90、レモンティー
「桃香~、ママ出掛けてくるから店番お願~い」
「は、はーい!」
写真をたくさん飾ったアルバムを咄嗟に机の引き出しに隠した桃香は、母に返事をして下の階へ向かった。
中学3年生の桃香は、桃園商店の看板娘である。
看板娘というと、明るく積極的な魅力で客を惹きつける女性を指すことが多いが、桃香はもっとゆる~いタイプの看板娘だ。近所の住人は、ちょっぴりドジで天然な桃香の可愛さを見守るために、わざわざ来店することが多いのだ。
(よぉし・・・今日こそしっかり店番するぞ・・・)
桃香はかなりやる気であり、商品管理から接客まで、完璧にこなそうと意気込んでいる。田舎の商店とは言え、一時間待っていれば必ず数人は訪れるから、気は抜けないのだ。
桃香はレジの前の椅子に座って、宿題の漢字テキストを開いた。
とっても天気がいいので、屋外とのコントラストが激しく、店内は薄暗いが、これくらいの雰囲気を桃香は気に入っている。
商店の裏手に流れる小さな水路のせせらぎや、鳥たちのさえずり、東の山を渡る風の音が、桃香の時間を優しく満たしていく。最初の5分は宿題に集中していた桃香も、やがて春の雰囲気にうっとりし始め、店外の陽だまりをぼーっと眺めるようになった。店を出て右に向かって坂を上がっていけば学校や診療所があるのだが、今日は祝日だからか、人通りは少ない。白いちょうちょが飛んでいるくらいだ。
(今日は・・・来てくれるかなぁ・・・)
実は桃香は、ある女の子の来店を期待している。その子は桃香の同級生なのだが、今日のような休日にはあまり姿を見せてくれない。学校に行けば必ず会えるので寂しくはないが、店番中はどうしても期待してしまうのだ。
すると、坂を駆け上がってくる軽やかな靴音が迫ってきた。もしかして、と思った桃香は、前髪を整えてから漢字のテキストで顔をちょっぴり隠し、目だけで様子を窺った。
「桃香ちゃーん! 買い物に来たわよぉ!」
声の主は小学5年生の山田綺麗子ちゃんだった。桃香が期待していた人物ではないが、友人に会えて桃香は嬉しかった。
「いらっしゃい、綺麗子ちゃん。お買い物に来てくれたの?」
「そうよ! でもその前に、鬼ごっこしましょ!」
「え、でも店番中なんだけどなぁ~・・・」
桃香は苦笑いであるが、桃香は年下の子と遊ぶのが結構好きだし、店番中にレジから離れてもお金や商品を盗まれるような町ではないから、少しなら鬼ごっこに付き合ってあげてもいいかなと思ったのである。
「じゃあ、少しだけね」
「やったぁ! 30数えてから出て来てね!」
「うん!」
桃香は振り子のように体を左右にゆっくり動かしながら30秒数えた。
桃香は運動が苦手なのだが、ダイエットになりそうな遊びにはノリノリなのである。自分のおっぱいが大きいことを「太っている」と勘違いしている彼女は、体脂肪燃焼への意欲を人並み以上に持っているわけだ。
「もーいいかーい?」
返事がないのは、探してオッケーの合図である。
桃香は、五月の太陽が降り注ぐ優しい陽だまりに、そっと顔を出した。
綺麗子が隠れる場所に、桃香は心当たりがある。
桃園商店の象徴ともいうべき大きな銀杏の木が真横にあるので、それの陰に隠れているケース。瓦屋根付きの小さなお地蔵さんの家があるので、その裏でしゃがんでいるケース。そして裏手の段々畑の、一段低くなっている場所に身をかがめているケースなどだ。
