92、オムレツ
「じゃあ百合ちゃん、教室行くよ~」
職員室で山ほど教科書を貰った百合は、ずっしりした紙袋を両手に提げ、美菜先生についていった。
木造の校舎の廊下は、時折ギギッと軋み、古びたシミも多かったが、丁寧に塗られたニスがツヤツヤと輝いていて、大切にメンテナンスされているようだった。壁や天井も木製で、アンティークのヴァイオリンみたいな感じの不思議な建物だ。
「美菜さん、じゃなくて・・・美菜先生」
「なぁに?」
「クラスメイトって、どんな人たちですか?」
「ん~、皆いい子たちだよ♪」
「・・・友達になれるかなぁ」
「大丈夫大丈夫ぅ♪」
月美のような親切な子や、綺麗子みたいなフレンドリーな子ばかりなら助かるのだが、詳細は不明である。
「高校生や中学生の人も同じクラスなんですか?」
「そうだよぉ。算数とかは別の教室でやるけどね」
「へ~」
ちなみに、この学校にはもう一人先生がいるらしく、先程入った職員室には、美菜先生のデスクの隣にもう一つデスクがあった。綺麗に整頓され、習字のセットなどが置いてあった様子からして、しっかり者で硬派な雰囲気の先生かも知れない。
涼し気に湿った緑の風が、東側の窓からそよそよと吹いており、昇降口の前を通りかかった時は、その風が一層爽やかにグラウンドに向かって駆け抜けていった。
教室は昇降口のすぐ右側だったので、あっという間に到着してしまった。百合はまだ心の準備ができていない。
「じゃあ、百合ちゃんちょっとここで待ってて♪ 私が合図したら、入ってきてね♪」
「え! あ、はい・・・」
「大丈夫、適当に自己紹介すればオッケーだから」
そう言い残し、美菜は教室のドアを開けた。
「はーい皆ぁ~! 噂には聞いてると思うけど、今日から新しい仲間が増えるよぉ!」
一瞬だけ教室の中が見えたが、窓の向こうのグラウンドが眩しくて、生徒たちの表情などはまったく見えなかった。木製の古びたドアには小窓があるが、そこから覗き込んだらさすがに怪しいので、百合は目を伏せて深呼吸することにした。
(緊張するけど・・・月美ちゃんがいるんだから、大丈夫!)
転校生というのは普通、知り合いが0人の状態で教室に放り込まれるわけだが、百合には月美という心強い味方がいる。クールなのに、いつも百合のことを気に掛けてくれる優しい女の子だ。
「じゃあ、百合ちゃーん、入ってきてー」
「は、はい!」
百合は紙袋を一度床に置いて髪を大急ぎで整えてから、震える指先でドアを開けた。
おお~、という小さな歓声に迎えられた百合は、教室を見回す勇気が出ず、俯きながら美菜先生の隣まで歩いた。
「はい、この子が白浜百合ちゃんで~す。百合ちゃん、一言ご挨拶を♪」
「は、はい」
そして百合は顔を上げたのである。
不思議なことに、百合は真っ先に月美と目があった。
スズランの花のような清らかな肌とつやつやの黒髪、そして真っ直ぐな眼差しは、どこにいても目立つのだ。月美は窓際の席におり、百合と目が合うと慌てて視線を逸らして運動場のほうを向いた。
びくびくしながら教室を見回してみた百合は、7人の生徒のうち、外国出身と思われる子が3人くらいいる点に驚いた。彼女たちは皆、目を輝かせて百合を見つめており、特に、中央の席で、身を乗り出している中学生くらいのお姉さんは、彼女の美しいブロンドヘアーと同じくらいキラキラした眼差しを百合に向けてくれていた。非常に緊張するが、挨拶しなければならない。
「し、白浜百合ですっ。鹿野里に引っ越してきました。えーと、美菜先生の姪です」
「百合ちゃんのご両親はね、三日月島の調査で現地に行くことになっちゃったの。だから親戚の私がお世話することになりましたぁ~!」
「は、はい。でも、美菜先生のアパートじゃなくて、初瀬屋さんに滞在することになっています」
教室に小さな笑いが起こった。生徒たちにとっても、美菜先生はちょっぴりポンコツな先生なので、初瀬屋で暮らすと聞いてホッとしたのである。
「なので、月美ちゃんと一緒の家で生活してます」
生徒たちは好奇の目を月美に向けたが、彼女は涼し気な顔で窓の外を眺めている。
