85、百合の転校
天使のような少女が一人、電車の座席にポツンと腰掛けている。
彼女は名前を百合といい、今日から新しい町で暮らすことになった小学6年生の女の子だ。
たった一人で引っ越し先に向かう心細さを紛らわすため、百合は先程から、窓の外で輝く五月の青空を見上げていた。
「わぁ・・・」
新緑の森の中に姿を現す涼しげな渓谷、鉄橋から望める遥かな山々、空の色を写して広がる爽やかな水田・・・。都会で育った百合にとって、次々に移り変わっていく里山の風景はとても新鮮で、うっとりしてしまった。
長いトンネルを抜けた辺りから、電車は徐々に市街地へ入っていった。線路は高架になっているので眺めが良く、町のあちこちで上げられた鯉のぼりたちの勇壮な泳ぎ姿が見えた。そういえばもうすぐ子供の日である。
『まもなく、笠馬。笠馬です』
ちょっぴり上品な車内アナウンスのお姉さんの声に、百合は思わず「えっ!」と声を洩らした。百合はこの笠馬という駅で降りることになっているのだ。長かった一人旅がついに終わるようだ。
(き、緊張するなぁ・・・)
期待と不安で百合の胸は高鳴り、頬がじんわりと熱を帯びた。急いで荷物をまとめなければならない。
『お出口は左側です。ご乗車ありがとうございました』
電車は減速しながらホームに滑り込んだ。百合は忘れ物がないか何度も座席を振り返りながら、リュックを背負った。
ホームに下り立つと、心地良い風が百合の足元を吹き抜け、彼女の白いスカートをふわっと揺らした。
(思ってたより都会だなぁ。映画館とかもある)
百合は自販機の横でグッと伸びをしながら、駅前の大きなショッピングセンターを眺めた。田舎暮らしになると母に言われていたのに、少なくとも駅の周辺は横浜風の垢抜けた都会である。
「そうだ、美菜さんに電話しなきゃ・・・!」
百合はこの駅で、親戚のお姉さんと待ち合わせをしているのだ。
母に買ってもらったばかりの携帯電話を慣れない手つきで操作し、百合は電話を掛けた。
「あ、もしもし」
『もしもしー! 百合ちゃん?』
明るい声に耳をくすぐられ、百合はちょっぴり笑顔になった。
「はい。今、笠馬駅に着きました」
『オッケー! 改札口から外に出てきてっ』
「わかりました」
もう美菜は駅前のロータリーにいるらしい。百合は改札を目指し、エスカレーターを下りた。
「おーい! 百合ちゃ~ん!」
大きなバス停の近く、眩しい陽だまりの中で、美菜が白い手を振っていた。
「百合ちゃんこっちこっちー!」
「美菜さん、お久しぶりですっ」
「お久しぶりー! 大きくなったねぇ百合ちゃん!」
百合が駆け寄ると、美菜は百合をむぎゅっと抱きしめて頭を撫でてくれた。
美菜は、とても元気で綺麗なお姉さんである。
百合の母の妹なので「叔母さん」と呼ぶのが正しいのだが、まだ23才なので、「おばさ~ん」と言ってしまったら失礼になるかも知れないから、百合はずっと「美菜さん」と呼び続けている。
美菜は小学校の教員をしているが、まだ2年目の新米であり、性格も真っ直ぐでポンコツだから、頼りになる女性というよりは、面白いお姉さんといった感じである。
「じゃあさっそく、百合ちゃんが暮らすお家までご案内しま~す」
「はい。ここからどうやって行くんですか? バス?」
「違う違う♪ 私の運転で行くんだよ」
「え」
駅前駐車場に止められた軽自動車を指差して、美菜は胸を張った。
(だ、大丈夫かな~・・・)
初心者マークを見て百合はちょっぴり不安になったが、2時間近く孤独な旅をしてきた百合にとって、美菜お姉さんの車の助手席は、ようやくホッと一息つける魅力的な場所である。ありがたく乗車させて貰うことにした。