(足音はたぶん、裏のほうから聞こえたなぁ~)
桃香は段々畑のほうへ向かった。
鹿野里は野菜で有名な地域だが、花畑も多い。桃園商店の裏には、三日月島原産の紫色の花たちが春爛漫を迎えていた。
この花たちは、当初は大豆に似た実を収穫する目的で栽培が始まったが、土壌のpH値、つまり酸性かアルカリ性かによって、色も形も全く違う美しい花をつける面白い性質が分かってから、観賞用としても活躍が期待されるようになった。
桃香はその花畑の畝の間をてくてく歩いて、一段下の畑を覗き込んだ。
意外にも、そこに綺麗子はいなかった。畑の向こうには鹿野里のメインストリートや初瀬屋旅館が見える。
「あれぇ、どこだろう?」
桃香はわざと大き目に独り言を言った。しゃべりながら探してあげると綺麗子が喜ぶのだ。
ふと見ると、薪や農具をしまっておく小屋の後ろに、見覚えのあるシャツがチラっとはみ出ていた。あれは綺麗子が来ているオレンジ色のシャツだ。
「ふふっ」
桃香は花畑の中を通ってそーっと綺麗子に近づくことにした。
「みーつけた!」
そして後ろから綺麗子に抱き着いたのである。
しかし、抱き心地が、いつもの綺麗子と違った。
桃香にとって綺麗子は、幼い頃からよく知っている妹のような存在であり、気軽に抱き着けるはずなのだが、この時は妙にドキドキしたのだ。ふわっといい香りがして、ちょっぴりすべすべの素肌の温もりや白いうなじが、桃香の頬を一瞬で桜色に染めた。
「・・・え?」
「ど、どうも~」
「わぁ! ど、どちらさま!?」
見知らぬ美少女が、綺麗子のシャツを着て変装し、しゃがんでいたのだ。
飛び退いた桃香の背後に、本物の綺麗子が「ばあ!!」と言いながら登場した。
「桃香ちゃん! 引っかかったわね! その子は私じゃないわ!」
「どどちらさま!?」
「百合って言うのよ! 鹿野里に引っ越してきたの! 美菜先生の親戚よ!」
百合は桃香に頭を下げて「よ、よろしくお願いします」と挨拶した。背中に桃香のおっぱいの柔らかい感触が残っており、百合も少し照れてしまっている。
この、桃香ちゃんをビックリさせる作戦は、綺麗子の発案だ。
綺麗子と百合のシャツを交換し、桃香をだましちゃうという天才的アイディアだ。百合は、初対面の相手にドッキリなど仕掛けて失礼ではないかと少々不安に思っていたが、桃香ちゃんが優しそうなお姉さんで安心した。
「百合はお使いを頼まれてるのよ!」
「あ、そうなの?」
「は、はい。お買い物していっていいですか?」
「もちろんだよ。いらっしゃい、百合ちゃん」
綺麗子を先頭にして商店へ向かう百合を、桃香は後ろからポ~ッとなって眺めた。
(綺麗な子だぁ・・・。あぁ! いけないいけない!)
桃香は雑念を振り払うように、首を横にぶんぶん振った。
実は、桃香は非常に惚れっぽい少女である。
同級生の、とある女の子に恋をしているというのに、油断するとすぐに別の人にもドキドキしちゃう恋愛体質なのだ。桃香はそんな自分のことをはしたない女だと嫌悪しており、常に煩悩と戦っているわけだ。
(もう! すぐに女の子にドキドキしちゃう私のバカバカぁ・・・!)
