72、観察
この島の水は、心まで潤してくれる。
一口飲むだけで、まるで深呼吸をした時のような心地よさが胸いっぱいに広がり、空や海と一体化したみたいな不思議な充足感を味わえるのだ。
「いい感じ。じゃあそのまま丸い形になるように、針刺していこう」
「こ、こうですかぁ?」
「そう。指、気を付けてね」
「はいっ・・・」
月美は、ルネと桃香のやりとりをなんとなく聞きながら、水の入ったグラスをぼんやりと眺めていた。
グラスの表面についた水滴が光を複雑に反射させるので、テーブルに映るグラスの陰は、ほうき星や衛星軌道が描かれた宇宙の絵のように見える。月美の小さな手のひらをかざすと、光のリングたちはさらに繊細な模様になり、レースの編み物のような美しさを見せながら、柔らかに指の間を滑っていった。
(百合さんがいないと退屈ですわ・・・)
寂しさと焦りが混ざったような不思議な退屈である。百合は日直の仕事があるので寮に帰ってくるのが遅くなっているだけなのだが、百合のことが好きすぎる月美お嬢様は、もう何も手につかないわけである。ルネが運営している小さな美術クラブの活動に参加して、初等部のメンバーは図画工作を教えてもらっているのだが、月美は心ここにあらずだ。
「月美はどう? 丸くできた?」
「あ、はい・・・。こんな感じでどうですの」
「いいねぇ。可愛い丸になってるよ~」
ちなみに月美たちが今日ルネから習っているのは、羊毛のフェルトを専用のニードルで何度も何度もつついて、小さなぬいぐるみのような立体を作る手芸である。
わたに似た羊毛に向かって、わずかなギザギザがあるニードルを繰り返し刺し込むことによって、繊維が徐々に絡まり、固まっていくのである。ルネはそのようにして作った丸っこい部品をいくつか繋いで、手のひらサイズの動物の人形をよく作っているのだ。これがとても可愛いので、キャロリンや桃香が興味を持ったわけである。
難しいところはルネが手伝ってくれるシステムなので、最年少の銀花ちゃんも挑戦している。
銀花は、ニードルで左手の指を軽くつっついてしまったことでしばらく針を怖がっていたが、左手で割りばしを使って羊毛を押さえる、というキャロリンの天才的な発想により困難を克服した。銀花は両利きなので、左手で箸を使えたのだ。これで安全である。
月美は簡単に完成しそうなアザラシを作ることにし、大きなテーブルの、銀花とキャロリンに挟まれた席で作業をしていたが、どうしても集中できず、時折窓の外の海をボーッと眺めながら百合のことを考えた。寮の二階からは、内海のビーチとその向こうの大海原が一望できるから、アンニュイな気分を発散するには最適な場所と言えるかも知れない。この窓辺は、明るいボサノバが良く似合う。
「お手洗い」
しばらくして、銀花がそう言った。
「あ、えーと、私もぉ・・・」
「私も行くデース!」
美味しい水の飲みすぎかも知れないが、とにかく月美以外の初等部メンバーが揃って二階広間から離席することになった。小学生の集中力は高校生ほど長続きしないし、ちょうどいい休憩かも知れない。
さて、ルネと二人きりになった月美は、最近百合と共に考えている、とある作戦を思い出した。
(ルネさんに、ローザ会長の話題を振ってみようかしら・・・)
ルネとローザ会長は恋人同士になる素質を持っているはずなのだ。
月美が去年見てきた世界では、病弱なルネをローザが陰から支えるというとてもいじらしい恋愛模様を見せていた二人だが、この世界では今ひとつ仲が良くない。
(ルネさんとローザ会長がラブラブになってくれれば、翼先輩が助かるんですのよねぇ・・・)
今のところ、年末に行われるキャプテン・マーメイドの選挙はローザ会長とアテナがペアになって出馬する予定である。ローザ会長とアテナは別に愛し合ってはいないのだが、地位と名誉のためにカップルを演じていくつもりなのだ。選挙によって公認カップルが成立してしまう前に、お互いに本当に好きな人とくっつくべきだと月美たちは考えている。
「月美って、手先も器用だよね」
「えっ」
ルネに話しかけられて、月美は手元の羊毛に意識を戻した。
「・・・あ、そ、そうですわね。よく言われますわ」
二人きりの空間なので、怪しい言動を慎み、小学生のフリを徹底したほうがいいかも知れない。
(ルネさんとローザ会長をくっつける作戦は、百合さんと一緒の時にやるべきですわね)
そう考えた月美は、羊毛の塊に向かってニードルをちくちくする作業を再開した。
そんな月美の様子を見て、ルネはちょっぴり好奇心を刺激されていた。
ルネは、フランスの片田舎で絵を描いて暮らしている清楚なお嬢様みたいな外見をしており、実際そんな感じなのだが、意外と面倒見がよく、姉御肌なところがある。月美のことも、かなり細かく観察してるわけだ。
(んー、今日の月美はちょっと元気がないなぁ)
ルネはいつもと違う月美の様子を見逃さなかった。
(さては、百合がいないからだなぁ?)
