79、翼の告白
百合の手は、雪のように白い。
その綺麗な指先が、インカムのスイッチをカチカチと押す様子を、月美は横目で見つめていた。
「よし! ちゃんと使えるみたい」
インカムとは、双方向で音声のやり取りができる小さな無線機のことで、トランシーバーみたいなものである。
「百合さん、それ、どれくらい電波届きますの?」
「100メートルくらいって言ってたけど、もう少し届くんじゃない?」
モンブランが美味しいカフェの出窓に肘をつき、月美たちは身を乗り出すようにして眼下の通りを見張っている。ストラーシャ学区にしてはやや重厚なレンガ造りの店が連なるこの大通りは、比較的高所にあるため、翼が普段機馬の整備をしている作業場や白砂のビーチが見下ろせるのだ。
まもなくそこに、アテナが姿を現すはずなのだ。
「試しに使ってみるね。もしもし、翼さん聞こえますか?」
百合は、眼下のビーチサイドカフェ前に一人で佇む翼の背中を見ながら、インカムのマイクに呼びかけた。
「翼さーん、もし聞こえてたらお返事お願いしまーす」
『は、はーい。聞こえてるよー・・・』
翼は遠慮がちに振り返り、小さく手を振ってくれた。かなり緊張しているようだ。
アテナとおしゃべりをし、しかも愛の告白までするという重大イベントに一人で立ち向かう自信がない翼は、月美たちに協力して貰うことにしたのだ。マイク付きの小型イヤホンをこっそり片耳に装着し、月美たちのアドバイスを聞きながら会話をするという大胆な作戦である。
月美は正直、こんな変な作戦に頼るより、翼先輩が自分の言葉でアテナ様に挑むほうがよっぽど上手くいくと思っているのだが、仲間がいるという安心感が翼先輩に勇気を与えることは間違いないので、協力することにしたのだ。
『私がピンチになっている時にアドバイスをくれると助かるよ。どう言えばいいか、具体的に教えて欲しい』
「分かりましたわ。まあ、私たちも会話のプロじゃないので、上手くいく保証はありませんけど」
『りょ、了解。本当にありがとうー』
ちなみに、インカムを貸してくれたのはアヤギメ学区の浄令院千夜子様だ。古い通信機器なので時折調子が悪くなるようだが、ピヨのさえずりを拾うくらい高音質であり、翼が耳に付けている機械も小型で軽量である。やはり千夜子は頼りになる。
「アテナはいつビーチに来るデース!?」
「そろそろのはずですわ」
月美以外の初等部メンバーも、もちろん一緒にカフェにいる。あまり戦力にはならないが、皆で翼を応援しているこの雰囲気を、月美は結構気に入っている。
しかし、翼の人生が掛かっているので、月美は一応、キャロリンに念押ししておいた。
「キャロリンさん。翼さんと通信してる時に変なこと言っちゃダメですからね」
「分かってるデース!」
キャロリンは月美の耳元で元気よく返事してくれた。
それにしても、桃香と銀花は大人しく椅子に腰かけているのに、キャロリンは今日も動き回っている。キャロリンの靴の裏に発電機を付けておけば、島の電力を賄うウツクシウムガスをだいぶ節約できることだろう。
「ねえ、月美ちゃん」
「ん、なんですの・・・?」
百合がこっそり月美にささやいてきた。キャロリンは今、席についており、ハチミツレモンを飲んで英気を養っているから、今なら内緒話ができる。
「もしも告白が上手くいったら、翼さんとアテナさんがカップルになるわけでしょ?」
「それは・・・もちろん」
「その後さ、一人になったローザ会長と、ルネさんがカップルになるってことだよね」
「ええたぶん。ルネ様たちについてはあまり心配してませんわ。いつも喧嘩してますけど、多分仲良しですわよあの人たち」
ちなみにルネは今、このカフェの一階席から大通りをチェック中である。
「ねえ月美ちゃん♪」
「う・・・あんまり近寄らないで下さい・・・」
百合はにこにこしながら月美の耳に唇を寄せた。百合の長い髪がふわっと揺れて月美の肩に触れる。
「これで、月美ちゃんが知ってるカップルは全部成立なんだよね?」
「え・・・」
百合が見つめてくるので、左側の頬と耳がとても熱くなった。
「ゆ、百合さん、それ前にも訊いてきましたわよ・・・」