「え、えーと・・・好きな科目は、図工と音楽です。苦手なのは、算数、かな。特技は・・・特にないですけど、水泳と、あやとりはできます」
あやとりは余計だったかなと百合は内心思ったが、教室からは意外な食いつきがあった。
「百合もあやとりできるデース!?」
「えっ、あ、はい! ちょこっと」
中央の席のブロンドお姉さんは、若干片言の可愛い日本語をしゃべった。
「あやとりなら、私も得意デース!」
ブロンドお姉さんが机の引き出しから、あやとり用の毛糸を取り出し、少しぎこちない手さばきで何かを作り始めた。
「それじゃあ、皆も自己紹介しようか♪ まずはキャロリンからにする?」
「ハーイ! まずは私からデース!」
キャロリンと呼ばれたブロンドのお姉さんは、あやとりしながら嬉しそうに立ち上がった。
「キャロリン・スターフィールド! ニッポンのワビサビを愛する中学3年生デース! それから、この子が桃香デース!」
「わぁ! ・・・ゆ、百合ちゃん改めてよろしくぅ。桃園商店にいる桃園桃香です」
キャロリンは隣の席の桃香と一緒に挨拶した。二人は同学年であり、かなりの仲良しコンビである。百合は照れながら二人に頭を下げた。
キャロリンはしばらく毛糸を格闘していたが、やがて金たわしのような謎の毛玉を完成させ、照れ笑いした。
「え、えーと、今度教えて下サーイ!」
「わ、分かりましたっ・・・!」
楽しい先輩である。
「次は私、キャロリンにあやとりを教えた天才児、小学5年生の山田綺麗子よ! 百合と私はもうすっかり友達ね!」
「そうなの?」
「そうよ! 一緒に鹿野里探検したわ!」
「へぇ。仲良しなのね」
綺麗子のすぐ前の席に腰かけている最年少と思われる小さな女の子が、大人びた相槌を打った。そして彼女も、百合に自己紹介してくれたのである。
が、この辺りから百合は、転校生特有の現象に襲われることになる。
ただでさえ緊張しているのに、一度に自己紹介される人数が多過ぎて、頭がパンクしてしまったのだ。
(ま、まずい、名前が覚えられないぃ・・・!)
完全に記憶できたのはキャロリン先輩くらいであり、あとの数人に対しては、愛想よく頭を下げるタイミングを計るのに必死で、話の内容もあまり頭に入らなかった。
ただ、車椅子の女の子がいたことと、最年長の高校生のお姉さんが神社の巫女さんをしていることなどは、記憶に残った。
「オッケ~♪ じゃあ百合ちゃんの席はぁ~」
「はーい! 私の隣がいいと思いまーす!」
先生が言い終えないうちに、綺麗子が小さな両手を上げた。
百合は内心「月美ちゃんの隣がいいなぁ~!」と叫んだわけだが、よく見ると、綺麗子の机から2メートルも離れていないところに月美の席があるため、二人の間に机を持っていけば全て解決である。隣同士でぴったり机をくっつけるタイプの教室ではないので、実質月美ちゃんと隣同士になれるわけだ。
「百合ちゃんどうする? 綺麗子ちゃんの隣でオッケー?」
「は、はいっ!」
百合は教壇の横に置かれていた机と椅子をいそいそと持ち上げ、綺麗子と月美の間に置いた。無事成功である。
「よろしくね、百合!」
「う、うん、よろしく」
百合は綺麗子にそう挨拶したあと、左側にいる月美に目をやった。
が、月美は相変わらずこっちを見てくれない。
(あれ・・・もしかして、迷惑だったかなぁ・・・)
ちなみに、先程の自己紹介で月美は「月美です。初瀬屋旅館の娘です。よろしくお願いしますわ」と手短に語ったのみだった。
(んー・・・)
月美ちゃんという人物が、優しい人間であることを百合はもうなんとなく理解しているのだが、とにかくクールすぎるため、嫌がっているのか、それとも平静なのか、素人目には判別できないのである。
(月美ちゃんが今、どんな気持ちなのか・・・知りたいなぁ・・・)
まもなく一時間目の授業が始まるが、百合はなんだか心が落ち着かず、月美のことばかり考えていた。
さて、その月美ちゃんは今、こんなことを考えていた。
(ゆ、百合さんが隣の席に来ちゃいましたわぁあ・・・!!)
