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70、雨の合同体育

 

 白樺の葉を打つ雨音が、体育館の中まで響いている。


 ストラーシャの体育館には、効率の良い換気のために足元の高さに小窓がたくさん作られている。休み時間にさっさと着替えを済ませたキャロリンは、その窓の格子に顔を近づけ、秋雨の降り注ぐ森林の香りを楽しんでいた。


「おお~」

「何か見えます? キャロリンさん」


 キャロリンのことが大好きな桃香は、自分も大急ぎで着替えて体育館にやってきた。キャロリンはすぐにどこかへ行ってしまう落ち着きのない小学生であるが、綺麗な金髪と派手な靴下がとても目立つので、彼女を見つけるのは意外と簡単である。


「外で遊びたいデ~ス」

「な、なに言ってるのキャロリンさん。すごい雨だよ」

 桃香はキャロリンと同じようにうつぶせになって窓を覗き込んだ。床がひんやりしていて気持ちいい。

「それに今日の体育は皆で遊ぶようなものだから、そっちで満足できると思いますよ」

「楽しみデース!」

 初等部メンバーは4人しかいないので、中等部の生徒と一緒に授業が行われる日が多いのだが、今日はちょっと気分転換に、高等部と合同の体育になるのだ。高等部の生徒にとっては体育というより子供たちとのコミュニケーションを学ぶ総合学習みたいな位置付けである。


 ここで、月美と銀花も体育館に到着した。初等部メンバーはみんな随分早い集合である。

「月美、どうしてそんなに急いでるの?」

 銀花はまだ小学二年生であり、その才能はベールに包まれているが、妙に声が綺麗だと月美は近ごろ感じている。

「い、いや、別に、特に深い意味はないですのよ・・・ただ、早めに来て体操しようと思いまして」

 今日は更衣室に百合たちがいたので、月美は逃げるように体育館へやってきたのだ。

 最近の百合は、照れ屋な月美の反応を楽しむためにわざと目の前で着替えようとしてくるので、月美は野ネズミのように逃げ回るしかない。なぜ月美がこれほど恥ずかしがっているか、ちょっと考えればすぐに恋愛感情が原因であることくらい気付けそうなものだが、無邪気な百合はその辺りには鈍感なままである。


「やっほー、月美ちゃんたちー」

 体育倉庫の鍵を手に、翼先輩がやってきた。翼は体育の授業が始まるというのに長い髪を束ねておらず、小学生の相手をするのに本気は出さなくてもいいと思っているようだ。子供たちの元気を舐めてはいけない。

「翼様、ちょっとお話がありますのよ」

「お、何だい?」

「体育倉庫に行きましょう」

「え」

 月美は翼の手を引いて小走りでステージ脇の倉庫室に向かった。


「こほん。わたくし、百合さんと相談しましたのよ」

「ん? 何について?」

「翼様についてですわよ」

「え、私?」

「はい。耳貸して下さい」

 月美はちょっぴり背伸びをして翼の耳に唇を寄せた。

「翼様って、アテナ様が好きなんですわよね?」

「うぇっ!?」

 翼は分かりやすく動揺し、積み木のタワーみたいに崩れ落ちた。

「そ、そんなワケないじゃないか。私があのアテナ様に恋・・・」

「今日の体育はアテナ様もいますのよね。わたくしと百合さんに任せて下さい」

「き、聞いてる?」

 月美はドアの隙間から体育館のフロアをチラッと確認してから話を続けた。

「授業の前半は多分ドッヂボールになりますわ。翼様はそこで存分に活躍して、アテナ様を振り向かすんですのよ」

「いや・・・その・・・活躍と言っても・・・」

「はい。確かに今の翼様は、いつも泥だらけになって機馬をいじってる変人だと思われてますし、会話もしどろもどろで挙動不審な女性ですから、小学生が混ざっているドッヂボールで普通に活躍したところで何の影響もありませんわ。アテナ様が翼様に魅力を感じることなどありません。アテナ様はこのままローザ会長のものになってしまうでしょう。残念でした」

「月美ちゃん、もうちょっと優しく言ってくれ・・・」

「でも大丈夫ですわ。わたくしと百合さんがついてます」

「は、はあ・・・」

 どうして月美ちゃんはこんなにしっかりしてるんだろうと翼は思った。

「アテナ様がどんな人物かしっかり考えることが大事です。いいですか」

 翼は幼い月美のアドバイスを真剣に聞いてみることにした。




「ほな、ゲームスタートやぁ♪」

 いつもにこにこしている舞鶴先生のはんなりした号令により、ドッヂボールはスタートした。今日の舞鶴先生はジャージに着替えず、白衣姿のままであり、運動する気が無いのがバレバレである。