「もう一度訊いてみた♪」
「前も言いましたけど・・・全部成立ですわよ」
「ホントに?」
「は、はい」
「そっか」
「な、何なんですの・・・」
変な百合さんですわねと月美は思った。
冷気がほんのり伝わってくる出窓のガラスに顔を寄せて、月美はビーチを見おろした。とにかく今は余計なことを考えず、翼の告白が上手くいくよう最善を尽くすのみである。
さて、そのころ翼は何をしているのかと言うと、ビーチサイドのカフェテラス前に停めてある機馬の鞍を、ハンカチで何度も何度も拭いて時間を潰していた。落ち着いて立っていられないのである。
(大丈夫だ・・・私には仲間たちがいる・・・)
耳に付けた通信機の調子は良好である。普段は髪を一つに結んでいる事が多い翼だが、今日は髪を下ろすことによって通信機を上手く隠しているのだ。
マーメイドに立候補するアテナ様が、ローザ会長以外の女性と二人きりで会うのだがら、誰かに見られればちょっとしたニュースになってしまうのだが、幸いにも、近所にあるショッピングモールがクリスマス用品のセールで盛り上がっているから、生徒たちの意識が12月のビーチに向かうことは無さそうである。
翼は耳の通信機を指先でとんとんと軽く叩いてから話しかけた。
「もしもし、月美ちゃん?」
『なんですの?』
「会った時、まず何て言えばいいかな・・・?」
通信機の向こうの月美がちょっぴり笑った。
『こんにちはでも、ヤッホーでも、どっこいしょーでも、何でもいいですわよ』
「で、でも・・・」
『とにかく翼様、あなたはあなたが思っているよりずっと魅力的ですのよ。だから、前にランタン祭りへ行った時みたいに、自然に接してみて下さい』
「それが出来れば苦労しないんだよぉ・・・」
『そろそろ来るはずですので、ここから先はこんな風におしゃべりは出来ませんわよ。翼様の頭の中が真っ白になったタイミングで助け舟のセリフを言いますから、それを繰り返して言って下さいね』
「分かった」
『どっこいしょー』
「どっこいしょー・・・」
『そう、そんな感じですわ。それじゃあ、幸運を祈りますわ』
音声が切れると、翼は波音の中にポツンと残された。
自分の胸の鼓動がどんどん高まっていくのを感じたので、翼は落ち着きを取り戻すために、大きく深呼吸をした。
湿った潮風が翼の頬を打ち、吐息は綿あめのように白くなった。三日月島は比較的温暖であり、特にストラーシャ学区は地中海沿岸のような南方の雰囲気があるが、さすがに12月になれば、木も花も凍り付くような寒気に包まれるのである。
「寒いから、先にお店に入っちゃおうかな・・・」
機馬の頭を撫でながら、そんな風に翼がつぶやいた、その時である。
「あら、機馬の作業場にいると思ってたけど」
「うっ!!」
「こんな寒いところで待ってくれていたのね」
不意に近づいてきた機馬車の車輪の音が止まり、中からアテナが姿を現した。その姿を見ただけで、翼はもう、冷静でいられなくなった。
「や、やぁ、どっこいしょ、じゃなくて・・・こんにちは!」
翼は、自分の言葉が火照っていて、唇がじんじんするのを感じた。
「こんにちは。私に手伝って欲しいことって、何?」
「て、手伝って欲しいこと?」
「そう聞いてたけれど。気のせいかしらね」
アテナはちょっぴり微笑みながら翼に歩み寄った。
「お互い忙しいけれど、少しお茶するくらいの時間はあるんでしょう? 何か話があるなら、店内でしましょ」
「あ、そ、そうだね・・・!」
翼とは比べ物にならないほど落ち着いたアテナの様子に、翼は気後れしてしまうが、イヤホンの向こうで待機してくれている仲間たちを信じ、勇気を出すことにした。
さて実は、翼とアテナの様子を遠くから窺っているのは、月美たちだけではない。
もう一つ別のグループがいたのだ。
「今、アテナ様が翼様と合流したの」
キキとミミは、インカムのマイクでローザにそう連絡した。
『翼さんと? どういうことかしら。待ち合わせしてた感じ?』
「待ち合わせしてた感じなの」
『・・・気に入らないわね。選挙の直前に何考えてるのかしらアテナさん』