家に帰っても部屋が隣同士であり、家族のような距離感で暮らしているというのに、学校でも密接ラブラブ距離だなんて、緊張で体が震えそうである。
(登校中にあんなに距離を保ってましたのに、これじゃあ意味ないですわ・・・! 私はクールでいたいですのにぃ!)
月美はドキドキする胸と、赤くなっていそうな頬を隠すために、頬杖をつこうと思ったが、行儀が悪いと気づき、すぐに背筋を伸ばした。が、やっぱり恥ずかしいと思い、国語の教科書を熱心に読むフリをして俯いて、体を窓のほうにちょっぴりひねることにした。忙しいお嬢様である。
声を掛けられたらどうしようかと怯えながら、月美は授業開始のチャイムを待った。
百合にとって、花菱女学園・鹿野里校で迎える記念すべき最初の授業は、なかなか面白いものだった。
基本は、自分の学年の教科書とテキストで自習をするのだが、黒板の前へ出て発表したり、音読したり、年下の子に勉強を教えたりする時間が定期的に挟まれるのだ。中学生や高校生の勉強内容をちょっぴり先取りできる点は、都会の学校よりも優れた点かもしれない。
キャロリンと桃香、そして神社の巫女さんの3人は、百合たちのような小学生とは時間割が違うらしく、3、4時間目を二階の教室で受けていた。もう一人の先生に百合は会ったことがないので、タイミングを見計らって挨拶しなければならない。転校生の緊張は、丸一日続くようだ。
さて、そんな百合にも憩いの時間がやってくる。
午前中の授業が終わった後のランチタイムだ。
百合が以前通っていた東京の小学校は給食制だったため、皆でお弁当を持ち寄って食べるというのは、遠足に来ているようで非常にわくわくするのだ。しかも百合は月美と綺麗子に挟まれたポジションなので、かなりハッピーである。
「じゃあ、くっつけるわよ!」
「百合の机が増えたから形が変わるデスねぇ~」
教室のムードメーカーである綺麗子とキャロリンがそう言いながら机を動かし始めた。どうやら8人全員の机をくっつけるようだ。
(つ、月美ちゃんとくっつくってこと・・・!?)
初瀬屋のダイニングで食事をする時は、向かい側の席とか、斜め前とか、いつもそんな感じであり、肘がぶつかりそうな位置でランチを食べるのは初めてである。
広い教室の真ん中に机が集まり、島のようになった。百合は月美と綺麗子に挟まれており、キャロリンや桃香が正面にいる形になった。
(月美ちゃん、私の隣、イヤじゃないかなぁ?)
廊下の水道で手を洗い、席についた百合は、お弁当箱が入った袋を取り出しながらも、月美のことばかり考えていた。
(いくら月美ちゃんが親切だからって、馴れ馴れしすぎるとまずいよね。だって月美ちゃんは私とは全然違う、クールなお嬢様なんだもん・・・)
月美ちゃんの人生に迷惑を掛けないよう、なるべくじっとしているのが正解なのかも知れない、百合はちょっぴりそう思った。
お弁当箱の蓋を開けると、彩り豊かなランチの世界が百合の瞳に飛び込んできた。
(わぁ、綺麗。美味しそう~!)
しかし、蓋を開けるのと同時に、ベージュ色のメモ用紙がペラッと出てきて、百合の胸の前に舞い落ちた。お弁当箱の中に詰まった美味しそうなおかずたちに百合は目を引かれたが、それと同じくらいメモ用紙が気になったわけである。
(ん・・・?)
メモには、銀花のものと思われる達筆で、次のように書かれていた。
『これは内緒の話だけど、オムレツは月美が早起きして作りました。百合のために。だからおいしく食べてあげてね』
それを読んだ瞬間、百合は頬や首や手がじわわ~っと温まるのを感じた。
(つ、月美ちゃんが作ってくれたの!?)
