89、子猫ちゃん達
鹿野里には、鈴が鳴るような優しい風が吹く。
「ん~、なんて気持ちのいい風かしらぁー♪」
幹の直径が2メートルはあろうかという巨大な杉の木を見上げながらグ~ッと伸びをしている彼女は、ローザという名の、大人の女性だ。
ローザは、偶然にも百合と同じタイミングで鹿野里に引っ越してきた、植物学者の卵である。色気たっぷりの外見を持つ彼女は、非常に女好きであり、思わせぶりな言動で乙女たちの心を弄ぶのが趣味の魔性の女だが、仕事に対しては結構真摯なタイプだ。
「長い石段を上ってきた甲斐があったわ♪」
神社の境内を吹き抜ける風が、汗ばんだローザの首元を爽やかに冷やしてくれた。
「・・・でも、どうして山の中に神社なんか作ったのかしら。鹿野里の人たちは山登りが好きなのかしら」
ローザは故郷のマドリードの大学で2年ほど勉強しただけで日本語が堪能になってしまった天才なのだが、実際に日本を訪れたのは今回が初めてである。彼女にとって、鹿野里の風景には驚きがいっぱいだ。
「私の新しい職場、ここから見えるかしら?」
ローザが登ったのは、鹿野里の北側の山である。
木製の小さな柵がついた見晴らし台から南の風景を眺めると、ライトグリーンの若々しい田園と砂糖菓子みたいな可愛い民家たちが一望でき、ローザの職場となる野菜の研究施設やビニールハウスも隅のほうに見えた。南の山のずっと向こうには、笠馬の市街地や太平洋が見える。
ちなみに、眼下の麓に見えるオレンジ色の屋根の家は、ローザの新居である。彼女はそこで小さな喫茶店を始めようと、現在自力で改装中だ。野菜の研究だけでは退屈だと思ったからだ。
「いい景色ねぇ。ここは絵に描きたいわぁ・・・」
ローザはそうつぶやいて微笑むと、改めて境内を見回した。
野生の小鹿が一頭、大木の根っこを枕に、木陰で気持ち良さそうに昼寝をしていた。野鳥たちの声が静かに降り注ぐ、うっとりするような時間である。
「でも、今のところ・・・人があんまりいないわねぇ」
可愛い女の子が大好きなローザは、女性がやたら多いという噂を聞いている鹿野里に期待していたのだが、今のところ人間をほとんど見かけていない。
「ま、いいわ。そろそろ山を下りて、改装の続きしようかしら」
顔を上げた小鹿に投げキスをして、ローザは石段を下り始めた。
同じ頃、太陽みたいに明るく元気な綺麗子は、転校生の百合を連れて鹿野里案内の真っ最中だ。
初瀬屋から出発した二人は、現在鏡川を北上している。
鹿野里はそこそこ広い盆地であるが、元気な子供の足で鏡川をさかのぼっていったら、すぐに北側の山が迫ってくるのだ。
「綺麗子さん、この川ってどこまで続いてるの?」
「あの山のずっと向こうよ!」
「え、山を越えるの?」
「山の間をくねくね曲がりながら、ずっと続いていくのよ!」
「え! くねくね曲がるんだぁ。この辺はまっすぐなのにね」
「うん! あの山を抜けた辺りからは、渓流って呼ばれるようになるのよ。私は何度も鏡川探検に行っててぇ、あの山の向こうの、もーっと向こうの山奥まで行ったことあるわ!」
「すごーい!」
「ぐへへ♪」
綺麗子は嬉しそうである。鹿野里で暮らす子供たちの中でも綺麗子はかなりの野生児なのだが、それを褒められることはあまりないから、すっかり気分を良くしたのだ。
「今日はどこまでいくの?」
「山には入らないわ。でもね、ちょっぴり危険な場所に行くわよ」
「き、危険な場所・・・?」
「あっちよ!」
綺麗子は川の左手、北の山の麓辺りを指差した。
「ここからは慎重にいくわよ」
「き、綺麗子さん、何があるの?」
「しーっ、静かに~」
綺麗子が姿勢を低くし、川沿いの柳の木の陰に隠れたので、百合も一緒になってしゃがんだ。とんでもない野生動物が出てくるのかも知れないので、百合は綺麗子の小さな背中にぴったりくっついて息を潜めた。よく見ると、綺麗子のヘアゴムにはショートケーキの形の飾りがついていて、とても可愛い。
二人の視線の先には、茅葺屋根の古民家があり、他にも何軒かの建物が点在していた。綺麗子が指差したのは、大きな石の鳥居の近くにある、南欧風の小洒落た家だ。
「あの家、見える? 最近、建てられたのよ」
「え、新築ってこと?」
「そうよ。鹿野里に新しい家が増えるなんて珍しいのよ。怪しすぎるわ」
「なるほどぉ」
「それによく見て、たぶんレストランかカフェになるのよ」
「えっ」
百合という転校生が来ただけでも大事件なのに、さらに新しい店まで増えるとなったら、鹿野里は大騒ぎだ。
「こんな田舎でお店を始めるなんて、なんか怪しいと思わない?」
「んー、確かにそうだね」
「きっと何か企んでるのよ。様子を見に行きましょう!」
綺麗子は百合のシャツの袖をちょいちょいっと引っ張ってから、茂みを飛び出した。
百合は正直、新しく出来た家のことをそれほど怪しいとは思っていないのだが、鹿野里を探検するワクワク感に心を躍らせた。運動靴の紐を結び直してから、百合は綺麗子の背中を追いかけた。
そんな二人の様子を、月美お嬢様は物陰から見ていた。
(い、一体どこに行くつもりですの・・・? 桃園商店さんに行くと思ってましたのに、とんでもない寄り道ですわ・・・)
月美は、鏡川に掛かる二本目の橋の袂に身を隠している。ちょっぴりお洒落なワンピースが風に揺れ、土手の砂地に擦れているのだが、月美はそれに気づかず、二人を窺うのに夢中だ。
(綺麗子さん・・・空気の読めない人ですわね。どう考えても、鹿野里案内は私の役目ですのに・・・。あ! そこの段差は気を付けてください! 綺麗子さん、道に飛び出しちゃダメですわ! 百合さんも、その辺は草が生い茂ってますからもっと右に・・・! もう・・・危なっかしくて見ていられませんわ・・・!)
