80、赤い風船
これは、今からおよそ5分前の出来事である。
「電池替えてみるデース?」
「意外と一階のほうが電波届いたりして」
「よ、よし、電池を替えて、場所も移動してみましょう」
モンブランが美味しいカフェにいる月美たちは、無線機の不調と格闘中だ。
高所に位置するこのカフェの出窓からは、眼下のビーチサイドカフェにいる翼たちの様子を見守ることができるわけだが、音声が聞こえてこない現状では、二人の会話内容は知る由もない。翼は無事に告白できるのか、気になるところである。
マロンクリームの甘~い香りがする螺旋階段を駆け下り、一階へ来た月美と百合は、さっそく無線機の調子を確かめようとしたのだが、カウンター付近にちょっとした人だかりが出来ている事に気付いて立ち止まった。
「どうしたんだろ」
「分かりませんわ」
小さな月美はにょーんと背伸びをしてみた。
すると、店の入り口に見覚えのある小鹿が立っており、その背中の上でピヨが鳴きながら飛び跳ねているではないか。
(う・・・あれは多分、私たちを探してますのよね・・・)
月美はクールなお嬢様になりたいのに、なぜか動物たちに好かれている。
「・・・ピヨたち、どうかしましたの?」
しぶしぶ月美が姿を現すと、ピヨは小鹿の背中からぴょんと飛び降りて、月美の足元に猛スピードで駆け寄った。ピヨは小さな翼をパタパタ振ったり、目で訴えかけたりして、月美たちを外に案内しようとしている。
「な、何かあったのかしら・・・」
ピヨはいつもアホみたいな顔をしている子なのだが、今日はちょっと必死な様子だ。
「見に行ってみよう、月美ちゃん!」
「あ、は、はい・・・!」
重大事を予感した百合が先に店を出て行ったので、月美も慌てて彼女の背中を追った。
手袋とマフラーを店内に置いてきてしまったので、外に出た月美は頬や首に冷たい北風を感じた。
が、そんな事どうでもよくなるような事態が、大通りに起きていたのである。
「ねえ、あれ見てぇ!」
「まずいよ! 海に落ちちゃう!!」
「どうしよう!!」
大通りにはたくさん店があるが、ほとんどの生徒が外に出てきており、ビーチのほうを見下ろして青い顔をしていた。これは只事ではない。
「え!?」
振り返った月美と百合は、とんでもない光景を目にしたのだった。
「風船と・・・ウサギ!?」
ビーチサイドにはピンク色の歩道が敷かれており、海に沿って大きな弧を描いているのだが、その道の上空を滑るように、赤い風船が風に流されているのだ。そしてその風船にはなんと、ピヨと仲良しの白ウサギがぶら下がっていて、助けを求めていたのである。
「あ、あのウサギ、飛んじゃってますわ!」
「海のほうに向かってる!」
ちなみにあの赤い風船は、クリスマスセールをやっているショッピングモールの飾り付けに使われていた風船である。ウツクシウムガスで浮かぶ風船に興味を持った白ウサギは、風船の糸をパンチしたり噛んだりして遊んでいたのだが、ふとした拍子にそれが切れ、自分も宙に浮かんでしまったのだ。糸をくわえている口をすぐに離せば問題無かったのだが、気付いた時にはそこそこの高さまで上昇しており、ウサギはどうしようもなくなってしまったのである。
白ウサギの体重がそこそこあるので、風船が空の彼方へ飛んでいってしまう心配はないのだが、高度3メートルという、ウサギを救出しようとする生徒たちの手が届かない絶妙な高さを漂っていた。性格の悪い風船である。
「すみません、虫取り網みたいな物ありませんか!」
月美は咄嗟にモンブランカフェの生徒にそう尋ねた。
「いや・・・ありません・・・」
「で、ですわよね・・・」
いても立ってもいられない月美たちは、ウサギが浮遊しているビーチのほうへ向かうことにした。
(ど、どうしたらいいんですのぉ・・・!)
