75、大きな帽子
アテナの部屋には、小さなテーブルがある。
食事用に使われているこのテーブルは、勉強机の半分以下のサイズであり、一人分の朝食が乗っただけでいっぱいになっているのだが、部屋に招き入れるほど親しい友人のいないアテナにとっては充分な大きさである。
「美味しい・・・」
今日のアテナの朝食は、黒砂糖のオートミールとオニオンスープだ。
朝日を受けるレースのカーテンは、まるでヨットの帆のように風を受けて膨らみ、窓辺に輝く爽やかな秋の海に白波のようなベールを掛けて優しく揺れていた。
(日曜日なのに・・・今日も忙しいわね)
アテナは温かいスープを飲みながら、カレンダーに目をやった。カレンダーには予定がぎっしり詰まっており、うっすら印刷されているはずの薔薇の模様が完全に見えなくなっている。マーメイドの選挙まで2か月を切っているアテナに、自由な日などないのだ。
(朝は化学と数学のお勉強、お昼前は演説原稿執筆、13時からはローザ会長と打ち合わせで、夕方は・・・選挙の日のドレスを選びに行く予定ね)
アテナの人生の最大の目標であるマーメイドの選挙は、実は衣装も重要なのである。
マーメイドとキャプテンの選挙は、生徒会長を決める一般的な選挙と違って伝統色が強く、行事の意味合いがあるから、見た目にもこだわる必要があるのだ。
アテナは、フォーマルな服を取り扱う店が多いビドゥ学区に足を運ぶつもりである。今日はハロウィンパーティーの翌日なので、店は商品の入れ替えに大忙しかも知れないが、カタログをじっくり見ながら注文するだけなので店員の生徒たちの手を煩わせることはないはずだ。
時計の秒針を見つめながらスープを飲み干したアテナは、今日の予定を再確認してから静かに席を立った。
「もう少しっ!!」
翼の機馬は白煙を吹き出しながら水面ギリギリを滑空し、50メートルを示す浮きの手前で、透き通る波間に着水した。
「上手くいかなかったか。もう一回チャレンジだ・・・!」
年末に空飛ぶ乗り物の選手権に出ることが決まっている翼は、相変わらず機馬の改良に夢中である。ウツクシウムの蒸気の噴出量を調節する装置を新たに作ったので、今日はそのテストを行っているのだが、機械だけが良くなっても成果は上がらないようで、やはり翼自身の腕前を向上させる練習がもっと必要なようだ。
「翼様ー! タオルお持ちしましたー!」
「あ、ど、どうも・・・」
機馬にまたがったまま水面を泳いで浜に戻った翼は、10名ほどの中等部の生徒たちに迎えられた。彼女らは翼のファンであり、たびたび練習風景を見に来るのだ。春の体育祭以来、翼の人気は上がり続けている。
「もう少しで50メートルでしたね!」
「そ、そうだね」
「がんばってくださーい!!」
「お、オッケー。ありがとね」
ちやほやされるのに慣れていない翼は、輝く瞳や眩しい歓声に囲まれるとすっかり照れてしまう。こんな時、アテナさんだったら顔色ひとつ変えないんだろうなぁと考えると、翼は自分の小物感をちょっと情けなく思った。
「翼先輩! 今日のランタン祭り、来て下さいますか!」
翼はパッと顔を上げた。そういえば今日は、翼が楽しみにしているランタン祭りなのだ。
「もちろんだよ! キミは実行委員の子だったね!」
「はい! 今年も面白くなりそうなので、期待してて下さい!」
「うん! 本当は初等部の子たちを誘おうと思ったんだけど、島の北側は夜になると暗いから、お出かけ出来ないルールがあるんだってさ」
「それは残念です。でも、翼様が来てくれれば、私たちはハッピーです!」
「じゃあ、今夜行くからね」
「お待ちしてまーす!」
「はーい!」
実行委員の少女は、白い機馬の鼻先にキスをして去っていった。
(んー、照れたり緊張したりしなければ、私って結構おしゃべりできるほうなのになぁ・・・)
いつか自然な感じでアテナとおしゃべりしたいものである。
ランタン祭りというのは、ハロウィンパーティーの翌日に島の北側で行われる小さなお祭りだ。
昔、ハロウィンのカボチャのランタンに使われていたロウソクの寿命が2日間であったことから、いつしかハロウィンの翌日に行われるようになったのがランタン祭りだ。ロウソクを再利用して無駄なく使うことがテーマであり、ハロウィンパーティーほどメジャーではなく、知る人ぞ知るイベントといった感じである。
(ランタン祭りはご飯が美味しいんだよねぇ♪)
桟橋のスタート地点に機馬を移動させた翼は、ヘルメットを被りながらにっこり笑った。
ランタン祭りはディナーを楽しめるイベントであり、ビドゥやアヤギメの料理部員が腕を振るうのである。翼は晩ご飯を美味しく食べるために、今日のお昼ご飯をおにぎり一個だけにしておいたのだ。ちなみに、梅干しのおにぎりである。
(よし・・・あと30分、頑張って練習するぞっ!)
