ながい自己紹介のおはなし
わたしは新しいお人形。狭い木箱の中で、うつらうつらと眠っている。どうやら私のゴシュジンサマが決まったらしい。店のじいさんが嬉しそうに言っていた。ここを去ることになったのなら、仲良くなったほかのしなものたちにお別れを言いたかったのに。まあじいさんとわたしでは体格に差がありすぎるから、しかたがないのだけれど。
いつのまにか、私は新しいゴシュジンサマのもとに運び込まれていたようだ。高い戸棚の上の方に座らされていた。目もばっちり覚めたところなので、ここの住人に挨拶でもしておこう。
「あの、こんにちは」
反応がない、なんと冷たいのだろう。新入りへの洗礼、というやつだろうか。それならば、しばらくこの孤独に耐えることになるんだろうな。わたしはそれを、とても恐ろしく感じた。
「こ、こんにちは」
ここにきて何日経っただろうか。だれも返事をくれない。そろそろわたしも怒りたいところである。彼らには話す口がないのだろうか、と蔑みたくもなった。でも、私は負けない。何日だって、声をかけ続けよう、と決意を新たにしたとき、どこからか、あはは、ととても愉快そうな笑い声がした。
「この部屋でいのちがある無機物は君だけだよ、お嬢ちゃん」
私をじっと見上げている少年がいる。ただ、目の色に不敵な感じはない。私に見とれているとしか思えない表情である。おにんぎょうさん、きれい、と少年はつぶやいた。
少年は、たびたび私のいるところに来るようになった。少年が来ると、あの不敵な声もやってくるのであるが。彼は少年の懐中時計だという。
「さぞや寂しかっただろう、お嬢ちゃん、どうだい、俺と……」
「あなたみたいなうさんくさい人、きらいなの。」
このやり取り、何回目だろう。この懐中時計との会話はどうでもよかった。ただ、わたしはこの少年が気になった。白磁のような肌、空を映したような瞳、金糸のように細くて柔らかな髪、背のちいさなこの少年が私を見るために上を向きすぎて首が取れてしまうのではないだろうか、と心配になった。少年はただじっと私を見つめていた。
ただじっと私を見上げるだけの少年も大きくなって、見上げる首の角度も、心配するほどのものでは無くなった。今日は梯子を持ってきたんだ、君をもっと近くで見たくて。少年はそうきざったらしく言うと、梯子をすこしのぼり、私を抱き寄せた。今日は懐中時計はいないようだ。やっぱりすごいきれいだ、顔を拭いてあげるよ、お姫様。懐中時計に毒されているのではないだろうか、少年よ。
私は、別の場所に運び込まれた。少年の部屋だ。
「よく来たね、お嬢ちゃん、よければお茶でも」
「懐中時計がお茶を汲むなんて、絵面からして滑稽どころか想像すら不可能ね」
懐中時計も少年の持ち物なので、もちろんこの部屋にいた。この部屋では、たくさんの友達ができた。少年は、その日の召使の失態や、部屋にあるもののすばらしさなど、様々なことをわたしに語って聞かせた。共に庭を散歩したり、お茶会の真似事をしたり、一緒に本を読んだりして過ごしていくうちに、少年の背は、どんどん伸びていき、風邪をひいて寝込むことも、少しずつなくなっていった。少年は、もう少年と呼べる年頃でもなくなっていた。
僕、元気になったから寄宿舎に行くことになったんだ。あと少しでお別れだね。それはあまりにも唐突だった。私は彼のことを何でも知っていた。空想が好きなこと、お茶会に憧れているけれど、ケーキを食べたことがないこと、そして、この部屋にあるもののすべてを愛していること、その愛はものそれぞれに適した形で平等に与えられているということも。
「確かにあのガキがいなくなるのは寂しい、しかしお嬢ちゃん、俺には君が」
「うるさい、あなたはあの人と一緒に寄宿舎へ行くんでしょう、だって時計だもの」
私は彼を止めたいわけではなかった。なによりも彼の幸せを祈りたかった。そのためには、名前が必要だった。私は彼の名前が知りたかった。しかし、私は人間の形をしているけれど、動けるわけではなかった。むなしくも、彼が寄宿舎に旅立つ日がきてしまった。
彼は私たちひとつひとつに別れを告げていった。さよなら、本棚、さよなら、絵の中の貴婦人、とものの名前で別れが告げられていく。その途中で、彼は母親に呼びかけられた。ウィリアム、もう馬車が来ているわよ。ごめんよ母さん、あと少しだけ待ってくれないか、ああ、あと少しだけ。そういって、彼はわたしのもとに近づく。またな、ソフィア。奇跡は起こった。なんと幸せなことだろう。わたしは、彼の名前を知ると同時に、私の名前も知ることができたのだ。ええ、待っていますとも、ウィリアム、ソフィアは、いつまでも、貴方が帰るその日まで。
私は、彼に届かない声を震わせた。
読了、感謝いたします。