白亜の石段を駆け下りながら、月美は白ウサギの救出法を必死に考えた。もしも虫取り網や魚取り網が見つからなかったら、砂浜から何かを投げまくって風船を割るという方法もあるが、ウサギが危険である。
こういう時、青い小鳥のピヨが空を飛べたならすぐに救出できるのだが、残念ながらピヨは飛べない鳥なのである。どう見ても飛べそうな見た目をしているのに、なぜか飛べないのだ。
「月美ちゃん!」
「は、はい?」
息を切らせて階段を駆け下りていると、百合が何かを思い付いた。
「翼さんなら、助けられるかも!」
「え、翼様?」
「機馬で飛べるから!」
「な、なるほど!!」
この島にいる人間の中で最も空に近い女、それが翼である。
「そうですわ、翼様に連絡できるかもっ」
階段の途中にあるウクレレ専門店の前でちょっと立ち止まり、月美はインカムのスイッチを入れた。
「もしもーし! 翼様! 聞こえますか!」
雑音は少し聞こえてくるのだが、返事はない。こちらの声も届いていないのだろう。先程よりも物理的に距離が縮まっているのだから、そろそろ通じて欲しいものである。
「月美ぃー! 百合ぃー! ウサギが飛んでるデース!」
キャロリンやルネたちも階段を駆け下りてくる。
「はいっ! 今、翼様と連絡を取ってますわ。翼様なら助けられるかも知れませんわ!」
「おおー!」
翼とアテナがいるカフェは、ここからさらに階段を下り、2分ほど歩いた場所にある。走ればすぐ着くかも知れない。
「私たちは先に行ってるデース!」
「了解ですわっ」
月美と百合は無線機をいじりながら、小走りでルネたちの後に続くことにした。
さて、翼とアテナはまだ外の騒ぎに気付いていないのだが、いよいよ事態を知ることとなる。
テーブルの上に置いていたイヤホンタイプの無線機から、誰かの声が聞こえてくる事に翼が気付いたのだ。
「翼ですけど、どうかした?」
『あ! 翼様ですの!? やっと通じましたわ!』
ひどく慌てた様子の月美に、翼はびっくりである。
「何かあったの?」
『大ピンチです翼様! 今日、機馬で来てますわよね?』
「え、うん・・・」
『良かった、すぐに外に出てきて下さい!』
「え?」
翼とアテナは顔を見合わせた。
「何かしら・・・」
「分からないけど、行ってみようっ」
「う、うん」
翼とアテナは、北風が小さく渦を巻く12月の午後の日差しの中に飛び出した。
「え!? 何の騒ぎ・・・?」
ピンク色の歩道にはなぜか人影がたくさんあった。少女たちは皆、青い顔をして空を指差している。
「翼さん、あれを見て!」
「ど、どれ?」
アテナのしなやかな指が差したのは、赤い風船とそれにぶら下がる小さな白ウサギだった。足をバタバタさせているそのウサギちゃんは、風にゆっくり流されながらどんどんビーチのほうへ向かっていく。高度は4、5メートルだ。
「あれは、まずい!」
「冬の海に落ちたら命に関わるわ。助けないと・・・」
空・・・海の上・・・そして月美が言っていた「機馬」というキーワード・・・それらが翼の胸の中で星座のように結びつき、今すべきことを暖炉の火のようにハッキリと明らかにした。
「私が機馬で飛んで、あの子をキャッチする」
「え!?」
「出来るはずだ。というか、私しか出来ない」
「・・・だ、大丈夫なの?」
「ああ、もちろん・・・」
翼の声は少し震えた。
実は、全然大丈夫ではなかったのだ。
翼は確かにここまで機馬でやって来ているのだが、ここにあるのは常用の機馬である。翼はこの機馬にもかなりの改造を施しているが、競技用の機馬と違い、空を滑空できるようには作っていないのだ。
「翼ぁ! あの子を助けて欲しいデース!」
キャロリンたちがやってきた。丘のほうには、遅れてやってくる月美と百合の姿も見える。
「大丈夫、私に任せてくれ。助けに行くよ」
告白が失敗したばかりの女にしては随分と肝が据わっているが、翼とは元々こういう性格であり、困っている人や動物を放っておかない正義感の塊である。人助けのスイッチが入ると、急にカッコ良くなるのだ。
