EP-6 生せよ 2/2
そう思ったけれど、やはり物事には順序があるのではないかと思った。
いややっぱりダメだ。ソフトランディングだ。ソフトランディングを目指したい……。
というか、顔近いっ、近過ぎるっ、兄貴の彼女(予定)と何やってるんだよ俺っ!?
「兄貴も――えっと、その、こういう本を読んでるときも、ないことも、なきにしもあらずで……」
待て、嘘は言っていないけど、何を言っているんだ俺は……?
「本当!? じゃあ、その本、聡くんが気に入ったら、博嗣くんにそれとなく……」
「読ませろと……?」
「うん……私の好きな作品、博嗣くんにも好きになってもらえたら、嬉しい」
「わかった……。本人の好みに合うかわからないけど、俺なりに善処してみる……」
おかしい。なぜ俺はデタラメを言っているのだろう。
壁に押し込まれているとはいえ、こんな無責任な約束を交わしても誰も得なんてしない。
兄貴がこんな、女性向けの恋愛小説を果たして真面目に読むのだろうか。
見たところなかなか硬派な感じで、これはこれで好ましい。
けれど断言出来る。これは文芸寄りだ。決して兄貴の趣味ではない。
「まずは読んでみるね……」
「うんっ、私、聡くんの感想も聞きたい!」
なんて良い笑顔をするのだろう。
無責任な約束をしてしまった自分が嫌になった。
こんなのはいつもの俺じゃない。どうかしている……。
「ああそうだ、これは俺のオススメ。選び抜くのに苦労したけど、どうにか二十冊までに抑えたよ」
「に、二十冊……?」
学生カバンから本を二十冊出して、本棚の空きに挿入していった。
大事な本だけど、塔ヶ崎さんになら借りパクされたっていい。
「少なかったかな……」
「そ、そんなことないと思う……。でも聡くん、教科書は……?」
「もちろん、学校に置いてきた。必要なら兄貴の借りればいいし」
「そう……。わかった、私も気になったのから読んでみる……」
そこにヨシュアがやって来た。
自分で自分のリードをくわえて、嬉しそうに息を乱しながら俺たちに期待の眼差しを向けている。だけど――
「ヨシュア、今日はお客様が来ているから、諦めて」
「クゥゥン……」
それはヨシュアにとっては悲劇だった。
悲しそうな鼻声を上げて、諦めきれないのかさらに悲しげに鼻を鳴かせた。
「そんなこと言ってもダメ」
「アゥゥゥゥ……クゥゥンッ……」
「ねぇ塔ヶ崎さん、凄い悲しそうなんだけど……。まるでこの世の終わりみたいだ」
「うん、でも普段はこんなわがまま言う子じゃないの……」
「アウッ!」
ヨシュアの前に膝を落とすと、一緒にお散歩行こうよとリードを渡された。
賢い。そして甘え上手だ。期待に輝く黒目を見ると、とても断れそうもない。
「塔ヶ崎さんも一緒に行こうよ」
「オンッオンッ!」
「ダメ……。だって、近所でも私、目立ってるから……。聡くんに、迷惑がかかるかも……」
「そうなの? って、ちょ、ヨシュア!?」
なら二人で行ってくると、ヨシュアが制服の袖を引っ張った。
忠犬とは言えない挙動だけど、やっぱり賢い……。
「アウッアウッ!」
「メチャクチャ行くって言ってるけど……?」
「はぁ……。わかった。後でお礼するから、ヨシュアのお散歩、お願いしてもいい……? あ、交番の場所は……」
「さすがに迷子になんかならないよ。じゃあ少しだけ行ってくる。半分はヨシュアに会いに来たようなものだから」
俺は荷物を塔ヶ崎さんの家に置いて、ヨシュアとの楽しい散歩に出かけた。
・
こんな機会でもなければ、大型犬との散歩なんてそうそう出来るものではないだろう。
だったら考えようによってはついている。
付近の別荘地をグルリと回ってゆくと、定年を終えた老父らしき人たちと通りすがった。
あまり俺のことを気にしている素振りはなかった。
別荘の持ち主が入れ替わったり、人に貸されたりすることなんて、そう珍しくないのかもしれない。
「オンオンッ!」
「いやいや、そっちはダメだよ、ヨシュア」
「クゥゥン……」
「鳴いてもダメだってば。お前にダニが付いたら、兄貴の未来の嫁さんの機嫌を損ねることになる」
「オン……??」
「さすがにわかんないよね。俺もなんだか、少しわかんなくなってきた……」
俺はなんであんな安請け合いしたのだろう。
塔ヶ崎さんの前に立つと、冷静な判断を失うことが多い。これが美少女の魔性ってやつなんだろうか。
「オンッ♪」