 初等部の子たちと仲良く遊ぶだけの時間だというのに、翼の緊張は尋常でなかった。

(アテナさんと同じチームだ・・・)

 翼と一緒に内野に入っているアテナは、今日も人形のような無表情であり、ミステリアスな美に包まれている。

(よ、よし・・・とにかく涼し気に、軽やかに、だね)

 翼は月美のアドバイスの実践に努めた。


 月美に言わせれば、まだ翼はアテナの興味の対象ではないのだ。

 だから今は格好をつけるとかそういう段階ではなく、実用性が伴うようなおしゃべりの切っ掛けを作る必要がある。月美は今年のアテナ様とほとんど接していないが、同じ硬派なお嬢様として、アテナの気持ちが何となく分かるわけである。体育の授業の時、お嬢様はどんなことを考えているか・・・それはちょっと意外なものなのだ。


(どうすれば表情を変えずにスポーツできるか・・・アテナさんは本当にそんなこと考えてるのかな)

 そう、お嬢様というのは、余裕のある表情を崩さぬことにいつも努力している生き物なのだ。


 ここで翼が持ち前の運動神経で涼し気にボールを投げたり、軽やかにボールを避けたりすれば、「翼さん、運動中のあなたの余裕、見習いたいです。なにかアドバイスを頂けますか?」と話しかけられるかも知れないのだ。


(とにかくやってみるか・・・)

 小学生と一緒のドッヂボールなので、飛び交うボールも何となくふんわりしているから、翼がそれをキャッチするのは造作もないことだった。問題はこの後である。

(私はお嬢様じゃないから分からないけど、まあ、こんな感じの顔かな・・・)

 やたら光沢のあるボールを優しく持った翼は、天気がいい日の仏像みたいな朗らかな顔で敵チームに向かって投げ返してみた。

 表情の作り方は非常に良かったし、動きも美しかったのだが、ボールに全然勢いがなかったので、翼は内心焦った。しっかり運動しているのに表情が涼しい、というのを目指しているのに、手を抜いていると思われたら意味がないからだ。

「きゃっ!」

 しかし次の瞬間、キャッチしようと試みた桃香ちゃんが手を滑らせてボールを床に落とした。彼女はアウトとなったわけである。弱すぎると思ったが、これくらいのボールで充分だったらしく翼は一安心だった。


 桃香をアウトにされたお返しと言わんばかりに、すぐに翼の前に再びボールが飛んできた。

 今度は高等部の生徒が投げたものだったので、無理にキャッチしようとするとアウトになってしまうかも知れない。ここは華麗にかわすべきだ。

(か、軽やかに、だよね)

 翼は月美のアドバイス通り、アルファベットのKみたいなポーズで横にジャンプしてボールを避けた。新体操の経験もあった翼は、手足の使い方が意外としなやかで綺麗である。

 この辺りで、アテナの視線が翼に向きがちになる。

(翼さん、あんなに奇妙な避け方をしておいて息が上がっていない。すごいわ)

 想定と少し違うが、興味を持ってきたことは事実だ。


 さて、しばらくボールがパスされた後、再び翼の腕の中にボールがやってきた。

(よ、よし。アテナさんが感心してくれてるかは分からないけど、周りの反応は良い感じだから、さっきみたいに投げよう)

 内野に残っているメンバーはお互い少なくなっており、相手チームは二人の高等部生徒とキャロリンだけだった。

(じゃあキャロリンちゃんに投げよう)

 翼は先程同様、海外出張から帰ってきて最初に味噌汁を飲んだ時のキャリアウーマンみたいなリラックスした顔でボールを投げた。今回もなかなかに上手くいったので、翼は妙な達成感に包まれた。


