表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

女という生き物について

作者: 国澤茂雄

プロローグ


男には女の事は分からない。永遠の謎である。女にも男の事は分からないだろう。異次元の生物のように。もしこの中間に両生物の事がわかる存在があるとしたら面白いではないか。それは両生物を創造した”神”だろうか。所詮それは想像の産物に過ぎないのだが。

考えてもみて欲しい。もし女のいない男だけの世界があったとしたら一体そこでは何が起こるのだろうか。殺伐とした世界の中で殺し合いが始まるのではないだろうか。その意味では女は必要悪ではあるがなくてはならない存在なのだ。

それでは男にとって謎多き女という生き物の探索を始めてみよう。



1.恋愛は錯覚なのか


恋愛は錯覚だとかのフランスの恋愛作家のスタンダールは言った。

彼の小説の中に描かれる女という生き物はその代表的な著作である「赤と黒」「パルムの僧院」の中でも如何に可愛らしく、美しく、小狡く、策略家であり男を魅了して止まない存在であるのかを物語っている。男は決して女には勝てない存在でありその愛を得る為に生命を落とす事も厭わない生き物なのだと。恋愛は錯覚ではないかと疑い始めそれがほぼ真実だと悟ったのは自分の場合は随分年を重ねてからであり女にも恋にも興味がなくなってからだった。


ただそれが事実であるのか錯覚なのかは世の中には全く関係がない事なのだ。なぜなら例え一人の男が人生の終焉にそれを悟ったとしてもそれが次に引き継がれる事はない。

男はその生涯を終えその次の世代が全てを初めからスタートする事になるのだから。一人の男のマスターした言語がその子供に引き継がれる事がないように。

全てはリセットされ又初めからスタートするのだ。


思春期にどんな家庭環境に育ちどんな本を読むのかがその後の女性観を培う上で決定的な違いを生むことになる。何をその時期に考えて過ごしてきたかがその後の人生に大きな影響を与えることになる。親にも構われず友達にも恵まれず不登校になり社会から断絶状態になっている者もあれば、母子家庭に生まれ経済的にも恵まれず厳しい状況の中で苦労しながら勉学している者もある。又はごく普通の家庭環境で両親の愛に育まれ見守られながら友達との学校生活に溶け込んでいる幸福な者達もいるだろう。

社会は決して公平には出来ていない。自分は一体この思春期にどんな生活環境に置かれ過ごしているのかを考えてみると感慨深いものがある。

それによって自分の恋愛観も大分違った景色にあるはずなのだから。



2.初恋は小3の時の三角関係から始まった。


それではかく言う自分はどのような家庭環境に育ったのか。

幼少期は渋谷区広尾の日赤病院の防空壕跡の穴倉やその周辺の野原で遊んでいた様な記憶がある。

その近くには有栖川宮公園があり丘の中の小川のせせらぎでのめだか捕りや蜻蛉を追い回していた。

その頃の住居は日赤病院近くの商店街の一角の借家で両親、祖父母が菓子の製造販売をしていたがそこに大手銀行の恵比寿支店が出来るので地主から立ち退きを求められ幾許かの立退料を得て小学3年の途中で豊島区東長崎町に引っ越した。

そこは西武池袋線の池袋駅から2つ目の東長崎駅から歩いて5分程にある立教通りに面した一軒家の借家であった。家業は菓子の製造業で父親を頼ってくる北海道の親族を中心にした同族経営の住居を兼ねた小さな町工場であった。


小3の途中から通ったのは東長崎小学校で転校生としての生活が始まり隣の席には初恋の相手になった中瀬美喜子がいた。その少女が側にいるだけでそわそわと落ち着かず胸のときめきを覚えるのであった。こんな気持ちになったのは初めてだ。こんな感情は今までにはなかった。その美少女の顔をみるだけで顔が赤くなり胸がドキドキするのはなぜだろう。自分は転校生でありその途中からその教室に入ったのだがこの少女には既にとても親しい男友達がいた。

二平満という笑顔の絶えない優しくて頼りがいのありそうな自分にとっては全くの恋敵であった。この男子と中瀬美喜子が親しげに話しているのを見るとざわざわと胸が苦しくなった。なぜ小3の初恋の相手とその時代背景、その時の自分の気持ちを鮮明に覚えているのだろうか。

これが人生にとっての異性との繋がりの原点だからだと思う。これ以降も数限りない異性との出会いと別れを繰り返していくのだがこの様な鮮明な記憶としては残る事は少なかった。


この中瀬美喜子と二平満を交えた三角関係はその後彼女の父親の仕事の関係で5年生の半ばに名古屋に転校する事になり終止符を打つことになる。

彼女は駅の近くにある大きな屋敷に住んでいて大きな銀行の支店長という偉い人だと子供心に聞かされていた。その彼女がいなくなった。

その後彼女との接触は全く途絶えたがある時共通の友人からの知らせで消息が分かり懐かしさも手伝って連絡したら2人で会う事になった。

新宿歌舞伎町のとある喫茶店で会った。「私は今は昭和女子大学にいて全共闘の中で学生運動をしてるの。あなたも良かったら参加してみませんか。」

こちらは1浪して都内の私立大学に入学し初恋の相手との再会に胸躍らせて新調した黄土色のブレザーに茶系のズボン、ブルーのネクタイを締め期待に溢れてデートに臨んだ。その時の相手の服装は暗褐色のくすんだジャンパーにジーパンでヘルメットこそ被っていなかったがおよそ女子がデートに臨むような格好ではなかった。この落胆と失望は一体どこから来るのだろうか。

「本当に久しぶりだね、こうして会うのは。今までどうしていたの。」これに対しては延々と学生運動とその正当性について語るのであった。

「あのね、あなたの言いたいことは分かるけどみんながみんな同じ考えだとは限らないよね、自分は学生だけど家業を手伝いながら働いているし。あなたはどうなの。親から学費出して貰ってアパート暮らしの家賃も親から貰っているんでしょ。それで良く自主独立だ、学生運動なんて言えるもんだね。」これは相手の痛いところを突いたのかその後勧誘は止まりお互いに気まずい思いをしながら別れ二度と会う事はなかった。

初恋の大事な思い出は玉手箱に入れて再び開いてはならない。その結果は会わなければ良かったという後悔しか残らないのだから。



3.中学時代は羽ばたく前の雌伏の時


中学は豊島区の自宅から最寄りの学区内にある千早中学に通っていた。

その頃は一部の学生達による暴力の嵐が吹きすさんでいた。それは中学2年の頃だったか2,3名の生徒が竹刀をかざして校内の廊下の窓ガラスを叩き割りながら闊歩していた。知らせを受けて職員室から飛び出して来る教師もなくただじっと嵐が過ぎ去るのを待っているようだった。

その竹刀を振りかざしていたのは商店街の外れに居を構える清水一家という縁日の的屋を纏めるやくざの親分の次男坊だった。

その時には自分は義務教育とはいえなんでこんなレベルの低い学校にいるのだろうという情けなさで次はまともな高校に行こうという思いだった。

これには続きがあり修学旅行の奈良に行く車中の中でこの清水一家の次男坊から呼び出され教師に伝えたら「行けば殴られるか、騒ぎになるのでここにじっとしていなさい」と他の教師達が固まっている中で言われた。仕方なくそうしていたが呼び出された理由はどうやら、次男の子分から大分前に男子トイレの前に来るよう言われたので行くといきなり殴り掛かられ応戦して返り討ちにしたのを根を持たれたらしい。要は相手の方が弱かったのであった。


どうも中学時代は碌な思い出はないが楽しい事も幾つかはあった。中国歴史小説の”水滸伝”を読み始めたら面白くて途中で止められなくなり3日3晩読んでは寝てを繰り返し3日間学校を休んで読了した。身体は人並みにがっちりしていたがスポーツに興味がなくそれでも走るのだけは早かったので運動会にはリレーの選手として駆り出されていた。

他に興味を持ったのは生物でヒットラーという渾名のちょび髭を生やした東大理学部卒の噂のある教師に気に入られ授業の下準備の手伝いをさせられた。その時に習った授業の内容は良く覚えている。A型、B型の両親からは何型の血液の子供が生まれるのか。美男、美女とか背が高い、低いとかの外形に関わる遺伝子は父親から授かり頭が良い、悪い、胃腸その他の内臓器官の好不調は母親の遺伝子によるものだと。もし自分がハンサムで頭が良ければそれは頭の良い母親がハンサムな父親と結婚した結果という事になる。

音楽関係はからっきしダメで音感もなさそうでいわゆる音痴の部類に入った。ただ一度音楽の中間試験の時に運命、第9の作曲者は誰の問題が出て”BEETHOVEN”と書いたら「私は永い間音楽教師をしてきたがベートーベンを原語で書いた生徒は初めてだった。」これは多分自分の事かなと思った。この様に中学生としては一風変わっていて英語と国語以外の学科には殆ど興味がなく次の高校受験では苦労する事になった。



4.高1で高3の女子生徒に恋をした。


高校生活の憧れは人並みにあった。ただ実生活では学区内の都立学校への入学が現実的な選択であり都立T高校に入学した。

この高校は女子には特異な学校で旧制の府立第十中高女と言えば名門校で下手な短大や女子大を卒業するよりは余程ネームバリューがあった。

ただ学制変更で途中から男女共学になりその分男子生徒には馴染みが薄く受験校として有名でもなければ野球、サッカーに強いスポーツ校でもなかった。

それでも1学年400人の生徒の内女子が250人、男子150人という構成はどんなに持てない男子でも1人位の女友達は出来るのではないかという淡い期待と夢を抱かせるには充分な環境であった。


入学して早々に2歳年上の3年生の女子生徒に恋をした。その一挙手一投足にまで気になって校舎の中庭のベンチに座り友達と語り合うその姿を見掛けただけで胸は高鳴った。無論話し掛ける事も胸の内を打ち明ける事も叶わず時間だけが過ぎて行った。中庭にはテニスコートがあり彼女は庭球部の部員として友達と白球を打ち合う姿やベンチに佇み語り合う姿はただ眩しかった。黒目がちの瞳はあくまでも大きく睫毛は長く身体も華奢というよりはスポーツを好むに相応しい健康的なバランスの取れたスタイルをしていた。告白もままならずそれでも時間は待ってくれずにその相手はやがて卒業して行った。遠くから好きな相手を見守っているだけの焦燥感は募り胸にはもやもやした思いを遺してその恋は終わった。一つにはいくら憧れていても1年生の男子を3年生の女子が相手にするはずがないという劣等感と諦めが先立ち話し掛ける勇気が湧かなかった。自分にもそのような時期があったのだ。


後日談として自分が大学入学後にどうしてもその記憶が頭から離れずに勇気を奮って彼女の家に電話したら家人が出て本人に取り次いでくれ話す事が出来た。

「高校に入学してからあなたの事をずっと思っていました。ただ2歳も年上なので話すこともできないでいました。今度大学に入学したので一度ご都合の良い時に会って頂けないでしょうか。」

いくつかの言葉のやりとりの後彼女の会社の帰りに池袋の喫茶店で会うことになった。彼女は卒業後進学せずにすぐにそのまま三菱商事に入社後数年が経過していた。こちらも大学生になり万が一にも再会して交際が始まる可能性も夢見ていたが話してみると相手は全くの社会人の大人の女性でこの人と付き合うのはとても無理だと断念した。彼女の名前は渡部明美というのを懐かしく思い出したが彼女にしてみればこのままにしておくと煩いので一度会って諦めさせようという気持ちで来てくれたのかも知れない。これも又ほろ苦い失恋の思い出であった。



5.高2のクラスには魅力的で背徳的な男子生徒がいた。


さて外での話を始める前にT高校のクラスメート達とはどのような繋がりがあったのだろうか。 

高2の高校生としては大学進学に向けて受験準備に忙しく学ぼうとする学生と進学には何の興味も示さず高卒を前提として我が道を行こうとする学生がいて何の不思議もない。クラスはいくつかのグループに自然に分かれていた。