桃香は顔を真っ赤にしてもじもじした。悩める乙女である。
さて、もう一人の悩める少女月美は、百合たち三人が仲良く桃園商店に入っていく様子を物陰から見て、すっかり落ち込んでしまった。
(なんだか、私の入る余地がありませんわ・・・)
転校生の百合さんは自分を一番頼りにしてくれると期待していたのに、あっという間に友人を増やしている様子である。こんなことなら、昨日もっと百合さんに優しくフレンドリーに接すれば良かったですわと月美は思った。ついついクールでツンツンした態度をとってしまったのである。
「はぁ・・・もう帰りましょう」
すっかり意気消沈した月美は初瀬屋に戻ることにした。
自分の部屋である204号室に入った月美は、座布団に向かってばふっとうつ伏せになった。畳の香りが染み込んだ座布団におでこをくっつけ、月美はイカの干物みたいな格好でぐったりした。
(百合さんは、私なんかいなくたって、鹿野里で楽しく過ごせるんですのね・・・)
今頃、綺麗子や桃香と一緒に楽しく笑っている百合を想像して、月美は胸がきゅうっと締め付けられた。
(百合さん・・・きっと私のことなんて、全然頭にありませんわ・・・)
普段は孤独を愛する一匹狼の月美が、今はなぜか、猛烈に寂しさを感じている。
(なんですの・・・この気持ち・・・)
もうお昼ご飯の時間であるが、調理を手伝いに厨房へ行く気力がない月美は、鏡川の静かな水音を聞きながら、ぼんやりしていく意識の中で、昨夜見た百合の微笑みを、ただ思い浮かべていた。
「ただいま、銀花さん!」
「あら、おかえり。お使いありがとう」
「いえいえ! 月美ちゃんはどこですか?」
「上にいるわよ」
そんなやり取りを耳にして、月美は飛び起きた。どうやら月美はうとうとしていたようだが、自室のドアを開けっぱなしにしていたせいで、エントランスの声がよく聞こえたのだ。
(え!? ゆ、百合さんが二階に来ますの・・・!?)
月美は咄嗟に、広縁の小さな食器棚からティーカップを一つ取り出し、空っぽのままそれを手に持って窓際の椅子に腰かけた。ちなみに、月美の自室は、勉強机がある以外は一般的な和風旅館と同じ構造である。
「こ、こんにちは。月美ちゃん、いますか?」
ドアは既に開いているが、百合は律儀にノックし、そんな風に月美に問いかけた。
月美は自分の部屋が片付いているかどうか横目でチェックしたかったが、そんな余裕もなく、窓の外を見ながら、かすれそうな声で返事をするのが精一杯だった。
「・・・あ、あら、何の用ですの? 私、暇じゃありませんのよ」
「あの、えへへ。月美ちゃんに、お土産があるんですけど」
百合の意外な言葉に、月美はどう答えていいか分からず、空っぽのカップを口に運んで、何かを飲んでいるフリをした。美味しい酸素ティーである。
「あ・・・えーと、お部屋に、お邪魔してもいい、ですか?」
月美が部屋から出て来ないので、百合はそう言うしかないわけである。
「それは、まあ・・・別に、構いませんけど」
月美は思わずそう答えたのだ。
百合は初めて月美の部屋に足を踏み入れるし、月美も初めて百合を部屋に招くわけである。二人のあいだに、桃色の緊張が広がった。
百合は少し手が震えるような感じがしたが、なるべく落ち着いてスリッパを脱ぎ、静かに板の間を歩いて、畳をやさしく踏みしめ、窓際へ向かった。柔らかい逆光に縁取られた月美の横顔は、とっても綺麗で、長いまつ毛がはっきり見えた。
月美の椅子の前には低めのテーブルがあるので、百合はその前でトンと膝をつき、月美の顔をそっと見上げた。月美は目を合わせてくれない。
「月美ちゃん、桃園商店でね、これ買ってきちゃいました!」
「ん・・・?」
「あげる!」
百合は、冷たい缶ジュースを一つ、テーブルに置いた。実はこれ、ちょっと特別なジュースなのだ。
今から15分ほど前のことである。
桃園商店に入った百合は、生活雑貨だけでなく食品もそこそこ充実している店内の様子にわくわくした。内装はレトロな雰囲気であり、レジの周りにはちょっとした駄菓子売り場があって、綺麗子は迷わず青りんご味のガムを買っていた。
するとそこで、綺麗子があるものに気付いたのだ。
「あ! 桃香ちゃん、あのレモンティーあるじゃん!」
「そうだよぉ。前に人気だったやつ。五月からまた入荷されるようになったの」
「これ、月美が大好きなのよねぇ!」
ガラス製の冷蔵ジュース売り場に、人気商品が半年ぶりに再入荷されたらしいのだ。びっくりするほどジューシーなレモンの風味が口いっぱいに広がる、爽やかなレモンティーだ。今日のような天気が良い日に飲むと、きっとハッピーになれる缶ジュースである。
(月美ちゃんに買ってあげたい!!!)