「いやそっちは遠回り……っていうか、二周目コースになるんじゃ……?」
「キュゥゥンッ……」
「しょうがないな。俺とお前の初めての散歩祝いだ、今回だけだよ」
塔ヶ崎さんには悪いけど、でかい犬に引っ張られて歩くのって楽しい。
さっきの老夫婦ともすれ違って、軽く挨拶も出来た。彼らは俺じゃなくて、ヨシュアの方が気になっていたみたいだ。
塔ヶ崎さんのことをそれとなく聞かれたので、美人過ぎて誤解してしまうけど、いい子ですと保証しておいた。
かくして二周目(遠回り)の散歩を終えて、俺はやっとこさ白亜のお屋敷の前に戻ってきた。
するとその軒先に思わぬ人影があって、俺はとっさに身を隠していた。
塔ヶ崎さんと老いた男性がもめている。
助けに入った方がいいのだろうかと思う反面、彼女の事情は複雑で、介入を嫌がるような気もした。
「嫌、帰らない」
「ですが、それでは――」
もっと近くに寄らないと上手く聞き取れない。
俺が一人称で書かれた小説の主人公みたいに、変な地獄耳だったらよかったのに。
どうしても気になるので、ほんの少しだけ距離を詰めようかと一歩を踏む。
「オンッッ♪♪」
「あ……」
けれども全てをヨシュアが台無しにしてくれた。
塔ヶ崎さんとお爺さんの視線が俺に向けられて、片方に鋭く睨まれた。
「誰だお前は?」
「お友達。今日は、オススメの本を交換しにきたの」
「そんな……。旦那様がお嘆きになられますぞ……」
「別に。あんなの父親じゃない。もう帰って……。聡くん」
帰れと言われたのは俺ではなく、意外にもお爺さんの方だった。
塔ヶ崎さんがいきなり詰め寄ってきて、ヨシュアごと俺を家に引っ張り込んだ。
「お嬢様ッッ!! 貴様ッッ、お嬢様に何かしてみ――」
「オンッッ♪」
おかげで俺は鬼の形相で睨まれてしまった。
ただヨシュアがお爺さんに声を上げて挨拶すると、ちょっとだらしなくその顔が緩んで言葉を止めたので、たぶん悪い人ではないんだと思う……。
「はぁ……っ」
玄関をくぐって鍵を閉めると、塔ヶ崎さんは疲れた様子で扉にもたれ込んでいた。
「大丈夫?」
「うん。気にしないで、こっちのことだから……」
「そうもいかないよ。塔ヶ崎さんには、兄貴と上手くやってくれなきゃ困る。だから話したくなったら相談してよ」
するとまた言葉を間違えたらしい。
一瞬、また疑うような目が俺をのぞき込んだ。それからため息だ。
「聡くんは変な人……。それ、下心なしで言ってるんでしょ……」
「そうだけど? だって未来の兄貴の彼女だし」
「ふふ……聡くんのこと、私、少しずつわかってきた。でもどうしてそんなに、博嗣くんのことが好きなの? もしかして、貴方って、ソッチ系……?」
「え、ソッチ? ああ、ホモってこと? 違うよ。むしろ弟が兄貴を慕うのは、当然のことでしょ?」
「ん、そうなのかな……。弟になったこと、ないから、わからない……」
「まあでも、しいて言うなら……」
「うん、しいて言うなら?」
「小さい頃から兄貴は、俺が同じオモチャで遊びたがると、一緒に遊んでくれるんだ。テレビのチャンネル争いなんて、数えるくらいしかしたことない。この時点で完璧な兄貴だろう? だからお買い得だよ、うちの兄貴」
世間一般的に、それは絶対にあり得ないことだと友人に教わった。
兄貴は兄貴としての誇りがあって、俺のことを昔から大事にしてくれていた。
「博嗣くんって、聖人……?」
「だから言ったでしょ、自慢の兄貴なんだ」
外ではコミュ障だけど……。
しかしこれは弟として良いサポートが出来た。塔ヶ崎さんの兄貴への評価が、一段回上がった感じだ。
あれ? でも、その分だけ、ソフトランディングが遠のいた……?
「あ、そうだ。良かったら明後日、一緒に――」
ある約束をして、もう日が暮れてきていたので塔ヶ崎家を出た。
ヨシュアに別れを惜しまれながら。
そんなヨシュアに眉をしかめて、嫉妬混じりに塔ヶ崎さんはこう言った。
「そんなに聡くんが好きなら、聡くんの家の犬になったらいい」
ちょっとすねたような言い方だったのが印象的だ。
今日の一件で、なおさら兄貴の彼女になってもらいたくなった。
塔ヶ崎さんと兄貴が付き合えば、俺はヨシュアに公然と会いに行けるからだ。
見飽きていたはず島の風景が、日に日に輝きを増している。
その中心にはヨシュアと塔ヶ崎さんがいる。特に散歩が楽しかった。今度は塔ヶ崎さんとも一緒に歩きたい。
そんな感情の正体を、俺はまだ理解できていなかった。