その中で自分が興味を持ったのは大学進学組ではなくクラスの学生達を斜めの視線から眺めている様な上背のある瘦せ型でニヒルな顔立ちの小松田という男子学生であった。世の中に女に持てる男がいるとすれば真面目からはかけ離れた半ば不良学生に近いイメージの今もどこかの女子と同棲でもしているような雰囲気の男であった。この男には女に関しては敵わない。持って生まれた男としての魅力に及ばない。

それは大学進学が約束された様な優良学生には持ちえない半ば退廃的な男の魅力であり不良好みの女子には耐えられない存在だったと思われる。

そんな男に惹かれて近ずきたく幾度となく話し掛けても「僕のような不良には近ずかない方が良いよ。」と拒否されてしまう。小松田は結局大学進学はせずに紆余曲折を経て大分後に新宿周辺で自ら経営する喫茶店のオーナーになったと聞いた。

彼の外見からのイメージは昔の太宰治タイプだっただろうか。但し彼は玉川上水で入水自殺を図るようなタイプではなかったが。



6.一芸に秀でた才能の仲間たち


豊島区T高校の女子250人、男子150人の環境の中で男子生徒はハーレム状態にあったかといえば状況はむしろ逆で女子は女子で塊り男子に興味を示す事は殆どなかった。そうなれば女子に関しては外にその対象を求めるか、勉学については個人で取り組むしかなかった。

受験勉強というより普通に授業を受けていればどこかMARCH位は受かるはずで早慶の難しさは全く分からなかった。大学別の赤本を買って机の上に置いてあったがそれだけで真面目に受験勉強はしなかった。それでも英語と国語は自信があったものの他の科目は全く関心がなく加えて将来何をやりたい、何になりたいというビジョンはなかった。


そのような環境の中で様々な個性を持つ生徒たちがいたが特に興味を持ったのは丘田という北海道から転校して入学した時には高1の新入生の中でも3歳年上の男がいた。彼は英語に関しては生き字引のような男で「研究社 新英和中辞典」を全て丸暗記している様であった。その風貌は北海道のアライ熊の様にがっちりした体躯で眼鏡を掛け他人を寄せ付けない威圧感があった。

その丘田がなぜか自分とは席が隣り合わせだったこともあり好意的に接してくれ英語についての様々なアドバイスをして貰った。


兄貴は東京外大の中国語学科の学生で絶対的な敬意を払っていた。彼がなぜ3年遅れでT高校に入学してきたのかについてはいくつかの噂があったが一つには私立高校の卒業間際に教師と口論になり殴った結果退学処分になったらしいという話もあった。

彼はその後専門学校を卒業して建設関係に進み成功したと人伝てに聞いたが英語という専門科目については間違いなく外語大レベルにあった。

他には中1の時に大学の数学の教科書を解いている友人がいたが父親が高校の数学教師で数学オリンピックにも参加出来そうなレベルであった。彼もその後専門学校に進み大手病院の事務局長として活躍したと聞いた。今でこそ一芸に秀でた学生ははその特技を生かした特別な入学制度を設けている大学もあるがその頃は未だなかった。彼らの為にその才能を伸ばす機会が他の大学にあれば又違う人生を歩んでいたかも知れない思った。それが良かったかどうかは別にして。


こうした環境の中で自分はクラスでは少し浮いた存在ではあったがじっと勉学に明け暮れるタイプではなくせっせと好きな日本文学、海外文学を読み漁り週末には新宿の歌舞伎町を舞台に街頭活動(女子への声掛け)をし青春を謳歌していた。



7.頭の中で創造される美化された女性像


多感な思春期のこの時期に至るまでどんな作家の作品を読んでいたのだろうか、作者の数ある作品の中で代表作の1作品だけを挙げてみたい。

有島武郎「或る女」、夏目漱石「それから」、森鴎外「舞姫」、島村藤村「破壊」、志賀直哉「暗夜行路」、山本有三「路傍の人」、太宰治「斜陽」

芥川龍之介「藪の中」、永井荷風「フランス物語」、スタンダール「赤と黒」、ゲーテ「ファウスト」、トルストイ「戦争と平和」、マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」

ヘルマンヘッセ「車輪の下」、ウォルト・ホイットマンの詩集「草の葉」

これらの作家の作品を読んでその行きつくところは女性の美化、大げさに言えば神格化であり美しく弱い存在の女性に尽くし守るのが男子の努めでありスタンダールの「赤と黒」の

ジュリアン・ソレルがレーナル夫人とマチルド令嬢を崇拝しその愛を貫こうとした行為になる。


実生活では自分の理想とする想いとの乖離が大きく高2の同じクラスの女子達は余りに幼く恋愛の対象にはなり得なかった。

類は友を呼ぶ如く同じクラスに同じような考えの異性に強い関心を持つ水津野という男子生徒がいた。クラスの青臭い女子には興味がない。あるのは一歩外に出た大人の女子達だった。

水津野は男にしては長い睫毛の目元の優しいハンサムボーイで背は高からず低からずどちらかと言うと大人しい控えめな性格であった。その水津野と誘い合わせて学生服から私服に着替えて新宿の街に繰り出したのは高2のいつ頃からだろうか。自称大学生と言うからにはそれなりの身なりが必要で初めての外出時にはブレザーに紺のウールのパンツ、茶色の革靴で整えた。土日のいずれかの夕暮時に2人の内どちらかが相手を誘っている時は遠巻きにその様子を見ている。そんな試みが初めから上手く行くはずもなく初めの何回かはお互いの観察だけに終わり2人で諦めて帰宅するのであった。それを繰り返して行く内に言葉もスムーズに掛けられるようになり喫茶店について来る女子もぼちぼちと出始めた。

初めはどんな言葉を掛けたのだろうか。「失礼ですがお時間があればお茶でも如何ですか。」から始まり「綺麗な方ですね。余りに綺麗なのでびっくりしました。自分は大学生ですがもしお時間があればお話したいのですが。」に変わるのにそう時間は掛からなかった。女子は「綺麗ですね。」「美しい方ですね。」という言葉には弱いのだ。

なぜならそもそも人は男女を問わず他人から褒められたいという欲求を持っているのだから。



8.初めての相手との思い出


誰にでも初体験というのはあるものだ。 高校生の自分にとっても人生で未だ体験していない事はあった。外に出て大人の女性に話し掛けてみるもののこちらは口先ばかりで何の経験もなく好奇心の塊だけの高2の男子学生であった。

それが幸運であったのか不運であったのか今となっては分からないが初めて巡り会った相手は都内のスナックに働いている女性であった。


なぜ見るからに頼りない若者の男の誘いにこんなに綺麗な大人の女性が付き合ってくれたのかその理由は分からない。単なる気まぐれか好奇心かも知れない。

こちらとしては新宿歌舞伎町のその頃の同伴喫茶という小さな個室のある喫茶店に誘いそのまま付いて来てくれたのが不思議だったがそこでの時間を夢中で過ごした。

やがて終電車の時間も迫って来ていたので「今日はもう遅いのでどこかに泊まりませんか。」と聞いたら頷いてくれた。歌舞伎町から新大久保の一帯はラブホテルが連なっていて相手の気持ちが変わらない事を祈りながらそこから一番近いホテルに飛び込んだ。その夜の出来事について語るのは忍びないがそれは想像に任せるとして初めて無断外泊をして翌朝自宅に戻ると父親が折悪しく外で洗車をしていた。一目こちらを睨みつけると「余り無茶苦茶をするなよ。」と大きな声で言われそれで終わった。高2の息子が初めて無断外泊をして帰宅した時に発する言葉としては当然でありむしろ穏やかに過ぎたかも知れない。


その相手の女性は自分の名前も勤め先のスナック名も語らず唯一池袋で働いているという一言を一夜を過ごした相手に遺して朝の歌舞伎町に消えて行った。

その夜の出来事が何を意味するのか分からなかったが時間が経過するにつれて何か途方もない大事なものを失ったのではないかという喪失感が日毎に膨れて行った。

後でその事を幼友達に話した処「君はその後その女性を探し求めて池袋中のスナックを歩き回っていた。」と聞いた。そんな事が数か月も続いたのだろうか。

男にとって初めての女性と言うのは初恋と同じくとても忘れ難い特別な存在なのだ。



9.学校で満たされないものは外に求めよう。


都立高としては進学校ではなかったにせよ当然大学進学を目指す学生はいた。中には東大法学部、早稲田法学部を目標にすると公言する強者もいたが自分たちのレベルが奈辺にあるのか皆目分からなかった。それは自分も同じで家庭の経済的状況からすれば進学を諦めるか学費の比較的少なくてすむ国立大学への進学が最低条件であった。ただそれはあくまでも家庭の事情と外部状況であってこちらの関心は如何に女子に持てて楽しく毎日を過ごすかにあった。平日は真面目に授業に参加し週末になると水津野と2人で新宿歌舞伎町界隈を徘徊した。こちらはもう既に初体験の洗礼を受けた立派な男子である。怖いものは何もない。ブレザーを着れば大学生と語っても何も疑問を持たれる事はなかった。「水津野、俺は右側の痩せた背の高い方に行くからおまえは左側の小太りの方に声を掛けろよ。」「分かった。」左右を挟み込むように話し掛ける。彼は同志であり戦友であった。


2人ずれの女子の成功の確率は決して高くはない。なぜなら女子は瞬間に男子を観察しどちらか一方が自分の好みに合わなければ即座に”No”のサインを相方に発信する。益して2人の内1人が美人で片方がそうでない場合は、なぜかそのケースが殆どだが、美人がその決定権を握っている。美人はそのパートナーに決して美人を選ばない。なぜなら自分と一緒にいる時の引き立て役を選ぶのだから。

選ばれた相手はそれを分かっていながらこんな綺麗な人と一緒にいられるなら幸せだと思う。それ故にそのオファーを断ることは決してない。かくしてその2人連れが成立するのだ。偶に例外的に2人連れの美人がいたとすればそれは姉妹と思った方が良い。こうした経験を積みながら2人連れを誘う事はなくなり各々が気に入った相手に話し掛けるようになった。2人の新宿放浪記はこうして卒業間際迄続く事になった。



10.新宿の街頭で外人相手に英語力を磨く


新宿での街頭活動にはもう一つの目的があった。それは男女を問わず外国人に話し掛けて英語の会話力を磨く事であった。新宿に限らず都会にはツーリスト、米軍基地関係者、学生等が街を歩いているのでまずは話し掛けてみる事から始めた。話は中学時代に遡るが家の近くに津田塾大の英文科を卒業したおばあさん先生がいて誰かの紹介で中1からその塾に通うようになった。言われた通りに真面目に勉強していたが中2から自分の姪だという慶大文学部英文科の現役生に先生として見て貰えるようになった。その若くて美しい先生に褒められたい一心で夢中で勉強した。自分の参加したクラスには他に生徒がいた記憶がないので個人レッスンであった。モルモン教の日曜礼拝の後の英語教室にも通い詰めた。NHKのラジオ講座の基礎英語(松本亨講師)を言われるままに聴講した。この甲斐があってか中2から中3に掛けて英語の成績はぐんぐんと伸びて高2の頃には一通りの英会話は出来るようになっていた。動機はどうあれ芸は身を助けてくれたのだ。これが後になって大学受験を迎えた時にどれだけ役に立ったかは言を待たない。


自分の英語はどれだけ外で通じるのだろうか。どの程度まで話せるのだろうか。それを確かめるには実際に街に出て外人に話し掛けるしかない。それにはやはり日頃行き慣れた新宿の街で試してみようと思った。今の様にどこに行っても外人の観光客で溢れている頃とは違いその頃は道行く外人はまばらであった。一概に外人と言ってもまともな人間もいればそうではない不良外人もいる。これは日本人、外国人を問わず共通の問題なのだが。つまり話し掛けてもまともに答えず無視されることもままあり外人が日本の女子をナンパしているのを見ることもあった。これはこちらから見ると腹立たしくそんな不良外人なんかを相手にするなと思うのだが意に反して日本の女子は外人には極めて弱いのだ。海外に出た時の日本の女子の脇はさらに甘くなり特に欧米では余り良い評判を聞かないがそれは本当だろうか。もしそうなら日本の男子としては残念である。それは日本の寂しい男たちに振り向けて欲しいと思う。



