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EP-7 すえ

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 二章 その島鳥はまだ歌い方を知らない

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EP-7 すえ


 小学生の頃は何もかもが新鮮で、青い空を見上げたり、輝く海原をただ眺めたり、学校への林道で木漏れ日に抱かれながら、キラキラと光る木々の支脈を眺めるだけで、なんというか、生への実感で胸が満ちあふれた。


 けれどもそれは少しずつ色褪せて、空をいつもの空としか見なくなり、海にも木々にも日射しにも、感動をしなくなっていった。

 塔ヶ崎杏と出会うまで、俺は慣れ切ってしまった世界で、ただなんとなく生きていただけだったのだろう。


 それがいつの頃か、世界は再び極彩色の輝きを取り戻し、空気が瑞々しい潤いを持って、なんの変哲もない風が甘い香りを漂わせるようになった。

 兄貴と同じ遊びに夢中になって、毎日一緒に下校しては一緒は笑い合っていたあの頃の感覚に似ている。俺は今その感覚を、塔ヶ崎さんに感じていようだった。


「先日は冷静さを欠いておりました、誠に恥ずかしい限りです。海原聡殿……」


 そんな塔ヶ崎さんとの毎日が当たり前になったある日、俺は玄関の前にあの老執事を見つけることになった。

 表情は変わらず厳しかったけど、それは折り目正しい性格ゆえなのかもしれない。


 彼がヨシュアに向けたあのだらしない笑顔を思い返すと、迷惑感よりも彼への好奇心が勝った。

 いや、俺はただ単に塔ヶ崎さんのことをもっと知りたかった。


 だからお詫びに夕食をご馳走したいという彼の誘いに乗って、一緒に繁華街への下り坂を進んだ。


「わたくしは見ての通り、塔ヶ崎家の使用人をしております。名を鈴木惟道を申します」

「あ、これはご丁寧にどうも。惟道……古風で良い名前ですね」


「ありがとうございます。幼い頃のお嬢様は、コレミチコレミチと、口を開くたびにわたくしの名を呼んで下さいましてな、あの頃のお嬢様は本当に……」

「あんなに美人なんだから、小さい頃はきっと反則級だったでしょうね」


「見ますかな?」

「写真とかあるんですかっ!? あ……っ!」


 惟道さんの手帳から、色褪せた写真が現れた。それは正しく反則級だった。

 あまりのかわいらしさに、ついポケットの中のスマホに手をかけてしまいそうになった。


 撮らせて下さい。なんてさすがに言えない。

 今の塔ヶ崎さんからは想像が付かないような、無垢で少しやんちゃな笑顔がそこにあった。


「素晴らしいでしょう……。この子が、コレミチコレミチとあどけない口調で、わたくしを呼ぶのです」

「こんなかわいい子に言われたら無理もないでしょうね。あ、そこの店でもいいですか? 実はバイト先なんです」


 因幡さんの喫茶店に入って、コーヒーと紅茶、それに前から気になっていた煮込みカレーを注文した。

 因幡さんが言うには、店によってはレトルトカレーを三日煮込んだと称して出すところもあるそうだ。


「客連れて来てくれてありがとな。ごゆっくり」


 トロトロにほぐれた牛筋肉が絶品だった。

 ギットリしているけど、カレーと脂と米の相性は天地創造前から最強と決まっていた。


「して、ここからがわたくしの本題でございますが……お嬢様のことです」

「念のため言っておきますけど、俺たち付き合ってませんよ? ただの友達です」


「……それはどうでしょうな。島でのバカンスを楽しみながら、お二人を監視させていただきましたが……。それはどうでしょうな」

「いやどうもこうもありませんよ。ああ、それで肝心の本題はなんですか?」


 しかし因幡店長、普通にレストランとか開いた方がいいんじゃないだろうか。

 美味い。香辛料で吹き出た汗を、冷房がすぐに乾かしてくれてそれが気持ち良かった。


「お嬢様には悪いですが、お嬢様がこちらに越してきた事情を貴方にお話しましょう」

「確かに塔ヶ崎さんには悪いですけど、そこには俺も興味があります」


 カレーから惟道さんに目を上げると、彼がハンカチで目元を拭う姿があった。

 歳を取ると涙腺が緩くなると本で読んだ。それとラッキョウはやはり、スプーンで食べるのに適していない。


「お嬢様は、とても可哀想な方なのです……。幼い頃は両親に愛され、仲睦まじくお屋敷で暮らしておりました。しかし人の情は移りゆくものございます。旦那様の会社が成長するにつれ、その忙しさゆえに夫婦の関係が冷え込み――最後はお嬢様は奥様と共に、屋敷を出て行くことになりました……」


