EP-6 生せよ 1/2
『あめ、つち、ほし、そら、やま、かは、みね、たに、くも、きり、むろ、こけ、ひと、いぬ、うへ、すえ、ゆわ、さる。生せよ、榎の枝を、馴れ居て』――あめつちの詩。
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奇妙なことと言えば、日に日に塔ヶ崎さんを目で追うようになっていたことだ。
不思議なことにそれは塔ヶ崎さんにも共通していて、俺たちはたびたび目と目を重ね合っては、この奇妙な関係を怪しんだ。
知れば知るほど気になるというか、もっと知りたいというか、人目を気にせずに話せる放課後の到来が、今は待ち遠しかった。
「待って兄貴っ、今日は一緒に帰ろうよっ!?」
「ダメだ、今日は予約があるっ!」
ホームルームが少し早く終わって、待ちわびた放課後がやって来た。
そこで俺は兄貴の教室の前に向かって、一緒に帰ろうと誘うことにした。
兄貴をまず確保してから、塔ヶ崎さんに声をかける。そういう計画だった。
けど今日はゲームか何かの発売日だったみたいだ。
兄貴はわき目も振らずに俺の隣を全力疾走で通り過ぎて、下駄箱への階段を元気に飛び降りていった。
恵まれた身体能力の無駄遣い。そんな言葉が頭に浮かんだ。
ふと背後を振り返れば、兄貴を目で追う塔ヶ崎さんの姿を見つけた。
やっぱり兄貴のことが好きなんだな。
予定を元のレールに戻して、塔ヶ崎さんの方に声をかけることにした。
ああ、それにしても気恥ずかしい。
授業が終わるなり走り出す兄貴の姿は、ほぼほぼ小中学生のノリだ……。
今日こそ失望していたりしないだろうか……。
「ごめん、捕まえ損ねたよ……」
「い、いいよ……見ているだけで、私、十分だから……」
良かった。今日も塔ヶ崎さんは純情で盲目だった。
「塔ヶ崎さんはひかえめだね。良かったら今日も一緒に帰ろうよ」
「うん……! もちろん、そのつもり。昨日、約束したから……」
「ヨシュアにも会いたいしね」
「あの子も聡くんに会いたがってる。会いに来て」
主役不在のまま、俺たちは一緒に下校を始めた。
高台の学校からジグザグを描いて坂を下りて、別荘地への分岐までやってくると、またジグザグを描いて上ってゆく。
人はなぜ坂に惹かれるのだろう。
ヤギが傾斜面に登りたがるようなものなのだろうか。
坂を登るのは当然きついけど、木々の木陰が日差しを遮ってくれて心地よく、隣を振り返れば塔ヶ崎さんの向こうに、小さくなってゆく街が見えた。
「地元なのに、そんなに珍しい?」
「特に用事がなければ、わざわざ来るような場所じゃないよ。それに塔ヶ崎さんと一緒に歩くだけで、風景が輝いて見えるみたいだ。面白いことこの上ない」
「そう……」
季節はもう6月、もうすぐ夏本番だ。
ギラギラして綺麗だけど、うんざりするほどに暑い季節が来る。
「確かに綺麗だと思う。色々あったけど、私もここでなら無心になれる気がする……」
塔ヶ崎さんは心配になるところがあるけれど、今は共感してくれたのかやさしく笑っていた。
何があったのか。それは関係を壊しかねない禁句だ。
・
あの白亜の豪邸にたどり着くと、玄関の扉を開くなりヨシュアが俺に飛びついてきた。
危うく押し倒されそうになるのを踏みとどまって、顔をベチャベチャに舐められて、ありとあらゆる歓迎を受けた。
「ヨシュア、それ以上は、お客様に失礼」
「オンッッ!!」
目を輝かせて、三弁回ってワンだった。
玄関を抜けてこの前の居間に移動すると、黒檀のテーブルに桐のイスが一つ増えていた。
もしかして俺、ヨシュアだけではなく、塔ヶ崎さんにも強く歓迎されているのだろうか。
「凄いテンションだね。こんなに人なつっこい子、初めてみたよ」
「私もこんなヨシュア、久しぶりに見る。勇ましいって言われたの、嬉しかったのかも……」
「オンッッ!」
ヨシュアの撫で心地いっぱいの頭を撫でて、塔ヶ崎さんの家をあらためて眺めた。
俺の中ではまだ、この家はミステリーの塊だ。