11.女子大生との恋の予感


週末に水津野と新宿歌舞伎町への徘徊は続いていたが一方では自宅が水津野は江古田、自分は東長崎という西武池袋線の沿線にあるので池袋駅は必ず基点として通過していた。ここは一大ターミナル駅で大きなデパートが西口と東口にあり帰宅には時間が早い時は良く歩き回っていた。その日も水津野と別れて東口の西部デパート前の交差点の歩道を渡っていると向こうから白いワンピースの細身の若い娘が歩いて来るのが見えた。すれ違い様に見たのは小柄ながらスタイルは良くバランスが取れていて小顔で痩せ型にしては胸が少し盛り上がり正に好みのタイプだった。

「失礼ですがお綺麗な方ですね。僕は学生なんですが良かったら少しお話させて貰えませんか。」「はい、少しだけなら大丈夫ですけど。」近くの喫茶店に誘い向き合うと「お買い物ですか。池袋には良く来られるのですか。」「はい、学校が西武線の江古田にあるのでここは必ず通ります。」「江古田にある学校と言うと。」「日大の芸術学部です。」「へー、それは凄いな。」「あなたはどちらですか。」「自分は明治です。」これはとんだ天ぷら学生で早慶は嘘っぽくなるし明治だと当たり障りがなさそうだというとっさの判断でそう答えた。後に本当にそこの学生になるとは夢にも思わなかったが。この時にはお互いに学生証を見せ合うような野暮な真似はしなかった。この娘とは何かが始まる予感がした。


17歳といえども女子の外見の好みは出来つつありそれは背が高くスタイルが良く脚が綺麗で胸は豊かでなるべく可愛いか美人であること。仮にそんな相手がいたとしても滅多に巡り合えるはずもないが犬も歩けば棒に当たる。日大の女子大生は背は高くはなかったが他は全てに該当した。彼女とはその後何度かデートを重ねたが相手が自然に離れて行った。それはお互いに求めるものが異なるからで相手は精神的な繋がりや愛情によりごく普通の彼氏と彼女の関係を作りたかったと思われる。ただこちらの頭の中は果てしない女子への好奇心だった。精神的な繋がりよりは即物的、肉体的な興味だった。彼女に取っては不幸な事に会話や恋愛の過程を楽しむのではなくより直接的な行為に関心があった。その為にすれ違い自然に離れて行った。もし彼女とこの時期ではなくもう少し余裕のある大学時代に知り合っていたら全く別の付き合い方をしていた気がしてならない。



12.女が男に送るシグナルとは


その頃自分が女子を誘う時に心掛けていたのは何だったのだろうか。 誘う時の言葉とか態度に少しでも迷いがあれば直ぐに見透かされ相手は去ってしまう。そこはやはり振られても去られても気にしないというどこか堂々とした態度ではないだろうか。どうせ10人誘っても来てくれるのはせいぜい1人だしそれで充分なのだから。残りの9人は自分にはどうでも良い存在なのだ。誘われる相手の立場に立った時にはどんな印象が相手には好ましいのだろうか。見るからに派手な印象の人気ホストとかプレーボーイ風のタイプなのか一見真面目でインテリ風な眼鏡を掛けた整った顔立ちの大学の講師とか医者をイメージさせるタイプが好まれるのか。それは相手の生い立ち、境遇により異なるだろうし恋に疲れて落ち着きたいと考える時期によっても異なるかも知れない。自分のイメージは良い悪いは別にして後者であった。事実眼鏡は掛けていたし真面目そうなタイプト見られていたようで成人してからは良く医者とか大学の講師みたいと言われていた。それは女性に安心感を与えるはずで決してマイナスにはならなかった。 


男には二通りあり一つには相手の気持ちや意思に関わりなくぐいぐいと押していくタイプと相手の様子を窺いながら控え目に次の行動に移るタイプがある。どちらが良いのかというよりそれは本人の性格による問題なのでその結果が示すだけなのだが。言ってみれば「これからキスして良い?」と聞くのと黙ってする違いだろうか。相手が嫌なら拒否されるだけで決して事前にそのサインを出してはくれず自分から手探りで誘ってみるしかない。やっかいな事に女子は相手がそうしたから仕方なしにそれを受け入れたという口実を遺しておきたいもののようだ。自分からはその口実を与えないという本質は変わらないのではないだろうか。


こうした女子の行為には理由があり自分に取って最適な相手を見つけ出す事にあるようだ。その相手を無事に見付けて家庭に納まった後には今迄の涙ぐましい努力も不要になり次には子供を産み平穏な家庭を築いていく事にその関心は移る事になる。つまりこれは種の保存という女子に取っては極めて大事な本能なのだ。



13.息子は父親の背中を見て育つ


子は親の背中を見て育つという。世の中には様々な職業がありどのような仕事をしているかにより見える父親の背中も異なるのかも知れない。大手企業に勤めるサラリーマン、学校の教師の様に安定した世帯の父親と街の小さな商店や町工場で日銭を稼ぐ父親では見える背中の大きさも異なるだろう。

我が家の場合はその小さな商店や町工場の部類であった。祖父母から聞いた話では父は北海道の礼文島で生まれ育ち近くの尋常小学校に通い農業、牧畜の親の手伝いをしながら成長した。ただ若い時に農作業中に大怪我をして膝が曲がらなくなり暫くしてそこを畳んで家族一同で上京したという。一つには東京の大病院なら治療により治せると考えたらしい。


以来東京では剣道具の職人として修業をしその後は菓子の製造販売を営んだりしたが近くに大手スーパー等の競争相手が出現すると上手く行かなくなった。やはり北海道で農作業をしてきた人間がいきなり生き馬の目をぬく東京で新しい商売を始めてもその苦労は並大抵のものではなかったであろう。幼心にその悪戦苦闘ぶりを見ながら将来自分はこういう苦労はしたくないと思った。その後商売は諦めて初めに修行した剣道具の製造、販売を始めて生活の安定化を図り何とか人並みの生活が出来るようになった。それもあり父は「おまえは決して個人事業はするな、サラリーマンになれ。」と言った。これは自分なりの苦労の末の思いやりではなかったかと思われる。


それでも父親は市井の小市民として誠実に生きたと思う。その意味では称賛に値するが必ずしも幸せな人生ではなかったかも知れない。それは自らの為というよりも人の為に働いたところがあった。この場合の人と言うのは自分の両親であり両親が北海道から呼び寄せた一族郎党であり周囲にはいつも諸々の人々がいた。このように多くの親戚を含めた人達の面倒を見ながらの父親の事業は必ずしも巧く行かなかったがそのお陰で自分は大学を卒業しサラリーマンになり人並みの人生を送る事が出来た。もし父親の忠告に従わずに個人事業をしていたら恐らく土日も休日もなく仕事の事を考え続け心休まる暇もなかったのだろう。ただもしかしてその犠牲と引き換えに大きな利益を得て豊かな生活が保障されたかも知れない。人間に取って何が大事なのか、生きる為に必要な生活の糧と家族の存在、趣味を楽しむ余裕、この小さな幸福こそが自分の器には合っているようだ。



14.女には騙すのではなく騙されよう


学校では社会の厳しい生存競争に生き延びる方法は教えてくれない。むしろ社会のルールに従い正しく生きる様に教えられる。又男女の恋愛について悪女の見分け方も教えてくれない。世の中は小悪魔的な性悪女で溢れているというのに。元々男は女を疑う事が苦手で騙されやすく女は疑い深く男を騙すことが得意なのだ。自分の周囲にはそのような小悪魔的な女子はいないだろうか。悲しい事に男の性として小悪魔的な美人には弱いのだ。それを証明するにここに眉目秀麗で小悪魔的な女子と見掛けは醜女だが心の優しい女がいたとして男子はどちらに心惹かれるだろうか。世間では良く美人は3日で飽き醜女は3日で慣れるというが一目見て慣れる方を選ぶ男子はいるのだろうか。これに加えて醜女の性格が必ずしも良い訳ではなく得てしてその逆が多い。それは醜女の性格が屈折し「こんな私なんかが相手にされるはずがない。もし男が相手にしてくれるならそれは何か悪い企みか目論見があるに違いない。」ただこれはあくまでも一般論であり益して美醜は主観的なものである。


果たして小悪魔的な女とはどんな性格を持ちなぜ男はそれに惹かれていくのだろうか。小悪魔的な女はプライドが高く、計算高く、自分の美しさに絶対的自信を持ち、常に周囲に男たちが沢山いてその男たちを手足の様に巧く使う。その発する言葉は虚言に満ちている。その代わり周囲の女たちからは白い目で見られ嫌われている。にも拘わらずなぜ男たちは夜に舞う蛾の如く蝋燭の火に焙られるのを知りながらその火中に飛び込んでいくのだろうか。まず騙される男たちには女に対する免疫がない。一部の持てる男たちを除いて学生時代に恋愛経験がないか乏しい。そのせいか女に対する憧れが強く自分の思い描く女性像を作り上げその思いを相手に投影させる。それが大きな間違いであるのに気がつくのは騙された後である。ただ一つ言えるのは男は女を騙すのではなく騙される方が似合っているという事だ。男たるもの女を騙してはいけない。



15.10台男子の性への飢餓感


「女にも性欲はある。」と誰かが言った。作家の吉行淳之介だったかも知れない。果たしてそうなのだろうか。或いはそうかも知れない。男には本当のところは分からない。ただ10代後半の男子の性への飢餓感はいつもそれを頭で考え求めて止まない焦燥感が付き纏う。あの燃えるような焦燥感は何なのだろうか。それに対して一体若い女子はどうなのだろうか。恐らく全く違う肉体と精神構造なのではないだろうか。男が求め女が応じる理由は自分の快感の為と言うよりは求める相手を喜ばせたいからではないのか。それが自分の喜びにも繋がるのだから。これは想像するしかないが女は子供を産む時の苦しみに見合う程に男に勝る大きな快感を与えられているという。それは神が男と女を造った時の業として分かる気がする。一方では男の本能として蝶が花から花へ飛びながら花粉を運ぶように男は1人の女に留まることなく渡り歩く。これは「チャールズ・ダーウィンの種の起源」にあるように子孫を絶やさない為なのであり神が男をそのように創造したのだと自分に言い聞かせる必要がある。尤もその必要がない男達がいるから世の中は平和なのだが。


その後日大の女子学生との別れの後にも高校卒業までにいくつかの出会いと別れがあった。

A子の場合:偶々声を掛けた相手は小柄ながらチャーミングでとても明るい性格のティーンエージャーだった。話している内に姉は日劇のダンシングチームのメンバーとして舞台の前列でラインダンスをしているダンサーだと言った。その姉がとても自慢の種らしく実際に何かのついでに連れて来たが流石に背が高く抜群のスタイルの美人だった。こちらと知り合っていたらと思ったが妹が自分の相手であり彼氏もいたらしい。ある時一緒に来てと言われたので素直について行くと父親のいるアパートの1室に連れて行かれた。その時に何を言われたかは覚えていないが恐らく「娘を宜しく。」ではなかったか。未だ何らかの責任を負うには若すぎた事もありその後暫くしてこちらから離れて行った。


B子の場合:すれ違い様にはっと驚く程背も高くスタイルも良く美脚で胸も大きく張り出していた。改めて喫茶店で向き合ったら整った顔立ちながら惜しい事に顎が少しばかり張り出していた。これさえなければ正真正銘の美人なのだが。何度目かのデートの時に本人から「私の父は日本ではとても有名な格闘家なの。」と言われた。少し青ざめたが幸い長い付き合いにはならず事なきを得た。


C子の場合:その娘とは新宿の歌舞伎町で知り合ったが一見インテリ風だった。相手が喫茶店ではなくクラブに行きたいと言うのでそのまま付いて行き話し始めると「あなたは小説家でしょう。何か今書いているんじゃない。」「いえ、そんなんじゃなくてただの学生だけど。」「そんな事ないでしょ。とてもインテリに見えるしどこか雰囲気が違うわ。」どうしても人を小説家にしたかったようで「そうだ。」と言えばそのままこちらの行きたい場所について来る様子だった。ただそうすれば「今何を書いているの。」から始まり面倒な会話になりそうなのでその機会は遠慮した。なぜか恋愛の対象にもならなかったそんな相手の事を良く覚えている。異性との出会いと別れの中でも必ずしも付き合いがなく一時会話を交わした相手でも印象に刻まれることはあるものだ。



