97、ローザの挑戦
いよいよ、ローザの喫茶店の内装が完成した。
店内には午前10時の静かな陽が差し込んでおり、まだ大工道具が散乱している床をきらきら輝かせている。
「ん~♪ ようやく完成したわねぇ」
ローザはレモンティーを飲みながら、新築の香りがする店内を満足気に見回した。
飲食店を始める際に必要な保健所のチェックは先週にクリアしていたのだが、内装をもっと自分好みに整えたかったローザは、今日まで様々な工夫を凝らしていたのだ。
特に、店内の奥にある長椅子は、壁や収納スペースと一体化しており、背もたれの角度やクッションの安定性などにもこだわった、座り心地満点の自信作である。ローザは優美な物腰に似合わず、日曜大工が得意なのだ。
「んー・・・」
出窓のレースのカーテンを左手で軽く整えながら、ローザは首を傾げた。
「カフェじゃなくて、もっと刺激的なことをすれば良かったかしら」
まもなく開店できることは大きな喜びであるが、何か物足りない感じがしたのだ。
実は、ローザはスペインにある実家で既にカフェの経営を経験している。両親が始めたカフェだが、高校生の時は毎日のように手伝っていたのだ。
新しいことに挑戦する意気込みで来日したローザが、故郷で経験済みのカフェをオープンするのは、あまり刺激的なこととは言えないかもしれない。
「ま、いいわ。私は三日月農業の研究のために来たわけだし。そっちで面白い事が見つかるわよ」
ローザはカップの紅茶を口に運んでそっと微笑んだ。ちなみに彼女は日本へ来て以来、瀬戸内産のレモンを非常に気に入っており、輪切りにしてレモンティーにたっぷり入れている。
さて、カフェのオープンは来週の予定だし、三日月農業の研究室も土日は休みなので、今日は一息つけそうである。とてもいい天気だから、ローザはとりあえず、散歩に出ることにした。
梅雨入りしたはずなのだが、空には生まれたてのヒヨコみたいな元気な太陽が黄金色に輝いており、夏に向けてやや濃くなってきた草木の緑から、心地よい風が吹き抜けてくる。この里の森の香りは、吸い込んだ瞬間に全身に馴染むようでとても爽やかだから、ローザは大好きだ。
「小川のほうに行こうかしら♪」
気の向くまま、自由に散策するのはとても気分がいいものである。ローザは時折、家の裏にある山を登って神社の境内まで片道10分程度のハイキングをするのだが、今日はいつもと違うことがしたい気分なのだ。
北山に沿った舗装路ではなく、水田の間の細い農道を敢えて使い、ローザは南東に歩いた。半袖から出た素肌に降り注ぐ温もりがとても心地いい。
しばらくすると、鏡川に掛かる小さな橋の袂に、小学生くらいの女の子たちが4人集まっているのが見えた。日なたの緑の中に姿を現した少女たちのシャツが、まるで色とりどりの花のようである。
(いや~ん! 鹿野里の子供たちだわ! か~わいい♪)
年下の女の子が大好きなローザは、子供たちを見て胸をときめかせ、素早く物陰に身を隠して顔だけ覗かせた。完全に不審者である。
(あら? あの子って)
ローザは気になる少女を発見した。先日桃園商店で見かけた車椅子の少女だ。
あの日、少女の友人たちは彼女のことを「ルネ」と呼んでいたのだが、名前以外にローザが知っていることは無い。
(不思議な感じがする子なのよね。まあ、私にとっては星の数ほどいる可愛い子の中の一人って感じだけど)
ローザはルネのことをそんな風に軽く考えている。あの日、偶然見つめ合うことになったルネの綺麗な瞳を、ローザは忘れることにしたのだ。ローザは恋多き美女であるから、一人の乙女に本気の恋をするなどあり得ないからだ。
(そうだ! あの子たちを驚かせちゃお♪)
ローザは道と水田の段差を利用し、こっそり少女たちに近づくことにした。
水田の脇を流れる小さな水路には青空が映っており、そこに浮かぶ白い雲の姿を、青い小鳥と白ウサギがぼけ~っとした顔で覗き込んでいる。この里の野生動物たちは非常に警戒心が薄く、ローザがすぐ横を通り過ぎても全く驚かない。鹿野里ののどかな雰囲気を象徴するマスコットキャラクターたちだ。
「というわけで! 今日はローザさんの喫茶店に突撃するわよ!」
仲間たちのリーダー的存在である綺麗子が、綿毛になったタンポポを指揮棒のように振りながら言った。彼女の前にいるのは月美、百合、そして車椅子のルネである。
「ねえ綺麗子、どうして月美の服着てるの?」
綺麗子と同じ小学5年生のルネがくすくす笑いながら尋ねた。
「私は昨日初瀬屋にお泊りしたのよ! この着替えは月美から借りたの!」
「へー」
