EP-2 いぬ
そんなわけで塔ヶ崎さんと一緒に帰路についた。
もう六月の半ばだ。衣替えをした制服でも少し汗ばむような陽気も、太陽が陰れば一変して涼しいものだった。
そろそろハルゼミの季節だ。
春じゃない頃にハルと名付けられたセミたちは、どんな気持ちで最後の夏を謳歌するのだろうか。
「え、こっち?」
通学路は途中まで一緒だった。
けれど塔ヶ崎さんは高台の方角、別荘地への道に一歩を踏み出して振り返った。
「うん。今日はここでお別れかな……」
「もしかして、塔ヶ崎さんの家ってお金持ち?」
しかしその質問は禁句だった。
せっかくやわらかになっていた表情が、途端に凍り付いていた。
「別に。貴方には関係ないでしょ」
「あ、ごめん……」
態度もだ。美人が急に冷たくなると、かなり胸に突き刺さるということを、俺は今日初めて体験した。
「ううん……悪いのは、私の方。ごめんなさい、どうかしてた。私、変なの……」
「いやこっちこそごめん」
金持ちに、あなたは金持ちですかと問いかけるのは、普通に非礼だろうな。
そこには触れて欲しくないって、塔ヶ崎さんの態度だけでわかった。
「家までここからどれくらい?」
「15分くらい。だからいいよ、また、学校で会おう」
「いや送ると言った手前、送らないのは締まりが悪いと思う。もう少し話そうよ」
「そう……? なんか、やっぱり変わってるね、聡くん」
「兄貴の話がしたいのと、ただの好奇心だよ」
塔ヶ崎さんを追い越して、俺は別荘地への道を進んだ。兄の話をしながらだ。
別荘地と呼ばれるだけあって、高台への道は景観に富んでいた。
俺たち地元住民からすると、こちら側の世界は憧れであり、嫉妬でもあったとも言える。
「兄貴は走るのが速いんだ。一年の頃は、陸上部からも誘われたんだよ」
「そうなんだ……! 博嗣くん、凄いね!」
放課後遊べないから、部活はやらないと断っていたけどな……。
潔い断り文句と価値観の相違に、陸上部の先輩は『コイツはダメだ』とすぐに諦めたようだった。
「うん、自慢の兄貴だ。勉強もできるし、俺とは頭の出来が違うんだよ。だってテスト勉強してる兄貴なんて、一度も見たことない」
「そ、そんな人と、私、釣り合うかな……」
「……だ、大丈夫。きっと大丈夫、そこはむしろ、塔ヶ崎さんの気持ち次第というか……」
逆に聞きたい。確かに凄い兄だけど、本当にうちの兄貴でいいの……? と。
「ふふふ……聡くんって、不思議な言い回しするね」
「これでもこじらせ文学青年だからね」
その後も楽しく語らうと、15分なんてあっという間だった。
家の前に到着した。いやここは言い換える。巨大な庭付きの、白亜の豪邸に俺たちはたどり着いた。
金持ちだ……。もはや疑うのもナンセンスなほどに、ブッチギリの超金持ちだ……。
うちの兄貴は、とんでもないお嬢様に好かれていたようだった……。
「せっかくだから、寄ってく……? 麦茶ならある……」
「こんな豪邸にも、麦茶ってあるんだ……」
「コーヒーより健康的」
いやその意見には反論したい。話がそれるので心の中で。
「でもさ、男子生徒なんて連れて来たら家族が驚いちゃうでしょ。だからいいよ」
「いない」
「え……?」
「人間の家族はいない。だから平気」
「えっ、えぇっ……?」
塔ヶ崎さんは、見ようによっては伝奇モノに出てくる吸血鬼めいて見える。
そんな彼女の口から、大豪邸の前で、人間の家族はいないと言われるとゾクリとくる。
「入るの? 入らないの? 早くして」
「じゃあ麦茶だけ貰って帰るよ。麦茶好きだし」
「そう、気が合うね。私も好き、コーヒーよりも、麦茶がいい」
「悪いけど、それには同意しかねるかな」
ささやかな意見の対立を微笑みでごまかして、俺は導かれるままに大げさな正門と玄関をくぐった。
するとでかい犬が玄関のマットに座り込んでいた。
「ただいま」
「オンッ!」
大型犬だ。ゴールデンレトリバーだ。濃い焦げ茶の長毛種がその場でクルリと回って、はしゃぐように家の奥へと駆けていった。
かと思えば部屋から顔半分だけを出して、喉を鳴らしながら主人を待っている。
