後編
酒とつまみを渡すと男は値踏みするような目でしばらくじろじろと見て
「まあ、いいだろう。
ほれ、受け取りな」
「ありがとう。
捜査の協力に感謝します」
「この近くで何かあったらまた声をかけてくれ。
力になれるかもしれん」
「ああ、キンさん。
元気でな」
「へっ、まだくたばりはしねえさ」
浮浪者は瓶の蓋をあけて酒をあおった。
男と別れて、尾藤はすぐに譲り受けた名刺入れを確認した。
「やっぱりそうか」
「やっぱりって何スか?」
杉本を無視して尾藤は署の人間に電話をかけた。
「すまないが、確認してもらいたいことがあるんだが……」
「だから、どういうことなんスか!」
「どうもこうもこれで事件解決の目途が立ったってことだよ」
「えっ、そうなんスか!」
「ああ、答えはこの名刺入れに書いてある」
尾藤は、名刺入れを水戸黄門の印籠のように突きつけて見せた。
「ちょっと待つッス!
それじゃあいくら何でも味気なさすぎるんで、自分の推理を聞いてもらっていいッスか?」
「聞きたくない。
どうせくだらない内容だからな」
「えっ? 冗談ッスよね?
これ推理して解決する流れッスよね?」
「俺らは警察であって探偵じゃない。
推理なんかしなくても事件が解決すればそれでいい」
「そんなあ!
ひどいッス!
聞いてくださいよお!
ちゃんと考えたんスからあ!」
杉本は、涙目になり鼻水を垂らしながら尾藤の肩を揺さぶる。
「やめろ。
離せ」
「絶対離さないッス!
自分の推理をちゃんと聞いてくれるまで離さないッスから!」
杉本の唾やら涙やら鼻水やらが飛んできて、尾藤の顔やスーツにかかる。
おまけに何事かという通行人の目線までチラチラとこちらに飛んできた。
「わかった、
聞くから離せ。
騒ぐのもやめろ」
「本当ッスか?
聞きたいッスか?
じゃあ改めまして」
杉本は、コホンと咳払いをひとつ挟んで
「えー、まず事件当日の状況を整理してみるッス。
犯人はビルの防犯カメラに映るのを避けながら二階にある社長室へ向かったッス。
そこで被害者である原小宮と対峙し、何やかんやあってナイフを持って襲いかかったッス。
しかし、ナイフは寸出のところで受け止められ、はたき落とされてしまったッス。
原小宮はその隙を狙って助けを呼ぼうと社長室から出ようとするんスが、咄嗟の判断で犯人は手近にあった灰皿を原小宮目掛けて投げたッス。
これが原小宮の後頭部に見事ヒット。
原小宮はそのままダウンしたッス。
犯人は原小宮に追い打ちを何発か浴びせて完全に殺害した後、物盗りの犯行に見せかけるためかあるいは単純に金が欲しかったのか知らんスが、原小宮の財布を漁って金を抜き取ったッス。
そこで異変を嗅ぎつけた社員の五十鈴が社長室のドアをノックしたッス。
焦った犯人は取るものも取りあえず窓から飛び降りて逃げたッス。
ここまではいいッスね?」
「まあ、概ねそんなところだろうな」
「で、この犯人の行動と容疑者として挙げられた人物たちを照らし合わせて考えた結果、自分はひとつの解答に行き着いたッス。
これから容疑者を一人ずつ検討していって論理的に犯人を絞り込んでいくッス。
まず、鍛冶沢についてなんスが、結論から言ってヤツは犯人ではないッス。
尾藤さんは、自分たちが聞き込みをしているときにヤツがストローの先を潰していたのを覚えてるッスか?」
尾藤は短く首肯した。
「それに、ヤツは尾藤さんがペンを渡したとき、なかなかそれを受け取ろうとしなかったッスよね?
まるで先の尖ったものを向けられるのを恐れているようでした。
つまり鍛冶沢は先端恐怖症なんスよ!
先端恐怖症の人間がわざわざ凶器にナイフを選ぶでしょうか?
いいや、そんなはずがないッス!
よって鍛冶沢はシロッス。
続いて朝比奈なんスが、こいつも犯人じゃないッス。
なぜなら自分はヤツが犯人ではないという決定的瞬間を見てしまったんスから……。
それは朝比奈が棚の上にある箱を踏み台に乗った女性に取ってもらうという光景でした。
一見何でもないやり取りなんスが、よくよく考えると朝比奈が自分で取ればいいって話で、じゃあ何故それをしなかったのかって考えると答えは出たッス。
ずばり朝比奈は小さい踏み台にも乗れないほどの高所恐怖症だったんスよ!
さて、高所恐怖症の人間が建物の二階から飛び降りることができるでしょうか?