翼は機馬で桟橋を駆け抜け、蒸気を吹き出しながら大空に向かって飛び出した。
練習後の翼は、アヤギメ神宮のそばにある茶道部の部室に電気毛布を届けに行った。翼は機馬を上手に乗りこなすので、郵便部の手伝いをすることが多いのだ。
まもなく紅葉が見頃を迎える時期なので、神宮への上り坂を覆う紅葉のトンネルには赤や金色の葉が折り重なっており、一足早い夕焼け色の木漏れ日を石畳に落としていた。
「翼ちゃ~ん、お願いがあるんやけどぉ♪」
「はい、なんですか」
茶室にはなんと、保健の舞鶴先生がいた。
先生は、茶道部が飼っている猫の定期健診をしにきたようだが、今はその猫ちゃんと一緒に電気毛布にくるまり、熱い緑茶と栗羊羹を味わっている。
「ビドゥの洋服屋に注文書を届けて欲しいんやわぁ」
「いいですよ! この後すぐ行ってきます」
「ほんま助かるわぁ♪」
舞鶴先生は島にいる三人の保健医のうちの一人なのだが、島のあちこちへ出かけて診察するし、ストラーシャ学区の体育の授業も受け持っているから、かなり衣類を必要とするのである。今も、膝の上の猫ちゃんが舞鶴先生の白衣のボタンをパンチして遊んでいるくらいなので、白衣の予備もたくさん持っているに違いない。
「忙しかったら今日やなくてええでぇ。ランタン祭り行くやろぉ?」
「あ、大丈夫ですよ。ビドゥ側から回っていけますから」
「ほな頼むわぁ♪ でもスピード違反したらぶっ飛ばすでぇ♪」
「は、はいぃ」
舞鶴先生はいつもにこにこしているお姉さんだが、健康や安全に関しては鬼のように厳しい。
「そう言えば翼ちゃん、今日は顔色あんま良うあらへんねぇ」
「え? 私ですか?」
「いつももっと顔赤いんちゃう?」
「そ、そうですか? そんなこと初めて言われましたけど・・・」
いつもちょっぴりほっぺが桜色に染まっている可愛い子はたまにいるのだが、翼はそういうタイプではない。
「あ、分かったわぁ♪ 前会うた時はアテナちゃんがそばにおったんやわ♪」
「ええ!? いやいや、ア、アテナさんが、ど、どうして出てくるんです? 関係ないですよぉ♪」
翼のこういう時の反応は月美とよく似ている。案外同類なのかも知れない。
「そ、それじゃあこの注文書はお預かりしましたので、はい。それではまたっ」
「あれまぁ、ちょっと赤くなっとるで♪」
「し、失礼しまーす!」
翼は茶室から逃げ出した。縁側ですれ違った茶道部の生徒たちが不思議そうに翼の背中を振り返っている。
(まっずいなぁ・・・私がアテナさんに憧れてることは月美ちゃんと百合ちゃん以外にはバレてないと思ってたのに。舞鶴先生さすがだなぁ・・・)
先生の口が固い事を祈るばかりである。
秋の日は釣瓶落としと言うように、三日月島の太陽もあっという間に西に傾く。
「アテナ様、こちらのページのドレスも素晴らしいですよ!」
「このカタログも見て下さい!」
「この辺もオススメですわよっ!」
金色の真鍮で飾られたガラスのテーブルにたくさんのカタログが広げられ、アテナの周りを5、6人の生徒たちが囲んでいた。
「皆さん・・・別の作業をしていていいのよ」
「いえいえ! ご一緒します!」
今夜はハロウィンの売れ残りを大事に保存し、クリスマス向けの新商品を並べるという大仕事をしなければならないはずなのに、店員の生徒たちはアテナに付きっきりである。アテナはかなり申し訳ない気分になった。
「ありがとう。皆さんがオススメして下さったページは全て目を通すわ。もしよろしければ、このカタログ持ち帰ってもいいかしら」
「それはもちろんです!」
「ありがとう。それじゃあ、明日また来るわ」
「分かりましたっ。お待ちしてますぅ!」
どさくさに紛れてアテナの肩の辺りに頬を押し当ててくる生徒や、アテナの横顔にうっとりしすぎて赤いカーペットに座り込んでいる生徒たちを振りほどくようにして、アテナは服屋を去ることにした。