美菜の車の中は、なぜか桃のような甘い香りがした。
(美菜さん、綺麗だなぁ♪)
シートベルトをして、何気なく美菜の横顔を見上げた百合は、すっかり大人の女性に成長した彼女の様子に少し見とれてしまった。長いまつ毛や綺麗な鼻筋が百合の母にそっくりである。
美菜の運転は非常に慎重であり、ある意味安全運転だった。
「この町って、海が近いんですか?」
助手席の百合は、『海水浴場、左折1キロメートル』と書かれた標識を見かけてそう尋ねた。
「近いよ~。笠馬は城下町だから、観光できるところもいっぱいあるし」
「へー、そうなんですね」
「あ、道間違えた・・・」
ちょっぴり方向音痴らしい。
「ちなみに、百合ちゃんが暮らすのはこの辺りじゃなくて、あの山の向こうの小さな町だよ」
「あ、やっぱりそうなんですね。田舎暮らしになるってお母さんが言ってたので、駅からかなり離れてるんだろうなぁって思いました」
「うん。すっごい田舎だぞぉ~」
美菜はそれをマイナスの意味で言ったのだが、百合は正直、悪い気はしていない。
(私の新生活の舞台・・・どんな町なんだろう)
百合は意外とポジティブな性格なのである。
百合を乗せた車は、海とは反対方向へ進んでいく。
やや大きめの川が郊外に流れており、その河川敷に近い道路を走っていると、正面の山並みの鮮やかな緑色がぐんぐん迫ってくるので、百合はドキドキした。
「あ、そう言えば、ニュースは三日月島の件で大賑わいだよ!」
歩道を散歩するポメラニアンを百合が眺めていると、美菜が興奮気味にそう言った。
「え、ほんとですか?」
「うん。三日月島の中継とか、専門家の分析とか、一日中やってるよ♪」
「へー。やっぱり、大事件なんですね」
「そうだね。百合ちゃんのママたちも、そのうちテレビに映るんじゃないかなぁ~」
実は、百合がたった一人で引っ越しすることになった原因は、この三日月島にあるのだ。
三日月島というのは、この笠馬市から南東に100キロ余り行ったところにある太平洋上の無人島である。その島で先日、科学的に説明が難しい、非常~に不思議な事件が起こったのだ。
で、その解明のために世界中の科学者が急遽集められたわけだが、調査の際に島の一部が崩れるおそれもあったため、現地の遺跡を調査する歴史考古学者、そして三日月島の貴重な植物を保護する植物学者も、緊急で島に赴くこととなったのである。
百合の両親は、日本を代表する有力な考古学者と植物学者だったため、どうしても島へ行かなければならず、やむを得ず、一人娘の百合を親戚の元に預けることにしたのだ。
「ママたちの仕事が終わるまで、百合ちゃんは私の娘みたいなものだからね♪」
「はいっ」
一時的に一人ぼっちになってしまった自分を慰めてくれる美菜に、百合は笑顔で返事した。
「ママたち、早く戻ってくるといいね」
「そうですね。でも、美菜さんがいてくれますから、半年くらい掛かっても私は平気です♪ 寂しい時は電話もできますし」
「そっかそっか♪」
学者たちの研究というのは、平気で年単位の活動になることを百合は知っているので、両親と長期間離れ離れになる覚悟をしているのだ。今の百合は、一人で留学をするような気分である。
「・・・とは言え、私の自宅は小さなボロアパートだし、学校の先生だから結構忙しいんだよね・・・」
「分かってます♪ だから近所のお宅に居候するんですよね」
百合は、美菜の友人が経営する旅館で寝泊まりすることになっているのだ。美菜のアパートのすぐ近くにある、小さな旅館である。
