないのに亭主関白気取りかぁ。
別れちゃえば、と周囲が言うと、咲は困ったように笑った。
『あの人、散々怒鳴り散らしたり、物に当たったりするくせに、私が少し言い返すと、しゅんと小さくなって、しまいには泣き出すんだよね。別れるなら死んでやる、とか言うの』
『ねぇ……、それいよいよヤバイよ。手伝うから別れなよ』
『……うん』
ようやく咲が頷いた。それが社内で語学研修に選ばれた時だった。友達数人で咲の荷物を運び出し、そのまま大切なものは実家に宅配便で送った。咲はそのまま、出発の日までビジネスホテルに泊まって過ごした。高くついただろうけど、でも、多分正解だった。
「こうなると、賃貸とか、共通の口座とか、全部雅之名義にしておいて正解だったな」
「本当に。籍入れてなくて大正解だったね」
「まあ、結婚する気はなかったんだけどね。元々」
「だよね……」
それはそうだと二人で笑った。
その後ろで朝のニュースが流れ続けていた。
「〇〇県、○×市の県道沿いにある、自然公園の山中にて、男性の遺体が発見されました。遺体の損傷状況から、熊のような野生動物に襲われた可能性が高く……。要請を受けた猟友会が……」