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狂った道  作者: 白槻
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一話、消えた彼女

 その山道は磁場が狂っているのだという。

 富士の樹海が磁場の狂った土地として有名だが、その山道も溶岩の上に出きた為に、地中に磁鉄鉱を多く含み、方位磁針に狂いが生じるのだという。

 デジタル時計の表示は狂い、アナログ時計の針は逆行したと言う者もいた。あの山道は磁場が狂っている。いや、狂っているのは磁場ばかりではない。恐らくは時間の流れが狂っている。

 知る人の間では、ちょっとした有名な場所だ。雅之にこの山道を教えてくれた人はそう言った。


 その道で人は過去に、或いは未来に邂逅する。会いたい人に、会えるかもしれない……。


 

 

 雅之は早朝に都内のマンションを出発すると、電車に乗り、他県でレンタカーを借りた。ナビを頼りに国道を走り、目的地にほど近いパーキングに車を停めた。その近くのコンビニでペットボトルのお茶とおにぎり等を買った。登山用の本格的なリュックサックなど持っている筈もなく、トレッキング用の靴もない。ジーンズにスニーカー、斜め掛けのバックという軽装で、その山道にやって来た。


 想像していたよりも深い山だとは思ったが、アスファルトで舗装された道が続くことは、あらかじめ調べていた。道通りに歩けば、どれほど急勾配が続こうとも、木々が道を覆うように枝を伸ばしていようとも、迷うことはない。そう楽観していた。


 木々が呼吸していることを感じさせる湿度の高い空気が、舗装された道にも立ち込めていた。まるで通り雨の後かのように、息苦しささえ感じさせるほどの湿気だ。立木の下に繁った熊笹の向こうは昼間でも薄暗く視界が悪い。しかし、その向こうには確かに生き物の気配がした。雅之は既に少し後悔していた。今年は関東でも異常なほど熊の出没が相次いでいるという。出くわさなければいいが……。それでも雅之には引き返せない理由があった。

 

 酷い目に合わされた。

 同棲している女がいた。同い年の同じ大学出身の女だった。就職して2年で、同棲を決めた。結婚を前提にしていた。いや、後は籍を入れるだけの状態だった。


 しかし、ある日取引先のお得意さんと飲んで帰れば、マンションから彼女の姿は消えていた。最初は何が起こったのか解らなかった。ただ、ダイニングのテーブルに残された一行きりの書き置きを見れば、事件に巻き込まれた可能性はなかった。見慣れたその字は、間違いなく彼女の筆跡であった。彼女の私物の一切が無くなった部屋にそのメモだけが残されていた。


 家賃を折半していた為に、直ぐに支払いが厳しくなった。雅之は引っ越しを余儀なくされたが、引っ越し代金も、新しい部屋の敷金礼金も、完全に予定外の出費であった。分担していた家事も一人の手にのしかかり、激務で疲れ果てた身体と精神をさらに疲労させた。


 なぜ、なぜ……、なぜ咲はいなくなったのか。

 それは、過去には言い合いの一つや二つはあった。けれど咲が出ていく直前は、むしろ喧嘩もなく穏やかな時間だった。結婚するつもりだったのに。何故彼女は、あんな仕打ちを……。


 雅之は慣れない急勾配が続く道に呼吸を乱し、脚をもたつかせた。それでもグッと手を握りしめ、脚を進めた。彼女は何も言わず、ある日突然去っただけではない。とんでもない言いがかりを雅之に残していった。


 DVの被害にあっている。

 彼女は大学時代からの共通の友人達にそう吹聴していたのだ。


 雅之は咲が出ていってしまってすぐ、彼女の勤め先の会社に連絡した。白崎咲の婚約者であると。けれど電話に出た事務員の声は素っ気なく、社員の個人情報は一切お答えできない。電話にも取り上げない、の一点張りだった。雅之は滾々と自分が彼女と生計をともにする婚約者であり、近々結婚する予定であることを説明し、彼女に取り次いでくれるように頼んだ。それでも電話口の女の声は淡々として、お答えできない、と繰り返した。

 

 仕事の忙しさに、このところ運動不足が続いていた。脚は程なくしてパンパンに張ってしまった。道沿いには木々に埋もれるように、小さな東屋が建っていた。雅之はそこまで歩くと、崩れるように木製のベンチに腰を下ろした。ぬるくなった緑茶は清涼感を与えてくれることはなかった。それから買ったおにぎりを胃に流し込む。味気ない食事を取りながら、雅之はこの山道を教えてくれた男のことを考えていた。



