91、クールな距離
鹿野里の朝の空気は、いつも季節をちょっぴり先取りしている。
まだ梅雨前だと言うのに、東の山に昇った太陽は果汁が滴るオレンジに似た鮮やかさで、里の田園を燃えるような輝きで包み込んだ。
雪の結晶を思わせる幻想的な輝きで夜空を埋め尽くしていた星たちも、朝日の温もりを浴びた瞬間にふわっと溶けていき、シルクのようにきめの細かい水色に変わって、家々の窓辺を優しく満たした。
「それじゃあ、いってらっしゃい」
「い、いってきます!」
百合は、初瀬屋の玄関で銀花にお辞儀をした。初めての登校は、転校生にとってビッグイベントであるから、百合の緊張は尋常でない。
一方の月美は、初瀬屋の前にある駐車場の隅っこで、桜の木にもたれ掛かって小説を読んでいる。目の前の交差点には信号もないし、車も全然通らないから、さっさと渡っていいはずなのに、いつまでも読書しているのだ。一応、百合のことを待ってくれているのかもしれない。
そんなクールな月美に、百合は勇気を出して駆け寄った。
「お、お待たせしました・・・!」
「あら、もう学校いきますの? 私もそろそろ登校しようかしら」
月美は小説をランドセルに入れて背を向け、自分の髪をサッと撫でると、道を渡っていった。
(こ、これって、一緒に登校してくれるってことなのかなぁ・・・?)
百合は今朝、月美から一度も「一緒に登校しますわよ」みたいなことを言ってもらえていないのだが、流れ的にはオッケーなのかもしれない。とりあえず百合は、月美のすぐ後ろについていくような形で、東の山方面へ歩き出した。
この直線の道路は緩やかな上り坂であり、古い石垣で形作られた段々畑や、桃園商店などがある道だ。
風の通りが良く、とても気持ちがいいので、百合はこっそり両腕を上げて、竹とんぼのようにクルッと回ってみた。まるで青空をかき混ぜているような、爽やかな心地である。
小鳥たちの歌声だけでなく、カエルたちがケロケロ鳴く声も、小さな水路から聞こえてきた。生まれた時から都会で暮らしていた百合にとって、本物の里山の息吹に包まれながら登校するのは、心躍る体験である。
「お弁当は持ちましたの?」
「え?」
月美が、振り返ることもなく急に話しかけてくれたので、百合はびっくりした。
「う、うん! 銀花さんが作ってくれたよ!」
「そう」
百合の前を歩く月美はクールにそう返事しただけで、他には特に何も言わなかった。会話をしてくれるということは、一緒に歩いていても大丈夫というサインなので、百合は一安心した。
ちなみに、百合たちが通う学校は、給食の日がほとんど無いので、お弁当持参システムである。
当初は、百合の叔母である美菜先生が「百合ちゃんのお弁当は私が作りまーす!」と言っていたのだが、銀花が「月美の弁当を作るついでに、私が作ってあげますよ」と言って譲らないので、結局銀花が作ってくれることになったのだ。美菜は小学校の先生なので、朝から忙しいはずであり、こういうのは協力し合うべきだというのが銀花の考えなのである。
さて、ゆったりした坂を上っていく百合の右手に、桃園商店が見えてきた。あれは桃香先輩のお家である。
「桃香さんって、どこの中学校に行ってるんですか? やっぱり、笠馬駅のほう?」
百合は少しドキドキしながら、月美の背中にそう尋ねた。
「あら・・・私たちと同じところですわよ」
「・・・え? どういうこと?」
百合は知らなかったのだが、鹿野里の子供たちは、小学生も中学生も高校生も、みんな一つの学校に通っているのだ。彼女らが通っているのは、有名な女学園の「鹿野里分校」であり、小中高合わせても全校生徒は8人だ。
早朝なので、桃園商店はまだシャッターが閉まっており、桃香お姉さんがどこにいるか、百合には分からなかった。
「桃香さんなら、もう学校に行ってるはずですわよ」
「あ、そうなんだ」
「中学の先輩たちはいつも早いんですのよ」
「へー。もしかして、教室でお勉強してるの?」
「さあ、あまり興味がありませんわ」
「ふーん」
やっぱり、月美ちゃんはとてもクールでかっこいいなぁと百合は思った。