ショッピングモール二階のたい焼き屋からはビーチが見渡せる。アテナの行動を監視するよう命じられたキキミミ姉妹は、通信機を持ってここで待機していたのだ。
「私たちが今やってる事と掛けまして」
「掛けまして~?」
「お裁縫セットの値段と解きますなの」
「その心は~?」
「針込み(張り込み)なのー!」
「うまいなのー!」
『・・・なぞかけは良いから続報をちょうだい』
ローザ会長にとって、アテナと翼が仲良く行動するのはあまり嬉しくない事である。ローザ会長とアテナが公認カップルになることによって、キャプテンとマーメイドになれるのだから、別の誰かと仲良くデートしているところを見られると困るわけである。
『もしもし? 私もそっちに行くから、そのまま見張ってて』
「了解なのー!」
キキとミミは、たい焼を食べながら仲良く双眼鏡を覗き込んだ。一つの双眼鏡を二人で覗き込むのが彼女らの張り込みスタイルである。
「私、この店は二回目だけど、マドレーヌを頼んだのは初めてよ」
「そ、そうなんだ・・・」
「紅茶と洋梨も美味しそうよ。いただきます」
店内は船室風の内装で、丸い窓から見える海がとても素敵である。ショッピングモールに生徒が集まっているせいで、店内は貸し切り状態であり、二人は暖炉に一番近い快適な席に座ることができた。カウンターにいる店員の生徒からも見えにくい、落ち着く場所である。
アテナが手際よくメニューを決めるので、翼は「私も同じものを・・・」と言ってしまった。早くも場の空気に飲まれている。
(ま、まずい・・・さっそく何しゃべっていいか分からない・・・!)
ピンチである。
しかし、そんな翼の心の声を聞いた月美たちが、彼女の耳元に助け舟を届ける。
『今日は来てくれて、ありがとう』
翼はハッと顔を上げて、月美の声をなぞるように口を開いた。
「きょ、今日は来てくれてありがとう!」
アテナは紅茶を飲みながら翼の瞳を見つめ、そっと微笑んだ。
「どういたしまして。月美さんたちに頼まれたら、無下に断れないもの」
なんとか上手くいった。この作戦、なかなか良いかも知れない。
「こ、この紅茶、美味しいね・・・」
「そうね。茶葉だけ売って欲しいわ」
「あ、さっきカウンターにあった気がしたけど」
「あら、そうだったの。後で見てみるわ」
「う、うん」
月美の助け舟が着火剤となり、ここまでは順調に言葉が続いたが、再び二人のあいだに沈黙が広がった。アテナはこういう静かなティータイムをむしろ好んでいるのだが、翼は焦るわけである。
(ま、まずいぃい!!)
耳を澄ましても、今度はなかなか月美たちからのアドバイスが来ない。
(ど、どうしたんだろう。さっきは上手くいってたのに。もしかして・・・機械が不調なのかな)
この予感は当たりだった。
「もしもし? もしもし? 調子悪いみたいですわ・・・」
「あっちの声が聞こえてこないね・・・」
月美たちは肩を落とした。再び通信できるように試みるが、それでもダメならもう翼先輩の自力を信じるしかないのかも知れない。
「ねえ月美、これって混信しちゃうことはないの?」
二階席に上がってきたルネが、眼下のカフェを眺めながら心配そうに尋ねた。混信とは、他の無線機から発信された全然関係ない音声を拾っちゃう現象である。
「あるかも知れませんけど、今タイミングよく無線機なんて使ってる人、私たち以外いませんわよ」
「それもそうね」
たい焼き屋のキキミミ姉妹は、数百メートル離れたカフェの丸い窓を双眼鏡で覗き、アテナの様子をローザに伝えることにした。
「もしもし。今、暖炉の近くの席に座ってるなの」
しかし、この声はローザの元へは届かず、意外な場所に届いてしまうのである。
無言のまま固まっていた翼は、ようやく耳元の通信機に音声が入ってきたので歓喜した。
「え、えーと、今、暖炉の近くの席に座ってるなの!!」
そう言われたアテナは、口に運ぼうとしていたマドレーヌを手に持ったままポカンとしてしまった。
「それは・・・もちろん。知ってるわ。私も座ってる」
「そ、そうですよねっ! 私ったら、何言ってんだろ・・・」
翼は冷や汗をかいた。