できないッスね。よって朝比奈も除外ッス。
お次は、阿久津なんスが、こいつに関してはやはり右手を怪我しているというのが気になるッス。
被害者のジャケットに開いた穴の位置から考えてナイフで右側から切りつけた若しくは突いたことは明らかで、右手を負傷している人間がわざわざそういった殺害方法を選択するのは考えづらいと思うッス。
よって阿久津もシロ。
残るは小日向ただひとり。
すなわちこいつがこの事件の犯人ッス。
小日向は女性ッスが、長身で男性にも力負けしなかったと思われるッス。
それに、自分らが聞き込みをしたとき、ヤツはサンダルを履いてたッス。
これは二階から飛び降りたときに足を負傷したため、他の靴が履けない状態だったと推理できるッス。
また小日向はアリバイを主張しているんスが、これは双子の妹を使った偽装工作ッス。
実際にタクシーに乗っていたのは双子の妹の方で、小日向はその時間にはハラコミヤ組の社長室にいたってことッス。
QED。
証明終了ッス」
杉本が得意気な表情で尾藤を見る。
これが自分の実力だ、思い知ったかと言わんばかりの目だ。
「……まあ、お前なりに頑張って考えたのは伝わったよ」
「えっ、自分の推理、間違ってるんスか?」
「推理が間違っているというよりはな、お前のはまだ推理というレベルに達していない憶測って感じだな。
先端恐怖症でもナイフは自分に向けるわけじゃなく、他人に向けるわけだからそれほど影響がないだろうし、朝比奈が踏み台に乗らなかったのは、それこそ足を怪我していたという可能性もある。
阿久津の怪我の程度だってはっきりとわかっちゃいないし、小日向がサンダルを履いていたのは単純に季節が日本とは真逆のオーストラリアから帰ってきてそのままってことも考えられる。
アリバイについてもそれが偽装であるならもっと上手いやり方があっただろう。
タクシー運転手の記憶力に賭けるよりももっと確実性の高いやり方がな」
「それはそうかもしんないッスけど……でも、それだって尾藤さんの意見でしかないででしょ?
実際は自分の言う通りかもしんないじゃないッスか」
「残念ながら小日向は犯人じゃない」
「えっ、じゃあ誰が犯人なんスか?」
「それはこの名刺入れに書いてある」
「ちょっと待つッスよ。
自分は推理したんスから尾藤さんも推理して犯人を当ててくださいよ」
「だから、今回は推理は必要ないんだよ」
「ん?
偉そうなこと言って推理できないんスか?
なあんだ、それじゃあ自分以下ッスね。
やっぱ尾藤さんって大したことないッスね。
プークスクス」
「何度も言うが、この名刺入れを見てしまった以上、後は何を言っても結果論なんだ。
俺にできるのは今回の事件について順を追って説明することくらいだよ」
「それでいいッスから早く解決編やってくださいよ」
「……まず、お前がさっき言ってた犯行当時の状況についてなんだが、付け足したいことがある。
犯人は被害者にナイフを向けた。
そこまではいい。
ただし、その後ナイフは受け止められたんじゃなくてたしかに刺さったんだよ。
そう考える根拠は、内ポケットに入っていた財布に目立った傷がなかったこと。
それに、ナイフの切っ先に付着していたというプラスチックの破片だ。
ナイフは被害者の内ポケットに入っていたプラスチック製の何かに刺さって貫通しなかったんだ。
だから、被害者は無傷で済んだのさ。
犯人は動揺し、その隙を突かれてナイフをはたき落とされたってわけだ。
犯人は、原小宮を灰皿で殴って殺害した後、金を盗むためジャケットの内ポケットから財布を取り出した。
そのときにそのプラスチック製の何かにも気がついたんだ。
そして、それを現場から持ち去った。
なぜ犯人はそんなことをしたのか?
答えは簡単だ。
それが現場に残っていては犯人にとって都合が悪かったからだ。
では、現場に残っていて都合の悪いものとは何だろう?
それは当然、犯人と原小宮殺害の繋がりを示すものだ」
「要するにその名刺入れが犯人と事件を繋げる接点だってことッスね?
でも、何でそれが名刺入れってわかったんスか?」
「いや、正直言って全くわからなかった。
キンさんがこいつを目の前に差し出してくるまでな。
よくよく考えれば、事件当日の原小宮は地域の新しい担当者に挨拶へ伺っているわけだから、その日は当然名刺入れを携帯していたはずなんだ。
名刺入れと言うと革製のものという先入観があったせいもあるだろう。
ハラコミヤ組の社員のひとりが安っぽいケースと言っていたが、まさかプラスチック製で透明のものを使っているとは思いも寄らなかったよ」
尾藤は苦笑した。
「事件当日、役所に挨拶へ行ったことから原小宮が名刺入れを所持していたことがわかった。
ナイフに残った破片からナイフが名刺入れに刺さったことがわかった。
そして、その名刺入れが捨てられていたことから犯人がこれを持ち出して処分しようとしたことがわかった。
これでこの名刺入れの重要性がわかってもらえただろう。
では、この名刺入れが示したものとは具体的に何だったのか。
核心に触れていこう。
実際に名刺入れをちゃんと見せた方が早いんだが、ここまで来たら可能な限り頭を使っていくとしようか」
この時点で杉本は尾藤の長々とした説明に飽きてきていたが、珍しく良心が働いて、最後まで付き合ってやることにした。
「この名刺入れが示したもの、それは犯人の名前だ。
そう考える根拠は、時間だ。
物音がしてから二、三分後に、五十鈴は社長室のドアをノックしている。
名刺入れを眺めながらあーでもないこーでもないなんて考えている暇はなかっただろう。
ぱっと視界に入った瞬間にこれを現場に残しておくわけにはいかないと犯人は思ったんだ。
そう思わせる直接的なメッセージと言えば犯人の名前に他ならない」
「原小宮がダイイング・メッセージを残したってことッスか?」
「ちがうな。
状況を考えてみろ。原小宮にはダイイング・メッセージを残している余裕なんてなかったはずだ」
「えっ? じゃあどういうことなんスか?」
「つまり意図せずに犯人の名前が示されてしまったんだ。
ナイフの刺し傷によってな。
名刺には、会社名や役職や連絡先などが記されているが、一般的に名前が一番目立つように印字されている。
名前の一部がナイフで出来た傷により削られ、皮肉なことに犯人の名前を示したとしたらどうだろう。
犯人は、それを被害者が残したダイイング・メッセージだと警察が捉えるかもしれないと考えて名刺入れを持ち去ったんだ」
「ん?