16.大学は男の金看板


大学受験の年齢になった。男にとって大学は生涯の金看板である。都内の豊島区にある2流の公立高校生としては根拠のない自信家で悪くても今でいうMARCH位は簡単に受かると考えていた。現役時は慶応経済、早稲田商学、明治商学を受験し全て落ちた。学部選択の根拠は好きな小説、文学では飯が食えないと本能的に分かっていたのでそれなら出版社や新聞記者の文芸担当という知恵もなく、文学部卒では小中の教師位でその重責を担う意欲も関心もなかった。何となくその時に憧れていたのは[海外]という二文字だった。外交官になりたい。それには登竜門である東大法学部、教養学部、悪くても東京外語大英文科には入りたいが難関であり自分にはとても望み得ない選択肢であった。それなら経済の外交官として民間の商社マンならどうかと考え、上記大学を受験し失敗した。一浪時代は新大久保の新宿予備校に通った。当時は西武池袋線の池袋から2駅目の東長崎の借家に家族と住んでいた。家業は父親の営む剣道具の製造、修理業であった。新宿予備校にしたのはまずは駿台予備校の入学試験に落ち、無試験で入学出来て好きな新宿経由で帰れる事であった。


その頃はナンパの面白さにはまっていて必ず歌舞伎町近辺で女子に声を掛けるのを日課にしていた。10人の若い娘に声を掛けると1人位は喫茶店について来て身分を大学生と偽って口説いていた。その中に神戸出身の参宮橋に住んでいる外人との既婚者がいた。要は金持ちのおばちゃんで毎週のように金曜の夜に歌舞伎町のホテルに泊まり土曜日の朝帰りを繰り返していた。この状況なので一浪時は初めから国立は諦めて私立3科目に絞るしかなく英語、国語はある程度出来ていたので社会は日本史に絞り初めからやり直した。これで 明治、立教が滑り止めとはあり得ない選択であったが今から振り返るとただただ無謀でありラッキーだったとしか言い様がない。


当時一浪後に受験したのは慶応法学部、早稲田商学部、上智文学部新聞学科、明治商学部、立教経営学部であるが明治と立教以外は全て落ちた。実家から自転車で10分程の距離に立教大学があり赤煉瓦の蔦のはう西洋風の校舎にも強く心を惹かれたが余りに近すぎるのと卒業生が少ないので悩んだ末に明治を選択した。卒業して既に50年近くになるがこの大学と学部の難易度は殆ど変わらないと思われる。早稲田、慶応は当時からも頭抜けて難しかった。男の大学の金看板は自分の場合は明治商学部だったがその後どれだけこの看板に助けられたかは言を待たない。



17.大学生活、男の1人暮しは早い程良い


晴れて明治大学商学部に入学し、京王線明大前に通う学生生活が始まった。当時は1年次と2年次の学生は教養課程として明大前にある和泉校舎に通い3年次からお茶の水の駿河台校舎に通学することになっていた。校舎も今の様な現代的な高層ビルではなく昔の情緒漂う広島の原爆ドームを思わせる古色蒼然とした建物であった。和泉校舎は郊外に建てた大学らしく広い敷地に緑豊かな環境にあり真新しい校舎もこれからの大学生活に夢を持たせてくれた。大学と言えばサークル活動も盛んで多くの勧誘がある中で社交ダンスクラブに関心を持った。これも発想は女子に持てたいという動機からなのだが入会して1か月も経たないうちにその練習量の多く内容の厳しい事は予想を遥かに超え体操の運動部と変わらない事に怖れをなして早々に退会した。さて自分が所属するクラスは50人前後で編成されていて女子は当初は3人程いたが1人、2人と段々消えていき最後には誰もいなくなった。席順は入試の成績順で決められているらしく自分に与えられた席次は33番であった。商学部は1200人前後の入学者がいたので1クラス50人として24クラスになるが同じクラスのメンバーとの授業は語学くらいだった。

入学してからも自宅の東長崎から明大前 迄は池袋、新宿経由になるので授業が終わると必ず新宿駅下車でナンパは続けていた。もっとも登校するのは週に何回かの限られた出席を取るフランス語、英語の語学の授業位でマンモス教室で行うマイク片手の授業はボイコットし自宅での剣道具修理、製造の家業のアルバイトに勤しんでいた。2年目からは自宅から歩いて数分のアパートで1人暮しを始め親からの干渉を避けて気ままな学生生活を楽しんでいた。この頃は近所の幼友達や大学の学生仲間とアパートで朝まで徹夜麻雀をしたり、ナンパで知り合った女子を泊めたりと勝手気ままな生活ぶりであった。そんな時に超有名女優に声を掛けた!



18.超有名女優の卵に声を掛けた


この頃いつもの様に明大前から西武池袋線の始発池袋駅に夕方頃に戻って発車時間を待っていると目の前の座席に目を見張るような美人が座っていた。身長までは分からなかったが全体に細身の身体つきで顔は小さく細長い瓜実型で黒目がちの大きな瞳が異様に光っている様に見えた。こちらを見てくれないかと目の合う瞬間を期待したが俯き加減でそれでも世の中にこんな美人がいるのかと感動した。やがて電車は動き出したが夕方のせいか乗客もまばらで2つ目の降車駅でもある東長崎に着いた時に何とその美女も下車したではないか。ここでやり過ごしては男がすたる。勇気を振り絞りバクバク波打つ心臓の鼓動を抑えながら後ろから「失礼ですが本当にお綺麗な方ですね。もしお時間があればお茶でも如何でしょうか。」「余り時間はありませんが少しで良ければ大丈夫です。」天にも上る気持ちであったがその後の彼女との30分程の喫茶店でのやり取りは生涯忘れられないものとなった。相手は当時「聖獣学校」の映画に主演していた滝川由美だったが恐らく自分が世の中でどれ位知られているのかその認知度を計りたいとの目的ではなかったのか。次のデートを申し込むと「母がとても厳しいので無理です。マネージャーを通じてからにしてください。」と体良く断られた。


その時にはこの女優がどれ位有名なのかの知名度は良く分からずにアパートに帰宅後に隣室のバーテンダーの西さんに「今日電車の中で見た滝川由美という女優に声を掛けて喫茶店でお茶をしたんだけどこの女優知ってますか。」と聞いたら「それは今デビューしたての結構話題になっている女優だよ。凄いな、そんな相手をナンパしたのか。」と言われた。この女優はその後多くの映画の主演女優として活躍しお茶の間のテレビドラマを賑わし大女優になった。当時しがない市井の大学生が後に大女優になる卵時代に半時間程2人だけのお茶の時間を持ったというだけの話だがそれでもこれは青春時代の想い出としてはほろ苦く充分に大きなハプニングであった。もしも相手に1ファンとして昔こんな事がありましたねと聞く機会があったとしても覚えてはいない事だろう。こちらには強烈な思い出になっているのだが。



19.なぜナンパをするのか、その極意とは


それは女子に持てたいからに他ならない。

中学、高校時代に親しんだ小説などの読書量は大学入学後は目に見えて減ったが特に日本文学への関心は持ち続けていた。学生時代に新宿、池袋で学校帰りにしていたナンパは益々面白くなり10人、20人の好みの相手だけに絞って声を掛けても必ず1人、2人と喫茶店に付き合う相手がいるので止められなくなった。このナンパについては当節の好きな流行作家の石田衣良がその作品の「スィングアウトブラザーズ」に詳しい。大学卒業後10年経った冴えない、女に持てない3人の男たちを持てる男に変える為の改造講座が小説のモチーフになっているがその中のナンパ術の何と真に迫って面白い事か。当時を思いだしながらその通りだ、これなら上手く行くと拍手喝采していた。例えば声を掛ける位置は斜め後ろからで決して大きな声で相手を脅かさないように振り向かせる。笑顔を絶やさず「綺麗な方ですね」と相手を誉める「もしお時間があればお茶でも如何でしょうか。」相手と喫茶店で向き合ってからが本当の勝負で自分には多少の教養があり話題が豊富で相手を飽きさせない、面白い人との印象を与える。ここでも明治大学の看板は大いに役立ったと言える。


喫茶店、食事代を含めて決して相手には払わせない。割り勘は論外。自分には自信を持ち続ける事。自分より持てる男など存在しない位に。20人に声を掛けても駄目な時はダメ。何も起きない。それでも続けると自己嫌悪に陥るのでその前に切り上げる。喫茶店での相手との会話には教養が求められるが中、高校時代に読んだ文豪たちの何と役に立ったことか、漱石、鴎外、芥川、藤村、太宰、谷崎、荷風、三島由紀夫と綺羅星の如く。人生、無駄なことなど何もない。


ナンパと言えばほろ苦い経験もあった。むしろ危険と隣り合わせのような出来事も。それは池袋駅東口にある小さな公園での出来事だった。公園のベンチに佇んでいる学生風のうら若い女子に何をしているのと声を掛けると近くの物陰から雪駄せったを履いた地場のヤクザと思しき人相の悪い男がいきなり現れて「兄ちゃん、ここで何してるんや!俺の縄張りで何さらしてるんや!」とどすの効いた声で怒鳴られたのでその場から逃げ出そうとすると血相を変えて追い掛けて来た。ここでもし捕まれば殴られどやされる事は分かっていたのでこちらも必死で逃げた。こちらは革靴、相手は雪駄で逃足の速さでは引けを取らず勝負にはならなかったが。それ以来ヤクザには気を付けるようになった。「三十六計逃げるに如かず」である。



20.女に騙されて男は成長する


大学生3年次のある週末、新宿駅東口の舗道で夜の10時過ぎにナンパに疲れ果て帰ろうとしていた矢先に俯き加減に歩いてくるミニスカートの若い女に目が止まり声を掛けたら素直に喫茶店に付いて来た。黒革のミニスカートに黒色のストッキング、赤いスエードの長袖セーター、背丈は中肉中背で顔は小さく眉毛はあくまでも濃く、髪も豊かで黒色だった。マキという沖縄出身の女で和風の接客店での仕事帰りであった。


「これから東長崎近くのアパートに帰るところだけど良かったら来る。」「私、今働いているお店の会社の寮にいるんだけど近々出なければいけなくてこれから住む部屋を探すところなの。」その時には既にクリーニング店の2階にアパートを借りていたので喫茶店での会話を経て部屋に誘いそのまま帰らずにいつく形になった。これが同棲生活の始まりになった。このマキという女は自由気ままな性格でそれ以降どれだけ振り回される事になったことか。それでも住むに当たっては部屋代の半分は出したいと申し出があったのでそれは有難く乗ることにした。


彼女は夕方からの出勤でこちらは昼間は学生生活で授業のない日は実家での家業を手伝いながらのアルバイトをしていたので接点は彼女の帰宅後の深夜12時過ぎと翌朝の遅い目覚め以降ですれ違い気味の短い時間でしかなかった。


同棲して3か月ほど経った夏のある日、突然海に行きたいと言い出したので千葉県の館山海水浴場に行くことになった。ビーチに着くと浮き輪代わりに横長のビーチマットを借りて沖へ向かって2人で脚をばたつかせながら漕ぎ出した。マキは沖縄出身というのに全く泳げない事を隠していたがこのビーチマットに突然穴が空いたのか見る間に萎んで行き溺れる者の苦しさで首に手を巻かれ身体ごと預けられるままに水を飲みながら沈んで行った。


もうダメだと諦めかけた矢先に溺れる2人を見付けたのか、さっと身体の横に救命ボートが滑り込み男たちの手で救い上げて貰い一命を取り留めた。

正に九死に一生を得たとはこの事でこれがなければ翌朝の新聞に小さな死亡記事に載るところであった。”千葉の館山で大学生が女友達と2人で溺死”


後から思うとこの時マキという女は既に他にいた恋人の子供を妊娠して産める目途もなくわざとビーチマットの栓を抜いたのではないかとの疑念に取り付かれた。それを証明するかのようにその事があって暫くしてマキは小さな荷物を持っていなくなった。