一方、モンブランが美味しいカフェにいる月美たちは、なかなか機能しない通信機に焦っていた。
「困りましたわねぇ・・・」
「私に貸してみるデース!」
キャロリンが出窓へやってきて、無線機を手に取った。
「もしもーし! 私の声、届いてるデース?」
通信機はうんともすんとも言わない。
「もっしもーし♪」
キャロリンの声は実は結構カワイイ。
キャロリンはしばらくのあいだ明るい声で呼びかけていたが、やがて諦めた。
「んー、全然届かないデース」
しかしここで、翼の無線機が音声を拾ったのである。
翼は、マドレーヌの皿に伸ばしていた手を引っ込めて、アテナの目を見ながらこう言った。
「全然届かないデース!」
それを聞いたアテナは、キョトンとしてしまった。
「もう少し椅子を引いたら・・・?」
「・・・え?」
「もしくは、お皿をそっちに寄せるとか。もっと手を伸ばせば届くと思うけれど」
「あ、いや、その、そうだね。あはは・・・」
翼はますます冷や汗をかいてしまった。
「このたい焼き、美味しいの」
「美味しいの」
キキミミ姉妹は二個目のたい焼きを味わっているが、双眼鏡での張り込みはしっかり続けている。
「アテナ様、全然こっちを向いてくれないの」
「くれないの」
今のところローザに伝える情報がほとんどないので、キキとミミは退屈である。せめて、アテナが笑っているのかどうか、表情を知りたいものである。
「翼様のほうばっかり見てるの」
「こっちも向いて欲しいなの」
アテナが小さな洋梨にナイフとフォークを当てた時、翼の無線機が、またまた音声を受信した。
「えーと、こっちもむいて欲しいなの!」
それを聞いたアテナは、目が点になった。
「翼さんって・・・結構不器用なのね。まあ、知ってたけれど」
「え、あ・・・いや・・・」
「いいわ。その洋梨もむいてあげる」
アテナはちょっぴり笑いながら、翼のフルーツもカットしてくれた。
(な、なんか、私さっきから変なこと言ってる気がする・・・! どうなってるんだろう!)
翼は冷や汗に溺れそうである。
「んー、何か果物をカットして貰ってるように見えますわね」
「カッコ悪いデース」
「カッコ悪くなんてないよ、仲良しな感じでいいと思う♪」
月美たちは翼の様子を出窓から見守っている。
「翼にはカッコ良さが足りてないデース。難しそうな言葉をいっぱい使うと、カッコイイ大人になれマース」
キャロリンが不敵に笑いながらインカムで何かを伝えようとしているが、どうせ音声は届かないだろうと思った月美たちは、キャロリンを止めなかった。
「もしもーし! 聞こえるデース?」
「翼さん、何かを手伝って欲しくて呼んだんじゃないの?」
「あ、えーと・・・」
「空飛ぶ機馬の準備?」
「まあ、そんなところだったかな。でも、もう準備は出来たから、大丈夫だったよ。ありがとう・・・」
「そう」
翼が頑張って会話していると、彼女の耳にキャロリンの元気な声が少しずつ届き始める。
「翼さん、機馬で滑空してる時、怖くないの?」
「そ、そうだね、結構高さが出るから、怖い時は怖い・・・円周率!」
「え?」
「いや・・・何でもない! 機馬は基本的に海の上を飛んでるから安全・・・ひ、卑弥呼」
「何?」
「いや! えーと、とにかく、機馬はとても楽しい乗り物だから、アテナさんもいつか・・・リトマス試験紙!!」
「ちょ、ちょっと・・・」
「春はあけぼの!!」
「ちょっ、ふふふ」
あまりにもおかしな翼の様子に、アテナはこらえきれず、ついに大きな声で笑いだしてしまった。アテナがこんなに楽しそうに笑うのを、翼は初めて見た。
「いや、あの・・・ご、ごめん! 私さっきから変なことばっかり言って・・・!」
「本当に、翼さん変だわ♪ まるでしゃっくりをするみたいに、円周率! 卑弥呼! って。どうしたの一体?」
そして、賢いアテナは翼の秘密に気付いてしまうのだった。
「あら」
翼の左耳に掛かっている髪が、ほんのわずかだが、不自然に膨らんでいたのだ。
「なるほど。寒いから髪を下ろしてるんだと思ってたけど、違ったみたいね」
「え!」
「誰かの指示をそのまましゃべってたんでしょう? 語尾が時々おかしかったし」
「語尾!?」