しかし、その去り際、出口で何気なく店内を振り返ったアテナは、偶然にも妙な瞬間を目撃してしまう。
店内にはハロウィンの衣装を保管するためのハンガーラックが臨時でたくさん並んでいたのだが、そのうちのひとつに、魔女の帽子が乗っかっていたのだ。その帽子は窓から吹いてくる夕空色の風に揺れており、次の瞬間、ハンガーラックから落ち、別の小窓から外へ出て行ってしまったのだ。
「あら、帽子がひとつ飛んでいったわ」
「え! 本当ですか」
「拾ってきてあげる。見つけられたらね」
「いえいえ! 私たちがやりますから」
「皆さんのはやらなきゃいけない作業でしょう。それを頑張ってね」
「は、はい。見つけて下さった帽子はアテナ様に差し上げますぅ!」
「いいえ、ちゃんと返すわ。それじゃあね」
アテナはクールで無表情な女だが、とても親切なので、一度おしゃべりをした生徒は、そのギャップにメロメロになってしまうのである。
服屋の裏手は、夕焼けが燃える赤いレンガの港である。
オリーブが植えられた30メートルほどの坂道を下りながら、アテナは魔女の帽子を探した。
(どこまで飛んでいったのかしら。かなり大きい帽子だから目立つはずだけど)
服屋の生徒たちは「見つけられなくても大丈夫です」みたいな雰囲気だったが、せっかくならしっかり発見してあげたいものである。
赤く輝きながら水平線を焦がす太陽は、鍛冶屋に熱せられた金貨のようであり、遥かな西の空からアテナ頭上に向かって、火花を散らしながらじんわりと溶けて広がっていた。その熱の届かない東の空は、結晶化したアメジストのように、透き通った紫色のきらめきで星座を描いていて、生まれたての夜風に吹かれてキラキラとまたたいている。
「あら、あんなところに」
ヨットが停泊する港からやや外れた小さな浜の入り口に、まるで黒い猫ちゃんのような陰を落として、魔女の帽子がひっそりと波音を聴いていた。風で飛ばされる前に拾いたいので、アテナは早歩きで浜に向かった。
(案外早く見つかったわ)
拾い上げてみると、帽子はアテナが想像していたより大きく、つばの部分は一般的な麦わら帽子よりも広かった。
ふと足元を見ると、自分の靴に砂がついていたり、靴下が少し下がっている事に気付いたアテナは、魔女の帽子を何気なく頭に被り、両手を足元に伸ばした。この後の予定などをぼんやりと考え始めたアテナは、顔を上げた後もしばらく、水平線をぼんやり眺めていた。帽子を店に戻し、ビドゥ港のターミナルへ行ってストラーシャ行きの機馬車に乗り、寮に帰った後はロシア文学を読んで、生徒会への活動報告書などを作成するつもりである。
さて、舞鶴先生から頼まれた注文書を洋服屋に届けた翼は、機馬をゆっくり走らせて、港沿いの馬車道に向かっていた。ランタン祭りは日が暮れてから始まるので、まだまだ余裕で間に合うから、眺めが良い海沿いの道を通って行くことにしたのだ。
「ん?」
オリーブが茂る坂道を下っていた翼は、港の脇の小さな浜辺にポツンとたたずむ少女を見つけた。
「何してるんだろう、あの子」
先が尖った魔女の帽子を被ったその少女は、一人で夕日を見つめていた。
(寂しそうな背中だなぁ・・・)
一人でいるほうが落ち着く、という少女はいっぱいいるし、それが幸福ならばもちろん良いのだが、アテナが見たその少女は、妙に悲しげで、見えない涙に溺れかけているように感じられたのだ。寂しそうにしている一人ぼっちの少女を、翼は放っておけない。
「今日はまた、特別夕日が綺麗だね」
「えっ」
驚いたアテナが振り向くと、そこには白馬にまたがった翼がいた。
(あ・・・ど、どうしてこの人がここに・・・)
アテナはとっさに俯いて顔を隠した。
アテナにとって翼とは、時折自分の前に現れては、品のない行動や謎の動きをする変人である。マーメイドになりたいと思っているアテナが、最も友人にしたくない種類の生徒だと言える。