「絶対絶対! 毎日百合ちゃんに会いに行くからね・・・!」
「い、いや、いいですよ、そこまでして頂かなくて。それに学校で普通に顔合わせるんじゃないですか?」
「やだやだ! 絶対行くー! 私は今日から百合ちゃんのママだもーん・・・!」
百合は苦笑いである。
「心配しすぎですよ♪」
「うぅ・・・」
「美菜さんはお仕事をしっかり頑張って下さい♪ 私は大丈夫ですから」
「ふぇぇ・・・」
これではどちらが年上か分からない。
美菜はドジっ子なお姉さんだが、とても愛情深く、姪っ子の百合のことをとても大切に想っているのだ。
車は大型の野菜直売センターの前を通り、青葉が茂る桜並木の上り坂へ差し掛かった。ここからはちょっとした山道である。
「私がお世話になる人って、どんな人ですか?」
「旅館の女将さんで、初瀬さんっていう女性だよ」
「初瀬さんかぁ・・・。私、その人と仲良くなれますかね」
「大丈夫だよ。ちょっとミステリアスな人だけどね♪」
「ミ、ミステリアス、ですかぁ」
おそらく、美菜よりは年上なのだろう。怖い人じゃないといいなと百合は思った。
「初瀬さんかぁ・・・ちゃんとご挨拶しないとなぁ・・・」
そう呟きながら窓の外の木漏れ日を眺める百合に、美菜は少々違和感を覚えた。まるで女将さんと二人暮らしをするような口振りだったからだ。
「あれ、言ってなかったっけ? 初瀬さんの家には小学生の女の子が一人いるんだよ」
「え! そうなんですか?」
百合はビックリして携帯電話を足元に落としそうになった。
「うん。6年生だから、百合ちゃんの同級生だよ。仲良くしてあげてね♪」
「同級生!? ど、どうしよう、緊張してきました・・・」
「大丈夫大丈夫~♪」
初瀬さんの娘と仲良くなれなかった場合、かなり気まずい居候となってしまうだろう。百合は不安になった。
「あの子はクールで気難しいけど、本当は照れ屋で思いやりがある子だから♪」
「・・・その子って、美菜さんが勤めてる小学校にいるんですか?」
「そうだよ~。鹿野里には学校が一つしかないから、皆知り合いだよ♪」
「鹿野里?」
「百合ちゃんの新生活の舞台だよ♪」
「へぇー」
「あ、ここから先が鹿野里ね」
坂を上り終えると、そこには温泉街にありがちな大きなアーチ看板が掛かっており、『ようこそ! 新野菜のふるさと、鹿野里へ!』と桜色の太字で描かれていた。
ここから先の長い下り坂は、木漏れ日がきらめく緑のトンネルになっていて素敵である。ずっと遠くの、坂を下りきった辺りに見える眩しい陽だまりが、小さな宝石みたいに見えた。
「美菜さん」
「ん?」
「その子、名前は何ていうんですか?」
「その子?」
「初瀬さんのおうちの女の子」
「あぁ、月美ちゃんだよ」
百合はその瞬間、自分が静寂な光の中に飛び込んだような感覚に陥った。
窓を流れる緑の輝きや、心地よい車の振動、そして美菜の声までもが、百合の意識から消えた。五感は百合の心の内を駆け巡るのに必死なようである。
(月美ちゃん・・・?)
自分の鼓動が急に速まるのを感じた百合は、思わず胸の辺りを小さな手のひらで押さえた。
(なんだろう・・・すごく懐かしくて、幸せな感じがする名前・・・)
とても不思議な気持ちに包まれたまま、百合はしばらくのあいだ我を忘れていた。そして不意に顔を上げると、ちょうど車が緑の葉のトンネルを抜けたらしく、フロントガラスに眩しい光が差し込んだ。
「わぁ・・・」
次の瞬間、百合の眼前には、抜けるような青空と緑豊かな山並み、そして輝く春風がいっぱいに満ちた、美しい田園の里が広がっていたのである。