 しかし、キャロリンはそんなふんわりボールでは満足できないのである。

「翼センパーイ! 本気出すデース!」

 キャロリンは翼に向かってボールを勢いよく投げ返した。

「ぬ、じゃあ、こんな感じかな」

 初等部の子たちのためにドッヂボールをしていることを思い出した翼は、なるべく穏やかで平静な顔を保ちながらも、少しだけ強めに投げてあげることにした。

「まだまだデース!」

 キャロリンはまたしても翼に投げ返した。

「お! それなら、こうだ!」

 徐々に、翼の表情が適当になっていく。

「そうデース! 私も負けないデース!」

「お、いいボール! じゃあ行くぞ! ほらっ!」

「よいしょおお!」

「はいっ!!」

「とりゃあああ!」

「そーれー!!」



「調子に乗り過ぎですわ」

「ご、ごめん・・・」

 途中から明らかにアテナが翼に興味を失っていた。これではいつまで経っても仲良くなれない。

「やっぱり私はダメだ・・・上手くいく気がしない・・・」

「だ、大丈夫だよ翼さん」

 百合も苦笑いしながら翼を励ましている。

「翼様、まだ授業の後半で巻き返せますわ」

「そうかな・・・」

「後半はマット運動か縄跳びです。得意なのはどちらですの?」

「乗馬かな・・・」

「そんなものはありませんわ」

 もう翼はすっかり弱気になっている。

 今日の体育は特別に編成されたメンバーが参加しており、翼がアテナと一緒に体育の授業をするのはこれが最初で最後かも知れないのだ。なんとしてもアピールすべきである。


「さっきは途中まで上手くいってましたのよ」

「ほ、本当かい?」

「はい。アテナ様はかなりあなたの横顔に視線を送ってましたわ」

「うぅ・・・恥ずかしいなぁ」

「とにかく、最後まで油断せずに王子様みたいな涼し気な態度を崩さないことですわよ」

「私は王子様って器じゃないからなぁ・・・」

「去年はあんなに王子様みたいなカッコイイ女性でしたのに・・・」

「え?」

「なんでもありませんわ」

 月美の様子に、百合はくすくす笑っている。



 いよいよ、授業の後半が始まった。

「よし、じゃあ私が二重跳びのお手本を見せてあげよう」

 自然なふりをしてアテナの視界に入り込んだ翼は、月美や銀花に縄跳びの指導をする事にした。

(重要なのはとにかく顔って言ってたなぁ・・・)

 お嬢様界隈では、二重跳びはかなりの難敵として有名である。マラソン中に余裕な表情を作ったり、走り幅跳びを優美にこなしたりするのは、記録をそっちのけにすれば意外と簡単である。しかし二重跳びは、全身に力を入れなければそもそも一回も跳ぶことが出来ないのだ。必死な顔になるのは避けられない。

 しかし、翼には持ち前の跳躍力がある。なるべく足の力に比率を置いて跳べば、表情の温度も下げられるだろう。

「じゃ、じゃあ行くよ」

「はい」

 月美たちに見守られながら、翼は二重跳びを始めた。


 マットの上で桃香の柔軟体操を手伝っていたアテナは、不自然なほど見やすい位置で二重跳びを始めた翼をいぶかしがりながらも、翼の表情をなんとなく観察してしまった。

(あら?)

 そしてアテナの硬派センサーが反応したのだ。翼の顔がかなり涼し気だったからだ。

(私、縄跳びでああいう落ち着いた顔できないのよね。翼さん、どうしてあんな風にできるのかしら)

 完璧な女を目指し、日夜妥協せず自己研鑽に励んでいるアテナにとって、この疑問はどうしても解決したいものだった。

(コツでもあるのかしら・・・)

 アテナは柔軟体操中の桃香の背中にそっと体重をかけたまま、考え事を始めた。非常に惚れっぽく、女の人に惹かれやすい桃香は、自分の背中に当たるアテナ様のおっぱいの感触に、人知れず物凄くドキドキしていた。



 さて、授業が終わるとすぐ、事態は動く。

「翼さん」

「へ! は、はい!」

 ついにアテナが翼に話しかけてきたのである。作戦は大成功だ。

「翼さん、いつもあんな感じで縄跳びをしているのですか?」

「え、まあ、はい・・・」

「二重跳びを?」

「はいぃ・・・」

「そうですか。もしよろしければ、コツを教えて頂きたいのです。どうすれば先程のような、余裕のある表情のまま跳べるのかと。練習方法でも構いませんから、ご教授お願いします」