翼は風船の行方を目で追いながら、機馬に飛び乗った。
この機馬は「ルルちゃん」というニックネームがついている常用の機馬であり、ウツクシウムの蒸気を利用してわずかに体を浮かすことで上り坂を軽やかに上がれるように改良したものである。エネルギーを一気に使って、上手く操縦すれば、少しは飛べるかも知れない。
「翼さん、翼さん! ちょっと待って」
「ん?」
現場に到着した百合が肩で息をしながら翼を呼び止めた。
「このまま飛ぶと、風船の近くまで行っても、キャッチ出来なくないかな? 手放して操縦できる?」
「あ・・・それは・・・」
飛ぶことでおそらく精一杯である。片手だって放せないかも知れない。
慌てて作戦を練る翼たちの周りに、少しずつ生徒が集まっていく。ウサギを救えるのは翼しかいないのだ。
「わ、私が一緒に乗りますわ! ウサギをキャッチする係ですのよ!」
「え!」
月美が勇気を出して名乗り出た。月美の華奢な手足でウサギを捕まえられるか怪しいものだが、誰かがこの危険な役をやらなければならないのだ。
しかし、機馬によじ登ろうとした月美の肩に手を置いて、止めた女がいた。
「月美さんの代わりに、私が行くわ」
「え?」
アテナだった。
「翼さんの後ろに乗ったことがあるのは私だけ。そうでしょう? 翼さん」
「え、そ、そうだったかな・・・」
「それに、月美さんのような小さな子に危険な事はさせられないわ」
月美は小学生の姿になっておよそ8か月間過ごしているが、幼い子を守ろうとする高校生たちの愛情を強く感じる瞬間が何度もあった。庇護する側とされる側、その両面に身を置いた今の月美は、人の心の温かさについて、他の少女たちよりもちょっぴり多く知っていると言える。
「翼さん、私が一緒に行くわ。いいでしょう?」
「で、でも、危ないよ」
「それはあなたも同じでしょ。それに、ウサギを見捨てるような私じゃあ、マーメイドになんてなれないもの」
アテナは翼の手を掴み、自分から機馬にまたがった。電源を入れる前の機馬の鞍はとても冷たいが、翼の背中がポカポカと温かいので平気である。
翼はかなり動揺したが、こうしている間にもウサギがどんどん海上へ流されている。覚悟を決めなければいけない。
(よ、よし・・・)
翼は雑念を振り切るように、少し擦り減った真鍮製の電源スイッチを勢いよく回した。機馬は前脚の蹄の音をゴトゴトと響かせ、後ろ足の車輪の跡を砂地に残して動き出した。
「頑張って下さいデース!」
キャロリンの声を皮切りに、周囲の少女たちが声援を送った。この時まで生徒たちが無言だったのは、機馬にまたがる翼とアテナが妙にお似合いであり、少々見とれていたせいである。
生徒たちが道を開けてくれたほうへ機馬を進めると、冷たい風が二人の頬を打った。翼はアテナにヘルメットを手渡しながら、念のために確認しておく事にした。
「アテナさん、水に落ちる覚悟で飛んでいいかい?」
「え・・・?」
「安全に浜に戻ってくることを前提に飛んだことがないんだ・・・」
「あ・・・ふふっ♪」
快適な空の旅を楽しめそうである。
「あなたって本当に変わってるわね」
「ご、ごめん」
「いいのよ。私の心配より、ウサギさんのことだけ考えて」
「制服が濡れるけど」
「丁度洗いたかったところよ」
「・・・そうか、じゃあ、行くよ!」
「うん」
機馬は雪のように白い蒸気を関節のあちこちから威勢よく吹き出した。ちなみにウツクシウムの蒸気は高温の水蒸気と違って火傷の心配はない。
風船は既に、ダイヤモンドのように輝く冷たい波たちの上空にあり、獲れたての林檎にも見える瑞々しい赤色を、翼たちの目線よりやや上あたりに浮かべていた。助けにいくためには、もう少し高いところから飛ぶ必要がある。
翼は機馬を走らせ、白亜の階段の脇にある機馬車用のスロープを10メートル程駆け上がり、すぐ隣の芝の斜面に移った。減速すればすぐに転げ落ちてしまうような斜面で、翼は一気にスピードを上げた。味わったことが無いようなスピード感とスリルにアテナは包まれた。
「しっかり掴まって!」
「はいっ」