百合は迷うことなくレモンティーを手に取った。お使いのために預かっているお金とは別で、自分の財布からジュース代を出したのだ。
「これ、どうぞ♪」
「え・・・わ、私に?」
「うん!」
綺麗子や桃香と楽しく遊んでいたはずの百合が、自分のことを忘れないでくれた事実が、月美の心を打った。それどころか、百合は実は、最初からずーっと月美のことを考えながら鹿野里探検をしていたのである。
しかし、素直にお礼が言えない月美は、ただ頬を桃色に染めてジュースの缶を見つめるだけだった。
(ゆ、勇気を出さなきゃ・・・だめですわ・・・!)
月美は今日、仲間に入れて欲しいのに、合流する勇気が出ず、ずっと後悔していた。今度こそ、勇気を振り絞るべきである。
静かに腰をあげた月美は、食器棚からもう一つのティーカップを取り出し、窓際の丸テーブルにおいた。そしてレモンティーの缶を開けると、それを二人分に分けて注いだのである。
「半分あげますわ・・・仕方ないですから」
「え! いいの!?」
「・・・まあ、はい」
「ありがとう。じゃあ、一緒に飲もう!」
月美は返事をせず、自分のティーカップを手に取り、プイッと窓のほうを向いた。恥ずかしくて耳が赤くなってしまっている。
百合は月美の向かい側の椅子に腰かける勇気が出なかったので、手近な座布団を引き寄せて座り、障子にそっと肩を付けながらティーカップを手にとった。なぜか、座布団が少し温かい。
月美が目を合わせてこないというのは、逆にいうと百合は月美のことを見放題ということである。百合は月美の美しい横顔をじ~っと見つめながら、レモンティーを口にした。
「わぁ、すごい! 美味しい・・・!」
外を歩き回って喉が渇いていた百合にとって、冷たいレモンティーの弾けるような味わいは全身に染み渡るようだった。
一方月美も、ついさっきまでの孤独な時間が嘘だったように鮮やかさを取り戻した自分の世界に、目がチカチカするような幸福を感じた。こんなに美味しいレモンティーは、初めてかも知れない。
「美味しいね、これ!」
「それは・・・まあ・・・そこそこですわね」
月美は「美味しいですわ」とか、「ありがとう」とか、そういう素直な感想を言うことができなかった。
しかし百合は、月美と一緒にお茶を飲めただけで大満足である。居候である自分の存在を、ある程度受け入れて貰えたという安心感が、百合の胸をポカポカと温めたのだ。
そうなると百合は急に、今日の出来事を月美と共有したくなった。
「月美ちゃん、私ね、綺麗子さんと一緒に鏡川をさかのぼっていって、不思議な家に行ったんです」
「あら、そう・・・」
「まだ造りかけのカフェでね、中に誰かいたから、逃げてきちゃった!」
「あらまあ」
「それでね、桃園商店で、桃香さんっていう中学生のお姉さんに会いましたよ!」
「桃香さんに?」
「うん! 年上だけど、カワイイ感じの先輩ですね。綺麗子さんとシャツを交換して、ドッキリ仕掛けちゃいました! 大成功だったよ!」
「あら、そうでしたのね・・・」
それ全部見てましたわよ、と月美は思いながら、赤くなった頬を必死にティーカップで隠すのだった。