 こんなにしっかりとアテナと見つめ合った事がなかった翼は、顔が熱くなってしまった。

「い、いやぁ、大したことはないですけど、えーと・・・どう説明すればいいかなぁ・・・」

「口は敢えて少し開けていたのですか?」

「く、口? そ、そうですね。息は止めちゃだめだからね」

「もしかして顎の位置は固定でしたか?」

「こ、固定? あー、言われてみればそうでしたね」

「なるほど、実際は力んでいたが、そうは見えない表情の作り方だったんですね」

「そうですね」

「参考になります」

 翼は自分で何をしゃべっているのかよく分かっていないが、アテナが参考にできる情報をきちんと提供できたようだ。

「翼さん、他にも同様の技術をお持ちでしょうか。上品な女になれるような知識です」

「え! ど、どうかな、あるようなないような。少しだけなら、あるのかな・・・」

「そうですか。私はあなたを誤解していました。この後、少しお話しませんか?」

「え!」

「お先に、着替えて参ります」

 アテナは軽めのカーテシーで翼に礼を言って、一足先に更衣室へ去っていった。

 作戦があまりにも上手くいったため、月美と百合も驚いているが、とにかく大騒ぎにならない程度に翼を祝っておいた。やっぱりやれば出来る先輩なのである。



「これで二人が仲良しになるといいね♪」

「はい。きっとなれますわ。去年の世界では本当に最高のコンビでしたもの。話してみればすっごく気が合うはずですわ」

 マットを倉庫に片づけた月美と百合は、勝利の余韻に浸りながら更衣室へ向かうことにした。

(あ、まずいですわね。このままだと百合さんと一緒に着替えることになりますわ・・・)

 何か暇潰しはないものかと、月美は渡り廊下を歩きながら辺りを見渡してみた。

「あら・・・?」

 白樺の林に向かって突き出た体育館の屋根の下になぜかキャロリンがおり、誰かと楽しそうにおしゃべりしているのが見えた。

「翼センパーイ! いくデスよー!」

「キャロリンちゃんやめて、わっ!」

「冷たいデース!?」

「そりゃ冷たいでしょ! も~!」

 なんと、キャロリンの遊びに巻き込まれているのは翼であり、彼女はキャロリンが水たまりに向かって振り下ろした縄跳びの水しぶきを受けて一緒に笑っているのだ。

「翼センパイもかかってくるデース!」

「いやいや! それはまずいよっ」

「じゃあ攻撃するデース!」

「わぁ!」

「悔しかったらかかってくるデース!」

「よ、よぉし! いいんだね? ほぉら!!」

「キャー! おかえしデース!」

「うがああ!!」


 一見すると、一緒になって遊んでいる翼先輩は大人げない女にも思える。「風邪引いちゃうし、早く着替えにいくよ」と言って無理にでもキャロリンを屋内へ連れ戻すのが上級生のすべき事かも知れない。


 だが、ついさっきまで緊張してガチガチになりながら自分を偽って演技をしていた翼に比べ、今の彼女のなんと自由で爽やかなことか。翼の本当の長所はこういうところであり、天真爛漫なキャロリンと同じ目線に立って共に時間を過ごすのは、月美やアテナのような硬派を気取ったお嬢様にはなかなかできない芸当である。

(翼様って、面白い人ですわね。ちょっと百合さんに似てるところありますわ)

 月美は翼のことをちょっと見直したくらいである。



 しかし、タイミングが悪かった。


 しわ一つない、完璧な制服姿に着替え終わったアテナが、湿気を感じさせないサラサラな美髪を揺らしながら渡り廊下を歩いてきたのだ。


 月美と百合は咄嗟に「あ、山の向こうにUFOが!」とか言って誤魔化そうかと思ったが、アテナはすぐに翼の姿を見つけてしまったのだ。

「あら・・・?」

「あ!」

 翼もすぐにアテナの視線に気付いたのだが、もうどうしようもなかった。

 ついさっき、上品なお嬢様のノウハウを共有する約束をしていた翼が、ちょっと目を離した隙に小学生と一緒に泥んこになって遊んでいたのだから、アテナは驚き、失望したわけである。子供と仲良しなのは良い事だが、あのような泥だらけの自由人と仲良くおしゃべりしていたら、アテナの品位まで疑われてしまうのだ。マーメイドの座が遠退く行動だけは避けなければならない。

「翼さん・・・さっきの話はなかったことにして」

「え! あの、ちょっと・・・!」

「それでは、ごきげんよう」

「あぁ・・・! アテナさん・・・!」

 アテナは翼に背を向け、去っていってしまった。

「そ、そんな・・・」

 かなり頑張ったのだが、一歩進んで一歩下がった感じである。翼の苦難はまだまだ続きそうだ。

「翼センパーイ! もっと遊ぶデース!」

 何も知らず、翼の腕に抱き着いてくる無邪気なキャロリンの笑顔を見て元気を出して欲しいところである。

 

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