野生児の趣きがある綺麗子に、月美の上品な服があまり似合っていない。
「中学生のキャロリンが宿題をやりにいってしまった今、小学生チームをまとめ上げられるのは私だけよ!」
一緒に初瀬屋に滞在しているキャロリンが、不参加になってしまったのだ。
本当はキャロリンも皆と一緒にカフェへ行ってみたかったのだが、月曜までにどうしても終わらせなければならない数学の課題があり、しかもそれがかなり難しいため、同級生の桃香ちゃんに教えて貰おうと桃園商店へ行くことになったのだ。
「え~とね、ちなみに、我ら小学生チームの最年少、アテナに電話したら、忙しいって普通に断られたわ!」
小学1年生のアテナは綺麗子のことを少々なめており、綺麗子に誘われても遊びには行かないのだ。
というわけで、今日は4人だけなのである。
「百合! 今日の目標を言ってみなさい!」
「ローザさんと仲良くなること、かな♪」
「甘いわね! アポなし突撃で、鹿野里の弱肉強食の理を思い知らせるのよ!」
「ここはそんなに野蛮なところじゃありませんわよ」
「月美も今日はグイグイいっちゃっていいからね!」
「心配ですわねぇ・・・」
月美は百合のことが気になってついてきただけであるが、綺麗子がローザさんに迷惑を掛けないように見守るという使命も持っている。
「それじゃあ皆! ローザさんの喫茶店にしゅっぱーつ!」
そう言って綺麗子は歩き出したわけである。百合と月美が交代でルネの車椅子を押しながら、綺麗子の背中についていくことになった。
小川沿いの道には、目を細めてうっとりしてしまうような優しい陽だまりと、桜の木が作った深い陰が交互に続いており、印象的な縞模様の世界になっていた。
「ローザさんって人、留守じゃないといいわね~!」
「あらぁ、ローザは今カフェにはいないわよ♪」
「えっ」
4人は振り返った。
「わあああああ!!」
「あら、そんなにビックリしてくれるのぉ?」
ローザはいつの間にか小学生の集団に入り込み、すぐ後ろを歩いていたのだ。凄まじい不審者である。
というわけで、ローザは4人を喫茶店へご案内した。
「おー!! 喫茶店っぽーい!」
「まだ片付いてないけれど、良かったらお好きなテーブルに腰かけて♪」
「わーい!」
店内に入った綺麗子はすっかりはしゃいでいる。先程の弱肉強食がどうとか言っていた女とは別人になってしまったようだ。
「はい、メニュー♪」
「あ、私たちあんまりお金持ってきてないですけど・・・」
「いやん♪ 今日は無料サービスよ。オススメはぁ、アイスココアとか♪」
「じゃあ私アイスココアー!」
「綺麗子ちゃんは元気がいいわねぇ♪」
「はーい! 元気いいで~す!」
太っ腹のローザはドリンクをご馳走してくれるらしい。月美はジャスミンティーにしようかと思ったのだが、同じものを注文したほうがローザさんが楽だと考え、アイスココアにしておいた。そうなると、月美お嬢様に興味津々な百合もアイスココアを注文することになるわけである。残ったのはルネだ。
ローザは何気なくルネに歩み寄って、一緒にメニューを覗き込んだ。
「あなたはルネさんよね、何飲む?」
「私は・・・」
か細いルネの声にローザは少しドキッとしたが、実は今はローザが攻める番である。というのも、ローザはいつもセクシーで甘い香りを漂わせているから、近寄って一緒のメニューを覗き込んだりしたら、大抵の少女はドキドキしちゃうわけである。ローザはこれをわざとやっているのだ。
(ローザさん、すごくいい匂いするなぁ・・・)
写真つきで分かりやすいメニューだったのに、内容が頭に入ってこなかったので、ルネは結局「私もアイスココアで・・・」と答えた。
ローザがココアを作ってくれている間、綺麗子たちは店内をキョロキョロ見回した。南欧風の白壁には大小様々な絵画が飾ってあり、大きな飾り棚にはギターケースなども並んでいた。不思議な雰囲気のお店である。
「ねえローザさん! どうして鹿野里でカフェをしようと思ったの? お客さんなんて私たちしか来ないわよ。大赤字よ大赤字」
綺麗子は歯に衣着せぬストレートな物言いをすることで有名である。
「ん~綺麗子ちゃんたちが時々来てくれるなら、それで充分かも♪」
「え、そうなの?」
「うん。カフェは趣味で始めたから、別に儲からなくていいのよ」
「でも儲からないとまずいんじゃないの?」
「ん~とねぇ」
ローザはココアの粉末を少量の熱湯で溶き、冷たい水やシロップ、ミルクなどを手際よく混ぜていった。