それっておかしくないッスか?
だって、状況的に原小宮がダイイング・メッセージを残せないってわかっているんスから犯人は名刺入れを警戒する必要なんてなかったんじゃないスか?」
「そうだ。
犯人はミスを犯したんだよ。
現場に残しておけば、ただ単にナイフを受け止めて傷が入った名刺入れだったのに、持ち出して処分したことによって却って重要な意味を持つことになってしまったんだ。
部屋をノックされて相当焦ったんだろう。
ミスは必然だったのかもしれない」
「名刺の名前の部分が削られたことで犯人の名前が出てきたってことは、『原小宮英真』っていう文字の中に犯人の名前が隠れているってことッスよね?
一見そうは見えないんスが……」
「名刺入れには真一文字に傷が入っている。
文字の大きさとナイフの刃幅から考えて削られた文字は三字か四字。
つまり頭から一文字か二文字、尻から一文字か二文字若しくは頭の一文字と尻の一文字が対象ということになる」
「ってことは、『原』、『原小』、『英真』、『真』、それに『原真』ってことスか。
『原』っていうと、関係者の中で『原』がついてるのは海老原くらいッスね」
「海老原にはアリバイがある。
もっとも海老原が犯人だとしても『原』だけ見たところで自分に結びつくとは考えないだろう」
「次に『原小』、読みははらこ、はらしょう、げんこ、げんしょうくらいッスかね。
はらしょうってロシア語でありましたよね?
もしかして犯人はロシア人?」
「『英真』ひでまさ、ひでま、えいま……いずれにしても関係者の中にはいないな。
問題は、次の『真』だ」
「あの、自分のボケをなかったことにしないでほしいッス……。
えーと、『真』の読みはしん、まこと、まさ……あれ? これって……」
「ああ、関係者の下の名前を思い出してみろ」
「鍛冶沢は進、朝比奈は信、阿久津は誠、小日向は雅……これって全員『真』から繋がっちゃいますよ。
尾藤さん、これじゃあ犯人を絞れないッスよ!
また振り出しじゃないッスか!」
「そんなことはない。
ここまで来ればもう一息だ。
最後の『原真』を検討してみろ」
「いやいや、さっき『原』は海老原しかいないってなったでしょ。
何言ってんスか」
「それはお前の思い込みだ。
ここまで言えば、もう答えは出ているだろ」
そこで尾藤の携帯が鳴った。
短い会話のやり取りをして通話を切る。
「今、確認が取れた。
やはり阿久津は婿養子だった。
離婚して名字を旧姓の阿久津に戻したらしい。
結婚していたとき、つまりハラコミヤ組で働いていたときの名字は『原』だったそうだ」
傷の入った名刺入れには『原真』という文字が浮かび上がっていた。
その後の取り調べで阿久津は容疑を認めた。
犯行時は酒に酔っていたと本人は話しているが、防犯カメラに映らないように事務所内に侵入したことや咄嗟の判断で灰皿を投げたことなどから酩酊状態の可能性は低く、単に金銭目的あるいは私怨による犯行と思われる。
「ギャンブルとか酒のせいってことにしたいだけなんスよ、あいつは。とんでもないクズ野郎ッス」
杉本は調書を机に投げつけた。
「それと阿久津の右手のケガなんスが、確認したところ怪我をしているのは事実でしたが、傷を負っていたのは手の平じゃなくて手の甲だったッス。
それも大した傷じゃなかったッスよ」
「ナイフや灰皿を握るには何の支障もなかったということだな。
お前、まんまと騙されたな」
「いやあ、自分は半信半疑だったッスよ。
尾藤さんが、小日向が怪しいって言うから流されただけで」
「一言も言ってないし、お前がサンダルとかアリバイ偽装だとかで勝手に怪しんでいただけだな」
「まあ、小日向のアリバイも確認できたし、これで事件解決、一件落着ッスね。
自分の手にかかればざっとこんなもんスよ」
ガハハと杉本が笑う。
こいつもいい加減ちゃんと自分と向き合ってくれないだろうか。