ルネはちょっぴり、にやにやした。
ルネは、月美の中身が高校生であることには全く気づいていないが、月美が百合に恋していることは何となく察しているのだ。小学生特有の淡~い恋みたいなものだと考えているので、月美の恋の本気度については誤っているが、月美の恋心に気付いている人間は実はルネだけなので、その洞察力は学園一かも知れない。
「ねえ月美」
「なんですの」
「今日、何か寂しいことでもあった? いつもより、暗い感じの目してるけど」
「え・・・!」
月美は人を観察するのは好きだが、観察されるのは嫌いである。百合のことを考えているのがバレたら、恥ずかしすぎてぶっ倒れてしまう。
「べ、別に・・・。普通の目ですわよ」
「そう?」
「はい」
月美はいつもより目をパッチリ開けて、少女漫画の主人公みたいに大袈裟にまばたきをした。
「ほら、普通ですわよ」
「あ、ホントだ♪」
どうして私がこんなことをしなければなりませんのと月美は思った。
(可愛いなぁ・・・♪)
ルネは別に月美をからかっているわけではないが、クールな感じのお嬢様小学生の気持ちが手に取るように分かると、一気に愛らしく感じられるものである。
キャロリンたちがお手洗いから戻ってきてからも、月美はなるべく目を輝かせていた。月美の正面に座っている桃香は、そんな月美の様子をかなり不思議そうに眺めていたが、何かきっと深い意味があるに違いないと納得し、作業を続けた。
しばらくすると、一階の玄関から物音が聞こえてきた。
(ゆ、百合さんですわ・・・!)
待ちに待った百合さんが帰ってきたと思った月美は、すぐに今のふざけた顔をやめ、クールな表情を作った。背筋も伸ばし、前髪も瞬時に整えたのである。
その変化を、ルネは見逃さなかった。
(あ、顔が変わった。百合と一緒にいる時のいつもの顔だ)
クールだが、ちょっぴり幸せそうな横顔である。百合に会った時の最初のセリフでも考えてるのかなとルネは思った。
が、いつまで経っても百合が二階に上がってこない。
「怪しいデスねぇ。ちょっと見て来るデース」
好奇心の権化であるキャロリンが、オバケの可能性を示唆して玄関を見に行った。たしかに、廊下を歩く足音や水道を使う気配などがないので、先程の物音は気のせいだったのかも知れない。
だが、百合である可能性もまだあるので、月美はお嬢様フェイスを崩さなかった。こういう時に油断してはいけないのだ。
「ブルーバードがいたデース!!」
「え?」
なんと、キャロリンが玄関で見つけてきたのは、月美の周りをいつもうろついている青い小鳥、ピヨだった。靴箱の前の木製の足場は、ピヨのような軽い生き物が乗っただけでカタンと音を立てるのである。
一気に緊張の糸が切れた月美は、百合に会えない時の寂し気な表情に戻り、すっかり肩を落とした。暗い顔をしているとまたルネさんから何か言われるかも知れないので、目だけは一応根性でキラキラさせておいたが、全体的にはかなりグッタリした姿である。
そんな月美の姿を、ルネは横目でしっかりチェックしていたのだ。
(百合に会いたいんだなぁ・・・♪)
ピヨは我が物顔で二階の広間を走り回っている。
月美の手の中の羊毛が、ちょっぴりアザラシに似て来た頃、再び一階の玄関から物音がした。
「あ、百合が帰ってきたかも」
ルネの言葉より先に、月美はもう表情を整えていた。このお嬢様モードへの切り替えスピードは一朝一夕には身に付かない特別な技術である。
が、1分ほど経っても百合が上がって来ないので、キャロリンがうずうずしだした。
「んー、迎えに行くデース!」
落ち着きの無さでは右に出るものがいないキャロリンは席を立ち、ヒーローの変身ポーズみたいなものを決めてから玄関を確認しにいった。