その後マキの失踪から数か月が経ち忘れた頃に身分を明かさない高齢の婦人がアパートを訪ねてきた。「マキさんは赤ちゃんを産んで1人で施設に保護されています。それで出来れば又あなたと暮らしたいと言っています。」


当時は大学3年生で自分の子供の様な曖昧な言い方をされ、そう思い込んだので観念して母親と子供の面倒をみる為に退学して仕事を探そうかと考え始めた。


その婦人は暫くしてから又アパートを訪ねて来た。「実は赤ちゃんはあなたの子供ではなく別の人の子供であり事情があって育てられないので他所に養子に出しました。今は身一つになりそれでも良ければあなたと又暮らしたいと言っています。」


その意味するところは出会った時には既に他の男の子供を妊娠していて出産までのある期間だけ緊急避難の為に同居していた事になる。流石に馬鹿にされた気持ちになり訪ねてきた婦人にはその申し出を断る様に依頼した。こちらにも若気の至りで落ち度はあったにせよそこまでの義理や責任はないと思った。情にほだされてはいけない。これは自分にとって将来危険な相手になる。それからは声を掛けて部屋に連れてきても同棲する気持ちはなくなった。恋愛をするなら質の良い相手を選んで中身のある普通の恋愛をしようと切り替える事にした。それにしても女は怖い!こうして騙されながら男は成長し打たれ強くなっていくのだ。以来少々の事では動じないようになった。



21.大学卒業に向けて


大学時代はスポーツに打ち込んだ訳でもなく何か特別なサークル活動に夢中になった経験もなく、何となく単位に必要な授業を受けながらアパートと実家での家業の剣道具の製造のアルバイト、大学の3か所を行ったり来たりしていた。ダンス同好会はスポーツ系の激しさがあり早々に退会したが3年次からはゼミへの入部が就職活動にも有利になるため必修と考えていた。授業の中で関心があったのが①経済学原論:ポール・サムエルソン(経済学入門書のバイブルとして何度も読み返した)②マーケッティング論:三上富三郎(当時のマーケッティング論の代表者で看板教授)③保守と革新の日本的構造:伊東光晴(東京外語大教授で政治学に関心を持ったきっかけになった本)。この中で就職活動を意識した時に一番役に立ちそうなマーケティング論を選ぶことにして三上ゼミへ入部の申し込みをしたが希望者多数のため面接試験が行われた。部屋に入ると応募者用の椅子が一つ置いてあり正面の机には3人のゼミ運営担当者らしい学生が座っていて早速質問された。なぜマーケッティングを希望するか等のいくつかの質問の中で印象的だったのは「あなたの好きな言葉はなんですか。」「え、考えた事もないですがあえて言えば”美”ですかね。それと”遊び心”でしょうか。」何でこんな事を聞くのか、この答えで合否を決めるのかしら。結果は不合格であった。 


これで就職活動を諦めては元も子もないので気を取り直して次の目標設定に切り替えた。折角商学部に入ったのだから皆が一度は考える公認会計士に挑戦してみよう。それに必要なのはまずは会計学だ。そこで会計学ゼミに応募したがここは希望者が少なく応募者全員が入部する事が出来た。夢は公認会計士だったがこれも受験科目が多岐に及びその難易度も半端なく高い事が分かるにつれその入口で早々に挫折した。結局2年間の会計学ゼミの中で会計学そのものが好きになれなかったが就職活動には大いに役に立ったと思われる。「ゼミで会計学を専攻していました。」と言うと相手はこいつは経理に使えるかなと考え少なくとも入社選考試験の入口には立てたのである。これを元に就職活動に入る事が出来た。



22.就職活動 [夢は海外で仕事をする事]


その頃は未だ今日の様な学生の為のエントリー制度もなく就職活動と言っても具体的に何をすれば良いのか分からなかった。


仕事で何をしたいという明確なビジョンはなかった。ただ学生時代から抱いていたイメージとして何をではなくどこでには[海外]があった。まず商社を志望したが当時は指定校制度があり私立では早慶迄で大手商社は明治は指定校外であった。駄目元で丸紅に会社訪問し人事担当者が会ってくれたが「これからはどういう会社が伸びると思いますか。」と聞かれて「これからは自分の力で物を造り自分の力で売る会社が伸びると思います」と答えた。商社でこの答えは完全にアウトであり「それなら松下電器とかソニーのような会社に行かれたら如何ですか。」この一言で電気メーカーを受ける事にした。他には富士ゼロックスを会社訪問したが内定の可能性はあったものの半年間の新人研修があり千葉の研修所に缶詰めになると聞き恐れをなした。女に持てたいという単純な動機から資生堂を会社訪問したが指定校制度外で圏外、カネボウ化粧品は経理ならと言われたが不向きなので辞退した。


そこで推薦された電気メーカーに行ったが初めの人事担当者との遣り取りでは「どんな仕事をしたいとか具体的な希望はありますか。」それに対しては「海外で営業の仕事をしたいです。」「それでは外国人と仕事上で例えば英語で喧嘩が出来ますか。」「いえ、日常会話程度しか出来ません」これには理由があって担当者曰く「海外との仕事をするには海外企業との交渉、契約の纏めもあり日本語と同等の語学力を求められます。」そこで外人と仕事上英語で喧嘩が出来るかの質問になる。当時このレベルに応えられるのは帰国子女か、大学ではICU、東京外大、上智大外国語学部、青山学院大位で早慶を含めたMARCHの文系経済学部、商学部のレベルではなかった。その後の人事担当者との遣り取りでは営業をやりたいのなら国内営業からスタートしてはどうか、になり国内営業部門の人事担当者との面接になったが「あなたはこの学業成績では学生時代一体何をしていたのですか。」「家業が剣道具の製造をしていたので時間があればアルバイトしながら手伝っていました。将来学者になる積りもなく仕事なら誰にも負けない自信があります。」なぜか根拠のない自信だけはあったので面接に臆する事はなかった。この電気メーカーは海外にも強く当時から学生に人気があり狭き門であった。


ある日実家の郵便受に薄鼠色の小さな封筒が届いて開封してみると内定通知であった。あの時の嬉しさは他に例えようもない。採用後の研修時に人事担当者から言われたのは応募者は国内部門だけで数千人いて合格者は20人弱だった。同期生の出身大学もバラバラで一橋、早慶、理科大、立教、明治、國學院、日大、神戸大、関西大、等で単に有名大学だけでなく様々な大学、学部から人物本位で採用していると思った。学力優秀よりも仕事の出来そうな面白い、根性、忍耐力があり逆境に強そうな学生が多いというのが同期の印象としてあった。学力だけで採用するなら東大と早慶からだけ採用すれば良いが人事は決してそのような採用の仕方はしない。無事に何とか就職は出来たものの夢は海外で仕事をすることでありこれから先は国内勤務でどうなって行くのだろうか。



23.初めての赴任地(福岡)


初めての赴任先は福岡だった。半年間の新人研修後の辞令式で18人の新人社員が全国に散って行く。多くは東京本社の営業部勤務だが中にはいきなり地方勤務者も出てくる。「福岡支店に出向を命じる」が自分への辞令であった。東京しか知らない自分がなぜいきなり九州の福岡くんだり迄転勤しなければならないのか。見知らぬ土地での新たに生活に対する不安と戸惑いがある中でまずは行くしかない、やるしかない、多分何とかなるがスタートだった。着任早々不動産屋廻りをしていくつかの物件の中から通勤にも便利そうな博多駅南にあるガソリンスタンドの敷地の隣にある10階建てのマンションの2DKの部屋に引っ越した。


家財道具とて何もなくベッド、ソファーの大きな家具はこちらで買い揃えたが唯一東京から父親に買って貰った日産スカイライン1600GLという当時のケンメリの派生モデルを幼馴染に頼み船で運び込んだ。マンション下のガソリンスタンドの駐車場を借りて車通勤で2年半を過ごした。この車は大変気に入っていたし役にも立ち週末のデート等では随分活躍してくれた。地方での1人暮しは心もとなく夜になると灯りの灯らないアパートのドアを開ける時の寂しさは例えようもなかった。ただそれはいつの間にか慣れてくるもので人は皆孤独な生き物だと覚悟すれば不安はなくなり居心地の良さに変える事が出来る。益して福岡は小都市で人情味に溢れ魚も新鮮で美人の産地でもあった。この小都市の住み心地の良さは着任後の生活の中で徐々に分かっていった。赴任後の会社の事務所は天神町の岩田屋前の大通りを博多港に向かって暫く歩くとダイエイショッパーズのはす向かいにあった。6階建てのテナントビルで事務所から徒歩10分程の博多港の駐車場を借りて通勤生活を始めた。


初めての福岡での仕事は会社が輸入専門商社を子会社としてつくり海外から輸入した製品を国内販売する国内セールスだった。アメリカ製のワールプール社の業務用冷蔵庫、フーバー社の掃除機、オスター社の鉄板焼用の電気フライパン、電気毛布、ドイツ製のコーヒーメーカー、髭剃りシェイバーが主な取扱商品であった。商社とはいえ製品に故障があればそれを修理するサービス部門も持っていた。これらの製品を北は北海道から南は沖縄までの全国のデパート、量販店で販売するのが新しい会社の仕事であった。とは言え自分が売場に立つ訳ではなくあくまでその手助けをする販売促進の担当者である。さて禄に充分な商品知識もない新人が新任地でどのような活躍が出来るのだろうか。とにかく福岡での新しい生活と仕事はスタートした。 



24.九州は天国だった


今でこそ国内メーカーはこぞって家庭用の500L、600Lの大型冷蔵庫を出しているが業務用は言うに及ばず40年以上前の当時は発売していないか、又は全く普及していなかった。そこで米国製の大型冷蔵庫の出番になる。これは大型冷蔵庫好きの富裕層の主婦や食品関係の業務用冷蔵庫として良く売れた。面白いのは製品開発の考え方で冷蔵庫は冷えれば良い!掃除機はゴミが吸えれば良い!は当然だが両製品ともそのモーター音の大きさは尋常な範囲ではなくこれが日本の一般家庭に普及させる一つのネックになっていた。ただそれを普及させるのがセールスの腕というものだ。その中で特に力を入れていたのは大型冷蔵庫と掃除機であり九州各県のデパート、大型電気量販店への拡販であった。その為各営業所所長、担当者への販売応援要請をし営業マンの車に便乗してそれらのデパート、量販店へのセールスを行った。


鹿児島県の天文館にある量販店の明星堂には店の正面には名物女将が陣取っていて初めての訪問で挨拶しても方言で意味が分からず同行したセールスマンに聞くと「初めて人の店にくる時には手土産の一つも持ってくるものだ。」と言われたそうだ。女将は冗談でからかいを込めて言ったのだがそれ以来この店を訪問する際には自腹で必ず博多からお茶菓子を持参する事にした。こうして地方での商談は始まる。今でも鮮明に覚えているのは福岡を起点に鹿児島、宮崎、大分、佐賀、熊本、北九州の小倉、門司に頻繁に訪問しその土地土地の雰囲気に浸るのを楽しみにしていた。ある時には宮崎の所長の営業車に同乗する事になり所長に手招きされたので後のドアを開けてそのまま座り込むと偉い剣幕で怒鳴られた。何かと思うと「俺はお前の運転手じゃないぞ!」これは当然助手席に座るべきで新人社員の常識を知らない若気のいたりであった。 


若い時に知り合って何年か一緒に仕事をしてその後転勤がありお互いが各々別の道に進んで行き、その接点がなくなりいつの間にか疎遠になり以来数十年会わなくなっても突然何かの折にその名前と人物を思い出す事はないだろうか。自分の場合にはその仲間が何人かいる。北九州営業所にいた池本と藤本の2人がそうであった。彼らとは北九州営業所管内の販売店を共に訪問している時に言葉を交わすようになり、いつの間にかどちらが誘うともなく仕事の後に一緒に飲みに行くようになり、そのまま遅くなれば泊まればと誘われ2人の住む共同生活のアパートの世話になった。それが北九州に行く楽しみにもなり行けば必ず彼らと一緒に飲み泊まることになった。20台に出会って70台の今でもはっきりと覚えているような一度にその時その場所に引き戻されるような懐かしい郷愁がそこにはある。