ちなみに俺はスルーらしかった。
「人間の家族はいない。本当でしょ」
「驚かせないでよ。てっきり俺、塔ヶ崎さんのことを若い男の血を吸う吸血鬼かと想像しちゃった」
「私が、吸血鬼……? 聡くんって、凄い妄想力だね……」
「兄貴には負け――いやなんでもない」
ワンコが鼻で寂しそうに鳴くので、俺たちは靴を脱いで居間に入った。
家の大きさからしてそうだけど、中は広々としていて、洋装の一つ一つが別世界を醸し出していた。
居間には黒檀のテーブルがあった。
ただし四人掛けのそれに、イスがたった一つだけだ。それがどうしても不自然に感じられてならない。
「捨てたの」
「捨てたって、これ、イスも黒檀だよね……?」
「だからなに。私とこの子しかいない家に、椅子なんて四つもいらない。一つだけでいい……」
「でも……いや、なんでもない」
でもそれでは客を招けない。
もしそう言ったら、客も要らないと言いかねない雰囲気が彼女にあった。
それは俺の妄想だ。静かな微笑みと共に、塔ヶ崎さんがテーブルに麦茶を二つ用意してくれたので、手前のやつを一気に飲み干した。
すぐに二杯目が注がれていた。
「ふぅ……おとと、二杯もごめんね。確かに麦茶って美味しいね」
「コーヒーよりも」
「それには同意しない」
「ふふ……」
どうしてこんなところで、犬と一緒に一人暮らしをしているのか。
なぜイスを捨てたのか。当然ながら事情を聞きたくなった。
けれど塔ヶ崎さんは二面性を持っている。さっきみたいに冷たくされるのはごめんだった。
美人に拒絶されて嬉しい人間なんて誰もいない。
「こっちに越してきて、聡くんが初めてのお客様。いらっしゃい」
「オンッ!!」
残り半分のグラスで、塔ヶ崎さんと乾杯した。
少し飲むと、今度は三杯目が次がれていた。お腹いっぱいになってきたけど、飲むしかない。これは美人転校生の麦茶だ。
「おお、ふわふわだ」
「うん、毎日ブラシしてるから」
ワンコの頭を軽く撫でてみると、警戒するどころか自ら擦り寄り、気持ちよさそうに手を受け入れてくれた。
まるで子犬みたいに人なつっこいやつだ。心癒された。
「お前賢いな。おお、身体の方もふわふわだ。うおっ!?」
喉を鳴らしている姿を見つめると、いきなり顔が伸びてきて口を舐められた。
ちょっと変態的なこと言うけど、塔ヶ崎さんも同じことされてるんだよな……。
そう思って彼女を振り返ると、そこに凝視があった。
「どうしたの?」
「そうして笑っていると、博嗣くんに似てる……」
「兄弟だからね。しかしいいなぁ、この子に会えるならまた遊びに来たいな……」
「いいよ。これは貴方の言葉だけど、外壕から埋めてゆくのも、いいのかも、しれない……」
おとなしくて賢くて、人間が好きな大型犬と触れ合うのは、なかなか他にない楽しみだった。
飲んですぐに帰るつもりが、気付いたらワンコのお腹までモフっていた。
「あ、しまった、長居してる。そろそろ麦茶もご馳走になったし帰るよ、またね、ワンコ」
「ヨシュア。ヨシュアって呼んであげて」
「ヨシュアか、勇ましい名前だね」
「オンッッ!」
「そうなの? ふふふ、褒められて喜んでるみたい……。うちのヨシュアは、人間の言葉がわかるの」
真顔でそんなことを言われると、そのまま受け止めてしまう。
コイツは確かに、他に見ない賢いワンコだった。
「ヨシュアはね、聖書に出てくる英雄の名前だよ。良い名前だと思う」
「ふーん……男の子だから、なんとなく付けたけど、そう言われると嬉しい」
しかしそろそろ帰らないと真っ暗になってしまう。
名残惜しい気持ちを抑えて、俺はヨシュアと塔ヶ崎さんにお別れをした。
「兄貴のこと、俺に任せて」
「うん、聡くんに相談して良かった。また明日、学校でね……」
群青色の空と、微かに浮かぶ星々をときおり見上げつつ、俺は見晴らしのいい高台を下りた。
今日は大冒険だった。きっと明日からは、昨日までとは別物の明日が待っているのだろう。
木々を揺らす爽やかな風が鼻先を通り過ぎて、初夏の始まりを告げていた。