どう返事をするかアテナが悩んでいると、翼はそっと機馬を下りてアテナの隣へやってきた。
「何も言わなくても分かるよ。キミは今、ちょっと寂しい気分なんだろう?」
「え・・・?」
「ハロウィンパーティーの翌日に、魔女の帽子を被りながら一人で夕日を見つめている。なんだか事情がありそうじゃないか」
ここでアテナは気づいてしまった。翼は自分のことをアテナだと分からずに声を掛けてきたのだ。大きな帽子のお陰で、顔を全然見られていないのである。
(まずいわ・・・私ったら、ハロウィンの帽子なんか被ってる・・・)
アテナはハロウィンなんて騒がしいイベントに興味ないのに、今の状況ではまるで、昨日のハロウィンパーティーに参加しなかったのを後悔しながら一人寂しく魔女の格好をしている悲しい乙女である。
「キミ、名前は?」
「な、名前・・・?」
別人のフリをしたほうがいいわねとアテナは思った。
「ア・・・えーと・・・アリスです」
「アリスさんか。高等部だよね。2年生?」
「はい・・・あの、そろそろ私、帰りますので」
「あ、ちょっと待って」
逃げるように歩き出したアテナを、翼は呼び止めた。
「キミにお願いがあるんだ」
「お願い・・・?」
「島の北側に、虹の滝と呼ばれる場所がある。そこで今夜、ランタン祭りが行われるんだ。良かったら一緒に来てくれないかい?」
「ランタン祭り・・・?」
アテナはそのイベントに聞き覚えがあった。以前ビドゥの学舎で、ポスターを偶然見かけたのだ。
機馬にまたがった翼は、ゆっくりと機馬を進めてアテナに歩み寄った。
「誰か連れて行くと約束したのに、結局一人で行くことになってたんだ。キミが来てくれたら助かるんだが」
「そういうの・・・興味ないので・・・」
「私を助けると思って、ボランティアだと思って、来てくれないかい?」
翼は優しくそう言って、機馬の上からアテナに手を差し出した。
「この機馬は二人乗りだよ♪」
夕日を湛えた手のひらを見つめながら、アテナは不思議な胸の動悸を感じた。
ただの変人同級生がお祭りに誘ってきただけだというのに、古い机の引き出しから懐かしい写真を見つけた時のような、温かさとときめきに包まれたのだ。
(何かしら・・・この気分・・・)
魔が差した、という言葉があるが、まさにそれかも知れない。
帽子を深く被り直したアテナは、ほとんど無意識のうちに、翼に向かってゆっくり手を差し出していたのだ。
「ありがとう。さあ、ここに右足を掛けて」
「右足・・・こう?」
「そう。じゃあ引っ張るよ。せーのっ」
「きゃっ!」
温かい手に引かれて、アテナの足は砂浜を離れた。
翼の背中に密着するように機馬にまたがったアテナの瞳に、美しい夕焼けの海原が広がった。
「わ、私・・・こんな風に機馬に乗ったことないから、ゆっくり走って・・・」
「分かった。まずはヘルメット被って」
「ヘルメット?」
「ほら」
翼は機馬の側面のケースからベージュ色の可愛いヘルメットを取り出してアテナに差し出した。アテナは帽子を外すと正体がバレてしまうので、翼が完全に背中を向けてからヘルメットを被った。ヘルメットはクリーニングしたばかりのセーターみたいな匂いがした。
「じゃあ出発するよ」
「は、はい・・・きゃっ!」
翼は約束通りかなりゆっくりと、安全運転で出発したのだが、アテナは少々びっくりしてしまった。機馬車の座席に座っている時と、機馬の鞍にまたがっている時とでは、目線の高さや風の当たり方が全然違い、迫力が凄かったのだ。こんな経験、アテナは初めてだったのである。
(わ、私・・・面倒なことに巻き込まれてしまったわ・・・!)
前脚の蹄と後ろ脚の車輪が、砂浜に足跡を描いていく。やがてその柔らかい音が、港のレンガ道を打つ心地よい高音に変わる頃、アテナの頬はなぜか、夕焼け色にほんのり染まっていたのだった。