25.3ヶ月目のジンクス


未だ着任して間もない頃に同じ本社から出向している広島出身の目のぎょろりとした高山先輩から「君は麻雀はやるのかな。」「並べられる程度です。」と答えると早速翌週の日曜日の早朝から西鉄福岡線の高宮にあるマンションの一室に呼び出された。そこには九州支社の天皇と言われた須川社長が鎮座していて他の2人の先輩に混じって麻雀を始めた。ただその連中は麻雀の掛金を飲み代にしているような強者揃いで早速鴨にされ、断っても誘いの手は緩まず数ヶ月して這う這うの体でその場から逃げ出した。早々に高い代償を伴う洗礼を受けた事になる。この須川社長は九州支社の名物社長で月に一度の支店長会議では日頃は部下達に勇ましい支店長達も借りてきた猫の様に大人しくなり、ノルマ未達成の場合などは衆人の面前で面罵され締め上げられるのを常としていた。ただ厳しいばかりでは人は随いて来ないのを良く知っていて無類の酒好きも手伝って会議の前日には近くの居酒屋に全員を集めて慰労会を開くのが慣例であった。この席には支店長の他になぜか本社からの出向組も呼ばれていたので自分のような若輩者でも支店長達の幹部連中と面識を持つ事が出来た。お陰で普段はありつけない下関の河豚刺や日頃呑んだ事のない鹿児島の芋焼酎の洗礼を受ける事になった。


毎日は仕事に忙しい日々を過ごしていたが週末になると話は別で部屋にいてもする事がなく天気の良い日曜日などはドライブに行くか天神の街をぶらぶら散策したくなった。主な行先は天神町か博多駅周辺で若い綺麗な娘に的を絞って声を掛けていたが誰にどう誘っても振り向かれる事はなく虚しい週末をやり過ごしていた。そうした週末が過ぎて3か月が経った頃、きっかけは偶然に中洲のクラブに勤めているホステス嬢に声を掛けて喫茶店に行き、そのクラブの客になってから何度目かにようやくベッドに辿り着いた。なぜ3か月もの間女子に持てなかったを思い返すと話しかける時の表情や声の掛け方などの動作、所作に余裕がなくどれをとってもこの人は焦っていると相手に見透かされるのでネガティブスパイラルに陥る事になる。これが一人でも相手が出来るようになると自然に心にも余裕が生まれ、表情も所作も別物に生まれ変わるのではないか。これは仕事にも共通するかも知れない。焦れば碌な結果にならず余裕があればそれなりの結果を伴うような。そのジンクスはその後何度か転勤を繰り返したが例外はなかった。これをきっかけに楽しい週末を過ごす事が出来るようになった。博多は美人が多いとは本当の話であった。



26.仕事を取るべきか、女を取るべきか、それが問題だ


当時の九州支社の6階には同じ会社系列の英会話スクールがあり外人講師が一般の生徒を教えていた。今でいう駅前留学の走りでECCやNOVAのようなものだった。今は国内営業でもいつか海外で仕事がしたいという夢は萎む事なく転勤早々に入会した。偶々その受付にいた大分県日田市出身の女性の美しさ、愛らしさの虜になりレッスンのある週に2日間は楽しみで必ず受付嬢に声を掛けるのが習慣になっていた。その頃にデートする相手に対して自分が課していたのは3度目の正直であった。3度目のデートまでに口説く。時間を掛け過ぎても駄目、会って直ぐも駄目、それでも3度目迄にと言うのは今まで繰り返してきた経験則の中での答えであった。 


その受付嬢を誘い初めてのデートの約束を次の日曜日に取り付けた時にそれは起きた。上司から「次の日曜日には福岡市内の大小の販売店を一堂に集めての新製品発表会がある。本社からはオーディオ、テレビ、ビデオの担当者が応援に来るが輸入製品についてはこちらで対応する事になった。本来なら俺が出るところだが前々からその日は熊本のデパートで大型冷蔵庫の製品導入会が決まっているのでお前が代わりにやってくれ。」と言われた。「すみませんが次の日曜日には初めてのデートの約束があるので参加は出来ません。」とは流石に言えずその事実を相手に伝えたらもう会って貰えないのではないかという不安でいても立ってもいられなかった。


やがてその日曜日が来て市民会館の舞台に立ち大勢の観客に向かって輸入製品のデモを行った。「このアメリカ製の掃除機はこの様に吸引力は抜群です!」と実際に会場の壁に吸い付けても落ちない様子を見せて「ただこの様に吸い付く為にモーター音も抜群に大きいです!」と会場を笑わせて製品のアピールをし一応の役割を果たした。後で聞いたところでは「あいつはどこか変わっているが面白そうだ。」と参加者達から言われたらしい。さてその後受付嬢とはどうなったのか。無事に2度目、3度目のデートを重ねる事が出来たのは幸運であった。



27.綺麗な花には棘がある


九州支社の営業マンの車に便乗してある夜に疲れ果てて営業所に戻ると「お前を先ほどある女性が訪ねて来た。自分はここにいるので連絡して貰いたいとの事なので一応伝えておく。」と先輩から言われた。そこに電話してみると学生時代に一時付き合いのあった日航のCAであった。偶々声を掛けたのがその女性であったが北海道旭川出身でそのスタイルの良さと彫りの深い顔立ちは日本人離れして全くの規格外であった。彼女と知りあって間もないある日、教えられた住所を基に青山近くにあるアパートを赤い薔薇の花束を携えて訪れた時の事。大家さんに部屋を教えて貰ったが本人は不在で呼び声にも答えず恐る恐るドアのノブを捻ると鍵がかかっていないのかそのまま開いた。部屋の様子を玄関口から見るとその状態は信じらない位に散らかり脱ぎ捨てた服、履いた後のストッキングもその辺に何足か散らばっていた。これがあの美しい女性の部屋なのか!外側と内側の如何に違う事か!益々女という生き物が分からなくなった。そういう経緯が過去にはあり当時からボーイフレンドが他にいる事も知らされそれ以上深入りする事はなかった。その夜彼女と会えたのか、会ってどこかて食事をしたのかの記憶は定かではない。ただ一つ確かなのはその夜も彼女とは何も起きなかったという事だった。


その後英会話教室の受付嬢とは週末のデートが多かったがその頃には泳げ鯛焼君という曲がカーラジオから頻繁に流れていた。そうして1年程が瞬く間に経ち未だ結婚は早いが相手が望むならそうしても良いかという気持ちになり明日は2人で日田市の彼女の両親の家に行く約束をした。その夜の事、彼女がアパートに尋ねて来て「あなたとは明日日田には行けなくなった。なぜなら自分には永く付き合ってきた大学生の彼氏がいてあなたとの約束を打ち明けると絶対に行っては駄目と言われ慰められるままベッドを共にして来たから。」目の前が真っ暗になるようなショックに襲われこの娘は一体何を言ってるんだろう。気がついた時には頬に2、3発ピンタを浴びせていたが相手は驚いてそのまま走り去って行った。暫く放心状態が続いたが立ち直った頃に単身で日田の彼女の実家を謝罪するつもりで訪ねたが名前を名乗ると玄関口に家人が現れ「どうぞお引き取り下さい。」と会う事も謝る事も出来なかった。そこは大きな屋敷だったが受付嬢によると金融業を営む日田では有力な地主らしかった。後日談になるが暫くしてアパートに1人の男が訪ねてきた。「自分は彼女と付き合っていた熊本大生です。あなたと決着をつけに来たので表に出て下さい。」「いつでも相手になるがもし君が同じ立場に立ったらどうする。それでも納得出来ないなら一緒に外に出ようか。」それに応じる事なく彼はその場から立ち去って行った。それが受付嬢との最後の顛末であり再び会う事はなかった。この花にも棘があった。


悪い事ばかりが続くはずもない。雨の後には必ず日は差すものだ。ある週末の雨の降る黄昏時に天神町のダイエーショッパーズ前を歩いているとグレーのトレンチコートに身を包み赤い傘を差した細身の女とすれ違った。その女の美しさに心を奪われ思わず後を付け声を掛けると喫茶店に付いてきた。思い付く限りの言葉を尽くしてかき口説いた。彼女は出会った時には人妻とは言わなかった。当然独身の女性として接し付き合い始めいつしか週末にはアパートに泊まっていくようになった。とても穏やかな性格の笑顔の爽やかな美人で痩せているのにこぼれるような豊かな胸をして2人で過ごす時間はやがて次第に離れ難くなっていった。そんな甘美な関係はそう永くは続くはずはない。知りあって数ヶ月が経っていたが暫く会えない週末が続いたある時突然アパートを訪ねてきて「もうあなたとは今晩が最後で会えなくなるからお別れに来ました。主人にあなたの事が分かってしまい直ぐに別れるなら出来てしまった事は問わないと言われました。主人がいるのを黙っていてごめんなさい。言えばもう逢って貰えないと思ったから。」そう告白されて引き留める術もなくただ立ち去るのを見送る他はなかった。ほろ苦い思い出になった。この花にも又棘があった。 25歳



28.南の島沖縄へ転勤になった


南国の島「沖縄支店に出向を命ず」との辞令を受けた。福岡で2年半過ごしこれより遠い転勤はあるものかと鷹を括っていたら沖縄という南国があった。青い海とサンゴ礁の島。今まで観光パンフレットで憧れの沖縄旅行と謳われて余りに遠いので行けなかった島。何か日本というよりも東南アジアの南の島国が連想された。初めて那覇空港に降りたった時の心細さは言いようがなかった。アパートは国際通りの端にある県庁近くのマンションに2DKの部屋を借りて週末には国際通りを散策する生活が始まった。この8階建てのマンションの1階は昼はレストラン、夜はスナックになる店で管理人を兼ねた麻雀好きのマスター夫婦と直ぐに親しくなった。愛車のスカイラインは福岡から船で送りここでもアパートから当時浦添市の支店へ車通勤をした。


4月初旬の月曜日に初出社して若い仲間の社員達との交流が始まると新任地の不安はどこかに吹き飛んでいた。ここでは営業所の隣に机を並べていた照木が何かと面倒を見てくれ彼の友達の安慶名と大出とも親しくなり4人で週末の夕方には食事やディスコに遊びに行ったりした。照木はがっしりした体躯で空手の有段者でもあり時間がある時には請われて空手道場の師範代として生徒を教えていた。安慶名も大出も沖縄の男にしては大柄な方だった。後で聞けば彼らは既婚者でありながら週末の夕方などに独身の転勤者の為にわざわざ付き合ってくれたのだ。その意味ではその後数十年も付き合いは途切れたものの忘れ難い友人達となった。


そうは言っても周囲は現地採用のセールスマンばかりで実際に仕事が始まると地場の中小電気店との繋がりが強くおまけに沖縄独特の方言という言葉の厚い壁があった。東京本社から来て現地セールスマンと同じ成績では許されない。彼らと同じ事をやっていてはとても敵わないので彼らが決められた取引店を相手に毎日同じような訪問を繰り返している間に新規取引店の開拓に打ち込んだ。それは全く取引のない競合メーカーの松下、東芝、サンヨーの様な専門店に飛び込みセールスをして自社製品を取り扱ってくれないの売り込みをする。初めは当然全く相手にされない状態が続くがテープレコーダーの1台でも良いから店に展示してくれと訪問を繰り返す内に相手の気持ちも動いてくる。半年もすると少しずつ新規契約店が取れる様になり売上も上がるようになった。これは東京から来た人間にしか出来ない荒業であったがこれにより現地セールスマンと売上げのトップを争うようになった。とは言え誰もが東京から来た転勤者に同情的な訳でもなく言葉の壁にも塞がれて人並みの苦労はあった。


沖縄時代の忘れ難い思い出として週末の夜に照木達と遊んだ後に恩納村にある大出の家に泊めて貰い翌朝小さな船を漕ぎ出してメバル釣りに興じた。ほぼ入れ食い状態で竿を垂らしていればいくらでも釣れた。これを持ち帰って奥さんに捌いて貰いみそ汁や唐揚げで食べるのが習慣になっていた。照木、安慶名、大出、今頃どうしているのかな。