足元のペダルを器用に操作した翼は、手綱によく似た操縦桿をグイッと引いた。機馬はガシャンという金属がぶつかるような音を立てたかと思うと、左右に揺れる強い衝撃と同時にウツクシウムの蒸気を車体のあちこちから噴き出した。
「きゃっ!」
そして次の瞬間、アテナは不思議な静寂の中にいたのである。
蹄と車輪が地面を離れたのだ。
ついさっき自分たちがいたカフェのオレンジ色の屋根が、真下の蒸気の中にうっすら見えたかと思うと、海風に巻かれて蒸気が晴れ、アテナの視界に三日月型の白砂のビーチが広がった。
内海の水深が1メートル程しかない事はアテナももちろん知っていたが、海底の白い砂地がこんなにも美しく、はっきりと見えることをアテナは初めて知った。この時期の海水は人を寄せ付けないような冷水であるはずなのに、うっとりするような優しい輝きを見せるその海面は、12月の太陽から降り注ぐ光の帯で気ままな刺繍が施された大きなテーブルクロスのようだ。
「手を伸ばして!!」
翼の鋭い声でアテナは我に返った。赤い風船とそれにぶら下がっている白ウサギが、前方にぐんぐん迫ってきていた。今のところ順調に飛べているようだ。
「きゃ!!」
しかし次の瞬間、機馬が小さな爆発音を上げたかと思うと、車体は斜めになってしまった。空中に白煙の筋を何本も描きながら、地球儀のようにゆっくり回り始めてしまったのである。
「ウサギさん!」
アテナは手を伸ばした。ウサギのわふわふな毛並みがはっきり見えるほど近づけたのに、手はギリギリ届かず、通り過ぎてしまった。
「もう一回だ!」
翼は諦めなかった。
風を切るようなキヒューという音を立てた機馬は、翼の巧みな手綱さばきにより、大きく旋回を始めた。
まるで空中にスケートリンクがあるかのような美しい半円を描き、再びウサギに向かっていく機馬の様子を、生徒たちはビーチから興奮気味に見守っていた。
「頑張ってぇー!!!」
「翼様ぁー!!!」
「アテナさん頑張ってー!」
騒動を聞きつけた生徒たちがどんどんビーチに集まってくる。翼たちが海面に落ちるかも知れないので、すぐに助けられるよう、ゴムボートを出している生徒もいるが、上空で起きている救出劇のスピード感に追いつけてはいない。
「月美ちゃん、私たちもボートと浮き輪用意しよう!」
「そうですわね」
月美は翼たちの勇姿を見上げながら、百合と共に砂浜を駆けていた。
白い煙を出しながら飛ぶ白馬はまるでペガサスのようでとても神々しく、思わず見とれてしまうくらいなのだが、この時月美が妙に気になったのは、赤い風船の糸にぶら下がって助けを求めている白ウサギの姿である。
(あら・・・?)
月美の小さな胸の中に、ささやかなノスタルジーが弾けたのだ。
(私、前にも似たような光景を・・・。本で読んだのかしら・・・)
なんだかとても気になったのだが、このような奇妙な光景を過去にもこの目で見た事があるとは考えにくいので、おそらくデジャブというやつであり、気のせいだろうと月美は結論付けた。
ウサギの姿が、翼とアテナにぐんぐん迫る。機馬の高度は徐々に落ちてしまっているし、常用の機馬が使えるウツクシウムのエネルギーなど極少量であるため、これが最後のチャンスになるだろう。
アテナは左腕を翼の腰にしっかり回しながら、右手をグッと伸ばした。
「ウサギさん! 掴まって!」
アテナがそう叫んだ瞬間、ずーっと糸に噛みついていたウサギちゃんの口の力が限界を迎えたらしく、彼女の小さな体はストンと真下へ落ちてしまった。しかしアテナはこの時、神経を研ぎ澄ませていたので、右手で奇跡的にキャッチすることができた。
が、その後が問題だった。
「きゃあ!」
右側に大きく身を乗り出してしまったアテナはバランスを崩し、翼の腰を掴んでいた左手を放してしまったのだ。
せっかくウサギを保護したというのに、アテナが一緒になって落ちてしまうなんて実についてない。ビーチに集まっていた大勢の少女たちの声援が、悲鳴に変わった瞬間である。
(まずいわ・・・真冬の海に真っ逆さまよ・・・!)
