95、胸元
初瀬屋旅館には、あまりお客が来ない。
鹿野里はとても自然豊かな町なので、カメラを持って旅するのにはピッタリである。しかし、町を挙げて栽培している三日月野菜が、非常に繊細な植物たちなので、皆遠慮して旅行にはやってこないのだ。
初瀬屋に来るお客といえば、三日月農業を取材する記者たちが多い。記者たちは国内外からやってくるが、どの会社も気を遣って女性記者ばかりを送ってくる。女性に囲まれてないと上手く育たないワガママな三日月野菜の性質は、今や世界的に有名だからだ。
さて、今日はその初瀬屋に久々のお客が来るのだが、なんとそれは、キャロリンだ。
母が海外に短期間の出張をするので、週末の三日間を初瀬屋で過ごすことになったのである。
「夜は百合の部屋に泊まりたいデース!」
「じゃあ私もー!」
下校中、初瀬屋に向かうキャロリンの横で、なぜか綺麗子も一緒にはしゃいでいる。
キャロリンは中学3年生で、綺麗子は小学5年生だから、そこそこ年齢が離れているのに、二人はいつも息がぴったりだ。
「・・・泊まるのはキャロリンさんだけのはずですわよ」
「えー、私も泊りたい~!」
「綺麗子も一緒に泊まるデース!」
ちなみに、キャロリンの家は初瀬屋とは真逆で、学校よりもさらに東側の山中にあるから、下校時にキャロリンが初瀬屋のほうまで歩いてくるのは異例である。なので綺麗子はハイテンションなのだ。
明日は土曜日なので、百合もなかなかにワクワクしている。キャロリンたちと一緒にご飯を食べたり、お風呂に入ったりするのを想像すると、百合は今日の空のような晴れやかな気分になる。
初瀬屋の前まで来ると、まず少女たちの目に飛び込んできたのは野生の小鹿ちゃんである。
あれはなぜか月美に懐いている小鹿ちゃんであり、今日も月美の顔を見ると「お、月美じゃん。ヤッホ~」みたいな馴れ馴れしい顔で近づいてきた。それを見て喜んだキャロリンは、月美の前にスッと割り込んで小鹿を撫でた。
「可愛いデスね~! 月美も撫でてあげたほうがいいデース!」
「私は結構ですわ・・・」
「この子たぶん、ブラッシングしてあげるともっと喜びマスヨ~!」
ブラッシングとは、ブラシで毛並みを整えてあげることである。
「ブ、ブラッシング? なんで私がそんなことまで」
「お~よしよし~」
「早く行きますわよ」
月美は小鹿には見向きもしないで玄関へ向かった。
「銀花ぁ! 今日はよろしくデース! 掃除洗濯手伝うデース!」
「あら、ありがとう。よろしくね、キャロリン」
エプロン姿でエントランスに姿を現した銀花は、キャロリンの前髪を指先で優しく整え、ついでに綺麗子の頭もポンポンと撫でた。
「綺麗子。もし泊まっていくなら、お家に電話して、泊まっていいかどうか訊いておきなさい」
「え!? 私も泊まっていいってこと!?」
「綺麗子のママがいいって言ったらね」
「やったー!!」
太っ腹なお姉さんである。
ちなみに、銀花の収入のほとんどは三日月農業関連なので、旅館の客足や客層にはあまり頓着しなくていいわけである。
「綺麗子ちゃんも一緒に泊まれるみたいだね!」
「・・・なんだか騒々しい週末になりそうですわ」
二階の自室にカバンを置きにいったついでに、百合と月美はパントリーと呼ばれる小さなキッチンのようなスペースから、乾いたタオルの入ったカゴを持って下におりた。初瀬屋の家事の手伝いを、百合も少しずつ出来るようになってきたようだ。
「百合、月美、早くこっち来るデース!」
初瀬屋のエントランスの奥にあるスペースを、キャロリンはとても気に入っている。
ソファーや大型テレビなどがあり、大きな窓から西側の田園風景が望めるこの場所は、普通は観光客がコーヒーを飲んだり、お茶菓子を食べたりして一息つく休憩所なのだが、今日だけは子供たちの遊び場だ。
「百合の好きなゲームでいいデース」
「え、ゲーム?」
百合はゲームと聞くと、携帯ゲーム機などの電子機器を想像するのだが、キャロリンと綺麗子が持ってきた木箱に入っていたのは、トランプのようなカードゲームたちである。百合にとってはむしろ、こういうゲームのほうが新鮮で、ワクワクした。
「あ、これとこれは月美が強すぎるからダメデース」
キャロリンはそう言いながら、何種類かのカードの小箱を端にどけた。
(え、月美ちゃんもこういう遊びするんだ!)
少し意外に思った百合は、横目で月美を見たが、彼女は階段のそばにあるグランドピアノの椅子に腰かけて澄ました顔をしながら自分の髪を指先でいじっている。とてもカッコイイ。
ちなみにあのグランドピアノは、銀花が時折趣味で弾いているものである。銀花はかなりピアノが上手いので、小学1年生のアテナが、銀花にピアノを教わりに初瀬屋へやってくることもあるようだ。
「えーと、私が知ってるのは、普通のトランプくらいかなぁ」
「じゃあまずはトランプするデース!」
すると、キャロリンと綺麗子は、ソファーやテーブルがない広々としたスペースの赤いカーペットの上にうつ伏せで寝転がり、カードを混ぜ始めた。
初瀬屋は土足で入るタイプの旅館ではないし、カーペットはいつも綺麗に掃除しているのだが、エントランスで誰かが寝転んでいるのを百合は初めて見たので少々驚いた。それどころか、あの月美でさえ、「はぁ、気乗りしませんけど、お付き合いしますわ」みたいなことを言いながら床にペタンと座ったのである。
(な、なんか、お泊り会って感じー!!)