「時々、デースとか、なのとか言ってたわ」
「ホントに!?」
翼はとにかく夢中だったので、そんな事気付いてなかったのだ。
すっかり動揺する翼の表情を、アテナは少しうっとりしたように見つめて、微笑んでしまった。
(私とおしゃべりするために・・・こんなおバカな事して・・・)
アテナは紅茶のカップで口元をなんとなく隠しながら、少しだけ、本心で感想を言ってあげることにした。
「あなたみたいな面白い人・・・初めてよ」
いい意味で、である。
「えーと、うぅ・・・」
翼は恥ずかしさでいっぱいになった。
もう自分の恋心がアテナに伝わってしまっている事は、鈍感な翼にも分かってしまった。透明な箱にプレゼントを入れて持ってきてしまったような、間抜けな感じである。
(バレてるなぁ。完全に・・・)
翼は頬を染めてうつむいた。暖炉の薪の音がパチパチと店内に響いている。
しかしここで、翼の胸の中にはなぜか、不思議な達成感が込み上げてきた。
(・・・なんか、妙にすっきりした気分だ)
恋心はバレバレであり、上手におしゃべりをするための作戦も失敗した今、これ以上恥ずかしい気持ちになりようがないのである。逃げ道がなくなったことで、逆に勇気が出てきたくらいだ。
翼はちょっぴり笑いながら、耳に付けていた小さな無線機を外してテーブルに置き、腰を上げた。
「アテナさん、もうバレてるかも知れないけど」
「え・・・うん」
翼の様子を見て、アテナの笑顔が消えた。
それは、翼がこの後自分に伝えてくれる言葉への嫌悪からではない。むしろその逆であり、こんなにも純朴で誠実な翼に対して、冷たい返事をしなければならない自分の運命に対する悲しみからである。
「め、迷惑だろうけど、これだけ言わせて欲しいんだ」
「なにかしら・・・」
覚悟を決めた翼の背筋は、朝の軒先で輝く氷柱のように伸びており、その瞳は雪解け水のように清らかだった。
それを見たアテナは思わず立ち上がり、翼と向き合った。暖炉の火が、二人の頬をほんのり染める。
「初めて会った時から・・・好きでした」
翼の声色は、とても穏やかだった。
「私は、機馬のことばかり考えている変人だと、皆に思われてるけど、本当はそんなことない」
アテナは翼の綺麗な眼差しから、目を逸らすことができなかった。
「機馬の背中を磨いている時も、ウツクシウムの量を研究してる時も・・・空中を滑空してる時でさえ、いつもなんとなく、あなたのことを考えてた。だから、えーと・・・アテナさんのことばかり考えている変人、って感じかな」
「あら、変人は認めるのね」
「あ、うん」
翼が照れ笑いをしたところで、アテナは言葉を探した。
「気持ちは嬉しいわ。けれど私・・・ローザとくっつくと決めてるから」
こういう返事を覚悟をしていた翼は、少しのあいだうつむいた後、そっと顔を上げ、小さく頷いた。
「うん。そうだね・・・分かってる」
「ど、どうしても私・・・マーメイドになりたいの。小さい頃からの夢だし、そのために今まで頑張ってきたのよ」
「うん。もちろん、そうだよね」
「ローザのことは別に好きじゃない。でも、マーメイドになるためなら、ローザでもなんでも、パートナーに選ぶわ」
アテナは、翼の気持ちを考えるのがつらくて、無意識のうちに目を伏せていた。銀色のスプーンには、くにゃっと曲がった暖炉の火が映って輝いている。
「アテナさんが私を選ばない事は、正直、分かってた。ただ今日は、あなたに気持ちを伝えたかっただけなんだ。自分の青春への誠意だよ」
「誠意・・・?」
「うん。昨日の自分と明日の自分に恥ずかしくないような自分でいようと決めたんだ・・・」
暖炉の火を見つめて微笑む翼の横顔が美しくて、アテナは少しのあいだ黙ってしまった。
「・・・翼さん、告白する時が一番饒舌なのは、どうして?」
「え! いや、なんでだろう。もう失うものはないって気分になってさ、あはは・・・」
「まだどこかに無線機付けてるんじゃないの?」
「ち、違うよ・・・!」
「ふふっ」
ちょっぴり笑ってくれたアテナに、翼は安心した。
「伝えられて、本当に良かった。不思議と、とても清々しい気持ちだ」