人はこのような危機的状況に陥ると、時の流れをスローモーションで感じるというが、実際その通りで、一瞬の間に色々なことが頭をよぎるのである。
(空が・・・青いわ・・・)
頭上にあったはずの空を目下に眺めながら、アテナはその美しさに見とれた。
(私はやっぱり、飛べないのね・・・)
結局自分は籠の中の鳥であり、自由に羽ばたく事など出来ないんだと、アテナは何となく感じた。
マーメイドに選ばれるという、尊い目標に向かって邁進しているはずの彼女が、心の奥底では自由な生き方に憧れていたなんて、アテナ自身もこの瞬間まで気付かなかったことである。しかし残念ながら、いまさらそんな願いは叶わないだろう。自由への翼は、アテナが自ら手放してしまったのだから。
「アテナさん!」
何かを諦めたようにアテナが目を閉じかけた時、彼女の左手をがっしりと強く掴んだ者がいた。
(翼さん・・・)
機馬を片腕で必死に操縦しながら、翼はアテナとウサギを救ってくれたのだ。
「せーので引き上げるから、そこに足を掛けるんだ!」
「は、はい!」
アテナは自分の靴が片方脱げて海面に落ちたことにちょっぴり動揺したが、ウサギだけは落とすまいと、彼女をしっかり右腕で抱えた。
「せーの!」
「きゃっ!」
機馬をふわっと下降させながら引っ張ってくれたので、アテナはなんとか馬上に上がることができた。意外だったのは、アテナが翼の膝の上でお姫様抱っこされるような格好になったことである。
これを見た生徒たちは大喜びだ。
「やったあああああ!!!」
「危ないところだったわぁあ!」
「翼様かっこいいー!!」
波音がかき消えるような大歓声が砂浜を満たした。
機馬は白い蒸気を羽のように広げながら慣性で浜に向かっており、月美や百合たちはその着地点に向かって走った。砂に足を取られる月美の手を、百合はそっと握り、息を切らして駆けたのである。月美はちょっぴり赤面した。
「翼さーん! もう少しだよ!!」
「頑張れぇー!」
「頑張ってー!!」
翼は最後まで集中力を切らさぬよう、懸命に操縦を続けた。
その腕に抱かれているアテナは、翼の顔を見上げながら、とても不思議な気持ちになった。
温かい白ウサギを抱きしめたまま、自分も抱きしめられている感触は、一人ぼっちの人生を送っていたアテナにとっては初めての心地良さだった。誰かを守り、自分も誰かに守られている幸福感を、アテナは初めて感じたのだ。
翼の美しい瞳の向こうで、白い蒸気が天使の羽のように風に舞う様子がとても幻想的で、アテナは天国にいるような気分になった。
「私たち、海に落ちるの?」
「いや、大丈夫だ」
コトトンッという心地よい蹄の音を砂地に響かせ、機馬は無事にビーチに着陸した。大勢集まっていたギャラリーは大興奮である。
丁度その時、ビーチの入り口に、弓道で使う大きな弓を持った千夜子が茶色の機馬に乗って登場した。
「なんじゃ・・・私の出番は無かったか」
千夜子は剣道は出来るのだが、弓道には自信がなかったため、翼たちが解決してくれてホッと一安心である。めちゃくちゃな方向に矢を放ってウサギちゃんにヒットしたら目も当てられない。
するとそこへ、もう一台の黒い機馬がやってくる。
「ちょっと千夜子さん、これは何の騒ぎ?」
「なんじゃローザ、今来たのか」
「先輩には敬語使ったらぁ?」
「ちょっとした救出劇があったのじゃ。ウサギの安否など、ローザは興味ないじゃろうが」
「ウサギさん? なぁんだ。興味ないわ」
ローザはそう言い残すと、機馬に施された金銀の装飾をギラギラ光らせながら去っていった。
千夜子はローザの背中に矢を放つフリをしてから機馬を下り、白い石段に腰かけて、翼たちの笑顔を遠くからゆっくり眺めることにした。
「ん? ・・・翼が膝に乗せているの、アテナか。珍しいのう」
馬上でお姫様抱っこされているアテナは、下りるタイミングがつかめず、少女たちの歓声の中で、まだ翼のことをぼんやり見つめていた。ヘルメットだけは脱いだのだが、おでこの辺りを撫でる海風がちょっぴり心地よかった。
「アテナさんのお陰でうまくいったよ。協力してくれて、ありがとう」
爽やかな笑顔を向けられたアテナは、なぜか目を逸らすことができず、ただ翼の瞳をじっと見つめ返してしまった。翼にお姫様抱っこをされたまま、温かいウサギをぎゅっと抱きしめるアテナは、自分の胸の鼓動がいつまでも穏やかにならず、ドキドキと駆け続けているのを感じた。
足枷が無くなった赤い風船は、歓声を上げる乙女たちに手を振るように空中をゆらゆら漂いながら、自由な青い空へと旅立っていった。