仲間に入れて~、という一言が言えない月美は、こんな風に物陰から二人を見守るしかないのである。とてつもなく不器用なお嬢様だ。
カラマツの林を背負ったオレンジ色の屋根が色鮮やかで、白い壁がとっても素敵な建物だった。
風通しが良さそうな大きな出入口やウッドデッキがあったので、綺麗子が言う通り、作りかけのカフェであるようだ。百合はなんとなく、去年の夏に家族で遊びに行ったキャンプ場の受付を思い出した。
「まだオープン前よね」
「うん。作ってる途中だね」
「窓ガラスにビニールが貼ってあるわ」
「新品ってことだよね」
「そうね。誰もいないみたいだし、もう少し近づいてみましょ」
入口のドアがまだ取り付けられておらず、ガラ空きであることに気付いた二人は、思い切って店内を覗き込みにいくことにした。まるでお化け屋敷を見に行く気分である。
店内の電気はまったく点いておらず、窓明かりが静かに差し込んでいた。
床には木材がいくつか並べられており、カウンター席の上には工具箱やブラシが置かれていた。モデルルームみたいな新築の匂いもするが、絵の具を使った後の図工室に似た香りもする。
(ん、あれって、ギターのケースかな・・・?)
ピーナッツみたいな形をした、ワインレッド色のケースもあった。
絵の具と楽器と大工道具が散乱した、不思議な空間である。
誰もいないね、と百合が言いかけた時、二人は意外な物音を耳にすることとなった。
「あら、鍵かけ忘れてたわ」
ほんの数メートル先から、人間の声が聞こえたのだ。どうやら店の裏口から中に入ってきたらしい。
(だ、誰か来たぁあああ!!!)
百合たちはびっくり仰天である。あまりの驚きに、二人は店の入り口の前で石のように固まってしまった。
「さーてと、続きやろうかしらね♪」
大人の女性の声である。
入口からはちょうど見えない位置にいるその女性は、模造紙のような大きな紙をめくる音を立てたかと思うと、トンカチで木材に釘を打ち始めた。初めからこれくらい物音を立ててくれれば百合たちも近づかなかったというのに、まるで獲物を狙うライオンのように身を潜めるのは勘弁して欲しいものである。
相手がどんな人物か分からないので、綺麗子と百合はかなり怯えた。もしかしたら、DIYが大好きな幽霊かもしれないからだ。
二人は目を合わせ、「逃げよう~・・・!」と合図をして、ゆっくりゆっくり後ずさりした。
しかし、ついてないことに、綺麗子は足元に転がっていた小石を蹴飛ばしてしまい、それが傘立てに当たって、コンッと派手に音を立ててしまったのだ。
「あら? 誰かいるの?」
当然、店内のお姉さんに気付かれてしまったわけである。
綺麗子は咄嗟に、「ニャ~オ・・・」と言い残し、百合の手を引いて鏡川のほうへ猛ダッシュした。
山登りを終えて帰宅したローザは、カウンターキッチンとフロアの境目のウェスタンドアを作り始めていたのだが、入り口から物音がして、猫のような声も聞こえてきたから、首を傾げたわけである。
「ん~?」
どう考えても今のは猫ではなく人間の子供の声だ。
トンカチを置いたローザは、木材を軽く整理してからゆっくりと立ち上がり、出入り口に顔を出した。木立を吹き抜ける静かな風が、ローザのマロン色の髪をふんわり揺らした。
店の前には砂利が敷かれた駐車スペースがあり、道路との境には、幹が真っ直ぐに育つ大きなカラマツが点々と並んでいる。その幹の向こうに見える眩しい田園が、ローザの瞳をくすぐった。今日は本当に良い天気である。
ふと見ると、小川のほうに向かって大慌てで駆けていく二人の少女が見えた。どうやら犯人はあの子達らしい。
が、ローザがとにかく気になったのは、駐車場の左奥のカラマツの幹に寄り添うように立つ、綺麗なワンピース姿の少女だ。彼女はローザの存在に気付いていないようで、こちらに背中を向けており、小川のほうへ駆けていく二人の様子を窺っているのだ。二人の姿が見えなくなると、ワンピースの少女は、辺りをキョロキョロ見回してから、陽だまりの道へと軽やかに駆け出していった。
この一連の動きを見たローザは、目を輝かせた。
(いやーん! この町ってやっぱり、可愛い子猫ちゃん達がいっぱいいるのねぇえ!)
女の子がだ~い好きなローザは、思わず飛び上がり、大喜びした。子供相手に興奮するのはやめて欲しいものである。
しかしとにかく、鹿野里はローザが想像している以上に賑やかであり、退屈させない出来事で溢れている。それを彼女は、これから少しずつ実感していくこととなるのだ。