 それはどこにでもあるような不幸話だった。

 コーヒーをすすって、店長に目を向けると小さく笑い返された。今も聞き耳とか、立てられているのかな。


「ですがお嬢様の不幸はそれだけではありません。ほんの一年前のことでございますが、お母上を亡くされたのです」

「そうなると、親権は……?」


「はい。旦那様がお嬢様を引き取りました。しかしですな……離婚した富豪の男に、言い寄る女性は数知れず。いくら娘がかわいいと言って、独身を保つのも無理でございましょう」


 店長が入れたコーヒーよりも苦い話だった。


「お嬢様が帰って来られた屋敷には、既に他の家族がいたのです。お嬢様にとってそれは裏切りでしかなかったようですな……。あんな若さで母を失い、父が他の女の家族となっていたら、それは耐え難い苦しみでしょう……」


 塔ヶ崎さんは神秘の吸血鬼じゃなかった。どこにでもいる普通の女の子だった。

 彼女は逃げるようにこの島に来て、だから家族の象徴であるイスを捨てたのだ。


 たぶん、そこに存在しているだけで許せなかったのかもしれない。

 他の家族がそこに座っていたイスだからだ。


「ですがこのままで良いわけがありません。わたくしは旦那様とお嬢様のために、説得に来たというわけでございます。旦那様はお嬢様とのやり直しを願っております」

「……それはでも、難しいんじゃないかな。塔ヶ崎さんの心の傷はきっと、惟道さんが思っているよりも大きいと思いますよ。だってあの別荘、テーブルにイスが一つしかなかったんです」


 惟道さんはやさしい良い人だ。

 俺の言葉を聞いて、涙を見せまいとハンカチを目元に当てていた。

 和解して、執事として塔ヶ崎さんと一緒に暮らせる日を夢見ていたのだろうか。


 惟道さんが落ち着く頃には、カレーの皿が空っぽになっていた。

 ありがとう店長、美味かった。


「聡殿……いや聡くん、本当にお嬢様とは付き合っていないのですか?」

「当たり前じゃないですか。だって塔ヶ崎さんは――」


 しかしそこから先を口にするべきか迷った。下手を打って塔ヶ崎さんに拒絶されたら、嫌だ。

 ただここまで言いかけたら向こうは知りたがる。

 学生のバイト代からするとお高くて、凄く美味しいカレーをご馳走になったお礼もしたかった。


「塔ヶ崎さんはうちの兄貴のことが好きなんだ」

「なんと……!?」


「俺も兄貴と付き合って欲しいって思ってる。……もし彼氏が出来たら、塔ヶ崎さんも救われるんじゃないかな」


 惟道さんはそうは思わないらしい。渋い顔をして冷たくなった紅茶を飲み干した。

 俺にとっては自慢の兄貴でも、彼にとっては突然現れた若造だ。


「それは寂しさゆえでは? 孤独に暮らすお嬢様は、無意識に依存出来る相手を求めて、恋人を欲しがっているのかもしれません」

「まあ……けど仮にそうだとして、それのどこが悪いのか俺にはわからないな。友達付き合いの原点だって、結局はそこでしょ」


 解決の糸口すら見えない実家に戻るより、ここで兄貴と恋人になった方が塔ヶ崎さんは幸せだ。

 それに最近の塔ヶ崎さんは笑顔が多くて、俺には実家に戻ることが正解には見えない。


「ですが、ですがわたくしは……あ、過ちが、心配でございます……」

「過ち? ああ……まあそこは……ま、高校生だしね。あるかないかで言えば、あるかも……」


 山のように積み重なった寂しさを解消しようとすると、そうなるのかもしれない。

 より強くて確実な結び付きを求めるだろう。


「貴方のお兄さんというと、あの元気に走って帰る、あの方ですな?」

「あ、知ってるんですね……。いやあの通りの兄ですけど、やさしい自慢の兄なんです」


「…………にわかには信じがたいですな」

「えーー」


「わたくしはむしろ、ヨシュアが認めた貴方の方がまだ信頼が置けますぞ……。聡くん、杏お嬢様とヨシュアを、これからもよろしくお願いいたします」

「兄貴の彼女になってくれる人なんだから、そこは当然ですよ、俺に任せて下さい。……特にヨシュア回りを」


 ヨシュアは偉いな。孤独な塔ヶ崎さんのナイトとして、今日まで彼女を守り続けて来た。

 俺に甘えるヨシュアに、塔ヶ崎さんが嫉妬したのも当然だ。


「カレー美味しかったです。今度良かったら、ヨシュアと一緒に散歩でもしましょう」


 その何気ない一言は、惟道さんの好感度を爆上げにした。

 ヨシュアを上手く餌にすれば、ここのカレーをまたご馳走してもらえそうだった。


投稿が遅くなってすみません。新作の準備に追われています。


また、嬉しいことに並行連載作の

「ポーション工場へと左遷された俺、スパイに拉致され砂漠エルフのお抱え錬金術師となる」

が新人発掘コンテストの最終に残りました。

どうかこの機会に読みに来て下さい。女の子とのキャッキャウフフを重視した明るく楽しいお話です。

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