「私の母が言ってたのよ。自宅で開店すれば家賃の支払いがないし、注文を受ける瞬間まで食材を冷凍しておけば廃棄も出ない。後は電気やガスを節約した状態でお客さんを待つ環境が作れれば、どんな田舎でも趣味レベルのカフェは出来るって」
「へー!」
「このカフェはとにかく注文を受けてから作るから、待ち時間が長いかも知れないけど、そこで私とのんびりおしゃべりをしてくれるような心が広~い人たちが、鹿野里にいると嬉しいわね♪」
「私たち、心広いわよ!!」
「ありがたいわ~♪」
「えへへ」
綺麗子は非常にちょろい女なのである。
やがて、月美もローザとおしゃべりを始めた。
「ローザさんのお母様は、もしかしてカフェをやってましたの?」
「ええ、今もやってるわ」
「なるほど、それをローザ様もお手伝いしたことがありますのね。ココアを作る手際がとてもいいですもの」
「あらぁ、ありがとう♪」
月美はまだローザのことを少女好きの危険人物だとは気づいていないので、こんな感じで褒めたりもするわけである。
4人分のココアを完成させたローザは、その冷たいグラスをテーブルまで運んできてくれた。
「はい、召し上がれ♪」
「ありがとうございまーす!!」
星型の氷がとても可愛いアイスココアである。
飲んでみると、まさに飲むチョコレートといった濃厚な風味が百合たちの口に広がった。子供の口にはちょっぴり高級すぎる本格的なカカオの味わいだ。
「おいしー!」
「ありがと~♪」
百合は先程から少し緊張していたのだが、月美がローザと話しているのを見て安心してきたから、自分もしゃべってみることにした。
「ローザさん、この部屋の飾り、すごく素敵ですね」
「あらぁ、ありがとう♪ 新しいのを描いたらもっと増やしていく予定よ」
「え、ローザさんが描いたんですか!」
「そうよ。百合ちゃんたちが今座ってる長椅子も、私が作ったわ」
「えー!!」
ローザはこの時、少し不思議な気分になった。想像以上に子供たちがびっくりしてくれたからだ。
ローザは昔から手先が器用なので、物作りが得意だったが、その才能を前面に出して何かすることは無かった。今回も、自力で内装を整え、自分が描いた絵を飾れば安上がりだと考えていただけなのだが、それに小学生たちが感動してくれたのが意外だったのだ。
(もしかして、物作りを趣味にしたほうが良かったかしら。でも、それも別に新しい挑戦ってわけじゃないし)
そう考えた次の瞬間、ローザはまるで雷に打たれたかのように、物凄い名案を思い付いてしまった。
このまま三日月野菜の研究の傍らでカフェを細々とやるはずだったローザの人生に、新たな風を吹き起こす画期的な案である。ローザは珍しく、自分の胸が高鳴るのを感じた。
ローザがほとんど無意識のうちにルネに目を向けると、彼女は車椅子の向きを少しだけ変えて、掛け時計の横にある一枚のアクリル画に見とれていた。
(ルネちゃん、絵を描くのが好きそうね)
こういう時のローザの勘はよく当たる。
(ん~、どうしようかしら。挑戦してみようかしら)
短時間だがローザはよく考え、そして決心した。ココアの話で盛り上がっている綺麗子たちに向かって、ローザは独り言ともとれるような小さな声でこんなことを言ったのである。
「子供たち向けに、図画工作の教室でもやろうかしら」
すると、綺麗子たちが目を輝かせて顔を上げ、ルネもパッと振り向いた。
「ホントに!? 絶対参加するわ! 私もこういう椅子作りたーい!」
「き、綺麗子さん、こういうサイズの木工は大変ですのよ」
「でもさぁ、ノコギリとかトンカチとか、楽しそうよ!」
「確かに、綺麗子さん似合いそうですわね」
綺麗子たちの会話を耳に入れながらも、ローザの意識のほとんどはルネに向いていた。というのも、この瞬間はローザとルネが本日初めて目を合わせた瞬間だったからだ。
綺麗子たちの歓声の合間に生まれる小さな静けさを待っていたように、やがてルネがゆっくりと口を開いた。
「私も・・・ローザさんに絵を教わりたい」
物足りないと感じていたローザの日常に、大きな変化の種が蒔かれた瞬間である。
これをするために日本へ来たのではないかと思うほどに、運命的なものをローザは感じたのだ。
「じゃあ、どんな風に図工教室するか考えておくから、今度詳しく言うわね」
「はーい!」
少し頬を赤らめているルネは、ストローでアイスココアをちゅーっと飲みながら、壁に掛けられた絵に再び目をやった。
(私も、ローザさんみたいに、あんな絵が描けるようになりたい・・!!)
ルネが先程からずっと見とれていたのは、ローザが高校生の時に描いた架空の風景画である。
高原を爽やかに駆け抜ける風を受けてゆっくりと回る、古びた風車の絵だった。