「麦茶、飲む?」
「もちろん。あの坂は散歩して楽しいけど、結構汗かくね」
「うん、だから普段は家に戻ったら、すぐシャワー浴びちゃう。部屋に行ったら、エアコン付けるね」
「あ、なら先に行ってきていいよ、シャワー」
すると言葉を間違えたのか、塔ヶ崎さんが疑うような目を向けてきた。
けど何かを納得したみたいで、大きなグラス二つに氷を移すと、トレイに乗せて俺に渡した。
「……悪気がない分、たちが悪い」
「え、なんのこと?」
早くエアコンのある部屋に行きたいのか、塔ヶ崎さんは暑そうに麦茶のボトルを抱いた。
「もしかして、聡くんって、たらし……?」
「まさか。俺の恋人は本だよ。現実より空想の方が都合も良くて好きかな」
無言で塔ヶ崎さんが歩き出すので、背中を追ってゆくとそこは彼女の寝室だった。
前回は拝むこともなかった二階の部屋だ。少し気になっていた。窓から外をのぞくと、期待以上の見晴らしが俺を待っていた。
その部屋には天井に届くほどの立派な本棚がある。
俺はその前に駆け寄って、想いの他に見事な蔵書たちを見上げた。
「これ全部、塔ヶ崎さんの?」
「違う。ここから、ここまで……私の」
塔ヶ崎さんの本は、その右下にある5%ほどだそうだ。
熱心な注目がそこに向けられると、彼女は小さな女の子みたいに恥ずかしそうにしていた。
「どれがオススメ?」
「う、うん……聡くんなら、これかな……」
そう言って彼女は大きな図鑑を引き抜いて俺に渡した。
一冊で諭吉が複数人消し飛ぶようなやつだ。ズッシリと重くて、古い本特有のカビ臭い匂いがする。
表紙をよく読まず開いてみれば、それは古い海洋図鑑だった。製本されたのは昭和中期らしい。
「図鑑を渡されるとは予想していなかったよ」
「図鑑は下手な本より面白い、と思う……」
「確かにね。じゃあこれを借りていくよ。メチャクチャ重いけど……」
「ごめん、そこは考えていなかった……。男の子、家に招くなんて、聡くんが初めてで……」
「これも借りていい?」
塔ヶ崎さんの本棚から恋愛小説らしきものを引き抜いた。
これも古い物だ。大量生産大量消費されてゆく本の世界の中で、処分されずに生き抜いてきた古強者だった。
奥付を見るとこれは昭和後期のようだ。
こんなきっかけでもなければ、誰にも読まれずに役目を終えていただろう。そう思うとさらに興味が沸いた。
「そ、それは……本当に、読むの……?」
自分の本なのに見るからに恥ずかしそうにしていた。
俺からすると興味深い。反応があるということは、彼女の心を動かす何かがこの本にあったということだ。
「何か問題ある? ダメなら諦めるよ」
「ううん、いいけど……。でも、男の子が読んで、面白いのかな……」
「そこは大丈夫。兄貴の趣味で布教され――あ、いや、なんでもない」
「博嗣くんがどうかしたの? それ、聞きたい。隠さないで教えて」
兄貴の話題が出ると、塔ヶ崎さんは食いついてくる。
でも今回は失敗だ。どう言い訳したものやらと、困り果てることになった。
兄に押し付けられたギャルゲーのおかげで、恋愛モノにも慣れています。
なんてそのまま伝えたら、塔ヶ崎さんは文化の違いに戸惑うことになるだろう。
「え、ちょ、塔ヶ崎さんっ、ちょっと、落ち着いて……!?」
「ねぇ、教えて」
俺は塔ヶ崎さんのことを誤解していたようだ。
彼女は恋愛に対しては奥手だけど、それ以外の部分では人より気が強かった。
ずいずいと距離を詰めてくるその姿は、兄貴に対する純情な態度とは正反対だ。つくづく二面性のある人だと思った。
気づいたら壁に追いやられて、そのまま壁ドンだ。
汗と香水の匂いと一緒に、塔ヶ崎さんの顔まで近づいてきた。
何もかもがアベコベだ。男女の立場も、兄貴と俺への態度も。
夢中になると周りが見えなくなるところが、兄貴と共通しているかもしれない。
「あ、兄貴は――」
いっそ真実を伝えてしまおうか。
ありのままの兄貴を知ってもらって、そこから惚れ直すコースもないこともない。