長い黒髪が揺れる様子がとても美しくて、百合は思わず手を伸ばして触れてみたくなってしまったが、しっかり自制した。馴れ馴れしく接するとすぐに嫌われてしまいそうだからだ。
それに、百合が少しでも近づくと、月美はその距離感を背中で察知し、わずかに早歩きになってしまうのだ。そのせいで二人の間には、柴犬5匹分くらいの距離が常に開いている。百合にとってはもどかしい間であるが、クールなお嬢様と一緒に歩くというのは、こういうことなのだろうと納得することにした。話しかけて貰えるだけ幸せなのかもしれない。
しばらくすると、二人の背後に聞き覚えのある声が、軽やかな靴音と共に迫ってきた。
「おーい! 月美ぃ! 百合ぃ~!」
小学5年生の元気っ子、山田綺麗子ちゃんの声だ。
「初瀬屋行ったら、もう二人ともいないって言われたから焦ったわよ! 一緒に行きましょ!」
「うんっ」
屈託のない綺麗子の笑顔に、百合はちょっぴり癒された。
しかし月美はなぜかこの後、さっきよりもさらに距離をあけて、先頭をどんどん歩くようになった。柴犬7匹分くらいである。
「ねえ月美ぃ~、このあいだ言ってたアイスの話だけどさぁ~」
「き、綺麗子さん、おしゃべりはまた今度にして下さいます?」
「え? なんで?」
「いや、その・・・私、朝は静かに登校するのが好きですから」
「え? ・・・変な月美ぃ」
緩やかな坂道はしばらくは真っ直ぐだったが、児童公園に突き当たってからは、少し角ばった九十九折りの山道となる。上空から見れば「弓」と言う字に見えるので、この坂道には弓坂という名がついている。
(おお、この辺からは山って感じだね)
弓坂は日当たりが良いので、周りには葡萄に似た低木の段々畑が多かった。民家もいくつかあるが、人が住んでいそうにない古い小屋も見える。鹿野里には、数十年前の謎の小屋や住居跡があちこちに残されているのだ。
「百合! ここから初瀬屋が見えるわよ!」
「え?」
「ほら!」
「わぁ・・・ほんとだぁ」
弓坂から里を見下ろすと、朝日に照らされた春の緑が海原のように広がっているのが見えた。初瀬屋の屋根瓦は、濡れた小川の小石のように、滑らかに輝いていた。遠くに見える西側の山は、初瀬屋の自室の窓から見える姿とあまり変わらなかったが、その山並みの麓にビニールハウスのような施設や民家が並んでいることに、百合は初めて気づいた。
「山頂からの眺めは、もっと綺麗ですわよ」
「あ、そうなんだ。それも見てみたいなぁ」
「そのうちですわね」
「うんっ」
数メートルの距離を置かれたままだが、月美がしゃべり掛けてくれて百合はとても嬉しかった。
百合は、景色よりも月美の横顔に興味があって、そっちをじっと見つめてしまったのだが、目を合わせてくれることはなかった。そこはちょっぴり残念である。
弓という字の一番上にある横棒が、学校の敷地に接している。
坂を上り終えた百合は、緑色のフェンスと木々の垣根の向こうに、広々としたグラウンドと、二階建ての白い木造校舎を目の当たりにした。
「全校生徒8人って言ってたけど、校舎はすごく大きいね・・・」
「古い小学校の校舎を使ってるのよ!」
「へ~」
校門には『花菱女学園・鹿野里校』と彫られたプレートが掲げられていた。
(ここが、私の新しい学校かぁ!)
日の当たる運動場は、テラコッタのタイルが敷かれた広大なテラスのように温かく輝いていて、山の陰に潤った白い校舎は、ユリの花みたいな上品なたたずまいである。
校門から昇降口までは、グラウンドの中央を歩いていくことになる。
百合は非常に緊張していたが、月美は立ち止まることなくどんどん進んでいくし、綺麗子も百合のランドセルを物珍しそうに撫で回しながら背中を押してくるので、ゆっくり深呼吸して落ち着くタイミングはなかった。
(あっ! 昇降口に誰かいる・・・!)
登校中は綺麗子以外に誰にも会わなかったが、学校まで来れば当然、他の子もいるわけである。小学1年生くらいの小さな女の子が、高校生くらいのお姉さんとおしゃべりしているのが見えたのだ。
(ちゃ、ちゃんと挨拶できるかなぁ・・・!)