この後すぐ、キャロリンに連れられて百合が広間に登場し、「遅くなっちゃったー♪ 皆どんな感じ?」などと言いながら優しい眼差しを月美に向けてくれるに違いないのだ。月美の胸は早くもドキドキと跳ね始め、それに反比例するように表情はクールに仕上がっていったのである。表裏のギャップを自在にコントロールできる、これぞプロのお嬢様だ。
だが、キャロリンと一緒に二階にやってきたのは百合お姉様ではなく、白くてふわふわの生き物だった。
「ホワイトバニーがいたデース!」
「う・・・」
ピヨの友達の白ウサギが登場したのだ。なぜキャロリンはいちいち訪問者を二階に運んでくるのか。
「はぁ・・・」
月美はなんだかドッと疲れてしまい、先程よりもさらにどんよりと曇った表情になった。今度は目をキラキラさせる元気もない。
月美は硬派なお嬢様を演じるプロであり、実際かなりクールな女の子なのだが、このように繰り返しフェイントをくらっていたらさすがにエネルギーが尽きてくるわけである。
(あ、月美がグッタリしてる。百合、早く帰ってきてー)
可哀想な月美のために、ルネはそう祈った。
何も知らぬ青い小鳥と白ウサギは部屋の隅っこの座布団で仲良くくつろぐのだった。
月美のアザラシがほとんど完成する頃、玄関に三度目の訪問者がやってくる。
「お、今度こそ百合かもっ!」
ルネはそう言ったが、月美ほどの才女であれば、場の流れというか展開が読めてしまうわけである。
(絶対、鹿が来たんですわ・・・)
ピヨ、白ウサギと来たら、次は小鹿ちゃんなのである。ピヨがいつもタクシーみたいに使っている、くりくりお目々の小鹿ちゃんだ。
月美は一応背筋だけは伸ばしたが、砂像のような虚ろな横顔と薄墨色の眼差しはそのままである。半日以上百合の顔を見ておらず、もうすっかりエネルギーが空っぽになっている今の月美は、小鹿のためにお嬢様フェイスを作る元気などない。
「見てくるデース!」
動いていないと呼吸ができないキャロリンが鼻歌を歌いながら玄関に下りていった。
(百合さんに会いたいですわ・・・。こんなに長引くなら、日直の仕事をお手伝いすれば良かったですわ・・・)
すっかりブルーな気分の月美の横顔を、ルネはしっかり観察していた。もしかしたら月美はとても表情豊かな子なんじゃないかと思うほど、分かりやすく寂しがっている。
が、そんな月美のハートの翳りに、ついに光明が差し込むのである。
「遅くなっちゃったー! ごめんね皆!」
「ひっ!」
月美は一瞬、ひっくり返りそうになるほどビックリした。
キャロリンの足音以外にも、何者かが階段を上がってくる気配は感じたのだが、小鹿が来たものと思い込んでいたのだ。キャロリンにどんな風に説明すれば小鹿を外に戻してきてくれるかを考えていたら、突然、愛する百合お姉様の声が広間に飛び込んできたのである。
「おかえり月美ぃ! 羊毛フェルト、結構進んだよぉ」
ルネはそんな風に百合に言いながら、チラッと月美に目をやった。
すると、ほんの一瞬前までは、つまみ食いがバレた時のハムスターみたいな動揺を見せていた月美が、完璧なお嬢様フェイスを作り、涼しい顔で「あら、おかえりなさいですわ」とだけ言い、髪をサッと撫でているではないか。そのあまりにも激しい変身っぷりと、「百合さんの事なんて全然待ってませんでしたよ」みたいな顔が面白くて、ルネは口元を袖で隠しながらけらけら笑ってしまったのだ。
(月美って、ホントに可愛いなぁ・・・♪)
素直に愛情表現できない、照れ屋なネコちゃんみたいである。
こんなに可愛い小学生に好かれている百合を、ルネはちょっぴり羨ましく思ったのだった。