変なところでテンションが上がった百合は、一緒にカーペットに寝転がることにした。西の窓から差す午後の光が、カーペットをぽかぽか温めており、普段は観察できないローテーブルの脚やソファーの側面などが見えて百合はワクワクした。
さて、手始めに4人はババ抜きをやることにした。
かなり盛り上がる戦いとなっていったのだが、ゲームの最中、ある人物にちょっとした試練が襲い掛かった。
他でもない、それは月美お嬢様である。
月美は最初のうちは普通にゲームを楽しんでいた。
百合の隣だったらもっと緊張していただろうが、丁度向かい側のポジションだったので心に余裕があったわけである。
床の上で正座をしていると両隣の人の手札が少し見えてしまうことに気付いた月美は、公平を期すため、自分もうつ伏せになった。あまり好きな体勢ではないが、キャロリンたちとカードゲームをする時はいつもこんな感じなので月美は気にしなかった。
しばらくして、右隣りのキャロリンの手札から一枚引こうとした時、月美はあることに気付いた。
「さあ月美、一枚引くデース」
「はい。・・・あ」
キャロリンのシャツの襟元から、セクシーな胸の谷間が見えていたのだ。
(あらまあ、キャロリンさんったら、中学3年生なのにだらしないですわね)
指摘してあげることも優しさだとは思ったのだが、キャロリン自身があまり恥じらいを感じないタイプの天真爛漫ガールなので、今日のところは見なかったことにした。
(んー、ハートの6ですわねぇ)
月美は自分が引いたカードと手札をじっくり見比べた。せっかく勝負をするのだから勝ちたいものである。
しかしその時、月美の視界に意外なものが映り込んだのだ。
(えっ・・・!?)
それは衝撃の光景だった。
キャロリンほどではないが、百合のシャツの襟からも、少しだけ胸元が見えていたのだ。
西日が透ける桜色のシャツの中で、滑らかな白い肌が輝いている様子は、少々幻想的ですらあり、月美は完全に心を奪われてしまった。もちろん、おっぱいが完全に見えているわけではないが、普段から百合を意識してしまっている月美にとっては、平静でいられない光景である。
(ゆ、百合さんまで胸元見えてますわぁ!)
月美は咄嗟に自分の手札で目を覆い、現実から逃げた。
(もう! なんで私こんなに動揺してますのよぉ! 私のバカバカ!)
耳まで真っ赤にしながら、月美は足を小さくバタバタさせた。
(まあ、百合さんはまだ小学生・・・。私のようなお嬢様でもないわけですし、気にならないんですわよね・・・)
百合に指摘するのはあまりにも恥ずかしいのだが、このような無防備な少女のまま育っていくのかと思うと心配だった。
(こ、ここは勇気を出して教えてあげるべきですわよね・・・。ゆ、百合さんのためにも・・・。皆さん、こんな風にうつ伏せでカードゲームしてると、シャツの襟元のガードが甘くなってしまいますから注意しましょうね、って言えばいいんですわ・・・。全体に言えばいいんですのよ)
しかしその瞬間、月美はイヤな予感がして自分のシャツを確認した。
(って! 私もガード甘々ですわぁ!!)
全然気づいていなかったのだが、月美の胸元も正面から丸見えだったのだ。百合に気付かれなかっただけ幸いである。
猛烈に恥ずかしくなった月美はシャツを押さえながらガバッと飛び起きたが、両隣の手札が見えそうになって慌ててうつ伏せに戻り、混乱しながらすぐにまた体を起こした。こんな感じのアシカが水族館によくいる。
「ちょっと月美ぃ~。体操してないで早くカード引かせなさいよ~」
「あ! あの、そうですわね・・・!」
どの体勢になるのが正解か分からず月美があたふたしていると、夕ご飯の準備を始めていた銀花が、キッチンの入り口から顔を出した。
「晩ご飯の前に、皆でお風呂に入ったら? ちょっと早いけど、沸かしたわよ」
「わーい! 皆で入るデース!」
これは大問題である。
いつもより少し肌色が多く見えているだけで動揺している月美が、百合と一緒のお風呂に入れるはずがない。月美はショートしそうな脳みそをフル回転させて逃げ道を探した。
「わ、わ、私、外にいる鹿をブラッシングしてきますわっ・・・!」
「つ、月美ちゃん!?」
目を丸くする百合を残し、月美は玄関に常備されている鹿用のブラシを持って、逃げるようにエントランスを去ったのだった。
「はぁ・・・私、絶対挙動不審でしたわ・・・」
月美はため息をつきながら、夕焼けの色にほんのり染まった小鹿の背中をブラシで優しく撫でていた。小鹿はとっても気持ち良さそうに、目を細めてうっとりしている。
このようにして、月美は動物たちから好かれていってしまうのである。