百合の心臓はバックバクである。
転校生にありがちな、教室の黒板の前で全体にご挨拶、みたいなものを想定していた百合にとって、このような場面で新しい友人にご挨拶するのは、逆に緊張するわけだ。
しかし、昇降口の少女たちが百合の存在に気付くより先に、昇降口のすぐ左側にある窓から、美菜先生が顔を出した。
「百合ちゃ~ん! おはよ~!」
「あ、おはようございますっ」
「ちょっとこっちきて~!」
美菜はライトグリーンのパーカーを着ており、相変わらず学校の先生っぽさはないが、職員室と思われる窓辺から手を振る様子は、ちょっぴり格好良かった。
百合が昇降口に視線を戻すと、もうそこに少女たちはいなかった。やはり、後で教室でご挨拶することになりそうだ。
窓辺に駆け寄ると、美菜先生は「おはよ♪」と言いながら、百合の頭をぽんぽんと撫でてくれた。ピンク色のポピーが咲く花壇の土の匂いが、百合の鼻をくすぐった。懐かしい感じがする香りである。
「教科書渡すね! あと、今日は上履きの代わりにこれ使って!」
美菜は窓越しに大きな紙袋や子供用のスリッパを手渡してきた。
「それからねぇ、えーとねぇ・・・」
美菜は職員室の戸棚の上にある段ボールを引っ張り出して、その中を覗いたりしている。職員室には、美菜以外に先生はいないようだった。
「美菜さん、私、職員室に行きましょうか」
「あ、来てくれる? じゃあ、中入ってきて」
「はーい」
たぶん、昇降口から入ってすぐ左側の部屋が職員室だろうから、迷子にはならないだろう。
紙袋を抱えた百合は、ふわっと髪を揺らして振り返り、昇降口へ歩き出そうとした。
その時である。
百合は自分の肩や腕に、優しくってちょっぴり柔らかい温もりを感じることとなったのだ。
「あ・・・!」
「あ、ごめんっ」
なんと、百合のすぐ斜め後ろに、月美が立っていたのだ。月美は百合の様子が気になって、一緒に職員室の中を覗き込みに来たのだ。
百合は反射的に謝ったわけだが、すぐに、不思議な喜びが込み上げてきた。
(つ、月美ちゃん! さっきまであんなに私と距離をとってたのに、こんなに近くに来てくれたの・・・!? 私のこと心配して、ついてきてくれたの・・・!?)
自分の頬に、月美の髪が触れそうなぶつかり方だったので、百合は照れてしまい、紙袋を抱きかかえるようにして口元を隠しながら、立ち尽くしてしまった。一瞬だけ感じた月美の髪の香りが、百合を非常にドキドキさせた。
焦ったのは月美である。
(ま、まずい! く、くっつき過ぎましたわぁあ!!)
猛烈に恥ずかしくなった月美は顔を真っ赤にして背を向け、ぎこちない早歩きで昇降口へ退散した。
登校中、月美はずーっと百合との距離を広めに保ち、クールなお嬢様っぽい振る舞いを続けていたというのに、最後の最後で油断し、自ら近づいていってしまったわけである。おそらく、昇降口の柱にもたれ掛かって小説を読みながら待っているのが正解だった。
月美は、百合のすべすべの肌が触れた辺りをさすりながら、大慌てで上履きに履き替えた。
なんでこんなに動揺しているのか、そしてなんでこんなに格好付けたくなるのか、自分でもよく分からないのだが、とにかく月美は、収まらない胸のドキドキを誤魔化すために、廊下を小走りで駆け抜けて、教室へ向かうのだった。
陽だまりの中の百合は、自分の胸がトクントクンと音を立てているのを聞きながらしばらく立ち尽くしていたが、やがて前髪などを整えて落ち着きを取り戻し、綺麗子と合流した。呑気な綺麗子は、花壇の隅っこで眠っていた野生の青い小鳥を指先で撫でて遊びながら百合を待っていたのだ。
「お、おまたせ~」
「あれ? 月美は? 先に行っちゃったの?」
「う、うん。そうみたいだね」
「ふーん。変な月美ぃ」
首を傾げる綺麗子の向こうで、青い小鳥も一緒になって首を傾げていた。
「ま、いいわ! 教室行きましょう!」
「うんっ」
この後、百合は新しい友人たちに向けて挨拶や自己紹介をしなければならないわけだが、その緊張感に加えて、次にまた月美と顔を合わせる時のドキドキもあって、百合の胸の中はお祭り騒ぎになってしまった。
けれど、なんだかちょっぴり、幸せな気分である。