憧れの人が、自分のためにこれだけの時間を割き、気を遣ってくれて、しかも笑顔まで見せてくれて、翼はとても幸せである。アテナと共有できた思い出は、翼の大切な宝物としてこれからも彼女の胸を温め続けることだろう。
「マーメイドに選ばれれば、きっとアテナさんの毎日は、すっごく輝くと思う」
「そうね。私もそう・・・思う・・・」
アテナは銀色のスプーンを見ながら頷いた。
「アテナさん。素敵な思い出を、ありがとう」
「・・・こちらこそ」
「これからも、応援してるよ」
翼は、まるで卒業式の後のような気分になった。切ない気持ちもあるが、自分はやりきったという達成感もあり、優しい陽だまりの中にいるような気分である。
(これで、良かったのよね・・・)
椅子に座り直したアテナは、冷たくなったティーカップを唇に当て、お茶を飲まずにしばらく固まった後、カップをテーブルの上に戻した。
「そうだ、近いうちに皆でお茶会をしようと思ってるんだ。初等部寮で。そこにアテナさんとローザ会長も来てくれないかな」
「え?」
告白が失敗したにも関わらず、明るくお茶会に誘ってくれた優しい翼に、アテナはどう答えていいかすぐには分からなかった。
「約束しちゃったんだよ。小さな仲間たちと♪」
「い、いいけど、いつやるの?」
「できれば、私が島を出発する前にやりたいんだ」
「12月ってこと・・・?」
「ああ」
「それは・・・ちょっと難しいわ」
アテナとローザはマーメイドとキャプテンに選ばれるために、まだまだやらなければならない事が山積みである。残念ながら、皆で集まってお茶を飲む時間は取れないだろう。
「そう・・・だよね。忙しいもんね」
「でも、年が明けたらすぐやりましょう。ローザも必ず一緒に連れて行くわ」
「う、うん・・・ありがとう。嬉しいよ」
そして翼は少々照れ笑いしながら、ポケットから手帳を取り出した。
「これは、えーと、月美ちゃんたちに言いそびれてることなんだけど」
「あら、なぁに?」
「イカロス選手権で優勝した場合、海外の航空技術なんたら協会に呼ばれて、飛行を見せることになってるんだ。ニュージーランドの大学にも顔を出すらしい」
「しばらく・・・島に帰って来ないってことなのね・・・」
「あ・・・うん」
「そう・・・」
なんだか変な空気になったので、翼は明るく笑った。
「あ、いや! 優勝したら、の話だよ! 私なんか、最下位でも全然不思議じゃないんだから、すぐ帰ってくるさ! 私って本番弱いからねぇ~!」
翼は笑ったが、アテナは笑わなかった。
(しばらく・・・翼さんには会えないかも知れない・・・)
それどころか、もう二度と会えないような気すらしてきたのだ。
「ニュージーランドは今、夏だろう? どんな服を持っていけばいいか悩んでるんだ」
「早く・・・」
「え?」
「早く戻って来てね・・・」
アテナは、自分がなんでこんなことを言ったのか良く分からなかった。
ただ感じたのは、自分の大切なものが急に無くなって、荒野に取り残されるような、寂寥感である。
『もしもし! もしもーし!』
するとその時、店内で遠慮がちに流れていたピアノジャズの音色に混ざって、叫びにも似た誰かの呼びかけが聞こえてきた。どうやら翼が先程まで耳に付けていた小型の無線機から洩れている音らしい。
「イヤホンからよ」
「なんだろう」
翼は無線機を手に取った。告白の時の会話を聞かれていたかも知れないと思うと翼はちょっと恥ずかしかった。
「翼ですけど、どうかした?」
『あ! 翼様ですの!? やっと通じましたわ!』
相手は月美だったが、ひどく慌てた様子である。
「何かあったの?」
『大ピンチです翼様! 今日、機馬で来てますわよね?』
「え、うん・・・」
『良かった、すぐに外に出てきて下さい!』
「え?」
翼とアテナは顔を見合わせた。
「何かしら・・・」
「分からないけど、行ってみようっ」
「う、うん」
小走りでテーブルの間をすり抜けていく翼の背中を追いながら、アテナはなぜかこの時、ちょっとした高揚感を感じていた。
二人は大急ぎで会計を済まし、北風が小さく渦を巻く12月の午後の日差しの中に飛び出していったのだった。