伝え聞くところによると照木はその後沖縄支店長になった。安慶名は若くして転職しコンビニ店を立ち上げ何店かのオーナーになった。大出は北九州に出稼ぎに行ったらしい。



29.沖縄から夢のアメリカへ


青春時代の一時期を沖縄で過ごす幸運を思い描いた事があるだろうか。日本の南国の島、首里城の朱色に染まった美しさ、慶良間諸島の珊瑚礁に遊ぶ熱帯魚の群れ、それらがいつも身近にある。3月初旬の恒例の月曜日の朝礼でそれは支店長の口から発表された。


「この度河田さんはアメリカのトレーニーに合格してアメリカに行く事になった。ここでは約1年という短い期間ではあったが皆の中に溶け込んで良くやってくれている。このトレーニーと言う制度は私も詳しくは知らないが国内セールスに携わる社員を対象に海外でのスキルを身に付ける為に今はアメリカが対象だが厳しい試験を受けて多くの応募者の中から毎年2、3名が選ばれるそうだ。一度海外での経験を積むと再び国内営業に戻ることはないと聞いている。良く頑張って試験に受かったと思う。これは我々にとってもとても名誉な事なので皆さんで彼の門出を祝って上げたいと思う。」


本来ならこれで4月から晴れてアメリカ渡航の予定であったが暫くして本社人事から 「今年の河田さんのトレーニーは延期になりました。本社の事情で詳しくは言えませんが来年は優先的に配慮します。」との連絡があった。既に沖縄支店ではアメリカ赴任を前提に発表されセールスから取引店への連絡も済んでいた。支店長からは「気の毒だがここでもう1年頑張って貰うのも良い、もし居ずらければ一度東京本社に帰って来年に備えたら良い。」と言われ考えた末に東京に戻る事にした。そうは言ってもこの短い間とは言え慣れ親しんだ沖縄と言う土地と会社の仲間達と別れるのは辛いものがあった。いつか又必ず来よう、仕事でなくてもプライベートなら来れるだろうしその時には又再会を祝おう。


東京での生活は先ずは東中野のマンションに1DKのアパートを借り新しい生活の基盤にした。東中野は新宿にも近く通勤にも便利であった。この独身時代の東中野の1年を語るには週末の新宿歌舞伎町を中心にした活動もあり一つの物語になるがここでは趣旨に外れるので割愛したい。本社での新しい配属先は国内販売促進部のカタログ販促物制作課に半年間いてその後国内のテープセールス営業部に半年であった。各々の部署で自分に出来るベストは尽くしたがこの1年にどんな意味があったのかは分からない。その1年後には再試験は免除されて翌年のアメリカトレーニーに採用された。この時に一つの条件が人事部から付けられた。それは単身赴任という条件であった、この一つの条件が赴任後に大きな意味を持つ事になるとはその時は知る由もなかった。単身赴任とはトレーニー期間中の結婚は認められないという事であった。 27歳



30.こうしてアメリカでの新生活は始まった


その後のアメリカでのトレーニー期間中をどのように過ごし何が起こったかを語る上で又とない手紙が44年ぶりに見つかった。それは白洲君という竹馬の友により44年もの間保管されていた。まるで44年前の自分にタイムスリップしたかのようで一字一句違える事なくありのままを再生したいと思う。竹馬の友は小学校の教師として永年活躍し、その傍らで永年見守ってくれていた。まずは彼に宛てた絵はがきから。


「こちらニューヨークのフォーレストヒルズもようやく春めいて来ました。当分下宿生活ですが元気にやっています。天を貫くような摩天楼にはそれ程驚かなかった自分ですが初めてニューヨークの地下鉄に乗った時には驚きました。扉が開いた途端に何というのか出来れば乗りたくないという思いに一瞬取り憑かれました。人種の坩堝という言葉通りあらゆる種類の人間が無表情に座ったり吊革にぶら下がったりしていました。これが実感でしたがこんな事に驚いてはいられない!追伸、金髪は未だ先のことになりそう。1978.4.20」 この後に少し長い手紙が続く。


「前略、お元気の事と思います。ここニューヨークもすっかり春めいた感じで暖かい陽射しが昼間のオフィス街を照らしています。僕のオフィスはマンハッタンのど真ん中にあり地上42階からの眺めは中々のものです。真下にはセントラルパークの緑をたたえた木立が一面に生い茂りそれに分け入るかの様にハドソン河の流れがニューヨークとニュージャージーを分け隔てています。今は下宿住まいで自炊も思いに任せませんがその分外での食事に舌つつみを打っている毎日です。今日はイタリア料理だったので明日はフランス料理にしようとか。その分食事代が毎月600ドルを数え230円×600ドル=138000円が飯代として消えていく格好です。破産寸前ではありますが気に入った家を見つける迄の辛抱だと耐えている次第です。参考迄に書きますと月給が手取りで800ドルだから何と4分の3が食事代に費やされている訳です。残りの200ドルは下宿代で小遣いの分だけ赤字になるという計算です。白洲の方は相変わらず飲み歩いて使っているのかな。今頃は彼女も出来ていつ結婚しようかなと迷っている頃だと思います。なるべく早くしてくれ。」


今から読み返すと44年前とは言え多分に詩的な要素もあって永井荷風の「アメリカ物語」には遠く及ばないが貧しいながら日々の生活を楽しんでいた様子が分かる。


この当時はマンハッタンの本社オフィスに通うにはとても市内のアパートに住む余裕はなく地下鉄で30分程のフォーレストヒルズに下宿していた。

そこはルーマニア人の老夫婦が2階の1室を間借りさせて一度台所で魚を焼いていたら凄い剣幕で止めるように言われた。匂い、煙が問題で要は自炊出来る環境ではなかった。


つまり一人住まいとしての生活の基盤さえ未だ出来ていなかった。新たに通い始めた5番街の本社オフィスは新築のピカピカの高層ビルで快適そのものだったが仕事の方は必ずしも恵まれていた訳ではなかった。それは追々話すことにしよう。さて期待に胸を膨らませて新天地のアメリカでの生活がスタートしたがこれからどんな毎日が待っているのだろうか。



31.アメリカトレーニーの期間中にこうして結婚した


大手電気メーカーの国内部門に入社して九州に2年半、沖縄に1年いてその間アメリカトレーニーに応募し一度合格の内定を貰ったが人事の都合で他の妻帯者を優先する事になり取り消された。沖縄では既に合格が発表されていたので居ずらくなり東京本社に戻り又1年後に再トライしてトレーニーとしての赴任が確定した。その頃の赴任を前にして同期の友人のアパートで一緒に飲みながらの会話。トレーニーはその時は独身としての赴任が条件であったが詳しい事情を知らない友人は「アメリカの金髪女と一緒になるつもりなのか。今まで付き合ってきた女の中で一緒になりたい相手はいないのか。もし心当たりがあるならここから電話すれば良い。」とけしかけられた。


福岡の独身生活の中で2年近く付き合った相手が一人いて沖縄に赴任する時に一緒に行かないかと誘ったが断られ、そのままになっていた女性がいた。普通に付き合っていた相手が急に転勤になりそれも福岡から沖縄では二の足を踏んでも無理からぬ話だろう。彼女とは先輩に教えてもらった天神近くの薬院にある市民図書館で知り合った。読書好きなので週末には良く図書館に通っていたがその中で時々見掛ける若い綺麗な女性がいたので話掛けてみたのがきっかけだった。旅行関係の本棚の前にいたので「旅行はお好きですか。」から始まったと思う。彼女は福岡市内の長尾にある建設関係の工務店の経営者の次女であった。どこで 待ち合わせても必ず30分は約束の時間に遅れるのである時痺れを切らして長尾の大きな家の回りをうろうろしていたら洗車をしていた父親に見つかりそのまま家の応接間に招き入れられた。何を聞かれたかは覚えていないがその時に母親が色々と気を遣ってくれて気に入られたのは記憶に残っている。


その夜に友達の電話を借りて連絡した訳だが母親から本人に取り次いで貰い久し振りに近況を語りあった。彼女には交際相手はおらず何度かの連絡の後に福岡で再会する事になった。それから先は話はトントン拍子に進み先ずは結婚を前提に赴任前に結納を交わす事になった。運命の悪戯はこのように面白い。もしあの時あの部屋から友達の電話を借りて連絡しなければその後運命はどのように変わっていたのだろうか。今は感謝しかない。


”前回のニューヨークから日本の竹馬の友に宛てた手紙の続き ”


僕の方も今年8月にはハワイで落ち合って初めの計画より半年早目にしてしまおうかと思ってる。8月12日にニューヨークを発って4、5日間松居さんの両親と妹と本人、うちは私ひとりが出席して小さな教会で形だけの結婚式をするつもりです。1年間も待ちきれないのと東京というより日本でやるよりは実のある想い出深い結婚式が出来ると思ったからです。暇と金があれば来て下さい。でも東京では帰ってから小さなパーティーをごく親しい人を集めてしたいと考えています。日本を離れてみると日本の良さが分かるというのは本当だという気がする。東長崎の細々とした街もこちらにはない代わりとても懐かしく想い出されます。瞼を閉じただけで僕はあの道を歩く事が出来るし白洲の家の中のこたつに足を伸ばす事が出来るので未だ想い出にしまい込むのは早すぎるけれども。結婚式の後ニューヨークの片隅にある田舎街で僕たちの新婚生活の一歩を始めたいと思っています。会社の方が半年後の結婚に反対なので公に友達には紹介出来ず必ずしもすべての人に祝福されてのスタートではないけれどむしろ細やかにひっそりと始めた方が良いと思います。僕は白洲と交遊を始めてから十数年手紙というものを貰った事がないけれど今回は遠く離れている事もありきっと筆無精の貴君でもくれることを確信しています。


7月から入りたいと思っているアパートは1ベットルームで350ドルの家賃です。フォーレストヒルズという緑の綺麗な住宅街で家賃が高い為黒人が入れず従って安全というニューヨーク市最後の砦というところです。リビングルームが16畳の広さで一つありこれはキッチンに繋がっています。冬には暖炉の火を灯せるのが楽しみでベットルームは8畳あるかないか位の部屋、バスルームはトイレと一つになった造りで地下室には洗濯機と乾燥機があります。これでしめて8万円というのは日本では少々無理かも知れない。ファミリーハウスという普通の住まいの1階を全て借りきってしまうという訳です。今心配しているのは車を買う予算がなくなりつつあるという点で僕がこちらにいる間に遊びに来ると良い。今度は奥さんもいるからちゃんと飯も作ってあげられるはずで博多の轍は踏まないつもりです。でも相変わらず金はないので沢山持って遊びに来て下さい。それでは今回はこの辺で失礼、近況を知らせて下さい。1978.5.14   


この時点ではすっかりニューヨークでの新婚生活をスタートさせるつもりでいたようだ。




32.アメリカでの新婚生活と突然の帰国


(友達への手紙)


「良く晴れた晩秋の日曜日の朝、こんな陽気に誘われて車でもあれば紅葉を観にハドソン河を越えてアップステイツの方へでも脚を伸ばそうかと考えている。ニューヨークはもうすっかり秋が遠のいて冬が駆け足でそこまで迫っています。白洲先生は如何お過ごしですか。可愛らしい子供たちに囲まれて落葉の溢れる校庭で二日酔いの目を光らせながら駆けっこをしている長閑な風景が浮かびます。小生は12月に帰国が決まりこれから先慌ただしくなりそうです。かいつまんで事情を説明しますとハワイで式を挙げて1ヶ月程ニューヨークで新妻と新婚生活を送ったのだけど滞在許可が1ヶ月しかなかった為に一度奥さんを帰国させざるを得なくなりました。その後交渉を会社と続けたけれどはかどらず家内を呼べる目処が立たないので一人こちらにいるよりはと帰国を決意したような訳です。一人身の気軽さは何かにつけてなくなったけどそれなりに結婚生活も楽しいと思うよ。ましてこれから日本に帰って始める訳だから夢があって良いと思う。今の内にニューヨークで 観れるもの、聞けるもの、行けるところを出来るだけ経験して帰ろうと思う。メインイベントは帰る時ヨーロッパ回りでパリ、ローマを経由して行こうかと思っている。