…………

 その男は仕事の取引先で、雅之より一回りは歳上だったが、気が合い贔屓にしてくれ、プライベートでも飲みに誘われることがあった。


「その山道で未来の結婚相手の姿を見た、まだ産まれていない娘の姿を見た。或いは死んだ母親の姿を見たと言う者もいたそうだ」

「女性の姿を見た人が多いんですね」


 何気なく雅之がそう言うと、その男性はよくぞ気が付いたと大きく頷いてみせた。


「さすがだな、君は。本当に良く気がつく。

こういう話は察しの悪い愚鈍な男でも、見識のない女も駄目だ」


 そんな褒め言葉に気を良くして、雅之は聞きかじりの知識を披露した。


「山の神は女神なんだとか。そのせいですかね、出逢う人が女性ばかりなのは」

「私もこの話を人から聞いたとき、君と同じことを思った。だが山の神は女神だが、美しい乙女ではないんだ。容貌が醜いばかりか、それ故に嫉妬深い。だから山の神を祀るところは女人禁制だ」


 雅之はなるほど、と頷いた。女神でありながら醜女だというのは意外だが、同時に面白いとも思った。


「女神と言えば、それだけで美しいものを想像しますけどね」

「自分の嫁さんのことを、かみさんと言うだろう? そのカミさんの語源は山の神だという説もある。妻の嫉妬深さと、山の神を怒らせると、大きな災害をもたらすことから、結婚後に口やかましくなった妻のことを言うんだ」


 雅之はははっと声を上げて笑った。酔いも手伝って、思わず手まで叩いた。


「なるほど……、日本のカミさんは口やかましく、怒らせれば災害を呼ぶ、か。西洋の美の女神とは程遠い訳だ」


 大きな笑いの波が引くと、手にしたグラスを口に運んだ。空気のような笑いが漏れる。確かにその通りだ。


「君はこんな話とは無縁だろう。結婚の予定は?」

「同棲してる彼女がいるんですけど、結婚なんてとてもとても……。既にカミさんですよ」


 同棲を始めてからというもの、妻気取りなのか、とにかく口喧しくなった。家事を手伝わない。部屋を汚す、と兎に角うるさい。


「女は愛嬌だ。結婚前からそんな態度なら、さっさと乗り換えて若い素直な子を探したらいい」

「ですね……」


 その時は、本当にそう思っていた。別れても、いいかもしれない。けれど、次が見つかってからだ。

 

 彼女と同棲していたマンションに帰り、玄関を開けたとき、微かに違和感を感じた。電気は一切ついておらず、部屋は静まり返り、冷え切っていた。


 雅之は不機嫌さを隠さずに舌打ちした。電気もつけず、エアコンもつけず、自分だけさっさと寝てしまったのだろうか。後から帰って来る相手のことも考えない、気の利かない女。乱暴に鞄を投げ、ズカズカと廊下を歩く。寝室の明かりをつけて、雅之はようやく異常事態に気がついた。やけに、部屋の中が片付いている。

 嫌な予感に突き動かされ、クローゼットの取手に手を掛けた。引き開けてみれば、彼女の服がごっそりと消えていた。仕事用のスーツ、鞄、私服、礼服、全て。彼女の物は何もなかった。玄関に取って返し、靴箱を開けて、冷や汗を流す。そこに彼女の靴は一足もない。もちろん、玄関にも。


 ない、何も無い。彼女のものと呼べる物は何もなかった。家具や家電製品は何一つなくなっていない。けれど、彼女の私物は一切、何も、無い。そしてダイニングのテーブルに一枚、ノートの切れ端が残されていた。適当な字で一行。


 限界、さようなら。


 出ていった……?

 まさかっ、


 雅之は自分を奮い立たせるように、鼻で笑った。まさか、咲が自分を振るはずがない。咲から告白してきた。好きだと言って、付き合ってほしいと言った。同棲すると決めたときだって、あんなに喜んで……。


 直ぐ様電話することもできた。ラインして、メッセージを送ることも。共通の友人に連絡することも。


 けれど時刻は既に日付を超えていた。慌てふためいて友人に連絡して恥をかくのはまっぴらだった。何故自分が右往左往しなくてはならない。咲なら放っておけば帰って来る。だって、あいつは俺に惚れているんだから。

 けれど夜が明けても咲は帰ってこなかった。寝不足の頭で、最悪の気分で出勤する羽目になった。そして、その日も咲は帰ってこなかった。

 ならばと、その日は仕事を休み、彼女の会社の前で待ち伏せた。


………


 思考の沼に沈みかけたとき、鬱蒼とした木々がざわり、と動いた。突然突風が吹きぬけ、息苦しい程の淀んだ空気を動かした。横髪が目元や頬を叩く。思わず顔を背け、目を硬く閉じた。風の通り過ぎた気配を感じ、ゆっくりと目を開けば、眼の前に一人の女がいた。一瞬、山の神かと思った。けれど違った。


「咲っ、」



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