そんなこと、月美本人からは全く聞いていない。百合は月美を横目で盗み見てから、お弁当箱の中央で黄金色に輝くオムレツに目をやった。
登校初日で緊張している百合のために、月美は自分の得意料理を食べさせてあげたいと思ったのだ。が、自分が作ったと知られると恥ずかしいので、「このことは言わないで下さい」と銀花に伝えておいたわけである。銀花はメモに「書いた」わけだから、ギリギリ約束は破っていない。
百合は、銀花のメモを素早くポケットにしまった。月美に見つかってはいけないメモだとすぐに察したからだ。
「百合は東京で生まれたデース?」
「は、はい」
「鹿野里には初めて来たの?」
「はい、初めてですっ」
「ぱっちり二重の目が美菜先生にそっくりデース!」
「そ、そうですかね」
百合はキャロリンたちの質問に、半分上の空で答えながら、オムレツに箸を伸ばした。食べるのがもったいなかったが、残すともっともったいないことになる。百合はオムレツの端っこを箸で少しだけ切り取り、なるべく平然とした様子でそれを口に運んだ。手が震えそうである。
(んんんんん~!!)
口の中いっぱいに、まろやかな優しさが広がった。
百合は頭の中がぽわ~んとなるほど幸せだった。
百合は何度も月美の様子を窺ったが、彼女は涼しい顔で自分のお弁当を食べており、とても百合のためにオムレツを作ってくれたとは思えないクールさである。
(月美ちゃんに・・・絶対お礼言いたい!)
だが、あからさまに「月美ちゃん! 私のためにオムレツ作ってくれたんだって!? ありがとうー!」とは言えない感じである。そんなこと言ったら、月美は猛烈に恥ずかしがり、もう百合に親切にしてくれなくなるかも知れない。
(どうしよっかなぁ・・・)
百合は美味しいオムレツを大事そうに少しずつ食べながら、様々な方法を思案した。
一方の月美も、人知れずドキドキしていた。
(ゆ、百合さんが、私が作ったオムレツを食べてますわ・・・。お口に合うといいのですけど・・・)
オムレツのお味はいかがですの、と尋ねるのは不自然だし、じろじろ見るのもおかしいので、月美は百合の感想を聞くチャンスが全くない。月美は報われない努力に慣れている大人びた少女であるが、こればっかりは気になって気になって仕方がなかった。
お弁当を食べ終え、綺麗子が「皆で運動場に出てみましょう!」と提案した頃、ついに百合は名案を思い付いた。月美のお嬢様プライドを傷つけることなく、感謝を伝える方法だ。
「つ、月美ちゃん!!」
「はい?」
机を元の位置に戻そうとしていた月美に、百合は思い切って声を掛けた。
「ぎ、銀花さんって、料理うまいんですね」
「え?」
「オムレツ・・・オムレツがすごく、美味しかったです!!」
二人は少しのあいだ見つめ合った。
そして月美は珍しく照れたように微笑み、満足気に髪をサッと撫でてお嬢様風のカッコいいポーズを決めると、いつもより少しだけ高い声でこう答えたのである。
「当然ですわよっ。初瀬屋の女将ですもの」
百合はこの時、初めてハッキリと月美の心の動きを感じ取ることが出来た。
(月美ちゃんって・・・なんだか、すごく・・・可愛い!)
友人のために早起きして美味しいオムレツを作り、それを秘密にしているお嬢様がとてもいじらしくて、百合は月美の背中に抱き着きたい気分になってしまったが、そんなことをしたら嫌われてしまうのでやめておいた。
(月美ちゃんって、ホントにいい人だなぁ~・・・)
月美の好感度は、本人が気付かないうちにどんどん上がっていくのだった。
職員室で用事を済ませてきた美菜先生は、一足遅れのランチタイムにしようと、サンドイッチを持って教室へ向かっていた。
すると、食事を終えた少女たちの声が聞こえてきた。
「出発するデース!」
「おー!」
キャロリンたちが百合の手を引いて教室から出てきた。車椅子の少女も仲間たちに押してもらっており、クラス全員で昇降口へ向かったのだ。少女たちは大はしゃぎしながら靴を替え、太陽の降り注ぐグラウンドへ飛び出していったのである。
「百合ちゃん、すっかり打ち解けてるじゃ~ん♪」
美菜は、運動場で砂まみれになって遊ぶ子供たちを教室の窓から見守りながら、サンドイッチを食べることにした。水筒から出したホット緑茶の香りの向こうで、心地よい風に踊る小鳥たちの歌声と、少女たちの眩しい笑い声が弾んでいた。
とっても幸せな、田舎の午後のひと時である。