仕事は余り得るところがなかったけれど1箇所に10ヶ月いれば大体様子も分かるしニューヨークに関して言えば思い残すことなし。もっとアメリカ的な田舎の街に身を置きたかったと悔やまれることしきり。ロスとサンフランも観れずに帰るみたいだな。白洲先生は毎日どのようにお過ごしですか。嫁さんは決まったかな。それだけが気掛りで早く一人前の男になって下さい。小生は今のところ半人前ですが。人間は本質的にどこに居ても変わらないしこのような短期間では余りアメリカンナイズされていないので期待しないで下さい。あいつスケールが大きくなって財布のヒモも軽くなっただろうと想像されると困るので。人間の住む社会というのはそう変わるものじゃないというのが僕の哲学みたいなもので日本もアメリカも多分ヨーロッパもそう変わらないというのが正解みたいだ。一方ではおとぎ話の国を想像してそういう夢を持っていたのだけど結局見つからなかったようだ。どこかもっと夢のある楽しい国はないかしら。中南米なんか良さそうな気がするけどどうかな。早く日本に帰って赤ちょうちんで一緒に飲めるのを楽しみにしています。引っ越して住所が変わったので手紙をくれる時に注意して下さい。最近又こちらに来てから英語の学校に通っている。会社では日本人と話す機会が多いしアメリカ人がまともに話し出したらついて行くのが精一杯というところなので。今日はこれからその予習でもしようかと思っている。夜も更けて来たので一まずこの辺で失礼。 1978.OCT15th.PM9.00、To.Shiras.from.T.K」28歳


会社からはトレーニーの期間として2、3年は独身と言われていたが自分の結婚についてそんな条件を付けられるのはおかしい、納得出来ないと人事部と掛け合う事にした。まずは出身母体の国内営業部門の専務宛に窮状を訴える手紙を書いた。それを受け取った専務はその手紙を本社の人事部にそのまま持ち込んだと後から聞いた。これがその後人事部のブラックリストに載る事になった。トレーニーとしての3年間を独身でまっとうするか、直ちに帰国するかどちらかを選ぶように本社の人事部長からの指示があった。婚約者からはそういう事情なら3年間待っても良いと言われ、それをまっとうすれば会社からはあなたの将来はそれなりのものにはなるでしょうと説諭された。自分にとっては究極の選択ではあったが会社の命令には従わず1年未満であったが帰国を選択した。


一見深刻な話のようだが何が正解なのかは誰にも分からない。このままアメリカに3年間留まっていればその後ハッピーなサラリーマン生活が送れたのかという保証はどこにもない。むしろ正しい選択をしたように思えてならない。さて帰国を控えこれから先はどうなるのだろうか。




33.窮地で一生の恩人と巡り合う


アメリカでのトレーニーとしての10ヶ月間は決して夢溢れるハッピーなものではなかった。当時はオーディオ部門のマーケティング担当部署の中で来る日も来る日も新聞広告の切り抜きと年老いた女秘書の嫌がる大量のコピー取りが主な仕事であった。自分は厳しいトレーニーの試験をくぐり抜けて選ばれたはずなのになぜこのような仕事をしなければならないのか悩んでいた。結婚問題に加えて与えられた仕事への不満がこの帰国という決断を後押した。不幸な事にこのオーディオ部門にいた日本人マネージャーは自分達で人事に派遣を要請しておきながら日本から来たトレーニーをどう育てようかとのビジョンを持っていなかった。まるでコストの掛からないアルバイトを得るような感覚であるかのように。


窮すれば通ずではないがこの時期に業務用、放送局機器の全世界のマーケティング統括責任者の宮元常務が出張でこちらを訪問し面接の機会を得た。「しかじかの理由で身の振り方に困っています。このままアメリカに留まるのも一つですが出来れば常務の営業部門で働かせて頂きたいです。」「分かった。未だ立ち上げて間がないので今なら米国、欧州どちらでも好きな方を選んで良い。」と言われ欧州地域担当を要請した。


このトレーニーの1年未満の人事部の間での結婚トラブルについて自分とは全く繋がりのない部署の1人の日本人社員がこれはおかしいという正義感と頼りないトレーニーへの同情心もあってか本社人事部と掛け合ってくれた。これが本社の広報部から派遣されていた大樹マネージャーだった。この出来事がその後の自分の永いサラリーマン生活に大きな影響を与える事になった。捨てる神あれば拾う神であった。後の本社の専務取締役になるその人だが。「なぜ個人の結婚問題に会社が干渉するのか、おかしいではないか。」人事部としては「独身が条件でトレーニーに採用したので予算も独身用しか確保していない。」この平行線の議論は日本に帰国するまで覆る事はなかった。ただこの時期にこのようなタイミングで本社の放送機器海外営業部門のトップと面接をセットしそのまま迎え入れて貰えるというのは常識で考えられる話ではない。この人が掛け合ってくれたのではないのか。世の中には偶然とか、幸運というのは概してないものだ。殆どは人によってなされる必然なのだとその時に学んだ。28歳




34.ニューヨークの思い出


ニューヨークでの生活を振り返ると忘れ難い思い出もいくつかあった。


アパートのあったフォーレストヒルズの街中の小さな映画館に週末に一人で入った。タイトルは覚えていないがアクションではなくコミカルな人情物の映画だったと思う。観ていて9割の言葉は分かるのに後の1割が分からない為に観衆の笑いから取り残されてしまう。いくら日本の教科書で勉強してもその辞書にさえ載らない”スラング”という黒人や特殊な階層の人達が使う俗語がありこればかりはそこで生まれて育った人でないと理解出来ないのだ。周囲が可笑しそうに笑っている時に取り残されまいと作り笑いをする自分がそこにはいた。自分の語学力がどれ程のものか試したければまず字幕スーパー無しの洋画を観ればすぐに分かる。


本社オフィスの中でもブロンド美人はいくらでもいる。その中で特に目を引いたのはそれ程背は高くないがスタイルの良い足首にアクセントとして金の細い鎖を巻き付けた生粋の目の覚めるようなブロンド美人がいた。その人とは廊下などで良くすれ違うのだがにっこりと笑いかけ目が合えばハイと挨拶もしてくれる。それは別にこちらに気がある訳ではなくごく自然なアメリカ人の習慣なのだ。


いつか機会があれば声を掛けてお茶や食事、映画などに誘ってみたいとは思うもののそんな勇気もなくただ遠まきに見ているだけであった。例えデートに誘えたとしても言葉の壁で会話にならないだろう。益して育った環境も教育も習慣も全てが違うのだ。これは想像するしかないがその後何組かの国際結婚をしたペアーが全て離婚した例を見るとやはり結婚はベッドだけではなく日頃のコミュニケーションで成り立つものなのだろう。食生活も極めて大事な結婚生活の一部だがブロンド美人に味噌汁と漬物を期待するのは所詮無理な話なのだ。


週末にマンハッタンを散策しながら緑が恋しくなればセントラルパークを訪れる。又独り身の寂しさを紛らわす為に時として女子に話しかけることもあるがその時に分かった事が一つあった。それは東洋人の女性からは時折色よい反応が返って来るがアメリカ人を含めた西洋人からは素っ気ないものだった。やはり自分の顔は東洋人そのもののフラット系でこれが原因のようだ。親はなぜもう少し彫の深い顔に生んでくれなかったのだろう。


WEEK DAYの夕暮れ時に5番街の交差点を歩いていると向こうからミンクの毛皮のコートに身を包んだ背のすらりとした女がこちらに歩いて来るのが目に留まった。すれ違い様に顔を見るととてつもない美人でどこかで見た事があるな、銀幕スターの有名な女優だな、確か十朱幸代じゃないかなと気がついた。付き人もなく一人無防備に5番街を散策している女優の姿はただただ眩しかった。「あの失礼ですが女優の十朱幸代さんですか。」恥じらう様に「はい、そうですが。」「もしお時間があれば少しお話出来ませんか。」その時は残念ながら仕事中で心の余裕もなく想像しただけでそうはならなかった。柳の下に2匹目の泥鰌はいなかった。20歳の頃に出会った滝川由美を思い出したがそれにしても輝くような美人だった。


ニューヨークという街はWHO LOVE OR WHO HATE NEWYORKと言われている。これは単純な話で金持ちには堪らなく快適で居心地の良い街であり貧乏人にはあくまでも冷たく何の楽しみも与えない街なのだ。寒さと飢えを凌ぐだけの生活のような。自分の場合はどちらであっただろうか。少なくとも前者でなかったのは確かだが貧しい階級との中間であったと思う。生活に余裕はなかったがそれなりに充実した時間を過ごす事が出来た。機会があれば又行きたいか。答えは当然イエスである。



35.エピローグ 世界は広かった


この手記もいよいよこの35話を以って終焉となる。アメリカの1年弱の滞在が何も収穫がなかった訳ではない。むしろその後の人生にどれだけ影響を与えたかを思うと感慨深いものがある。人生にもしもはないがもしもあの時カネボウ化粧品に経理マンとして働いていたら、富士ゼロックスの国内セールスに従事していたらこのような人生を過ごせただろうか。


アメリカ滞在の間に英語はしっかりと着実に上達していた。入社試験時に問われた「あなたは外人と英語で喧嘩が出来ますか。」の問いに「はい、出来ます。」と答えられるようになっていた。勿論ビジネス上の様々なルールは後から習得する事になるが少なくても言葉の上ではいつの間にかそのレベルになっていた。その言語力が役に立ちその後どれだけの国々と都市を訪問しただろうか。それは28歳でトレーニー終了後に帰国し定年退職までの30年余の期間に訪問した国々と都市であった。これらの全ての国と都市に思い出があるがそれらを一度整理してみたい。


アメリカ:ニューヨーク、フィアデルフィア、シカゴ、デトロイト、ウイスコンシン、ロサンジェルス、サンホセ、ニューオーリンズ、ラスベガス、ハワイ   

<ヨーロッパ>

オランダ:アムステルダム、ユトリヒト、アイントホーフェン

ベルギー:アントワープ、ブリュッセル

ドイツ:ミュンヘン、デユッセルドルフ、ケルン、フランクフルト、シュツットガルト、東ベルリン

フランス:パリ、ニース、マルセイユ

スイス:ジュネーブ、チューリッヒ、ツーグ

スペイン:マドリード、バルセロナ、グラナダ カナリー諸島

ポルトガル:リスボン

イタリア:ローマ、ベネチア、ミラノ、ナポリ

ギリシャ:アテネ、クレタ島

イギリス:ロンドン、ベージングストーク

フィンランド:ヘルシンキ

ノーウェイ:オセロ

スウェーデン:ストックホルム


<東南アジア>

中国:北京、上海、広東省、深セン、青島

香港、マレーシア:クアラルンプール、タイ:バンコック、インド:ニューデリー、シンガポール、韓国:ソウル、プサン 


<中南米、アフリカ>

パナマ、エジプト:カイロ


これらの中には数日の滞在もあれば長い期間繰り返し滞在した都市もあった。自分は一体恵まれたサラリーマン生活を送ったのか。どれだけ多くの人がこれらの経験を成しえるだろうかを考えると恵まれていたように思う。全てのスタートは中学生時代に近所の英語塾に通い始めそこで出会った慶応英文科の美人学生教師への憧れに始まり、勧められるままにNHKラジオ講座の基礎英語(松本亨講師)を聴講し続け英語に目覚め世界が開けたのだ。人間何が幸いするか分からない。だから人生は面白い。 (了)




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] コンパクトに自分の人生がまとめられている。 [気になる点] 読点が少ないので、少々読みにくかった。 [一言] 退職後のお話を期待します。
[良い点] 最後まで読みたくなるところでしょうか。 [気になる点] まずタイトルと内容に関しては一貫性がなく、しいて言えば自伝でしょう。また、最後のエピローグはそれまでの内容と関係性がないように思う。…
[良い点] 英語と国語が好きな青年の素直な冒険記である。 [気になる点] 表題は、すこしCATCHYな感じでもう少し違った経験が書けるような気がする。例えば、多くの海外出張・赴任の経験をさらけ出しても…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